第2話 アリシア=ハンバード②

 起き上がるととてつもない頭痛に襲われた。右のコメカミから左のコメカミに激痛が抜けて、かと思えば今度は左から右に激痛が走る。胃の中がぐるぐるとかき回されているかのような気持ち悪さもあり、もう一度ベッドに倒れ込んだ。


 いつ帰って来たかは覚えていないが、おそらくはいつものようにクラリッサが送ってくれたのだろう。その証拠に、クラリッサが大きないびきを立てて床に転がっていた。


 時計を見ると十時を過ぎていた。


「本当に休んだの……」


 このまま寝てしまいたい気持ちもあったが、一年ほど家を空けていたため食料も水もほとんどない。


 一度シャワーを浴び、ため息を吐きながら着替えを済ませた。普段化粧をする習慣はないので、果物から採った化粧水だけを顔に叩いた。最後にクラリッサにタオルケットを掛け、買い物かごを持ってから家を出た。


 鍵をかけて階段を降りた。古びた集中借家であるため、音を立てないようにと少しだけ気を使う。晴天を見上げ、腕を上げて目一杯伸びをした。大きく息を吸うと、王都に帰ってきたのだという実感が湧いてくる。


 高等部に入学するときに入居してから十年間この家を借りてきた。見慣れたはずの景色は、一年離れているうちに少しだけ新鮮に見えた。


「アリスちゃんじゃないか」


 そう声をかけてきたのは武器屋のカールだった。頭は禿げ上がり、少し残った髪の毛も白髪交じりだ。恰幅が良いせいか、少し笑うだけで満面の笑みを浮かべているように見えてしまう。


「お久しぶりです」

「魔王討伐部隊お疲れ様。今日は非番かい?」

「一ヶ月の有給ですよ。元々休暇を取れるような職場じゃなかったんですけどね、魔王討伐部隊にいた兵士は休日もなければ毎日が魔獣との戦いだったので」

「一ヶ月! そりゃすごいな。予定は決まってるのかい?」

「いや全然。魔王を倒した直後に急に言われたので」


 倒した、と自分で言いながらも僅かな罪悪感が胸をチクリと刺した。


「まあゆっくりしなよ。それに予定がないんだったら恋人探しっていう手もある」

「いやー、恋人はまだいいかなー」

「軍人さんは婚期が遅くなるっていうからね、早めに探しておいた方がいいと思うよ。そうだ、俺の甥っ子が――」


 カールがそこまで言いかけたとき、カールの頭になにかが直撃した。木製のおたまだった。


「アンタ、アリスちゃんはアリスちゃんでちゃんと考えてるの。余計なこと言わない」


 おたまでポンポンとカールの頭を叩いたのはカールの妻であるダニエラだった。細身で美人、強気で勝ち気というのがアリシアの第一印象だった。そしてその第一印象は十年経った今でも変わっていない。


「ごめんねアリスちゃん。いろいろ大変だったと思うけど休日は有意義に過ごしてね。ほら行くよ」


 カールの腕を引っ張っていくダニエラ。ありがたいと思う反面、カールのことが若干心配になった。


 一年前まではこれが日常だったんだと改めて思い知らされる。魔王討伐部隊に編成されてから一年間、休むことなく魔獣を倒し続け、魔王城への侵攻を強要されてきた。味方が死ぬのを何度も見た。食料がなくなり虫を食べたこともあれば泥水を啜ることだってあった。どれもこれも、日常に戻るために必要なことだった。


 そう考えて、それでいいのかと石畳を見下ろす。結局自分のために戦っていたのだ。誰かのために、世界のために魔王を倒す任を負ったわけではない。仕事であり、自分の生活を守るためだった。魔王がいなくなった今ならなんとでも言えるが、そんな精神状況でよく生き残れたなとアリシア自身も感心し、また疑問にも思っていた。


 野菜を買い果物を買い、干し肉を買って酒を買った。生肉を買わなかったのは、きっと今日もまた外食だと考えたからだ。新しい歯ブラシやタオルも買った。売出しをしていた服屋に寄って下着を二セットと桃色のワンピースを買った。一年前も通っていた店ばかりだったのでどこに行っても声をかけられた。そのたびに「魔王を倒した部隊」として持ち上げられる。それがまた嫌で仕方がなかった。


 私はなにもしていないのに。


 さすがに荷物を持ちきれなくなり、近くの貸し台車屋で小型の台車を借りた。


 台車を後ろにしてゴロゴロ転がしていると、前方から見慣れた人物が歩いてくるのが見えた。


「お、アリスじゃないか」


 第二部隊副隊長、リスベット=セランデルだった。


 一年ぶりに会ったリスベットに対しての感想は「更に美人になった」だった。


 リスベットは小走りで近寄り「ご苦労だったな」と労をねぎらってくれた。快活そうな細くつり上がった眉と切れ長の目が印象的な女性だ。そしてなによりもスタイルが良く、細めのシャツとパンツがよく似合っていた。


「ご無沙汰してます、リスベット副隊長。一層美人になられたようで」

「そういうのいいからホント。かたっ苦しいのは仕事だけにしてよ」


 イヤだイヤだと右手を振った。その右手の小指には小さな指輪が光っていた。


「確かに私もこっちの方が楽」


 年齢は十ほど離れているが、リスベットが年齢差を気にしない人であることはよくわかっていた。それは訓練生時代の指導官であり、アリシアとクラリッサにはよくしてくれていたからだった。訓練生と指導官という関係でありながら、今でも親交があるのはリスベットくらいなものだ。


「あ、私の指輪に見とれちゃったか? ま、その話もしたいからお茶しない? 新しい店できたんだ。どう?」

「いいよ。買い物は終わったし」

「よし決まりだ」


 リスベットは歯を見せて笑った。


 彼女に連れられ、一年前は廃屋だった場所にやってきた。何度も見直すほど見違え、建物の古さを上手く利用したオシャレな造りに変貌していた。野外にも槍傘とテーブルが置かれており、何人かの若い女性客が傘の下でお茶を飲んでいた。


 イスに座って紅茶を頼んだ。その姿を見て、リスベットが首を傾げていた。


「アンタ、コーヒー派じゃなかった? コーヒーっていうかカフェオレ?」

「討伐隊のときにちょっとしたことがあってね」

「それを言いなさいってば」


 リスベットは「私はコーヒーで」と注文を済ませ、ウエイトレスは一礼してから下がっていった。


「泥水を飲んだの」

「水がなくてってこと?」

「一年間の間に二十回以上食料の供給が途絶えた。駐留していた村も魔獣によって滅ぼされ、大雨で土砂崩れが起きたり、森の中でさまよったり、そういう困ったときには仕方なく泥水を飲むこともあった。そのせいかな、カフェオレを見るとそのことを思い出しちゃうんだ」


 魔獣は魔王から自然と生まれてしまう。何度も何度も倒すがきりがなく、そのため襲いかかる魔獣すべてを倒すのには無理があった。


「相当キツかったみたいだな」

「実習訓練とかでもそういう状況にはなったけど、訓練はある程度の安全が保証されてたから。安全が保証されていない場所で何日も泥水を飲めばね」

「またカフェオレ飲めるようになればいいな」

「来ればいいけどね。それより指輪の話が聞きたい。ついに結婚したみたいだけど、結婚するなら教えて欲しかったな」

「ついにってなんだよ。別に結婚しなかったわけじゃないぞ? 男どもに見る目がなかっただけだ」


 本当は「自分より弱い男なんかに興味はない」と言って兵士たちをボコボコにしてきたことを知っている。だからこそ失笑してしまった。


「なに笑ってんだ」

「なんでもない。で、相手は誰?」

「経理のハンス」

「あのハンス=セリアン? なんで? ハンスは戦闘なんてからきしなのに」

「あー、んー、三ヶ月間猛烈な告白をされてね。ここまで愛してくれるならいいかなって」


 経理部の一般兵士だが、長身に細身でメガネが特徴。という以外の特徴がない男だった。身長が二メートル近くあるので、列に並んでいると目立つ。


「ハンスがね……」

「一緒にいるとね、結構面白い人なのよ。頭はいいけど結構ボケてるところもあるし、一日三回、必ず手を握って「愛してる」って言うの」

「もうそれだけでお腹いっぱいになりそう」


 リスベットは手を叩きながら「それでね」と会話を続けてきた。


 腕っぷしが強くクラリッサが軍部で勝てない人間の一人。男勝りであるため女性人気もかなり高い。そんな彼女を落としたのだ、ハンスのこれからを案じてしまう。


 ハンスとリスベットの馴れ初めや半年での結婚など、驚きの話を聞いていると羨ましく思う。しかし伴侶を見つける気力はなかった。今はなによりも気になっていることがどうしても頭から離れなかった。


 紅茶が届き、一口飲んだ。思わずため息が出る。


「どうしたの、なんかあった?」

「どうしてそう思う?」

「浮かない顔してるからさ」


 思わず右手で右頬に触ってしまったが、触ったところで自分の表情がわかるわけでもない。


「そうやって頬を触るクセ、治ってないんだな。わかりやすくていいけど」


 付き合いが長い人はこれだから困る、と心の中でつぶやいた。


 そして、小さく深呼吸をしてから話始めた。


「魔王がどうやって死んだか知ってる?」

「公にはされてないけど自害だって聞いてる。それがどうかした?」

「自分で自分の首を手で切るって、どういう覚悟があればできると思う?」

「そんなの私にわかるわけないでしょ。それに普通の人間は自分の首を手で切る力なんてないもの」

「でもね、最期に魔王は笑ったんだ。笑いながら、泣いてた」

「泣いてた?」

「そう、涙を流してた。すごく嬉しそうにも見えたけど、すごく悲しそうにも見えた。どこか満足したようで、でも未練があるようなそんな感じだった」

「その理由が気になる?」


 アリシアはゆっくりと頷いた。


「満足なのに未練があって、それでいて自害するほどの理由があった。気にならない方がおかしい」

「私から見ればアンタの方がおかしいけどね」


 視線を上げてリスベットを見た。彼女の瞳は嘘を言っていない。元々嘘を言うような人でないことくらいはアリシアもよく知っている。


「やっぱり変なのかな」

「変。そりゃそうでしょ。古来より魔王は人類の天敵。魔獣を召喚し人々を殺した。瑞々しい森林は焦土と化して、高い山々は更地になった。魔王に情を傾けるような人は存在しない。はず、なんだけどね」

「べ、別に魔王信仰があったとかそういうわけじゃないからね?」

「アンタがそんな宗教に傾倒してるとは思ってない。だからこそ変だって言ってるの。同時に、アンタがそう思うってことはなにかがあるのかもしれない。そしてアンタは真相を知りたいと思っている」

「真相を知ったところでなんの意味もないけどね」

「意味はあるでしょ。アンタの気が晴れる」


 そう言ってリスベットが笑った。片方の口端を上げた笑顔はとても魅力的に見えた。女性も男性も虜にする、そんな笑顔だった。


「話は変わるけど、あのクラリッサがなんでアンタを選んだのか、アンタはわかってる?」

「なによ、急に」

「クラリッサと仲良くなったのはいつごろ?」

「中等部の二年だったと思うけど」

「それってある事件がきっかけでしょ?」

「なんでそんなこと知ってるの? あんまり喋ってこなかったのに」

「そのときのアンタの担任、私の父親だから」

「そんな偶然……」

「ま、だからアンタらが訓練生になる前から知ってたってこと。父さんよく言ってたんだよ、とんでもない生徒が二人いるって」

「良くない言い方するなあ、あの先生も」

「でもね、尊敬に値する、とも言ってた」


 中等部二年。王都から離れた都市にあったからか、王都にあるような中等部のような高潔さや気品などはない学校だった。その学校では三年生の数名の男子が下級生の男子に対して陰で暴力を振っていた。ときには女子にも手を出していたが、皆怖くて口を出せずにいた。加害者の中には軍部の関係者や権力者もおり、教師たちも関わりを避けていた。


 いの一番に口を挟んだのがアリシアだった。見ていられなかったのだ。どうして間違ったことをしている人間を野放しにしておくのか。どうしてなにもしていない人間が虐げられなければならないのか。そして、なによりも見て見ぬ振りをするという行為そのものが許せなかった。だから自分だけは信念を貫こうとした。


 だが三年生に食ってかかっっていったのはアリシアだけではなかった。クラリッサもアリシアと同じことを考えていたのだ。


 三年生に文句を言ったアリシアだったが、体が大きいわけでもないので三年生によって半ば拉致される形となってしまった。それを助けたのがクラリッサだった。中等部で彼女に勝てる生徒は一人もいなかった。上級生が束になっても、根っからの戦闘狂には手も足も出なかった。


 そうして、二人はお互いのことを意識し始めたのだ。


「正しいと思ったことをしなよ。アンタはアンタの正義があるんでしょ? だから中等部のときもあんなことをした。一人じゃ三年生に勝てないこともわかっていたのに突っ込んでいった。それは、アンタが正しいと思ったからそうしたんじゃないの?」

「それは、そうだけど」


 学生時代ならばなにも迷うことなどなかった。自分を信じていた。自分を育ててくれた両親を信じていた。正しいことこそが正しいのだと信じていた。


 しかし、世間とはそこまで簡単にはできていない。いくら正しくとも、正しいことをしている人でも、糾弾され、淘汰される。大人になるということが、ある程度の悪事を許容し、自分の正しさを捻じ曲げ、集団に合わせることなのだと学んだ。学んでしまった。


 あの頃の無垢で純粋で疑うことを知らない少女はどこにもいない。


「いろいろあったのはわかるよ。私も大人だしね。でも子供だった時代もあったんだ。思想やら考え方が変わってくるのも仕方がないよ。それが世の中だから。でも、今アンタは迷ってるんでしょ? なにが正しいのか、なにがしたいのかを探ってるんじゃない? だったら思ったようにやったらいいよ。今のアンタなら間違っていることをしていても自分で気づけるくらい大人になったと思う」


 その言葉が、そっと背中を押してくれたような気がした。


 元指導官であり、自分よりも軍位が上であり、それでいて良き話し相手である。年上の言葉というのがこれほどまでに重みがあるのだと思い知らされてしまった。


「少し楽になったかも」

「そう、ならいいわ。休みは一ヶ月あるし時間だけだったら十分あるさ」


 アリシアは笑顔で「ええ、ありがとう」と返した。


 言えなかった。軍人であること、軍人であり続けることさえも迷っていると。泣きながら笑う魔王を見て、弓をおろしてしまったことで自信をなくしたこと。


 言おうか言うまいかを迷い続けて、結局たわいない会話をして別れてしまった。


 笑顔で別れたが、心の中には不愉快な「なにか」がぐるぐると回っていた。迷いや憂いといったものが寄り集まって、絡まってしまった「なにか」としか形容できない感情だった。


 家に帰るとクラリッサがベッドに横たわり本を読んでいた。アリシアが好きな作家の本だった。というよりも好きな作家以外の本を買うほどの余裕はない。軍人は給料がいいけれど、それでも小説などの娯楽書はそれなりに高価だ。一冊で給料の十分の一は飛んでいく。


「おかえりー」

「ただいま。なに読んでるの?」

「さらば愛しきアルデバラン」


 感情を失くしたアルデバランという少年が、人語を喋る狼のプレアデスと共に感情を取り戻す旅をする話だ。


「面白い?」

「お前の趣味はアタシの趣味。お前が面白いと思ったらアタシも面白いよ」

「その発言はちょっと怖い」


 買ったものをテーブルに広げ、一つずつ片付けていった。野菜は野菜の棚、果物は果物の棚といったようにキチンと整理されているため片付けに時間はかからなかった。


 いや、今までは、と言った方がよかった。今日の片付けはいつもの倍の時間がかかった。


 片付けの最中、歯ブラシを握りしめて洗面台に立っていると、後ろからクラリッサがやってきた。


「どうしたの」


 かなわないな、と心底思った。クラリッサが声を掛けてきたのは、きっと自分の様子がおかしいと感じたからだ。


「やりたいことが見つかったの」

「やっぱり軍隊は合わないか?」

「そっちはまだ辞めない」

「じゃあやりたいことって?」


 一層強く歯ブラシを握る。


「魔王を、探す」

「魔王は死んだろ」

「彼の人生を、足跡を、そして涙の理由を探すの」


 振り向いてクラリッサと視線を合わせた。


「そんなことしていったいなんになるってんだ?」

「自己満足。軍を辞めるかは、それから決める」


 クラリッサはガリガリと後頭部を掻いた。


「ま、いいんじゃない? でも危ないことには首突っ込むなよ」

「そんなことしないって。クラリスじゃあるまいし」

「どうだか」


 乾いた笑いを残してクラリッサがベッドに戻っていった。その後ろ姿はどこか寂しそうで、なで肩になっているのがそれを物語っていた。


「ごめんね、クラリス」


 小声でそう言った。良き友人であるクラリス。自分が軍を辞めるとなれば彼女は間違いなく悲しむ。中等部で出会って一年以上、高等部の三年間、上高等部の二年間に、訓練学校の一年間。そして入隊してからの四年間。長い間同じ場所にいた。だから彼女の落胆も理解できる。


 それでも前に進むにはこれしか選択肢がなかった。


 歯ブラシを持ったままリビングに戻った。大きめのリュックを出してその中に入れた。明日から出よう。そう決めたのだ。

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