目覚め 2

「お久しぶりです、エインストラ。エインストラにおかれましてはご健勝のご様子、何よりのことと存じます」

 わざとらしく微笑んだデイガーが、恭しく頭を下げて寄越す。そんなデイガーに少年が小さく悲鳴を上げて後ずされば、すかさずトカゲが口を開いた。恐らく、炎を吐いて少年を安心させようとしたのだろう。

 だが直後、トカゲは炎を吐き出すことなく、小さく首を傾げて少年を見上げた。それがどういう意図なのかをはっきりと感じ取ることはできないが、何故だか少年にはトカゲが困っているように見えた。

「本当はエインストラのみをご招待しようと思っていたのですが、余計なものが二匹ほどついてきてしまいました。どうかご容赦くださいね」

 両の手を合わせて困った顔をしてみせたデイガーを、アグルムが睨む。そんな彼を見て、デイガーはわざとらしく肩を竦めて返した。

「おお、怖い怖い。そんな恐ろしい顔をしないでくださいよ。生まれもっての類稀なる才で魔法を操るお方が、私のような魔導師ごときにそのような目を向けるなど。恥ずかしいとは思わないのですか?」

「誰が恥じるものか。お前がそれだけ警戒すべき相手であるというのは、円卓の共通認識だ」

 そう言ったアグルムが、剣を握る手に力を籠める。

 空を飛ぶデイガーの魔物と対峙するには、魔法を用いるのが最も効果的だ。だが、生半可な魔法では空間魔導によって全て返されてしまう。このあたりのことは、アグルムも把握していた。だからこそあの赤の王すらも苦戦したという話だったか。

 だが、あれは飽くまでも国内においての話である。周囲への被害を考慮すると高威力の魔法は使えない、という状況だったが故の苦戦だ。

(だが、ここは十中八九リアンジュナイル大陸の外だ。高威力の魔法を制限するようなものは何もない。どう考えても、この場所に俺たちを転送する方が帝国側にとっては不利益だ。それなのに何故……)

 デイガーの考えが判らない以上、迂闊に手を出すことはできない。そう考えて剣を構えるだけに留まっていたアグルムだったが、そんな彼を見たデイガーは、心底愉快だとでも言うように笑った。

「そう警戒しないでくださいよ。我々のようなか弱い魔導師は、こうして周到に用意しなければ貴方たちと対峙することもできないのですから」

 そう言ってデイガーがぱちんと指を鳴らすと、彼の背後に空間の歪みが生まれた。そしてそこから、二体の巨大な生き物が現れた。四階建ての建物すらも越える高さのそれは、顔面一杯に大きな目がある、二足歩行型の魔物だった。

 デイガーの空間魔導によって出現したその魔物たちは、デイガーの姿を認めるや否や、彼に向かって足を振り上げた。味方であろう魔物の攻撃に、しかしデイガーは驚いた様子もなく、魔物の一蹴りを黒い竜の背に跳び乗って回避してみせた。そしてそのまま空へと逃れたデイガーが、地上にいるアグルムに向かって叫ぶ。

「失礼! このウスノロどもは、使役主である魔導師を殺された憐れな魔物でしてね! 見境がないのですよ!」

 そう言ったデイガーの口元が歪んだ笑みを象っているのを見たアグルムが、忌々しそうに舌打ちをする。

 使役主を失った魔物の危険性については、円卓全ての国で共有されている。一ツ目の魔物がデイガーを狙ったのは、デイガーが最も近い場所にいたからだ。その彼が空に逃れたとなれば、当然次に狙われるのは自分たちである。

 巨大な目玉たちが、ぎょろりとアグルムを捉えた。それと同時に、アグルムも風霊の名を叫ぶ。だが、

「っ!?」

 普段あまり変化を見せないアグルムの表情が、驚愕に染まった。しかし、彼が起こった事象に気を取られたのは一瞬。すぐさま頭を切り替えて曲刀を横に構え直したところで、魔物の強烈な蹴りが彼を襲った。間一髪でそれを避けたところに、今度はもう一体が拳を振り下ろす。後ろに跳んでそれを避けたアグルムは、眼前に落ちた拳をすぐさま刀で斬りつけた。

 そこそこの深さを以て肉を抉った刃に魔物が低く唸ったが、所詮手の甲の一部を斬っただけに過ぎない。大したダメージにはならなかっただろう。だが、そこで生まれた隙を利用し、アグルムは少年に向かって叫んだ。

「精霊がいない!」

 短い言葉は、少年がアグルムに対して抱いた違和感の正体を悟らせるに十分すぎた。

 風霊の名を呼んだのに、アグルムはなぜ風霊魔法を使わずに身一つで魔物と対峙しているのか。その疑問の答えが、アグルムの一言にあった。

 この世界の魔法は、世界中に存在する精霊の力を借りて発揮されるものがほとんどだ。そしてアグルムは、その精霊がいないと言った。

(つまり、この空間には何故か精霊がいないから、アグルムさんは魔法が使えないんだ……!)

 アグルムだけではない。少年がいる世界のおよそほとんどの生き物が、この空間では魔法を使えないことになる。

 そこまで思い至った少年が、はっとしてトカゲを見る。先程から何度も何度も試すように口を開けたり閉じたりしているトカゲもまた、同じなのではないだろうか。いかに高位の幻獣と言えど、魔法と同じ機構で炎を生み出しているのならば、トカゲもまた自身の炎を封じられたことになってしまう。

 トカゲの様子を見る限り、少年のその考えは大方正しいように思えた。

(ど、どうしよう。確か炎獄蜥蜴バルグジートの場合、最初の火種が火霊による炎で、それを固有能力によって体内で増幅させているって、あの人が……)

 そこまで考えた少年は、はたと気づいて、上着のポケットに入れっぱなしだった魔術具を取り出した。炎を食べるトカゲのために、グレイに作製して貰った錬金魔術式の卓上ライターである。

 炎獄蜥蜴バルグジートが最初の種火のみを魔法機構に頼っていて、その後の工程は全て己の固有能力のみで行っているのだとしたら、種火さえ与えれば力を発揮できる筈だ。

 そんな少年の手元を見たトカゲが、丸い目を細めて少年を見上げてから、ライターを持つ手元へとするりと移動した。そしてトカゲの小さな手が少年の手を叩くと同時に、少年がライターの魔術を発動させる。

「お願い! ティアくん!」

 少年の叫びと共に噴き上がった炎を、大きく口を開けたトカゲが吸い込む。そのままごくんと炎を飲み込んだトカゲは、少年の腕を跳び下りて、アグルムと対峙している一ツ目の魔物へと顔を向けた。

「っアグルムさん! 避けてください!」

 少年の声に反応したアグルムが魔物から大きく距離を取るのと同時に、トカゲの口がぱかりと開いた。そしてそこから、轟という音と共に灼熱が吐き出される。

 熱風を撒き散らしながら魔物に向かった炎が、見事にその片腕を捉え、見る見るうちに魔物の肉を焼いていく。だが、そこに砂蟲サンドワームを焼き尽くしたときのような威力はなかった。

(やっぱり、精霊の火じゃないと威力が落ちちゃうんだ……!)

 最初こそ魔物の腕を燃やしていた炎だが、すぐにその勢いは衰え、火力は徐々に弱まりつつあった。この様子では、あと少しもすれば炎は掻き消えてしまうだろう。

 それでも、この巨大な魔物たちに対抗できるだけの術が見つかったのは僥倖だ。アグルムに敵を牽制して貰いつつトカゲが攻撃することで、時間は掛かるが魔物を倒すことができるかもしれない、と少年は思った。

 恐らくアグルムを同じことを考えたのだろう。ちらりと少年を見てひとつ頷いた彼は、剣を構えて再び魔物へと向かって行った。

「ティアくん、まだ頑張れる?」

 ライターを手に少年がそう問えば、トカゲはふんと胸を張って頷いた。

 トカゲの返事によしと呟いた少年が、トカゲに向かって再びライターの魔術を発動させる。現れた炎をトカゲがごくりと飲み込み、魔物の方へと再び向き直った。だがそのとき、

「魔術道具とは盲点でした。ですがそれではこの空間の意味がない。申し訳ないですが、これはこちらでお預かり致しますね、エインストラ」

 少年の耳元で、舐るような声が鼓膜を震わせた。同時に、持っていたライターを強い力で奪われる。ぞわぞわと背筋を這い上がる悪寒がした少年が反射的に後ろを振り返れば、ライターを片手ににこりと微笑むデイガーが間近にいた。

 瞬間、トカゲの炎がデイガーに向かって放たれる。だが、少年の身を焼かないようにと威力を抑えたのだろうそれでは、デイガーにまでは届かなかった。トカゲの吐き出した炎は、デイガーが生んだ空間の歪に呆気なく呑みこまれてしまったのだ。

「はっ、炎獄蜥蜴バルグジートの名が泣きますね」

 小馬鹿にしたような顔をでトカゲを見下ろしたデイガーが、次いで少年に視線を戻してわざとらしく首を傾げる。

「いやしかし、そのトカゲは案の定厄介ですねぇ。これはもう、遊んでいないでエインストラを連れて行ってしまうべきでしょうか」

 そう言ったデイガーの手が、少年に向かって伸ばされた。ひっと小さな悲鳴を引き攣らせた少年が、縋るように後ろを振り返る。だが、アグルムは尚も魔物と交戦中だ。二体の巨大な魔物の猛攻をいなすことで精一杯な彼に、少年を助ける余裕があるとは思えなかった。

 残る護衛であるトカゲがすぐさま少年の元へと駆け寄ったが、その小さな身体をデイガーの爪先が蹴り上げた。抵抗することもできずに軽々と吹っ飛んだトカゲに、少年が再び悲鳴を上げる。

「ティアくん!」

「さあ、行きましょう、エインストラ」

 デイガーの手が伸びてくる。それを捉えた少年の目が、大きく見開かれた。

 この手に捕まってしまったら終わりだ。きっと誰の手も届かない場所に連れて行かれてしまう。もしかしたら、血を搾り取られて死んでしまうかもしれない。

 それは駄目だと、少年の奥底の何かが叫ぶ。

 死んでは駄目だ。死ぬわけにはいかない。終わる訳にはいかない。生きなければならないのだ。いや、生かさなければならないのだ。それこそが、自分が生まれた理由なのだから――!



 潤みに満ちた少年の瞳が急速に乾き、瞳孔が細く絞られる。そして唐突に、少年の纏う空気が一変した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る