目覚め 1
慌ただしい足音と飛び交う人々の声に、天ヶ谷鏡哉はゆるりと目覚めた。何度か瞬きをしてから漂う緊張感を肌で感じた少年が、微睡から覚醒していく。
(……何か、あったのかな……?)
身体を起こしてから近くに置いてあった眼帯を身に着け、寝間着の上に上着を羽織ったところで、いつの間にか傍に来ていたらしいトカゲがするすると肩に上ってきた。
「なんだか騒がしいけど、どうしたんだろうね……」
念のためにとストールを巻いて首元を隠しつつ、少年はトカゲに向かってそう呟いた。そのとき、突然ノックもなしに部屋の扉が開け放たれた。そしてそこから、固い表情をしたアグルムが跳び込んでくる。
「っ、アグルムさん……!?」
「先程、リィンスタット王国全土における帝国の襲撃が確認された。これより俺はお前の護衛に専念する。判ったなら、事態が収束するまでは俺の指示にだけ従え。良いな」
アグルムの言葉に、少年が身を固くして頷く。アグルムの言葉にはやや引っ掛かりを感じさせるものがあったが、それに言及させて貰えるような空気ではなかった。
「悪いがお前の着替えを待っている余裕はない。今すぐ王宮から離脱するぞ」
そう言って腕を掴まれ、少年は困惑した。
「え、あ、あの、離脱って、なんで、」
国土全体に兵を派遣しているため、王宮の守護が手薄になっていることは知っている。だが、それでもここから離れるよりは安全な筈だ。そう思った少年だったが、苛立ったような表情を浮かべたアグルムに睨まれ、口をつぐんで身を竦ませた。
押し黙った少年の腕を強く引いたアグルムが、そのまま部屋の外へ出て廊下を駆け出す。半ば引き摺られるような形で連れられた少年も、なんとか遅れないようにと足を動かした。途中で何人もの兵とすれ違ったが、皆アグルムや少年のことなど目にもくれない。かろうじて聞こえた会話の端々から察するに、この王宮内にも帝国からの侵入者が出たようだった。
ならばなおさら単独行動はまずいのではないかと思った少年が再びアグルムを見たが、やはり彼は何も言わない。だが、そんな彼の態度に腹を立てたらしいトカゲが、少年の肩からするりと移動し、アグルムの腕をぺちぺちと叩いた。
「ティ、ティアくん、」
慌てて止めようとした少年だったが、その前にアグルムがトカゲを一瞥し、眉間に皺を寄せる。そして、走る速度を緩めないまま、彼はぽつりと呟いた。
「陛下が今使っている魔法は、恐らく王宮だけ範囲外に設定されている」
「え、ええと……、」
さっぱり飲み込めない話に、少年は困ったようにトカゲを見た。だが、トカゲも理解できていないようだ。
「陛下は今、帝国兵を排除する為に国土全域を対象とした大魔法を使っている。だが、あれは魔力消費が著しい魔法だ。だから、十中八九あの人は適用範囲外の場所を設定している。その条件は、十分な戦力がある場所。王宮は間違いなくその対象で、もしかすると王都全域すらも陛下の魔法の範囲外かもしれない」
「な、なるほど……。で、でも、王宮に十分な戦力があるなら、移動しなくたって、」
「駄目だ」
言いかけた少年の言葉を、アグルムが遮った。
「俺の役目はお前を守ることだ。ならばより確実性の高い選択をしなければならない。お前が国王をどういうものだと考えているのかは知らないが、国王は間違いなくその国で最も長けた存在だ。ならば、俺にはお前を陛下の庇護が及ぶ場所にまで運ぶ義務がある。……それに、この様子ではどのみちお前の守護に回せる兵はいないだろう。そんな余裕があるなら、少しでも兵を王宮外に派遣している」
だから王宮はお前を守護する上で最適な場所とは言えない、と続いた言葉に、少年は内心で感心してしまった。アグルムは、王の命を確実に守るためにここまで思考していたのだ。
(どっちにしても僕を守れるのはアグルムさんしかいないから、それならまだクラリオ王陛下の助力が期待できそうな方を選んだ方がマシ、ってことだ……)
つまり、それだけ危機的な状況であるということである。
少年が遅ればせながら状況を把握したとき、その腰にアグルムの腕が回された。思わず悲鳴を上げた彼をちらりと見てから、アグルムがそのまま少年を抱え上げる。そして彼は、廊下から続くバルコニーに出て、そのまま外へと身を躍らせた。
その行動に驚いたのは少年である。なにせここは王宮の中でもそこそこの上階だ。そんな高さから地面に跳び下りるなど、それこそ赤の国で王獣の背から飛び降りたとき以来である。
(ひ、ひぇっ……!)
そういえばあのときも、赤の王に抱えられて無理矢理こういうことになったのだったか。
そんなことを思い出しながらきつく目を閉じた少年は、しかしアグルムが風霊の名を呼ぶと同時に落下の速度が弱まったのを感じ、恐る恐る目を開けた。
(そ、そういえば、この人も風霊魔法を使えるんだったっけ……)
だが、だからと言っていきなりこういうことをされては心臓に悪い。もしかしてトカゲも同じことを思ったのではないだろうかと考えた少年は、自分の腕にしがみついているトカゲに視線を落としたが、トカゲはなんだか楽しそうに尻尾をぱたぱたと振っていた。
(…………そっか……、ティアくん、飛べないもんね……)
多分、空を飛んでいるような心地になる落下が楽しいのだろう。少年には全く理解できないが。
そんなことを考えている間に地面に着地したアグルムが、さっと少年を下ろして再び走り出す。腕を掴まれているので大人しくそれについて行くことしかできない少年は、アグルムの向かっている先にある建物を見て、内心でああと呟いた。
すぐ目の前に迫っているあれは、騎獣舎だ。あそこで騎獣に乗って王都の外を目指すつもりなのだろう。確かにあの騎獣舎に行くならば、城内を突っ切ってあのバルコニーで跳び下りるのが最短ルートだ。それならそれで言って欲しかったものだが、アグルムはあまり口数が多い方ではないから仕方がないのかもしれない。
ようやくたどり着いた騎獣舎の扉に、アグルムが手を掛ける。だが、その扉をアグルムが開けた瞬間、何か凄い力に引きこまれるように、アグルムと少年の身体が騎獣舎の中へと引っ張られた。
抵抗することもできないまま、二人の身体が騎獣舎の中に転がり込む。咄嗟に少年を抱き寄せて受け身を取ったアグルムは、身体に触れた床の感触が慣れ親しんだ騎獣舎のものではないことに気づき、すぐさま身を起こした。
(ここはどこだ……!?)
少年を腕に収めたまま周囲を見回したアグルムの目に入ったのは、不気味に曲がって枝分かれした木々たちに囲まれた空間だった。土の地面に、木々の隙間から覗く暗い空。少なくとも、リアンジュナイル大陸にこんな場所は存在しない。
トカゲを見やれば、彼は警戒するように周囲に視線を巡らせていた。やはり、安全とは言い難い場所のようである。
一方の少年も突然の出来事に混乱を隠せないようで、やや怯えた目をしてアグルムを見てきた。
「あ、あの、ここ、は……?」
「判らない。少なくとも俺が目指していた騎獣舎の中ではないな。……自然に考えるならば、どこか別の空間に飛ばされたと判断するのが妥当だ」
アグルムが腰の曲刀を引き抜きつつそう呟いたとき、ぱちぱちと乾いた拍手が周囲の空気を震わせた。
「ご明察です」
その声に、少年は聞き覚えがある。やや粘着質で、少年の肌に纏わりついてくるような、嫌な声だ。
小さく身体を震わせた少年の背を、アグルムが一度だけ叩いた。そしてアグルムは、少年を背に庇うようにして声の方へと身体を向けた。
「……帝国の空間魔導師、デイガー・エインツ・リーヒェンだな」
「おやおや、栄えある円卓の国家の方に名を覚えられているとは、私も随分と有名になったものですね」
アグルムの声に木々の隙間から姿を現したのは、まさしくあのとき赤の国で出会った魔導師だった。そしてその背後には、いつの間に現れたのか、あの大きな黒い竜のような魔物がいる。
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