目覚め 3

 ぞわりと刺すようなその気配に、デイガーはおろか、離れた場所にいたアグルムさえも、僅かに少年の方へと気を取られた。

 瞬間、後ろへと身体を引いたデイガーの頬を、鋭い切っ先が掠めた。

 デイガーが咄嗟に回避行動を取ることができたのは、彼自身の能力によるものではない。より野生の本能を持っているデイガーの使役魔が、彼の身体を後ろへと引いたのだ。

 頬に走った一筋の痛みに目を見開いたデイガーの視界の中で、少年がデイガーの方へと向かって地面を蹴るのが見えた。

「ッ!」

 咄嗟に、デイガーは空間魔導を発動させて己の身体を上空へと転移させた。ほとんど防衛本能のようなものだった。

「な、なんだ今のは! これもエインストラの力だと言うのか!?」

 竜の背に乗ったデイガーが地上に目をやれば、先程まで彼がいた場所には、刺青用の長い針を握った少年が立っていた。そしてその視線が、ついと上空にいるデイガーに向かって投げられる。

 凍り切った、獣のような目だ。先程までの少年とは明確に異なるそれは、まるで個が切り替わったかのような違和感を与える。

 デイガーを睨んだ少年は、しかし次にその視線を巨大な魔物へと投げた。そしてそのまま、その足が再び大地を蹴る。

 真っ直ぐに魔物へと向かっていった少年に驚いたのは、アグルムだった。慌てて魔物と少年との間に入るように身体を移動させた彼は、しかし少年の握る針の先が今度は自分に向かっていることに気づき、寸でのところでそれを曲刀で受け流した。その拍子に体勢が崩れたところに、少年の蹴りが飛ぶ。さすがのアグルムも、それを避けることはできなかった。

「っ!」

 まともに蹴りを喰らって息を詰めたアグルムの身体が、僅かに宙に浮いてから地面に転がる。大して鍛えられてもいないだろう少年の身体の何処にこれほどの力があるのか、アグルムには想像もつかなかった。

 地面に倒れ込んだアグルムに追撃をしようとした少年はしかし、背後から自分を狙う魔物に気づいたのか、ばっと振り返って標的をそちらへと移した。

 魔物が振り切った蹴りを避け、獣のような俊敏さで器用にその脛に跳躍した少年が、そのまま巨躯を駆け上がる。そして、魔物が彼を振り落とすよりも早くその肩にまで到達し、彼は巨大な目に向かって針を突き刺した。

 恐らく、そこがこの魔物の弱点だったのだろう。大きく空気を震わせる悲鳴を上げた魔物が、両手で目を覆って身を捩らせる。その勢いで振り落とされた少年は、宙で体勢を立て直して軽やかに地面に着地した。そして再び、針を手に魔物に向かっていく。

「……天ヶ谷迅か!」

 豹変した少年を見たアグルムが呟く。

 天ヶ谷鏡哉が多重人格の持ち主だということは、既に円卓の主要人物の間では周知の事実である。表を担当している『鏡哉』に、今は眠っている主人格の『ちよう』、人格の管理を担っている『グレイ』、記憶の操作を行う『アレクサンドラ』。そして最後が、嫌悪と破壊衝動の権化である『迅』だ。

 『グレイ』や『アレクサンドラ』曰く、『迅』は少年の身体が命の危機に瀕した時のみ顕現する人格である。全てを忌避し、全てを呪い、全ての死を望む、破壊という概念のみで構成された人格だ。故に、『迅』はその場にいる全てを己の敵とみなし、全てを排除するまで止まらない。味方であるアグルムすらをも敵視しているのは、きっとそのためだろう。

 二体の魔物を相手に人間とは思えない動きで立ち回る『迅』を見て、アグルムが僅かに顔を顰めた。

 少年の身体があそこまでの運動能力を発揮できているのは、人外エインストラの血を引いているからなのかもしれない。だが、仮にそうだとしても、あれほどの速度と膂力を発揮できるものだろうか。常に鍛えている自分たちならば、多少の無茶は効く。だが、あの少年はそうではない。彼の身体は、こんな無茶苦茶な動きに耐えられるような造りではない筈だ。

(『迅』が、肉体のリミッターを外して戦っている……?)

 十分にあり得る話である。『迅』にとっては自分が生き残ることと、全てを破壊することのみが目的な筈だ。恐らく、自身の肉体への負荷など考慮には入らない。

(っ、それは駄目だ!)

 刀を握り直したアグルムが、『迅』の元へ行こうと足を踏み出す。だが、そんな彼のつま先を何かが叩いた。眉をひそめて目を下にやれば、つま先にくっついていたのは赤いトカゲだった。そのままするするとアグルムの肩まで移動したトカゲが、彼の頬をぺちりと叩く。

「どうにかするだと? だがお前はもう炎を吐けないんじゃないのか?」

 アグルムの言葉に、丸い目を更に丸くしたトカゲが首を傾げた。

「何故? ……そう言えば、何故だろうな……。いや、今はそれどころじゃない。早く『迅』をどうにかしなければ」

 そう言ったアグルムが、トカゲに向かって言葉を続ける。

「何か考えがあるんだろう。聞くだけ聞いてやる」

 そんなアグルムの肩を、トカゲがぺちぺちと叩いた。

「……は? いや待て、お前それはとてもじゃないが作戦と呼べるようなものでは、」

 咎めるようにそう言ったアグルムに、しかしトカゲはそれを無視してぴょんと地面に飛び降りてしまった。

「おい!」

 思わずアグルムが叫んだが、トカゲが彼の制止を聞く様子はない。アグルムの言うことなど歯牙にもかけないトカゲに大きく舌打ちを漏らしてから、アグルムは駆け出した。何を言っても無駄だと言うのならば、癪な話ではあるがトカゲの策に乗るしかない。

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