アグルム・ブランツェ 2
「お待たせした。進めて頂けるだろうか」
「ええ。早く終わらせてしまいましょう」
そう言った薄紅の王が、部屋の窓をこんこんと叩いてから開けると、そこから淡い桃色の獣がするりと入って来た。翼状の長い耳に、つぶらな瞳の愛らしい顔つきをしたこの獣は、シェンジェアン王国の王獣であるシェーン・シェンジェアンである。
赤の王獣や黄の王獣と比較すると小さな体躯の王獣は、赤の王をちらりと見て気に食わなさそうに鼻を鳴らした。そんな王獣に困った表情を浮かべてみせた赤の王が、軽く会釈を返す。
「ロステアール王がつまらない顔立ちだから、目にうるさいのだわ」
そう言って窓を閉めた薄紅の王が、王獣の頭を優しく撫でた。
酷い言われようだが、薄紅の王獣と言えば、王であるランファに勝るとも劣らない美形好きだ。残念ながら赤の王の顔では、王獣を満足させることはできないのである。
「ランファ王が王獣を呼んだということは、シェーンの力が必要だということなのだろう? ならば、この顔で不快な思いをさせて申し訳ないが、力添え頂きたい」
「ごめんなさいねぇ、シェーンちゃん。でも、ロステアール王に目晦ましを掛けるのって、とっても骨が折れるのよ。妾を助けると思って、ここは力を貸してちょうだい」
そう言った女王が細い指先で王獣の顎を擽れば、気持ち良さそうに目を細めた王獣は、薄紅の王の腕に額を擦り付けた。どうやら了承してくれたようだ。
「さ、それじゃあ始めましょ。ロステアール王はそのままそこに立っておいでなさいな」
王獣から手を離した薄紅の王が、赤の王に向き直る。
「前にも説明したけれど、今から妾が掛ける魔法は、個に対して行う幻惑魔法としては最高峰のもの。人によっては、一生己を見失ったままということも珍しくはないわ。だからこそ、対象の
「無防備、とは?」
「そんなもの知らないわ。こんな魔法、妾だって使ったことがないんだから」
一蹴された赤の王が困った表情を浮かべたのを見て、薄紅の王が仕方がないという風に再び口を開く。
「そうねぇ。こう、ぼーっとしていれば良いんじゃなくて? 貴方、いつもぼけっとしているようなものなのだから、得意でしょう?」
「さて、得意かどうかは判らないが……」
「ああもう、面倒くさいわねぇ。とにかく、妾を拒絶しなければ良いのよ。脳みそを好きに弄られても気にしないくらいの気持ちでいてちょうだい」
また無茶苦茶を言う、と思った赤の王だったが、実際にそれを口にすることは控えた。文句を言えば言っただけ倍になって返ってくることを知っているからである。
「まあ、努力してみよう」
そう言った赤の王に、薄紅の王が満足そうに頷く。
「ようは同意を得られているという事実が大事なのだと思うわ。本能的な拒絶については仕方ないもの。そのあたりは、妾とシェーンちゃんが捩じ伏せてあげる」
「それは頼もしいな。お任せする」
「あとは……、戻るきっかけが必要ねぇ。条件を決めなさいな。その通りになるように制御してみるわ」
言われ、赤の王は少しの間だけ思案したあと、口を開いた。
「それでは、私が命の危機に瀕したとき、でいかがだろうか」
赤の王の答えに、薄紅の王が頷く。
「まあ、確かに妥当な条件かしら。死なないための措置で死んでしまっては、元も子もないものねぇ」
「そうなのだ。そしてできれば、致命傷を負う前が良いな。死にかけてから戻ったところで、回復魔法が使えない私ではどうしようもない。……となると、私が死を予感したとき、という条件あたりが最適だろうか」
「さらっと難しい要求を出してくるのねぇ。そんな繊細な設定ができるか判らないけれど、まあ努力してあげても良いわ。感謝なさい」
「無論、感謝しているとも」
真顔でそう言った赤の王を胡散臭い目で見てから、薄紅の王が鬱陶しそうにひらひらと手を振った。もう良いから、さっさと準備をしろということだろう。それを悟った赤の王が、ゆっくりと目を閉じる。人の前で視界を閉ざすという行為によって、より無防備な状態に近づこうとしたのだ。
そんな赤の王に対して、薄紅の王が細い指先を向けた。
「……揺らぐ水面 霞む陽炎 世界を呑み込む歪んだ鏡」
薄紅の王の詠唱に呼応し、赤の王の周囲にふわふわと霧が立ち込め始めた。そして、女王の傍に寄り添うようにしている王獣の尾が、淡い光を放ち始める。
「空の御手は音を奪い 楔を以て楔を穿つ 解き放たれた産声のもと 辿る
薄紅の王の艶やかな声音が、赤の王の耳奥に届く。普段聞いているそれとはまったく異質のその音は、まるで赤の王の脳を揺らすかのように響き、彼の全身を得体の知れない不快感が襲った。だが、それでも彼は決して目を開けない。僅かでも抗う素振りを見せれば、きっとこの魔法は失敗してしまうと判っていたからだ。
そうしている間にも、赤の王を覆う霧がどんどんと濃くなり、それに比例して赤の王を襲う不快感も増していった。
「されど汝が望むのならば 消えゆく者を夢見るならば」
いよいよ王獣の尾が放つ輝きが増し、詠唱を続ける薄紅の王の額に汗が滲む。赤の王は依然として目を閉じていたが、それでも彼女が苦戦していることが伝わってきた。ただでさえ最高難度クラスの魔法な上に、その対象が円卓の国王という規格外の相手となると、いかに薄紅の王と言えど一筋縄ではいかないのだろう。
「っ、指先に崩れる砂塵の彼方で 永久に惑いし理をなぞれ……!」
全神経を集中させて薄紅の王が最後の詠唱を紡ぐ。そして彼女は、霧に
「――――“
瞬間、霧がその濃度を加速的に上げ、一気に赤の王を覆い尽くした。そして暫しの沈黙ののち、内側から膨らむようにしてゆっくりと霧が晴れていく。
完全に霧が消え去ったとき、そこにいたのは、赤の王とは似ても似つかない男であった。
褐色の肌に、暗い金色の髪。赤の王と比べれば厚みの薄い胸板に加え、身長までもが控えめだ。あの特徴的な金の瞳すらも、まるで面影がない。
目だけで周囲を見渡した後、やや困惑した様子の男が口を開きかけたが、それを遮るようにして薄紅の王が男の名を呼んだ。
「アグルム・ブランツェ」
その音に、男が過剰なほどに肩を震わせて反応を示す。そんな彼に向かってにっこりと微笑んだ薄紅の王は、一枚の紙を取り出してひらひらと振った。
「リィンスタット王からの書簡は確かに受け取ったわ。それにしても、どうしても妾に直接届けたいからって、こんな夜中に貴方も大変ねぇ。ご苦労さま」
「……クラリオ、王、陛下の……?」
「そうよぉ。彼の命令でこの国までやってきたのでしょう? ほらほら、もうお役目は果たしたんだから、さっさとお帰りなさいな。貴方みたいなつまらない顔は、いつまでも見ていたいものじゃあないわ。それに、貴方が乗って来た騎獣も、王宮の入り口で待ちくたびれている頃よ」
薄紅の王の声に、男の困惑した表情が徐々に落ち着いていく。そして男――アグルムは、その場に膝をついて、深々と頭を垂れた。
「このような深夜にも関わらずご対応頂きましたこと、深く感謝申し上げます」
「別に礼は良いわ。だからさっさと帰ってちょうだい。妾、早く寝たいの」
つん、とした態度で言われ、アグルムは更に深く頭を下げたあと、王と王獣に向かって退室の言葉を述べてから、静かに部屋を出て行った。
彼が退室したあと、部屋の扉が閉まるのをしっかりと確認したところで、薄紅の王の身体がぐらりと傾いた。そして、そのままとさりとベッドに倒れ込む。同時に、王獣もまた疲れたように、その場にころんと寝転がった。
「なんて厄介な男なのかしら……!」
苛立ちと疲労の混じった王の声に、王獣が愛らしい声で、きゅうと鳴く。まったく同意である、といったところだろうか。
「無防備になるよう努めた上で、それでも尚、あそこまで強く拒絶するだなんて。ロステアール王は自分への執着なんてないものだと思っていたけれど、とんでもないわ。寧ろ、個への執着の塊そのものよ。誰しもが大なり小なり自分自身への執着を持っているものだけれど、あれは異常だわ。……あの男、一体何なのかしら」
最後の言葉に、またもや王獣がきゅうと鳴いた。これもまた同意なのだろうか。それとも、もしかするともっと別の意味があったのかもしれない。
「……それにしても……」
小さく呟いた王が、自身の手をまじまじと見る。
「……こんなにも上手くいくだなんて、やっぱりおかしいわよねぇ。妾も初めて使ったから判らないけれど、あの魔法の成功率なんて、きっと半分もないと思うの」
薄紅の王の疑問は当然のものだった。
彼女が今回使用した魔法は、個の在り方を世界に誤認させるという、常識の枠から著しく逸脱した大魔法である。あの魔法によって、この世界には、アグルムという本来ならば存在しない筈の個が存在していることになってしまったのだ。術者である薄紅の王と同等以上の存在はさすがに惑わせないが、それ以外のあらゆる生き物が、ロステアール・クレウ・グランダをアグルム・ブランツェだと思い込んでしまう。それは何も見た目だけの話ではない。視覚、聴覚、触覚、その他全ての感覚があれをアグルムとして認識するようになり、過去を遡ってあらゆる来歴が事実として上塗りされる、まさに幻惑魔法の最高峰を極めた魔法なのだ。
だが、だからこそこの魔法の扱いは非常に難しい。個の書き換えに相当し得る魔法であるが故に、対象たる個の同意がなければ絶対に成功することはなく、同意があったところで、今回のように無意識下の抵抗が強ければ、成功率は著しく低下してしまう。
薄紅の王が引っかかっているのは、そこだ。今回赤の王が見せた抵抗は、薄紅の王と王獣の力を合わせても突破し得ないほどに強かったように感じられたのに、何故か魔法は成功してしまった。圧倒的なまでに己を保とうともがく赤の王を捩じ伏せ、その一生を見事に惑わしきった。
(手ごたえと経験から判断する限り、確実に失敗する流れだったわ。……それこそ、奇跡でも起きない限り)
しばし目を閉じて思案していた女王の瞼がゆるりと上がり、形の良い唇が薄く開く。
「…………幻惑魔法は確か、月神の領域、だったかしら?」
ぽつりと零した言葉は、王獣に向けられたものだった。だが、王獣は僅かに長い耳を震わせただけで、それ以上の反応を寄越しはしない。珍しく探るような目を王獣に向けていた彼女は、ふぅと息を吐いて王獣へと手を伸ばした。そして、ベッドに横たわったまま獣の長い耳を擽る。
「良いのよ。王には王の、王獣には王獣の、神には神の領域があるもの。他人のそれに踏み込もうだなんて、妾の方がどうかしていたわ」
いやぁねぇ、そんなに疲れているのかしら、と笑いながら、女王が王獣の毛並みに指を滑らせる。それに心地良さそうに擦り寄った王獣が、きゅ、と小さく甘えるような声を出した。
「それにしても、お互いに想定以上に消耗してしまったわねぇ。妾、もう一歩も動けないわ。数日は大人しくしているようかしら。はぁ、退屈ねぇ」
王の言葉に、きゅっきゅっ、と鳴いた王獣が同意を示す。それを受け、女王はふわりと微笑んだ。
「どうせ動けないのだし、いっそとびっきりの美男美女を呼び寄せて、たっぷりご奉仕させようかしら。それなら、妾もシェーンちゃんも満足できるでしょう?」
息を呑むほど美しい微笑みを浮かべてそう言った王に、王獣が一際嬉しそうに鳴く。そんな獣をもうひと撫でしてから、女王は静かに目を閉じた。
(……用心なさい、ロステアール王。この先何があっても、貴方は絶対に元に戻ってはいけないのだわ。妾の魔法が成功したということは、きっとそういうことよ)
ロステアール王に忠告すべきそれを、アグルム・ブランツェに言ったところで意味がないのだけれど。
疲労による睡魔がやってくる中、薄紅の王は胸中で静かにそう呟いたのだった。
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