共鳴 2
「おはよう、キョウヤ」
「え、あ、ぁ……」
しどろもどろになって言葉が続かない少年に、王が小さく首を傾げた。
「どうした? そんなにこの顔が気に入ったのならば、ずっと見ていてくれても構わんぞ?」
素っ頓狂なことを言い出した王に、ようやく少年が言葉を吐き出す。
「あ、いや、えっと……貴方、いつの間に、起きて、」
取り敢えず王の発言は無視して目下の疑問を口にすれば、王はにこにこと機嫌の良さそうな表情を浮かべた。
「つい先ほどだ。お前の方から私に触れることなど滅多にないだろう? そんなときに寝てばかりいては勿体ないではないか」
つまりこれは、少年が触れたせいで目が覚めてしまった、ということだ。
ざっと顔から血の気を引かせた少年は、王の胸元辺りを見つめながら謝罪した。疲れ果てているだろうに、なんてことをしてしまったのか。
自身の余りの浅慮さに落ち込む少年を見て、ゆるりと微笑んだ王は、小さな額にそっと口づけを落とした。
(ひえっ)
何度されても慣れない感覚に、少年が胸の内で悲鳴を上げる。そんな彼の反応に、やはり盛大に何かを勘違いしたらしい王は、微笑んだまま口を開いた。
「何も気にすることはないぞ、キョウヤ。お前から私に触れてくるのは、私にとってはこの上なく喜ばしいことなのだから」
だからもっと触れてくれ、などと言いつつ少年をしっかりと抱き締めた王は、彼の顔に繰り返しキスを落とし始めた。
(…………あつい)
密着度が増したからか、暖かいというよりも、少し暑いくらいである。
少年は寒暖差に鈍いからか、多少の暑い寒いは気にならないし、あまり汗をかくこともない。だが、今は心なしか顔が熱を持って、首の後ろ辺りにじんわりと汗が滲んできているような気がした。
(……こんなに暑くなるものだっけ……?)
そんなことを思いつつ、ならば目の前の身体から逃れればいいだけだ、と考えはしたのだが、困ったことにこの王は、はいそうですかとすんなり離れてくれる相手ではない。経験上、あの手この手でくっつき続けるはずだ。
それに、起こしてしまったのは自分である、という負い目もある。疲れている相手を起こしてしまった以上、ある程度我侭に付き合うのが筋なような気もした。
というか、そもそも、
(……そういう、感じじゃ、ない……)
そうなのだ。何故か、そんなに離れたいという気持ちが湧いてこないのだ。いつだかに覚えた、胸の底を冷やすような不可思議な感覚はなんとなくあるし、それ以上に、なんだか尻の座りが悪いような、むず痒いような、如何ともしがたい感覚もあるのだが。
(何だろう。……なんか、変な感じがする)
王の行動を厭わしいと感じなくなったのは、恐らく、自分が彼に好意を抱いているからなのだろう。だが、それではこの落ち着かない感じは、一体なんなのだろうか。
「キョウヤ?」
少年の様子がおかしいことに気づいたらしい王が、再び首を傾げて彼を見る。
「っぁ、いや、ええと」
うまい言葉が見つからなくて言いよどむ少年を見て、王は少し申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、すまない。まだ疲れが抜けきっていないだろうに、そう長く会話を強いるものではなかったな」
「え、ええと、……あの、そんなに疲れてはいない、し、……そもそも、別に貴方が謝るようなことは、何もないと思うんだけど……」
確かに謎の倦怠感はあるが、会話ができないほどに疲れている訳ではない。本当に、ただ丁度良い返事の言葉が見つからなかっただけだ。それに、たとえそれが疲労によるものだったとしても、王は何も悪くないのだから、謝罪を受ける謂れはない。
ところが王は、小さく首を横に振って少年の言葉を否定した。
「あの時も言ったが、私は肝心なときに遅刻をしてばかりだ。そのせいで、お前に掛けなくても良い心労を掛けてしまっている。……たった一人も守れないような、不甲斐ない王ですまない」
そう言った王の表情に、少年は思わず口を開いていた。
「そ、そんなこと、ない……!」
少年にしては珍しく大きな声だ。自分で自分の声の大きさに驚いてしまった少年だったが、ここで言葉を止める訳にはいかないと、何故だか強く思った。
「あなた、が、不甲斐ない王だなんて、」
こんなにも王である人など、きっと存在しない。円卓の王は総じて優れた王なのだろうけれど、少年からすれば、赤の王こそがその最たるものだった。
どうしてなのだろう。どうして、こんなにもこの王が最良の王であると強く思うのだろう。少年は赤の王のことをそこまで詳しくは知らないし、他の王のことなどもっと知らない。それでも、この人が不甲斐ない王ならば、この世に真の王はいないとさえ思った。
(……あ、)
己を無機質な存在だとする王の表情に、僅かに見えた翳り。それはきっと真実だ。少年の前でだけ現れる、王の心の欠片だ。
(そうか……)
ふと降りてきたひとつの答えに、少年はぱちりと瞬きをした。
きっと、それだけがこの人の唯一の意志なのだ。だからこそ、少年は彼を最良の王であると信じるのだ。
何も知らないくせに、思い至ったこの考えが真実であると、どうしてか確信できた。だからこそ、少年の唇が開かれる。
「…………こわい、の……?」
ぽとりと落ちた音は、言おうと思っていた言葉ではなかった。けれど、きっと何よりも正しい言葉だったのだろう。
少年の唇から零れたその声に、王が僅かに目を瞠る。そして彼は、誰も、少年さえも見たことのない表情で笑った。
「……ああ、怖いな」
素直に紡がれた声は、常と変らない柔らかな音だ。そんなことにさえ、少年の胸が締め付けられる。
「お前はすごいな、キョウヤ。言われて初めて気づいたぞ。私はずっと、怖かったのだな」
まるで新しい玩具を与えられた子供のように、王が邪気のない顔で笑う。
どうすれば良いだろうか。どうすれば、彼をその恐怖からすくってあげられるのだろうか。
少年の足りない頭では、その答えを出すことができない。けれど、王の恐怖は少年のそれととても似ている。だからこそ、その恐怖に晒されてもなんでもないことのように笑う彼を、このままにしておくのは嫌だった。だってその苦しみを、少年は嫌と言うほど知っているのだ。
「……あの、ね、」
果たして、少年の言葉にはどれほどの価値があるのだろう。もしかすると、ただの音の羅列にしかならないかもしれない。けれど、あのとき言えなかったことを言うべき時があるのだとしたら、それはきっと、今この瞬間だ。
そっと伸ばされた少年の手が、王の指先に触れる。自分よりもずっと大きなその手を包んで、少年は王の瞳を見た。
「王様じゃなくったって、あなたは綺麗だよ」
瞬間、少年の目の前で炎が弾けた。
驚いた少年が見つめる先で、信じられないものを見るような目をした王の瞳が揺れている。激しく燃える炎のようにその髪が輝き、毛先から色を変えていく。まるでタガが外れたかのような勢いで変化するその色彩に、少年は思わず王の手を強く握った。何故だかは判らないが、そうしなければいけない気がしたのだ。
普段であればとうに我を忘れて見惚れていただろう少年は、その謎の義務感だけで己を保っていた。
「あ、あの、あなた、お、落ち着いて」
何が落ち着けなんだかは判らなかったが、そう言うのが一番正しいような気がしたので、やはり訳が判らないまま取り敢えず言葉を発する。一方の王は、子供のような顔をしてぱちぱちと瞬きをし、不思議なものを見る目を少年に向けていた。
「ね、落ち着いて、ええっと、そう、深呼吸、して、みる……?」
言われ、王は素直に大きく息を吸って、そして吐き出した。そうすると少しだけ王の輝きが鈍った気がしたので、少年は引き続き深呼吸を勧める。何度かそんなことを続けると、ようやく王の身体から溢れていた輝きが消えたので、少年はほっと息をついた。
あの光はそれはそれは美しいものだったけれど、なんとなくあのままではいけない気がしたのだ。
「良かった。戻った、ね」
なんだったんだろうね、と問いかけてみたが、答えはない。もしかすると、王には自覚がないのかもしれない、と少年は思った。
そんな少年の頬に、王の手が伸ばされる。そのまま頬を包み込んだ掌に少年が動揺していると、そこでようやく王が口を開いた。だが、そこから言葉が発されることはなく、何度か開いては閉じてを繰り返したあと、結局彼は押し黙ってしまった。
珍しいを通り越して初めて見るその様子に少年は驚いたが、同時に身体の奥底がむずむずするような不思議な気持ちになった。
なんだかいたたまれなくなった少年がそっと視線を落としたが、それでも王は何も言わない。何も言わずに、ただ少年を抱き締めた。こんなにも強く抱き締められるのは初めてだったので、少年はまた少しだけ驚いてしまった。
そして、ただただ自分を抱き締めて離さない腕に、あつい、と胸中だけで呟く。とてもあつい。耐えられないほどに。けれど、不思議と心地は悪くなかった。
大きな身体に、そっと頬を摺り寄せる。手の自由が効けば良かったのだが、王の腕がそれを許さなかったのだ。
そんなことをしながら、少年は目を閉じてゆっくりと全身の力を抜いていった。まだ、疲労が抜けきっていないのだろう。目覚めたときに感じていた気怠さは色濃く残っている。そこにこの体温を与えられてしまうと、気を抜いた心が一気に睡眠を求めるのも仕方がないことだった。
この王と出逢うまでは、他人の温もりなど忌避すべきものでしかなかったというのに、よくもまあここまで変わったものだ、などとひとりごちながら、少年は少しだけ笑った。今ならば、さっきの夢の続きが見られそうだ。
優しい微睡に沈んでいく意識の中で、そして少年は願う。
どうかこの人にも、同じ夢が訪れますように、と。
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