第21話 アリシア=ハンバード⑯
どんどんとエルサの声が遠くなっていく。聞こえなくなる直前に、エルサが泣き叫んでいるのがわかった。だが振り向くことも帰ることもできない。あの家にはもう二度と戻れないのだ。自分は魔王オメガの孫なのだから。
チクリと胸が痛んだ。そして笑いがこみ上げてくる。
なんの痛みだ。なんで笑ってるんだ。
「なんのために生きてきたんだ……!」
笑っているのに、目から涙が溢れて止まらなかった。
「誰のために、なんのために生きてきたんだ」
答えなど誰も返してくれないのに、それでも口に出さずにはいられなかった。
「もうなにもない」
進むことも退くことも許されはしないだろう。自分で決めたことだ。誰にも迷惑をかけずに済む方法は一つしかないと知っている。
真っ暗な森の中を駆け抜けて、そうしてある場所にやってきた。町に隣接する森の中央にある底なし沼だった。町の人は誰も近づかない。子供は大人たちから絶対に近づくなと言われる場所だ。魔王オメガの自害をその目で見たからこそ、自分で自分の命を絶つことに違和感はなかった。
しかし、刃物で手首や首を切る勇気はなかった。どこからか飛び降りるか、どこかで溺れ死ぬか、そういう死に方しか思いつかなかった。同時に、死ぬのであればせめて自分が育った場所がよかった。
歩きながらオメガのことを考える。オメガが死んだあのときのことを思い出していた。魔王が自分の首を撥ねる前、間違いなくこちらを見ていたのだ。おそらく、いや間違いなく、魔王は自分の姿を確認してから自害したのだ。成長した、大切な孫の元気な姿を目に焼き付けてから死んだのだ。孫娘の元気な姿を見て微笑んだのだ。それがオメガの死の真相だと気づいてしまった。
そのとき、背後からいくつもの蹄鉄の音が聞こえてきた。
一歩、また一歩と沼へと近づいていく。このまま入水すれば服が水を吸い込んで沈みやすくなる。長時間水に浸かっていれば体温が下がる。長時間沼で藻掻けば体力が奪われる。意識がなくなるように沼に沈めば苦しまずに死ねるだろうか。
振り返ると、ランプが森の中で揺れていた。ランプの明かりがじょじょに近付いてきて、六頭の馬が横一列に並んだ。全員が馬から降りるが、一人の女性はよく知った人だった。
「させるわけないだろ」
「クラリス……」
唯一と言ってもいい親友、クラリッサだった。
クラリッサが歩み寄り、二人の距離は五メートル程度まで縮まった。他の兵士たちは皆、クラリッサの後ろで銃を構えている。自分がどんな状況に置かれているか、アリシアはなんとなくわかっていた。
「こんなときになんだが、言ってないことがあるんだ」
「なに? 今更なにを言われても驚かないけど」
クラリッサは深呼吸を一つした。
「アタシが母上の本当の子供じゃないって話はしたな」
「陛下の妹君の娘、だっけ」
「そうだ。でもそんな私が父上の娘でいられるのはなんでだと思う?」
「妹の娘だからってわけじゃなさそうだね。でも理由なんて私にはわからないよ」
「だよな」
ポリポリと、クラリッサは頭を掻いた。
「アタシには人生を賭けた任務があったんだよ」
「任務、ね」
ここまで言われてわからない者はないだろうとアリシアは自嘲気味に笑った。
自分の死に際に現れた親友。その親友は何人もの兵士を連れてやってきた。かたやこちらは自分の出生を知りここにいる。答えなど一つしか考えられない。
「アタシはお前の監視をするため、さまざまな権限が必要だった。だから父上がアタシを娘ということにして自分の手元に置いたんだ。幸いアタシは優秀だったから、父上はアタシのワガママを利いてくれてたってわけだ」
「まあ、そんなところだろうなとは思ってたよ。中等部からずっと?」
「ああ、そうだ」
「私が魔王の孫だって知ってた?」
「父上に言われて知ってた。情報は全部もらってたから」
「じゃあ私がオメガのことを知りたいって言ったときになんで止めなかったの? こうなるってわかってたんじゃないの?」
「わかってたさ。わかってたから、父上にも内緒でお前に付き合った。一緒に旅をするのも楽しいだろうなって思ってたし」
「そんな理由で付き合ってくれたの? 私を監視するのが仕事なのに?」
「監視対象ではあるけど友人であることに変わりない」
「で、その友人をここまで追いかけてきたと」
「死なれちゃ困る」
「魔王の血筋がいなくなるのはいいことだと思うけど。王族にとっても、人類にとっても」
「確かにお前が死ねばいろんなものが変わるだろうな。でも変わっちゃいけないものまで変わるんだ。死なないで済む方法があるならそれを取るべきだ。違うか? 頭がいいお前ならよりいい方法を取るだろ?」
「そんな方法どこにもない」
「あるかもしれないだろ」
「ないんだってば!」
死のうと思っていた。だからすべてを諦める覚悟はできていた。できていた、はずだった。
気がつけばポロポロと涙が溢れていた。
「アリス……」
「ちが、これは違うの。違うんだって」
拭っても拭っても涙は止まってはくれない。それどころがどんどんと溢れてきて、頬を伝い、服を濡らしていった。
諦めたつもりだった。家族も切り捨ててきた。親友にもなにも言わなかった。それなのにまだ未練があるのだ。まだ生きていたいと思ってしまうのだ。
「死ぬだなんて考えるなよ。まだやり直せる」
「やり直す? なにをやり直すの? 出自は変えられないし私の身体に流れている血も変えられない!」
ナイフを取り出して首に当てる。
「おいやめろ!」
「近づかないで!」
刃を首に押し当てると鋭い痛みがあった。ここまできたら引くことなどできない。
「アンタのことを親友だと思ってた。そんな私をあざ笑ってたの? なにも知らないお上りさんだと思って裏では面白おかしく吹聴でもしてた? 最初からおかしかったんだ。アンタみたいなお姫様が普通の人間が通う学校にいるだなんて」
小刻みに顎が揺れて歯がカチカチと鳴っていた。様々な感情が頭の中で渦を巻き、その感情のうねりを自分でも制御できなかった。
「そんなことない! アタシはお前を親友だと思ってる! 隠してたのは謝るけどずっと罪悪感でいっぱいだった! でもいつか、いつかこのことを話して受け入れてもらいたいって思ってだんだ!」
「そんな嘘聞きたくない!」
カーっと頭に血がのぼるようだった。胸の内が熱くなっていく。皮膚が破れるような痛みはあったが気にならなかった。未知の高揚感とむせ返るほどの熱気。今までにないその感覚は、自分ならばなんでもできるような気にさせてくれた。
視界に赤黒いなにかが写り込んだ。いや、今まで写っていたものが変色しているのだ。魔王の血族である証明に他ならない。身体が黒く変色し、ひび割れ、割れた皮膚の内側が赤く光を放っているのだ。
「感情を沈めろ。まだ、まだ間に合うから」
「なにに間に合うの? 私はもう引き返せないところまで来たの」
クラリッサの後ろにいた兵士が広がり、銃を水平に構えた。
「やめろ! 撃つな!」
「しかしもう時間がありません。このままでは完全に魔王化します。もしもアリシアが魔王化したらアナタでは責任を取りきれませんよ」
兵士の一人が銃を構えながらそう言った。黒い仮面をしているので顔はわからないが声に聞き覚えがある。エセットでクラリッサを迎えに来たクライブだ。クライブもまたアリシアがオメガの孫であることを知っていたのだ。知っていたから「クラリッサを連れ帰る」という名目でアリシアをエセットから遠ざけた。
すべて、仕組まれていたのだ。
「まだ完全に魔王化してないだろ! アリスは人間だ!」
「時間の問題です。総員構え!
ガチャガチャっと銃を構える音が聞こえてきた。目の前にいる兵士以外にも、見えないところに多数の兵がいるようだ。それはアリシアが人間から魔王になりつつある証拠でもあった。五感が人間のそれを超越し始めている。森の中の音も耳に届く、小さな銃口が月明かりに反射する様子も目に映る。
自分が人でなくなる感覚を初めて味わった。祖父もまたこんな感覚だったのだろうかと頭の隅で思考が回る。ここだけはまだ人間の部分だと安心しながらも、結局自分で首を切るか撃ち殺されるかの二択を迫られていることに気づいた。
今ならばなんでもできるような気がしていた。恐れおののいているからこそ兵士たちは銃を構えている。魔王という強大な存在は世界にとって驚異だ。世界だけではなく人にとっても害をなす存在。だから、恐れている。人の心の動きが手に取るようにわかった。それは自分が魔王であり、畏怖の象徴だからだ。
皆自分を恐れている。皆すぐにでも自分が死ぬことを望んでいる。わかる。人の心の動きが。人の望みが。
けれど一つだけ予想外のことが起きた。
「させるわけねえだろ!」
クラリッサがアリシアに背を向けて立ちふさがったのだ。アリシアを守るように兵士たちを前にして両手を広げた。
「姫……いやクラリッサ。これは謀反だよ。アリシアと一緒に撃ち殺されても文句は言えない」
「文句なんて言うわけねえだろ。アタシはここで殺されても仕方がないことを今までしてきたんだよ。親友を裏切り続けてきたんだよ。信じてくれた人に嘘を吐き続けてきたんだよ」
「だからといってここで死ぬのかい? おかしなやつだとは思っていたがここまでとは思わなかったよ」
「おかしくて結構だ。こいつは家族もなにもかも捨てようとしたんだぞ。そうしてまで魔王の血を自分で断とうとしてるのに、そんなやつ一人だけを追い詰めるなんて間違ってる」
「間違っていようがなんだろうが、魔王が誕生してしまえば最悪の未来が待ってる」
「じゃあ今すぐ引き金を引けよ」
「なにをバカなことを言っているんだ。子供の遊びじゃないんだぞ」
クラリッサは腕を下ろした。
「アリスを一人で逝かせるくらいならアタシも一緒に死ぬ」
「本気、なんだね」
「一人ぼっちにさせてたまるかよ」
僅かに、クラリッサの膝が笑っていた。
「大事な、人なんだよ」
声が震えていた。
背を向けているからわからなかった。でも今ので十分伝わった。
クラリッサは背を向けたまま泣いているのだ。いや、自分のために泣いてくれているのだ。
「クラリス……」
「心配すんなよ。二人なら、天国でも上手くやれるさ」
「天国に行かれる保証なんてないのに?」
「行かれるさ。お前なら間違いなく」
「クラリスは行かれないの?」
「ひどいこと、いっぱいしちまったからな」
「酷いこと、ね」
「そうだよ。酷い女だからな、アタシは」
クラリッサが大きく深呼吸をした。
「それでも、アタシは、お前のことが好きなんだ。一緒にいたいんだよ。バカやって、飲み明かして、二日酔いで頭抱えて一日中家でゴロゴロしたいんだよ」
悲壮、激高、憎悪、それらによる胸の熱さの中で別の感情が湧いてきた。
家族のことを思い出す。父の膝の上が心地よかった。母の抱擁が温かかった。姉の笑顔が好きだった。父と母の本当の子供ではない。姉とも当然血は繋がっていない。けれど自分に向けられた愛情は間違っていない、勘違いでないと本能が言っている。
そして唯一無二の親友であるクラリッサもまた嘘をついているようには見えない。
「そこをどきなさい、クラリッサ」
クライブが銃を構え直した。
「それは聞けない」
「上官命令だぞ」
「上官だろうがなんだろうが関係ないね。こっちは第三王女だ」
「陛下からはお前に命令する権限を与えられている。いいかい、最後通告だ。そこをどきなさい」
鋭い眼光と肌を突き刺すような殺意。彼の目が本気であることはわかっている。それでもクラリッサはその場を離れようとしなかった。
「王族としての地位も軍人としての権限もいらない。今欲しいのはアリスの命だけさ」
「そうか。では仕方ないね」
クライブは事も無げに言った
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