炎に焦がれる 2

 どれくらい、そんな時間が過ぎただろうか。恐らく、それほど長いものではなかっただろう。

 最後に小さな炎をぼっと吐いてから口を閉じたトカゲが、するすると少年の元に向かい、ストールの中に潜りこんだ。そこでようやく、二人を守るように覆っていた炎の渦が、ゆっくりと消える。

 そして広がった光景に、少年は思わず顔を引き攣らせてしまった。

 あたり一帯にあったはずの、あの不気味な木々がきれいさっぱり灰になっている。未だ地面に燻っている炎が、全て燃やし尽くしてしまったのだろう。森だったその場所は、見事なまでの焼け野原になっていた。

(……確かに、これは、街中とかじゃ絶対やっちゃいけないやつだ……)

 このトカゲを怖いと思うことはないが、炎獄蜥蜴バルグジートという種は結構危ない種族なんだな、と再認識した少年の顎に、ストールから顔を出したトカゲがすりすりと鼻先を擦り付ける。恐らく、頑張ったから褒めろと要求しているのだろう。

「……あ、あはは、すごいね、ティアくん……」

 そう言って小さな頭を撫でてやれば、トカゲは満足そうに指先に擦り寄ってきた。

「さて、鬱憤は晴らせたか?」

 そう問うた王に、トカゲがこくこくと頷く。

「そうか。ならば、ここからは私が引き受けよう」

 そう言って王が見据えた先には、ドラゴンのような魔物に乗ったデイガーがいる。遠目ではその表情まで伺うことはできないが、きっとさぞかし取り乱していることだろう。

(確かに、精霊がいないこの空間は脅威だ。たとえ相手が王であれ、この空間に引きずり込んだ時点でほとんど帝国の勝利は確実だと言って良い。だが、それは同時に、それほどまでにこの世界に強く干渉することになってしまうとも言える。この空間が創られた亜空間ならば、そのような空間を創った時点で結構な干渉と言っていいだろうな)

 そこまで考えた王が、周囲に視線を巡らせる。

(判りにくいようにうまく誤魔化してはいるが、この空間の実質的な広さは、せいぜい演習用の闘技場一つ分程度。恐らく、これが向こうの限界だ。これ以上は能力的に不可能か、干渉のバランスの問題で不可能か……。前者であればまだ良いが、後者の可能性の方が高いと見るべきなのだろうな。そして、こんな空間をわざわざ創ったのは、リアンジュナイル大陸内に同等の空間を用意することが不可能だから、と考えるのが自然だ。……つまり、我々の次元で精霊の存在を消すことは不可能で、かつこの空間をもう一度生み出すことは、向こうにとってかなりのリスクになる、と考えるのが妥当だ)

 すっと目を細めた王が、薄く唇を開く。

「……ならば、この空間ごと破壊するのが最良手か」

 そう呟いた王の右腕が、ぶわりと炎に覆われる。そのまま腕を空に向ければ、そこから炎が噴き上がり、デイガーに向かって迸った。だが、デイガーの使役魔もそれを予期していたのだろう。噴き上がった業火を空中でひらりと躱した魔物は、鋭い鍵爪を露わに王に向かって降下してきた。

(以前もそうだったが、空間の扱いに長けている分、純粋な攻撃方法は限られていると見える)

 とはいえ、今の王が扱えるのは炎だけだ。風霊魔法や強化魔法を使えない状況で、あの巨体の攻撃をいなすのは骨が折れる。

(対処できない訳ではないが、キョウヤを守りながらとなると、些か分が悪いか)

 そう判断した王が、少年の腕を引いて己の背後に移動させる。

「あ、あなた……?」

「少し離れていろ。お前まで焼いてしまっては洒落にならんからな」

 言われ、大人しくその言葉に従った少年が、王から数歩距離を取った。それを確認してから、王が向かってくる使役魔へと視線を戻す。それと同時に、その足元から炎が噴き上がった。

 炎と赤銅がせめぎ合う髪を激しく躍らせながら舞い上がった炎は、王の頭上で見る見るうちに大きく膨れ上がっていく。

 まるで太陽のように強く輝く巨大な火球に、少年は思わず目を閉じて腕で顔を隠した。そうでもしないと、目を灼かれてしまいそうだったのだ。

 それはきっと、デイガーや使役魔も同じだったのだろう。魔物の苦しそうな声が少年の鼓膜を震わせた。

 だが、その中にあっても王はしかと目を開き、敵を見据え続けている。そして王が僅かに目を細めた瞬間、膨らみに膨らんだ火球が大きく弾けた。

 凄まじい爆風に、少年の身体が浮いて弾き飛ばされそうになる。だがその前に、彼は伸びて来た逞しい腕に引き寄せられ、抱き締められた。王である。

 触れた体温に安堵した少年は、未だ激しい風が吹き荒れる中、そっと目を開いた。そして、目にした光景に絶句する。

 大地も、空も、目に入る全てが、煌々と燃える炎だった。

 焼け野原だとか、そういう程度の表現では到底語れない。まさに、炎の中にいるかのような光景なのだ。

 だが、何故だろうか。不思議と熱さは感じない。こんな炎の中にいたら、呼吸をするだけで肺が焼けてしまいそうなのに、そんなことは全くなかった。

 何故だろう、と思った少年が王を見れば、王の髪の毛はその八割方が炎の色に変色していた。それでもなお変わることを拒むように残るくすんだ色が、どうしてだか少年には酷く頼りないもののように思えた。

 思わず、といった風に手を伸ばした少年が、王の髪に触れる。指先に触れた炎色の髪は、まるで血が通っているかのように温かく、少年は安堵するような不安になるような、不思議な心地になった。

「どうした?」

 柔らかな声が、少年の耳に落ちる。本当はもっと他に言うことがあるはずなのに、少年の口から零れたのは、それらとは違う言葉だった。

「……あの人、と、魔物、は……?」

 少年の問いに、王が僅かに目を細めた。

 問うまでもなく、少年は気づいていた。デイガーはおろか、あんなにも大きな魔物すら面影がないのだ。そして王の様子を見るに、前回のように逃げられたということでもないのだろう。

「この空間は、リアンジュナイル大陸ではないからな」

 力を抑える必要はないのだ、と続いた言葉に、少年はそっと王の髪から手を離した。

 圧倒的な火力の前に、きっと熱さすら感じる間もなく蒸発してしまったのだろう、と。そう気づくのに、時間はかからなかった。魔物の悲鳴もデイガーの悲鳴も聞こえなかったから、きっとそうなのだろう。もしかすると炎が弾ける音で掻き消されてしまっただけなのかもしれないけれど、それでも少年は自分の考えが正しいのだろうと思っていた。そう信じられるくらいには、王の本質的な部分に触れてきた。けれど、

(……この人は、何なんだろう……)

 精霊がいない空間で炎を生み出し、それを自分の炎だと言う。そんな人間が、本当に存在するのだろうか。もしかするとこの人は、自分とは全く違う何かなのではないだろうか。

 そこまで考えた少年は、しかし内心で首を横に振る。

 この王がどういう存在かなど、そんなものは些末なことだ。仮に王が化け物だったとしても、それが少年に与える影響は欠片もない。

 少年にとって、王はただ王なのだ。王に幾度となく助けられたことも、王が少年に告げた愛の言葉も、何一つ変わらず、揺るぎのない事実である。少年にとって重要なのは、それだけだ。

 王がロステアール・クレウ・グランダという男であるという事実と、彼がこの上なく美しいものであるという事実、そして彼の愛を信じた己の心以上に、重みがあるものなど存在するだろうか。

(……あ、)

 そこで、少年はようやく気づく。

 アメリアが黄の王を呼ぶ声が、彼が自分を呼ぶ声に似ていた理由を。

 その声が他人に向けられることを考えるだけで、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのかを。

(…………僕、)

 この人が何者でも良い、と。その正体がどんなに悍ましいものであったとしても、そんなことはどうでも良いのだと思えるほどに。

(……僕、この人のことが……、)

 思わず王を見上げれば、優しい眼差しをした王がこちらを見ている。

 彼はもう、気づいているのだろうか。他人の心の内を見透かすのが得意だと言うから、既に判っているのかもしれない。

(……でも、)

 もし王が全てを知っているとしても、それでも少年は自分の口から言わなければならない。そうしなければ、この王に応えたことにはならないのだ。

 少年の唇がゆっくりと開き、言葉を吐き出そうと喉が震える。

 だがそのとき、一際強い炎の音が少年の鼓膜を揺らした。そしてそこで、少年ははっとする。

(い、今、それどころじゃなかった……!)

 集中すると他のことがおろそかになるのは、少年の悪い癖である。

 慌てて周囲に視線を巡らせれば、炎は未だに燃え盛り、全方位を焼き尽くさんばかりに荒れ狂っている。敵はもういないはずなのに、何故炎の勢いが弱まらないのだろうか。

 不思議そうな表情を浮かべた少年を見て、王がその頭を撫でた。

「この空間は非常に厄介な代物だからな。全て破壊する必要があるのだ。さすがに一筋縄では壊せそうにないが、今の私ならば可能だろう」

「あの、でも、それじゃあ僕たちは、」

 ここはきっと、少年が元いた場所とは異なる空間だ。それどころか、亜空間なのだとしたら、厳密には次元すらズレている可能性がある。そんな状況で空間を破壊すれば、自分たちも無事では済まないのではないだろうか。

 その当然の疑問に、王は少しだけ困った表情を浮かべたあと、少年の方へと顔を寄せた。そして、金色の瞳が少年の瞳を見つめる。至近距離で揺れる炎に、少年の表情がふにゃりと蕩けた。それを確認した王は、そっと手を伸ばして、そのまま少年の眼帯を優しく外した。

 瞬間、少年の見ている世界が大きく変わる。目の前の王が見せる輝きが目を灼くほどのものになり、その全身から炎が躍る様子が、これ以上ないほどに明瞭に見える。

 まさに、この世のものとは思えないほどの、至高の美しさだ。

 王の炎に焼かれ、とうとう空間自体に歪みが生じ、硝子が割れるような無数のひびが走り始めていたが、少年は気づかない。ただただ、この世で最も美しいものに見惚れているだけだった。

 そしてそんな彼に向かい、王がそっと囁く。

「きっと、今の私ならば、お前の力を借りることができるのだ」

 王の唇が、少年の異形の瞳に優しく触れる。

 瞬間、少年の視界が真っ白に弾けた――




 焦ったような困ったような声が、聞こえる気がする。

 そう思った少年は、重い瞼をゆるゆると押し上げた。ぼやけた像をなんとか結べば、心配そうな顔で自分を見下ろしている男に見覚えがある。他でもない、リィンスタット国王のクラリオだ。

「……り、んすたっとおう、へいか……?」

「良かった! 目覚めたんだな! こんな獣舎で転がってるから、めちゃくちゃ心配したんだぞ! ロステアール王はロステアール王でアグルムから戻っちまってるし、一体何があったんだ?」

「え、と……?」

 混乱している様子の少年に、黄の王は取り敢えずといった風に少年の隣を指さした。示された方へ顔を向ければ、そこには赤の王が倒れている。どうやら意識を失っているらしい彼を見て、少年の顔がさっと青ざめた。

「あ、あなた!?」

 慌てて起き上がろうとした少年は、しかし身体を起こした途端に襲ってきた眩暈に、再び地面に倒れ込みそうになった。そんな彼を咄嗟に支えた黄の王が、落ち着けと声を掛ける。

「ロステアール王なら無事だ。完全に意識飛んでるみてーだけどな。いやぁ、この王様が意識失くすなんて初めて見たぜ。マジで何してたんだお前ら」

「え、えっと、あの、その、帝国が、あ、精霊がいなくて、空間魔導と、アグルムさんが、」

「お、おう。取り敢えず何言ってんだか判んねーから落ち着け。というか多分、ひとまず休んだ方が良いな。うん」

「……すみま、せん……」

 うなだれた少年に、黄の王が明るく笑う。

「いや、こっちこそいきなり色々聞いて悪かったな。まあでも、取り敢えず一個だけ教えてくれ。……そっちは片付いたってことで、良いんだよな?」

 王の問いに、少年がこくりと頷く。

「よっしゃ。それが判っただけで良いわ。あ、こっちも全部片付いたから安心しろよ。一件落着ってやつだな」

 にっと笑った黄の王を見て、少年も控えめに微笑みを浮かべた。

「ロステアール王とまとめて部屋に運んでやっから、もう寝てて良いぞ。その代わり、次に起きた時は色々聞かせて貰うからな」

 そう言われ、少年は素直にその言葉に甘えることにした。何故だかは知らないが、それくらい疲労が溜まっていたのだ。


 こうして、リィンスタット王国を震撼させた大事件は、ひとまず収束したのであった。

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