頂きに立つもの 1
未曽有の事態に緊張が高まる黄の国では、未だ予断を許さぬ状況が続いていた。
赤の国を襲った魔物の数と比較して黄の国でのそれは圧倒的に多く、国内の兵力のみで対応するのには限界があったのだ。クラリオが全土に魔法を展開させることでなんとか凌いではいるが、事態の収束にはまだまだ時間が掛かるだろう。
想定よりも速い勢いで削れていく己の魔力に、黄の王は大きく顔を歪めた。
緊急に対応が必要な魔物については、王と王獣の力で大方排除できたと見て良い。少なくとも、最初に比べれば遥かに状況は好転したはずだ。だが、だからといって王の助けなしで切り抜けられるかというと、現時点ではその確証は持てない。だから、いくら疲労しようとも魔法を切り上げる訳にはいかなかった。
脳を揺らす酷い頭痛は止まらず、いよいよ王の視界は霞み始めていたが、気絶しそうになる度に手にした剣を傷口に突き立て、なんとか意識を保つ。出血こそ激しくないが、何度も繰り返された行為は肉を抉り、脚の傷は見るに堪えないほど無惨なものになっていた。
収まることのない吐き気は胃の中が空になってもなおクラリオを苛み、彼は何度目になるか判らない胃液を吐き出した。吐しゃ物に汚れて地面に這いつくばるその姿は、王と呼ぶにはあまりに憐れであった。
己の情けない姿を思ったクラリオが、うっすらと口の端を吊り上げる。
(……人払い、しといて、良かったな…………)
王は国の象徴だ。故に、いついかなるときも泰然自若としなければならない。こんな姿を、国民に見せる訳にはいかなかった。
(でも、ちょっとだけ、慣れて来た……)
魔法の扱いにではない。痛みや不快感にだ。
無茶な魔法を行使したことによる副作用を緩和することはできないが、副作用の症状をなんとか耐えることはできるようになってきている。
胸中でそう呟いたそのとき、クラリオは不意に見知った気配が部屋に近づいてくるのを感じた。ピクリと指を震わせた王が、歯を食いしばって身を起こす。なんとか上体を起こした彼はのろのろと体勢を整え、積み重なったクッションに背を投げだすようにして座った。口元にこびりついた吐しゃ物を袖口で拭ってから、焦点の合わない目を、それでも扉の方へと向ける。
今のクラリオは国内全土の情報を処理するのに手一杯で、目で見える視覚的な情報はほとんど認識していなかったが、王の顔がそこに向いているということが重要なのだ。
クラリオが最低限の体裁を整え終えるのと同時に、それを待っていたかのように部屋の扉が押し開けられる。ノックはなかった。
そうして入ってきたその人物に、クラリオは一度だけ静かに目を伏せたあと、ゆるりと微笑みを浮かべた。
「……どしたの、アメリアちゃん」
普段と変わらない、最愛である妻の一人に向ける音で、王が言う。その声を渡された王妃アメリアは、僅か一瞬だけ息を詰まらせたあと、真っ直ぐにクラリオを見つめた。
「……ああ。怖くて、俺の傍に来たく、なっちゃった? はは、参ったなぁ。情けないとこ、見られちゃったや」
「…………クラリオ様」
アメリアが、喉に引っ掛かっている何を吐き出そうとするように王の名を呼ぶ。だがクラリオは、それが耳に届いていない風に言葉を続けた。
「こんな姿じゃ、安心できないかな? でも、大丈夫だよ。全部、俺が守るから」
「……クラリオ様」
「俺が強いの、知ってるでしょ? そりゃ、今はちょっと無理、してるけどさ。でも、絶対、守ってみせるから。国も、民も、アメリアちゃんのことも。だから、心配することなんて、何もないんだよ」
包み込むような優しい声が、アメリアの耳を撫でる。王妃の不安を溶かすようにと、思いが込められた言葉たちだ。けれどアメリアは、僅かも揺らがない瞳で王を見つめた。そしてその唇が、一際強く王の名を紡ぐ。
「クラリオ様」
その声に、クラリオの表情が一瞬、ほんの僅か、歪んだように見えた。
「もう、判っているのでしょう?」
そう言ったアメリアの細い指先が、すっと王を指す。すると彼女の足元に陣が浮かび上がり、その中から半透明の結晶のような肌をした魔物が姿を現した。
二足歩行型のその魔物は、クラリオよりも少しだけ背が高いくらいの、比較的小型な魔物だった。だが、肥大化した拳は人間の頭よりも大きく、見るからに硬質そうな皮膚は、恐らく生半可な武器では傷一つつけられないだろうことを窺わせた。
魔物を従えた王妃が、王の元へと歩を進める。だが、王は動かない。とうとう目の前に来た王妃が魔物と共に自分を見下ろしても、王は黙して王妃を見るだけで、指先のひとつすら動かす様子がなかった。
まるで、彼女の隣に控える魔物など目に入っていないかのようだ。クラリオはただ、いつもと変わらない優しい顔をして、アメリアを見ている。今にも、陽が昇ったら一緒に散歩にでも行こうか、と言い出しそうな、そんな表情だ。
アメリアが、小さく拳を握った。
「グリシュタ、この男を殺しなさい」
アメリアがそう言うのと同時に、魔物が両の拳を振り上げる。そのまま王目掛けて無慈悲に打ち下ろされた拳は、しかし王の頭に直撃することなく空を切った。
はっとしたアメリアが慌てて後ろを振り返れば、少し離れた場所に王が立っている。恐らく、雷魔法を応用して瞬時に躱したのだろう。しかし、彼が大魔法を解除した様子は見られない。それはつまり、大魔法を維持したまま別の魔法を発動させたということになる。既に満身創痍かと思われた王だったが、どうやらまだ余力を残していたようだ。
王は一度だけ自分の座っていた場所に目をやってから、アメリアへと顔を向けた。相変わらず焦点の定まらない、どこを見ているのか判らない目だ。けれど、王は確かにアメリアを見つめていた。
瞬間的な見つめ合いは、しかし魔物の追撃によってすぐに終わりを告げる。アメリアの横をすり抜け、重そうな身体からは想像し難い俊敏さで王との間合いを詰めた魔物は、再びその拳を王へと振り下ろした。ふらつく脚でそれを躱した王が、簡易な雷を喚んで魔物へとぶつけたが、それは魔物の皮膚へと到達した瞬間に弾かれてしまった。どうやら、この魔物には雷に対する耐性があるらしい。それを証拠に、魔物は王の雷を意にも介さない様子で、再び拳を振るってきた。
黄の王であるクラリオと対峙することを考えれば、この場にこの魔物を寄越したのは賢い判断だ。だがそれでも、普段の王ならば手こずることなどない相手である。いかに雷への耐性があろうとも、黄の王が高位の魔法を繰り出せば、それに耐えられる生き物はそういない。
だが、大魔法を維持しながらとなると話が違った。今の状態の王では、魔法を使えば使った分だけ、現在展開している大魔法の精度が低下してしまうだろう。それは、国民を危険に晒すことに繋がる。だから王は、魔法ではなく生身の肉体で対処することを選択した。吐き気がする頭の痛みも、自ら傷つけた脚も、何もかもがクラリオの身体を苛んでいたが、そんなことは関係ないのだ。
王の右手が、腰にあったもうひとつの曲刀を握る。その動きに躊躇いはなかった。
敵の猛攻を紙一重で避けて数歩の距離を取った王は、一度強く剣の柄を握り締めたあと、向かってきた魔物に向かいその切っ先を閃かせた。左下から斜めに振り上げられた刃が、魔物の腹から肩にかけてを一刀両断する。
恐らくは、魔物の切断面から覗く核のようなものが心臓に当たる部分だったのだろう。その核ごと斬撃を受けた魔物は、悲鳴を上げる暇すら与えられずに呆気なく砕け散っていった。
剣のひと振りのみで見事に魔物を仕留めてみせた王だったが、別に驚くことなど何もない。
円卓の王たちが持つ武器は、全て赤の国にて作られた最高級の逸品だ。その他大勢が持つそれらとは比べ物にならないほど優れたその刃に、斬れぬものはほとんど存在しない。それは、誰もが知っていることだった。
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