第9話 アリシア=ハンバード⑨

 今回はクラリッサよりも先に起きた。クラリッサを起こす前に窓の外を確認するが特に変わった様子はなかった。


「クラリス」


 肩を二度、三度と揺らすと、クラリッサがもぞもぞ動いて目をこすった。


「もう時間か」


 そう言いながらも布団からは出ようとしない。


「準備」

「わかってるって」


 渋々ベッドから降りて着替え始める。何年も一緒にいるが寝起きが良いのか悪いのかわからない。


 着替え終わった二人は昼間に買っておいたパンを食べ、昨日淹れておいたコーヒーと紅茶でパンを流し込んだ。


「冷めたコーヒーってめちゃくちゃ不味いよな」

「下に行けば淹れてくれるとは思うけどね。店の人が起きてれば」

「できればあちこち動きたくないんだよな。どこで監視されてるかわからないし」

「そういうこと。我慢して飲んで」


 クラリッサはため息を吐いたあとで冷めたコーヒーを飲み続けていた。


 リュックを背負いもう一度窓の外を見る。


「大丈夫そうだな」


 クラリッサも同じようにして外の様子を観察する。


「窓小さいんだからやめてよ」

「そう言うなって。とりあえずこのままチェックアウトしちまおう」


 肩を叩かれて思わずため息が漏れた。いろいろと言いたいことはあるが言っても無駄なので飲み込むことにした。


 クラリッサのあとについて部屋を出た。廊下は冷えた空気が満ちていて、人気のなさも相俟って沈み込んだ雰囲気が漂う。


「あ、やっぱ先行って」

「暗がり苦手か。昨日は問題なかったのに」

「急いでたからその場のノリで切り抜けられたんだよ。今日はアリスの息遣いさえ感じられるほどに気持ちが落ち着いてるから無理だ」

「表現がキモチワル」


 とは言うが彼女の恐怖症のことは身に沁みている。クラリッサの前に立ち、足音を殺して歩き始めた。


 昨日の一件で監視役が行動を変えてくるのは予測済みだった。出入り口だけを見張っているかもしれない。隣に部屋を取るかもしれないし、従業員に変装しているのかもしれない。あらゆる可能性を考えた上で行動しなければいけない。


 素早く宿を出て馬舎へ。夜に町を出ることはすでに告げてあったので、アルはちゃんと外で待機させられていた。


 馬舎の主人にチップを払ってアルに跨った。クラリッサが手綱を振ると、アルがゆっくりと前進し始めた。


「監視はないらしいな」

「気になるところではあるけど自由に動けるのはありがたいよ」


 そう言いながらもやはり疑念は払拭できなかった。全速力で自分たちを追ってきていた者がここの町に来なかったことに対しての疑念だった。けれど監視のことだけを考えていたら前に進めない。


 追手を撒いた森の周囲にはいくつか町がある。しかし虱潰しに探しても夜までにこの町にたどり着けないというのが引っかかった。自分たちを監視していた人間が五人以上いたとして、他にも何人かの仲間がいておかしくない。こちらが二人なのだから、数的有利を取るために三人一組で行動したとしても何組かに別れて行動できるはずだ。


「どうした、なんか心配ごとか?」


 押し黙っていることが気になったのか、クラリッサが前を向いたままそう言った。


「まあ、ちょっとね」

「追手のことなら心配ないだろ。このへんは森も多いし山もある。町だっていくつかあるんだし、そこを全部潰すとなれば時間がかかるはずだ。アタシたちの方が上手だったって考えればいいだろ」

「そうやって楽観的に考えられたらよかったんだけどね」

「そんなこと言ったらアタシがバカみたいに聞こえるだろ」

「実際そうだから困るよね」

「ひでぇ言い草だなおい」


 なんていいながらも彼女は笑った。アリシアが本気で自分をバカにしているわけではないと知っているからだ。こういうやり取りは学生時代からあった。だからこれが自分たち二人の日常会話なのだと納得している。


 アリシアは「悪かった」という代わりにクラリッサの背中を優しく二回叩いた。


「で、エセットまではどれくらい?」

「夜明けまでには着くと思う」

「じゃあ到着したらどこか入れる店を探そう。最悪野宿かな」

「野宿も想定しての荷物だろ? たまにはいいんじゃねーか、キャンプみたいで」

「もう野宿は飽きたの。討伐部隊のときに散々やらされた」

「だからキャンプだって。趣味の範囲で楽しもうぜ」

「よくわからない人たちに追われて、夜も更けないうちから馬に乗って、冷たい風を切って、その上で楽しい楽しいキャンプだなんて誰も思えないでしょ」

「お前は頭が固いんだよ。柔軟にいこうぜ」

「頭が固いのは認めるけどさ」


 それでも簡単には切り替えられない。ろくに食べ物もなく、泥水を飲み、着の身着のまま身体を丸めて眠ることもあった。そんな経験がアリシアの後ろ髪を引いている。同時にもしも追手に追いつかれた場合、野外では袋叩きにされてしまうという懸念もあった。


「大丈夫だよ。アタシがいるからな」


 なんの根拠もないクラリッサの言葉。それが今は頼もしかった。この女なら本当になんとかしてしまうのではないか。追手をすべて薙ぎ払い、数多の脅威から自分を守ってくれるのではないか。最後に信じられるのはやはり親友だったと思わせてくれるのではないか。


 そんなふうに考えながら、クラリッサの腰を強めに抱いた。


 クラリッサが手綱を振ると、アルは更に加速していった。大きな馬には劣るが、小柄な馬にしては速かった。


 顔を上げると満点の星空が広がっていた。キレイな夜空だったが、きっとクラリッサはこの星空を見てはいない。エセットに到着するためにアルを走らせ、ただ前だけを見つめている。同じ空の下にいるのに、今このときに同じ星空を見上げられない。それだけが少し、ほんの少しだけ寂しかった。

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