王の不在 5

 その場にいた誰もが唖然とする中、唯一鋭い声を上げたのは、レクシリアだった。

「あれはやばい! グレイ!」

「っ、はい!」

 レクシリアの声で我に返ったグレイが、先程設置した魔術具を、ほとんど反射的に発動させる。するとレクシリアの足元に、膨大な量の魔術式で構成された緻密な陣のようなものが展開された。そして、その上に置かれていた鉱石たちが一斉に輝きを放ち始める。

「お兄様! 海から別の魔物たちまで!」

 妹の声に海岸の方へと目をやれば、海の中から陸へと上がってきている魔物たちの姿が見えた。

「奴ら、あのでかい魔物に乗って海中を進んで来たんだ!」

 レクシリアの読み通り、やはり帝国の本命はこの部隊だ。恐らく海中にはまだ多くの魔物がおり、次々と上陸してくることだろう。加えて、あの巨大な魔物。あの魔物を目にしたときの感覚を、レクシリアは知っていた。これは、初めて王獣を目にしたときのそれに酷く似ている。こちらに畏怖を与えるような荘厳さは、いっそ神々しくすらあり、相手が尋常ならざる力の持ち主であることが窺えた。

(あれは十中八九、概念の神! 帝国の連中、厄介なもん喚び出しやがって!)

 恐らくは、異世界にて海を統べるものとして祀られる神か少なくともそれに連なる何かを、魔導召喚にて使役したのだろう。ならば、最早一刻の猶予もない。

「グレイ!」

「待ってください! あと少し……!」

 展開した魔術式に更に式を書き加えているグレイが叫ぶ。その間もグレイの手はよどみなく動いているが、式の完成にはまだ時間が必要なようだ。

 舌打ちをしたレクシリアが、背にあった弓を構えて矢をつがえる。それを見たマルクーディオが、すかさず風霊と火霊の名を呼んだ。

「お兄様の矢に宿って、制御と威力の増大を!」

 直後、レクシリアが矢を放つ。マルクーディオの魔法を受けた矢は空を裂き、上陸した魔物たちの元へと到達して爆発した。そのまま二射三射と矢を放って確実に魔物たちを狩っていくレクシリアだったが、やはりこの程度の攻撃では限界がある。じわじわとこちらへ向かってくる魔物の群れに、レクシリアは再び舌打ちをした。だが、そんな彼に向かってマルクーディオが叫ぶ。

「そのための騎士団ですわ! 不足分は彼らと私が補います! お兄様はご自分の役目に集中なさって!」

「ああ、判ってる!」

 マルクーディオの言う通り、レクシリアの矢が届かなかった魔物たちには、騎士団の各小隊が的確に対応を始めている。人数こそ少ないが、彼らとて軍事力に名高い赤の国の騎士団員だ。たとえ数で負けていても、そう簡単に魔物を防衛ラインに踏み込ませたりはしない。

 しかしそれでも、レクシリアは矢を射るのをやめなかった。敵の数を減らせば減らしただけ騎士団にかかる負担は軽くなり、防衛の成功率も上がるからである。

 だがそのとき、蛇のような魔物がその巨躯を大きく逸らせた。そしてそのまま、魔物ががぱりと口を開く。大きく開いた口先に水が集中したかと思うと、それは見る見るうちに巨大な球を象り、次の瞬間、凄まじい速度で前方へと放たれた。その軌道が描く先には、レクシリアたちが立つ小丘がある。

 守るべき宰相の元へと向かった水塊に、下で魔物を抑えていた騎士たちが目を瞠った。これほどの攻撃ならば、小さな丘程度簡単に抉り取ってしまいそうである。そんなものが直撃したら、レクシリアたちも無事では済まないだろう。だが、離れた場所にいる騎士たちではどうすることもできない。

 そんな中、レクシリアとグレイを守るように立ちはだかったのは、マルクーディオだった。レースのあしらわれたスカートを翻し、両手を前に突き出した彼女が、迫りくる水球を見据えて叫ぶ。

「“堅牢たる大地の守護壁ジウェ・ディーレン”!」

 響いたマルクーディオの声と魔力を受け、大地の一部が大きく盛り上がった。魔物が放った水塊に負けずとも劣らない高さにまで伸びたそれは、そのままぱきぱきと音を立てて硬質化する。地霊魔法による、防護壁である。

 行く手を阻むその壁に、巨大な水球が凄まじい勢いと質量を以てぶつかってくる。だが、マルクーディオの造り出した大地の盾は、僅かも崩れなかった。

 大地と水による数瞬のせめぎ合いののち、水塊が四方に弾け散る。地霊の盾に負けた水が、無力化されたのだ。

 その事実に何を思ったのか、海の魔物が大きく咆哮して、長い尾を水面に叩きつける。

 びりびりと空気を震わす叫びに、マルクーディオが表情を険しくした。先程の攻撃は防げたが、あれ以上の威力のものを出されたら、マルクーディオの地霊魔法では凌ぎきれないかもしれない。

 同じことを考えたのだろうレクシリアも、ほんの僅かだが案じるような視線を妹に向ける。だがそのとき、グレイが叫んだ。

「リーアさん! 準備完了です!」

「でかした!」

 グレイの声を受け、レクシリアがすぐさま弓を手放して海に向き直る。そして巨大な魔物に向かって片手を突き出した彼は、集中するように目を閉じて深く息を吐き出してから、ゆっくりと口を開いた。

「――――とうより深き石巌せきがんの覇者よ 全てを穿つ破壊の御手よ」

 レクシリアの身体中からぶわりと魔力が膨れ上がり、迸る。そしてそれに呼応するように、足元の魔術式に置かれた鉱石たちが輝きを増し、そこから光の筋のようなものが流れ出た。細く揺蕩う光が、緩やかにレクシリアの掌に集まり、吸い込まれていく。

 未明の空の下で揺れる無数の光は、まるで神秘的な儀式のような光景だった。間近でそれを目にしたマルクーディオが、小さく息を飲む。彼女が見た先は魔法詠唱を行うレクシリアではなく、その足元で式を描き続けているグレイだった。

(話には聞いていたけれど、ここまで繊細な魔術だったなんて……)

 レクシリアが発動させようとしているのは、彼には分不相応すぎる強大な魔法だ。レクシリアの魔力では、詠唱途中で魔力切れを起こして死にかねないほどのものである。だがそれを、グレイの魔術が無理矢理可能にしている。

 鉱石から細く流れ込む光は、長い月日を掛けて少しずつ鉱石に貯蔵されたレクシリアの魔力だ。それを抽出してレクシリアに直接流し込むことで不足している魔力を補い、通常では絶対に扱えない魔法の発動を実現している。

 これこそが、グレイを冠位錬金魔術師の座につかせた魔術である。レクシリアの支えになりたい一心で、血の滲むような努力の末に生み出した、魔法師専用の魔力増幅魔術。使用することで対象の魔法適性を超えた魔法を使えるようにする、正真正銘グレイオリジナルの魔術だ。

 だが、想像を絶する繊細さと緻密さを求められるこの魔術は、未だ完成形とは言い難いとグレイは思っている。現にグレイは今、引き出している現象の負荷で今にも崩壊しそうな式を繋ぎ止めるのに必死だった。壊れそうな式を見つければ、すぐさま代替式を用意して書き換え、レクシリアに渡す魔力量に僅かでもブレが生じれば、魔力量を調整している箇所の式を改変する。この作業を、レクシリアが魔法を発動し終わるまで繰り返し続けなければならないのだ。とてもではないが、実戦に使える代物ではない。

 何より、グレイが送り込む魔力の量を僅かでも間違えれば、レクシリアは死んでしまうのだ。少なすぎれば魔力が枯渇し、多すぎれば器が耐えられなくなって身体が弾けるだろう。だからグレイは、レクシリアの消耗具合を見ながら、常に適切な魔力量を見定めなければならなかった。

(落ち着け! 落ち着いて全部見ろ! リーアさんも! 式も! 全部!)

 汗の滲む指先を滑らせ、グレイは式の補修と調整をし続ける。魔術を行使する彼の必死さは明白で、誰の目から見ても危うさを感じさせるほどだったが、しかしレクシリアだけは、薙いだ水面のような気持ちで詠唱を続けていた。

 魔法を発動する側の心の揺れは、消耗する魔力量に多少なりともブレを生じさせる。そうなるとこの魔術の成功率は絶望的なまでに下がるだろう。だが、この二人は絶対にそうはならない。レクシリアが己の魔法に集中しているというのもあるが、それよりも何よりも、彼は心からグレイを信頼しているのだ。

 レクシリアは、己の命を預けることになる魔術に対し、一切の不安を抱いていなかった。そしてそれをグレイも知っているからこそ、彼は必ず完遂してみせるのだ。

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