第3話 アリシア=ハンバード③
早朝、起きてもカーテンは開けなかった。プライベート用ではあるが洒落っ気のないパンツとシャツを着て、その上から薄手のジャケットを羽織った。用意しておいたリュックを背負い家を出る。
クラリッサは昨日のうちに家に帰した。旅支度ならばクラリッサがいても問題なかったが、いつまでも彼女の顔を見ていたら気持ちが鈍ってしまいそうだったからだ。
鍵を掛けて階段を降りた。そっと、音をたてないように。
まだニワトリも鳴かないような時間帯。空にかかる蒼いカーテンが少しずつあがっていく、そんな時間。石畳の上を歩き街の端を目指した。
帰ってきて四日、まさかまた街を出ることになるとは思ってもみなかった。それでもこの旅が必要だった。自分を見つめる、いわば心の旅だ。
軍を辞めて両親のもとに戻るのも悪くはない。小さい町で農家を営んでいるのだ、自分が入る余地などいくらでもあるだろう。
そんなことを考えながら、街から出るのだということを意識しないようにしていた。
街のはずれにある馬舎で馬を買った。一番安い、小さな馬だ。小さいけれど足が太く蹄も厚い。他の馬に比べて速度は出ないが持久力はあるとのことだった。なぜ売れないのかと訊いてみると、暴れ馬で乗りこなせる者がいなかったのだという。しかしアリシアが背中に乗ると、馬は非常におとなしく首を横に振り、蹄を二回ほど鳴らしていた。
安いとはいえなかなかの出費だが、これも仕方ないと諦めた。
首を撫でると、馬は気持ちよさそうにしていた。
「いこうか、アル」
さらば愛しきアルデバラン。それはアリシアが一番好きな小説のタイトルだった。
アルは本当に暴れ馬だったのかと思うほど素直で、荷物を乗せても暴れることはなかった。
アルに乗って街の門を出た。そのとき、人の視線を感じた。
ハッとして横を見た。
「よう、どこ行くんだいレディ」
リュックを背負ったクラリッサだった。
「アンタ、なにしてんの?」
「いやー、居ても立ってもいられなくて。一ヶ月有給使ったわ」
クラリッサは頭を叩き、満面の笑顔でそう言った。
「バカだバカだとは思ってたけどここまでとは……」
「わかってたんなら話は早いな。さて行こうぜ」
勝手に荷物を繋いで後ろに乗ってきた。けれど、アルはやはり嫌がらなかった。
「ちょっと小さいな。お前ケチっただろ」
「うるさいな。アンタと違ってこっちにはお財布ってのがあるの」
「アタシにだってあるわい。まあ馬は父上に買ってもらうけど」
「だろうね」
ため息を吐いて手綱を動かした。
パカッパカッとアルが動き出す。ゆっくりと、振動を極力押さえて歩いているように感じた。
「こんな速度じゃ何時間かかるかわかんねーだろ。さっさと走らせろって」
クラリッサがアルの尻を三回叩いた。
まるで今までの会話を聞いていたかのようにアルが速度を上げていく。他の馬に比べたら決して速くはなかった。速くはなかったが心地よかった。恐怖を感じることがなく、それでいて風を感じて気持ちよく走ることができる。
「疲れたら休ませてあげるからね。それまでは頑張って」
鬣をくしゃりと撫でると、アルは小さく首を縦に振った。ように見えた。
それが嬉しかった。長年の相棒と、これから相棒になりそうな馬。この旅路が自分にとって良いものになるのだと直感した。
それから三時間ほど、とりとめのない話をしながらアルを走らせた。
魔王討伐の際、最後の拠点はガリオルという小さな町だった。王都サルマドルからは馬を使って最短でも五日はかかると推測された。一日かけて王都から商業都市ヘトラへ、野宿を挟みながら二日かけて港町パラハへ、そしてまた二日かけてガリオルへ向かうというのがアリシアの計画だった。アルの脚がいくら遅くても数時間に一回休憩を挟めば町から町へはそれくらいで移動できると踏んだ。
「なあ、まだつかないのか?」
アリシアの肩に顎を乗せたクラリッサは気だるげに言った。
「まだ出発して三時間ちょっとしか経ってないでしょ」
左腕の時計を再度見るが、走りはじめてちょうど三時間といったところだった。
「ヘトラってそこまで遠くないだろ。早馬なら五時間とかだ」
「見ての通り早馬じゃないんだって。二人乗りだからその分速度も落ちるし」
「乗り心地は悪くないんだけどさすがに遅いな」
「速いだけが馬じゃない」
腹に手を当て、クラリッサの両腕が紐で繋がっていることを確認した。彼女がどこにいても眠る人種であることを知っているから、眠ってしまっても落ちないようにこうするしかなかった。
「そろそろ休憩しない? 右の方に逸れれば町があるだろ」
「そんなに頻繁に休憩してたらいつ着くかわからない」
「ちょっとくらい休憩したって昼前には着くって」
「あそこに王都までの標識があるってことは、単純計算でもヘトラまであと六時間くらい。三時間ごとに町に寄ってたらとんでもない時間になる」
そのへんで休憩するのとはわけが違う。町に寄るということはそれだけ距離がかさむのだ。
「ちょっと寄り道してちょっとお茶飲んでちょっと昼寝するだけだろ。誤差だ」
「三時間進んでどれくらい休憩するつもりなの? ヘトラに向かうのが目的なのか休憩するのが目的なのかわからなくなりそう」
そんな会話をしながらアルを走らせ続けた。
十分程走ると耳元で寝息が聞こえてきた。さらに一時間ほど走ったところで、アルが小川に向かって速度を落としていった。さすがにアルにも休息が必要だ。遅い速度での進行だったが、大の大人二人を乗せているのだから疲れて当然だった。なによりもアルの持久力がどこまで保つかを知られたのは大きな成果と言えた。
クラリッサを起こしてアルを降りた。アルは小川の水を飲み、座って休憩しながらそのへんの枯れ草を食べていた。
「おいおい大丈夫かよ。めちゃくちゃ野草食ってるじゃん」
「別に毒なんてないって」
「でもアルの食費も考えなきゃならんよな。どれくらい食べるんだ?」
「馬は牛と同じくらい移動手段としては普及してるし、どこの町にだって干し草くらいはあると思う。ただ値段が町ごとに違うからなんとも言えないかな」
「んじゃこれ」
渡されたのはこぶし大の布袋だった。ずっしりとした重さといい、ジャリっという音といい、布袋の中身が硬貨であることはすぐにわかった。
紐を解いて中を見ると金貨が入っていた。中を探ってみても金貨しか入っていない。
「クラウス金貨とグラニウス金貨じゃない、しかもこんなに……」
クラウス金貨だけでも高価なもので、庶民からしたら一枚で数カ月分の食料にさえなりうる。そのうえクラウス金貨百枚の価値があるグラニウス金貨までも入っているとなれば、その額に目眩がしそうだった。
「全部はやらんぞ。たまにそこから出せばいい」
「でもなんでこれを?」
「そりゃ二人と一匹の旅なんだから旅費は折半だろ。いいか、割り勘だからな」
リュックからパンを取り出し、一人でもぐもぐやり始めた。その姿がやけに景色と溶け込んでいて笑ってしまった。こんな姿を見てクラリッサが第三王女だとは誰も思わないだろう。
アリシアは自分のリュックから布袋を五つ取り出し、その中に金貨を割り振った。計六つの布袋のうち四つをクラリッサに戻し、一つを腰に結び、一つを自分のリュックに入れた。
「なんで分けた」
「こうやっておけばリュックを盗まれてもなんとかなる。一つは腰に結んでおいて。一つはリュックの外、一つはリュックの底、最後の一つは荷物の一番上の方に入れておいて」
「用心深いな」
「アンタが用心がなさすぎる。いくら王女様でも王都から離れて無一文はまずいでしょ。用心するに越したことはないから」
「了解。従いますよボス」
リュックをごそごそかき回しながら、金貨が入った袋を詰めていくクラリッサ。こういう素直なところは見た目や物腰からは判断が難しいところだ。
「でも大丈夫なの? ちゃんと陛下には話した?」
「話すわけないだろ」
クラリッサは最後の一口を食べ終えて水筒の水を飲んだ。
「本当にアンタって女は……」
「有給取って旅行してきますってだけ言ってある。大丈夫、うち放任主義だから」
「放任主義なんじゃなくて放任せざるを得ない状況にアンタがさせたんだって」
「アタシはそこまでバカじゃない」
「いやバカだけど?」
「納得いかん」
とは言っているものの、今までにした無茶苦茶な行いは自分がよくわかっているはずだ。学校では暴力事件を起こし、窃盗犯を町中で気絶するまで殴り、馬で兵士を追い回す遊びをしてみたり、上官に殴りかかってみたり。クラリッサの情報が入ってくる度にクラスメイトや同僚から「またアンタの相棒がやらかしたらしいぞ」と言われてきた。
「お、アルの気が済んだらしいぞ。ささっと行こうぜ」
近寄ってきたアルの鼻を高速でさすっているが、アルが嫌そうにしているのは気のせいと思うようにした。
今度は自分の番だと言わんばかりにクラリッサがアルに跨った。
「そこのお姉ちゃん、オレの後ろ乗ってきなよ」
「キメ顔で言うけどアルは私の馬だから」
後ろに乗り、腹に手を回した。
「まあいいけどね。じゃあよろしく」
クラリッサの腹を二度ほど叩くと、彼女は「よーし行くぞー」と手綱を引き寄せた。
「アンタ、ちょっと太った?」
「太ってない」
やや怒りに任せたような騎乗はクラリッサの気性がそのまま現れているようだった。
しかし、こうやって後ろに乗っていると安心する。基本的にアリシアは人前にでるような性格ではない。注目されるのもあまり好きではなく、そういうのはクラリッサの役目だった。だから、彼女の後ろにいることで安堵する。安心し、ここが定位置だと思える。
自分で自分の手を紐で結んだ。背中をぬくもりを感じながら揺られていると、少しずつふわふわとした心地よさがやってきた。
張り詰めていた糸がプツリと切れた。一人で悩み、気を張り続けることが大きな疲労を生んでいたことをアリシアは気づかなかったのだ。
そうして心地よさの中で瞼が落ちていく。このまま、ずっとこのままでいいという淡い希望をいだきながら、アリシアは夢の世界へと落ちていくのだった。
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