第2話 23時、表参道で。

 電話越しに聞こえたのは、何年振りかの大好きだった人の声だ。

 「青天の霹靂へきれきが落ちた」のならば、この瞬間に違いない。


 「まさか……な」


 心臓を掴まれて上手に声が出なくなる。半開きの口から漏れる息は脆くて、頬が痛む。


 彼女が、そしてボクがなんでこの場所に居るかなんて、今は構っていられなかった。それだけ動転している。天地が揺れ動いて、壊れていく気がした。


 「まさか?」

 「あ。いや、何でも」


 黒電話に倒れ込んだボクの左手は、信じていたいと拳を握る。10年越しの日々の思い出なんて、声の一つで取り戻す事が出来る。今なら2人で夜を明かしながら、壊れたボクの思い出を拾い集められそうだった。


 電話越しの声は、きっと彼女に違いない。本当は今すぐにでも姿を見せて、ボクがここに居ると証明したい。



 「リリーちゃん、高校生だっけ?こんな時間に珍しいね」


 けれどそれは、幻想だとも気付いている。もう彼女は大人になった。


 ボクだけ時間が進むような世界ならあり得る話なのだろうけれど、そんなに都合良く世界は回っていない。現実に映るボクは壊れて、彼女は真っ当に生きている。


 「珍しい……かな。今日はそういう日」


 初恋の彼女が電話ボックスに駆け込んでいるものなら、彼女をそうさせた不条理な世界を嘲笑うだろう。そんなはずはないし、ボクが今見ているのは幻影に過ぎない。


 本当に夢を見ているのだろうか?ハイボール如きで悪酔いをしてしまったか。


 「まだ、あなたのこと聞いてない」

 「ボク?ニッシーって呼んで。三十路だけど、会社を持ってるんだ」


 こういう場では嘘が7割を占めるもの。本当は大卒2年目のヒラ社員に過ぎない。


 大学は下の下の成績を偽って、最近流行りのIT企業に学歴だけで滑り込んだ。そうでもしなければ、今のボクは拾ってもらえなかったと言った方がいい。だけど当然ITの知識なんか皆無に近いし、新卒なんて営業に回される。その中でモチベーションを見出せるはずもなくて、業績も下の方を推移しながら何とか息をしている。


 ボクが今の居場所を確保出来ているのは、他でもなくそのコネでしかない。だから今日の飲み会は行かざるを得なかった訳。


 「若いね」

 「そうか?まあ、そうだよな」

 「こんな場所、オジさんしか居ないと思ってたし……」


 テレクラのメイン客層は中年サラリーマンだし、ボクは若い方になる。彼女たち女子高生はエナメルのバッグを買うために、ぶくぶく太った丸豚に身体を捧げる。


 彼らは格好の的だ。この歳になって愛に飢えて、カネだけが有り余っているから。


 「オジさんに出てきて欲しかった?」

 「ううん。最近飽きちゃったからいい。若い人と喋るの久しぶりだし、楽しみ」


 ああ、電話越しに居るのは間違いなく彼女だ。柔らかい声につられて緩む頬。ただでさえ優しい声なのに、それが甘えた時になると一溜りもなくなってしまう。どうしようもなくて左手で口元を覆った。


 「今日ね、あたし寂しくなった」

 「どうしてかな?」

 「パパが今日もアイジンと寝てるの。ママはホンヤクの仕事で忙しいからって、あたし1人」


 なるほど、九段下とか広尾とかのお嬢様学校の雰囲気。寂しさを紛らわせる方法を知らないで、こんな醜い世界へと来た訳だ。


 「そっか、ボクも同じだ。年の瀬なのに打ち合わせが詰まりすぎて」


 ボクがここに居る理由は、生きづらさを感じているからに他ならない。名声とか肩書きを取っ払った、ありのままの自分を許してもらいたいだけ。


 許されるには一晩限りの擬似的な関係でいい。長く続けば、きっとボクの醜い側面を目の当たりにして、いつかは逃げられてしまうだけだから。

 そのために名声と肩書きが必要なのは、何とも滑稽な話だけど。


 「ねえ」

 「なに?リリーちゃん」

 「……会いたいかも」


 切なげに訴える彼女の音色で、ボクの決心は固まった。


 「会いに行く。表参道だっけ?」

 「うん、待ってる。ラフォーレの前で」

 「了解。11時には着くから」


 「すんなり進んだな……」


 普段は女の子に見極めをするはずだが、今日は最初の子で決まってしまった。向こうも乗り気だったことだし、後は顔とスタイルが良ければ問題ない。


 「地下鉄はまだ動いているはずだし、何とかなるか」


 目を瞑って、受話器の向こうの声を思い出す。顔だのスタイルだの言ったけれど、今はそんな下劣な趣味を求める気が起きない。


 何故なら、他でもないあの声がボクを震えさせたから。


 女子高生だと語った彼女の声。



 それが思い出させてくれるのは、17歳の初恋に揉まれていたボクの姿だった。


 根拠のない言葉が、終わると知らないで漂うことが出来た日々だ。懐かしさで溢れそうな感情を、ボクはまだ忘れないでいられたことに驚きを隠せないでいる。


 一晩で終わることに慣れすぎた。冷め切った心がまた、じんわりと赤色を帯びる。


 あの日々に残した恋がまた戻ってくるなら、それ以上に求めるものはない。


 何か今日は、勿体無いような日になりそうな気がした。

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