王の不在 6

「汝が子らの声を聴き 祈りの唄に答えるならば」

 レクシリアの声が辺りに朗々と響く。だがそのとき、海の魔物が動いた。

 先ほどよりも大きく身を反らせた魔物が、大きく息を吸い込む。そして次の瞬間、魔物は開いた口から轟音と共に水を吐き出した。だが、今回は先程のような水塊ではない。途絶えることのない水流だ。

 勢いよく噴射された水が、他の魔物や騎士団たちごと大地を打ち砕かんと襲いかかる。緊急を察した騎士たちが咄嗟に離脱を図ろうとしたが、僅かに遅い。だが、敵味方問わず薙ぎ払おうとする水の猛威を、マルクーディオの地霊魔法が再び防いだ。

 水を弾き返した大地の盾を見て、海の魔物が苛立ったように咆える。その怒りのまま、魔物は大地に向かって次々に水を吐き出した。四方八方に連続的に襲い来る水流に、マルクーディオが必死に食らいつく。だが、ひとつひとつの威力が重く、彼女の地霊魔法でいなし続けるのには限界があった。それを証拠に、回数を重ねるごとに盾の硬度が低下し、水流を受ける度にひびが入るようになってきている。それでもなんとか保たせようと魔力を注ぐが、その分消耗も激しく、マルクーディオは顔を歪めた。

 だが、ここで彼女が負ける訳にはいかない。レクシリアとグレイが魔法を完成させるまでの間、なんとしてでも彼女が二人を守らねばならない。

 歯を食いしばって何度目かの防護壁を展開するマルクーディオに対し、膠着状態に痺れを切らしたのか、巨大な魔物が一際大きく咆哮する。そして魔物は、海中に埋もれていた尾びれを高く跳ね上げた。次は何をする気だと構えるマルクーディオの視線の先で、魔物の背後の海が大きくせり上がる。まるで尾の動きに連動するかのように高度を増した水は、次の瞬間、前方へと打ち下ろされた尾にしたがうように、巨大な波となって大地に迫って来た。

 その光景を見たマルクーディオが、小さく悲鳴を上げる。

(あんな波が来たら、この一帯は呑み込まれてしまうわ……!)

 だが、マルクーディオではもうどうすることもできない。既に大半の魔力を使ってしまったし、喩え万全であったとしてもあの波は防げない。大きな街ひとつを容易に呑み込んでしまえそうなほどに巨大な波など、赤の王の極限魔法を以てしても打ち砕けないだろう。

 迫りくる大波に、マルクーディオが青褪める。だがそのとき、彼女はレクシリアが最後の詠唱を唱えるのを耳にした。魔法の完成を悟った彼女が、希望の宿った目をして兄を振り返る。妹の視線を受けたレクシリアは、巨大な波を背に佇む脅威を睨み据え、高らかに魔法の名を叫んだ。

「――――“森羅万象打ち砕く大地テニタ・アルス・エアルス”!」

 瞬間、鋭く変形した大地が無数の巨大な槍となって海中から突き上がった。広範囲に渡って展開したその槍は、巨大な魔物は勿論のこと、海に潜んでいた他の魔物たちまでをも跳ね上げ、貫いていく。そして驚くべきことに、大地の槍は流体である波をも穿ち、まるで水を蒸発させるかのように掻き消していった。

 これぞまさに、歴代の橙の王しか使えないとされる、大地の極限魔法の威力である。

 まともに魔法を食らった巨大な魔物が、耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げてのたうち回る。海を荒らして暴れる魔物は、しかし尚も止むことなく突き上がった槍に身体中を貫かれ、ついには動かなくなった。いかに概念の神に近い存在といえど、対水属性の魔法としては二番目の威力を誇るこの大魔法を前にしては、太刀打ちできなかったようだ。

 魔物の絶命を確認したレクシリアが、僅かに息を吐く。恐らく現状における一番の脅威は、これで排除できただろう。

(……グレンでも太刀打ちできない相手だった)

 大魔法を発動し終えて息をついたレクシリアが、胸中で零す。

 首都の守護に残してきた王獣のグレンは、飽くまでも炎の王獣だ。相手が概念の神に匹敵する敵な上に苦手な水属性となれば、グレンの炎では敵わない。

 (ロストがいたとしても、神性魔法を使わざるを得なかった筈だ)

 恐らく炎の極限魔法では、もろとも水に呑まれていた。つまりはそれだけ手強い相手だったということである。あれが今回の襲撃の本命と見てまず間違いない。どうやら今回の帝国は、本気でこの国を潰しに来たようだった。四属性に高い適性を持つレクシリアがいなければ。グレイが増幅魔術を開発していなければ。グランデル王国は大きな損害を負っていたことだろう。

 だがその脅威を倒した以上、ひとまずは安心して良い筈だ。帝国が急速に力をつけたとは言え、概念の神に届き得る存在を何体も使役しているとは考え難い。

 海中に潜んでいた魔物も、先程の大魔法でほとんどを無力化することができた。あとは、残った魔物を倒すだけである。

 もう一度息を吐き出したレクシリアは、残る魔物の討伐に向かおうと一歩を踏み出した。だがそこで、彼の身体がぐらりと傾く。

「リーアさん!」

 叫んだグレイが、地面に倒れ込みそうになった身体を慌てて支える。そんな二人に、マルクーディオも駆け寄った。

「リーアさん! 大丈夫ですか!?」

 珍しく焦ったような声で名を呼ぶグレイに、レクシリアが疲労の色濃い顔で笑う。

「ああ……ちょっと、フラついた、だけだ……」

「ちょっとじゃないでしょう! 自分で立つこともできないじゃないですか!」

 そう言うグレイも全身に汗をかいており、疲労困憊といった様子だ。二人の力を合わせ、実力以上の力を無理矢理引き出したのだから無理もない。

「……前回よりも威力出そうと思って、魔力注ぎすぎたかも、しれねぇ……」

「知っていますよ! ものすごい勢いで鉱石の魔力が消えていくから、足りないかと思って気が気じゃありませんでしたから!」

 どこか怒ったようにそう言ったグレイに、レクシリアが苦笑する。そんな彼を見てなおも言い募ろうとグレイだったが、レクシリアに頭を撫でられ、押し黙った。

「私、グレイの魔術に関してはあまり詳しくないのだけれど、そんなに無茶なことをしたの……?」

 そう訊いてきたマルクーディオに、グレイがこくりと頷く。

「出血多量で死にかけている相手に、輸血をしながら無理矢理全力疾走させているようなものだ、と言えば想像がつきますか?」

 グレイの言葉に、マルクーディオが一層心配そうな表情を浮かべてレクシリアを見た。だが、そんな彼女にレクシリアが笑う。

「大丈夫だ。前に金の国でロストの極限魔法を抑え込んだときも、こんな感じだったからな」

 兄の言葉に、マルクーディオはそれでも不安そうな顔をしていたが、小さく頷いて返した。だが、そんなレクシリアをグレイがじとりと睨む。

「嘘をおっしゃい。前回はここまで酷くありませんでしたよ。鉱石の消耗具合から見るに、前回の二割増しくらいの魔力をつぎ込みましたね? オレ、前に言った筈ですよ。アナタが極限魔法を使うこと自体が無茶なんですから、注ぐのは発動に必要な最低量の魔力だけに留めておけって。そりゃあ注ぐ魔力を増やせば多少威力は増すんでしょうけど、消耗の割にその増加率は低いから割に合わないって教えてくれたのはアナタでしょう」

「お兄様! そんなに無茶をしたんですか!?」

 声を荒げた妹に叱られ、レクシリアは恨めしそうにグレイを見たが、グレイは素知らぬ顔をしている。自業自得だと言いたいのだろう。

「もう! そうとなったらお兄様とグレイは休んでいてください! 後は私と団員さんたちで引き受けます!」

「いや、引き受けるったってお前、」

「お黙りなさい!」

 ぴしゃりと言ったマルクーディオが、兄を睨む。

「そんなフラフラな状態で戦場に来られても迷惑です! グレイも大人しくしていなさいね。貴方も神経を使って疲れているでしょうから」

 そう言って、マルクーディオは自分の騎獣の元へと行き、鞍にしまっていたらしい細身の剣を手にした。それを見たレクシリアが、目を剥いて叫ぶ。

「ちょっと待てお前! マジで魔物斬りに行く気か!」

「斬らずにどうやって倒すと言うんですか! 私だって大分魔力を使ってしまったんです! 魔法だけではジリ貧になってしまいますわ!」

「ちょっと落ち着いてくださいマルクーディオ様。いくらアナタでも、まさかドレスのまま戦うなんて馬鹿なこと、」

「服を脱げって言うの? 私、これでも三児の母なのよ? そんなはしたないことはできないわ!」

 グレイの言葉を遮ってそう言ったマルクーディオが、騎獣に跳び乗る

「待てマリー! さすがにお前の旦那に顔向けできねぇからやめろ!」

 悲鳴のような声で叫んだ兄に対し、しかし妹は、しとやかに微笑んで返した。

「それでは、行って参ります!」

 そのまま二人の制止を無視して戦場へと向かってしまった彼女の背を見ながら、グレイがぽつりと呟く。

「……妹君、今おいくつでしたっけ?」

「……二十四になったんじゃなかったか」

「…………何年経っても、淑女になりきれない方ですねぇ……」

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