まだ知らぬ想い 1
結局、あれから日が暮れるまで色々な商店を覗いて歩いてしまった少年は、王宮へ帰ってから一服する間もなく夕食を食べることになった。といっても、少年のことを配慮してか、基本的には部屋で一人で食べることになっているので、気は楽である。
隣の部屋にはアグルムがいるし、膝の上ではトカゲがころころと転がっているから、厳密には一人ではないような気もするが、気が休まるという意味では有難いことだった。
少年が食事を終えてひと休みしていると、不意に部屋の扉を叩く音がした。
「はい」
返事をして扉を開ければ、そこに居たのは、長い黒髪を軽く結い、清楚な服を身に纏った女性だった。特に美人という訳でもないありふれた顔立ちの女性だが、彼女が二十三人いる王妃のうちの一人であることを、少年は憶えていた。ほとんどの王妃の顔や名前は忘れてしまっていたが、目の前の彼女は出自がとても特殊だったため、強く記憶に残っていたのだ。
黄の王が四番目に迎えた妃であるという彼女の名は、アメリア・ヒルデ・リィンセン。ロイツェンシュテッド帝国出身の、異例の王妃だ。
長い黒髪を綺麗に結い上げたアメリアが、扉から顔を出した少年を見て微笑む。
「お休みのところ、申し訳ありません。けれど、今夜はとても星が綺麗だったので、よろしければご一緒にいかがかしらと思って。勿論、お嫌でしたら断ってくださいね」
なるほど、ちょっとした星見のお誘いらしい。実はこれ以外にも、別の王妃からお茶会や散歩などの誘いを受けることはちょくちょくあった。黄の王の言いつけを律義に守っているらしい王妃たちは、こうして一人か、多くても二人だけで少年の元を尋ねるのだ。しかも、訪問があるのは一日置きである。どうやら、王妃たちは皆、少年に可能な限りの配慮をしてくれているらしかった。
そしてその配慮に気づいている少年は、基本的には誘いを受けることにしていた。ここまで気を遣って貰っているのに断るのは、とても申し訳ない気がしたのだ。
「ええと、あの、……僕なんかがご一緒させて頂いても良いのでしたら……」
控えめにそう答えた少年に、アメリアがふわりと笑う。
「そう言って頂けて嬉しいわ。それでは、暖かいコートをご用意しますね。夜のリィンスタットはとても冷えますから」
王妃の言葉に、少年のストールからトカゲがひょっこりと顔を出した。そして、小さな炎をぽっと吐き出す。
「え、ええと、ティアくん……?」
「ふふふ、そうでした。キョウヤ様には
アメリアにそう言われ、トカゲがこくりと頷く。どうやら、自分がいるから寒い思いなどさせない、という主張だったらしい。
アメリアが用意してくれたコートに袖を通してから、城の最上へ連れられた少年は、外へと繋がる扉を開けた瞬間、目の前に広がった光景に息を呑んだ。
「すごい……」
屋根がなく開けたそこには、視界いっぱいに広がる星空があったのだ。見たこともないくらい多くの星々が、夜空でちらちらと輝いている。空にたくさんの星があることは知っていたが、こんなにも多くの星を見たのは始めてだった。少年の住む金の国は、魔術道具による灯りが多いからか、強く光る星くらいしか見えないのだ。
驚いて夜空を見上げる少年に、アメリアが微笑む。
「気に入って頂けましたか?」
「え、あ、は、はい。あの、……とても、綺麗です」
「ふふふ、良かった。リィンスタットは他国と比べると乾燥した国ですから、とても綺麗に星が見えるんです。クラリオ様からキョウヤ様は綺麗なものがお好きだって伺ったので、是非この夜空を見せなくてはって」
「あ、……ありがとう、ございます」
そう礼を言えば、アメリアは一層嬉しそうに微笑んだ。
「今日は風が少ない日だったから、きっと星が綺麗に見えると思ったんです。それで、クラリオ様に少しだけ我侭を言ってしまったんですが、その甲斐がありました」
「我侭……?」
首を傾げた少年に、アメリアが悪戯っ子のような顔をして片目を閉じた。
「今の時間だけ、砂埃があまり上へ舞い上がらないようにしてください、って。空気に砂が混じってしまったら、折角の星空が台無しになってしまいますから」
「な、なるほど……」
なんともスケールが大きい我侭だな、と思った少年は、取り敢えず微笑みを返しておいた。そんな少年を連れて、アメリアが用意されていた椅子に座る。招かれるままに少年もその隣に座れば、暫しの沈黙が二人の間に訪れた。ただ黙って星空を見上げるだけの時間が過ぎていったが、しかし意外と心地は悪くない。
(あ……、王妃様、指とか、寒くないのかな……)
そう思った少年が、ちらりとアメリアの手元に目を向ける。少年の手は、その中に収まっているトカゲの体温で暖かいが、彼女にはそれがない。
そんな少年の視線に気づいたのか、アメリアが彼へと顔を向ける。そして彼女は、少しの間だけ迷うような表情を見せたあと、そっと少年を窺うように口を開いた。
「キョウヤ様は、何もお訊きにならないのですね」
「え……?」
「私の、生まれ故郷のことです」
その言葉に、少年の指先がぴくりと震えた。
「ロイツェンシュテッド帝国から来た女が王妃だなんて、と、思われませんでしたか?」
「…………いえ。……ただ、珍しいな、とは」
嘘ではない。驚きはしたが、恐らくアメリアが懸念しているのだろう嫌悪感などはなかった。
少年の答えに、何度か瞬きをしたアメリアは、再び星空へと視線を戻した。
「…………私、実は、十年ほど前まで、奴隷だったんです」
その言葉に、少年は驚いて彼女を見た。だが、空を見る横顔に表情の変化はない。
リアンジュナイル大陸には奴隷制度は存在しない。ならば、彼女の言う奴隷とは、ロイツェンシュテッド帝国における話なのだろう。
「とある下級貴族に仕える奴隷だったんですが、どうしても耐えられなくなって、逃げ出したんです」
そう言ったアメリアは、自身の腹に手を当て、そっと撫でた。
「女の奴隷、という時点でお察しかと思いますが、男性を慰めることも仕事のひとつでした。けれど、奴隷に対する避妊なんて誰もしてくれません。だからといって、産む訳にもいきませんでした。私自身、不幸になることが目に見えている子を産みたいとは思いませんでしたし、何より、周囲が堕ろすことを強要してきました。膨れた腹では醜くて抱く気が起きないそうです。そうやって、孕んでは堕ろし、孕んでは堕ろし、……そんなことを繰り返していたら、気づいたときにはもう、二度と子を望めない身体になっていました」
そう言ったアメリアが、そっと腹から手をどかして笑った。
「馬鹿ですよね。そうなって初めて、このままこんな生活を続けるなんて嫌だと思ったんです。それまでは、逃げても足掻いても無駄だと諦めていたのに」
「…………いえ」
その先の言葉は続かなかったが、少年は本心からそれを否定しようとした。だって、彼女は行動したのだ。どんなに遅くとも、自らの意思で現実を変えようと足掻いた。それは、少年にはない強さだ。
「ふふふ、ありがとうございます。でも、何も考えないで逃げ出したものだから、とても大変だったんですよ。何度も死にかけて、なんとか逃げ続けて、交易船に侵入してようやくこの国まで来たのですが、それでも追っ手は追い縋ってきて、結局私は捕まってしまいました。奴隷一人くらい、逃げ続ければ諦めてくれるだろうと思っていたんですけれど、私の主は矜持の高い方だったんでしょうね。……そんなとき、馬鹿な私を助けてくださったのが、クラリオ様だったんです」
アメリアが呼んだ王の名が、少年の知らない響きの音で紡がれた気がして、少年は何故だか不思議な気持ちになった。別に、変な訛りがあるだとか、そういうことではない。だが、何かが違う気がしたのだ。
「クラリオ様は、よそ者の私を助けてくれただけでなく、リィンスタットへの移住を認めた上で、まっとうな職まで与えてくださったんです。その後も定期的に私の元へ足を運んでくれて、色々と気に掛けて頂きました。そして私は、そんなクラリオ様に、恋をしたのです」
そう言って、アメリアが目を閉じた。そしてそこで、少年はようやく気づく。
(……ああ、この人が王様を呼ぶ時の声は、あの人が僕を呼ぶときの声に、似ているんだ)
甘いような優しいような、それでいてどうしてか悲しくなるような、不思議な音の響きは、まさにそうだ。全く違う二人の声が、どうしてこんなにも似ているのか。少年はまだ、その答えを知らない。
だが、アメリアの話を聞き、その声に触れる中で、浮かび上がった疑問があった。それは、少年がどこかでアメリアと自分を重ねてしまうところがあったからなのかもしれないし、ただの思い付きなのかもしれない。けれど、どうしてか、少年はその疑問を胸の内に留めておくことができなかった。
そうして、ぽつりと言葉が滑り落ちる。
「……寂しくは、ないんですか……?」
ほとんど無意識に零れ落ちたその言葉に、アメリアが目を開け、少年へと顔を向けた。そして、その顔に優しい微笑みが浮かぶ。
「どうして、私が寂しいと?」
その声に怒りや悲しみなどの良くない感情はない。だが、少年の言葉を疑問に思っているようでもなかった。寧ろ、少年をあやすような雰囲気さえ感じさせる音だ。
彼女の問いかけに一瞬怯んだ少年は、だがその雰囲気に背を押され、そっと言葉を続ける。
「王妃様、は、あの、……とても、リィンスタット王陛下のことを、愛していらっしゃるようでした、から、……その、」
その先を口にして良いのだろうか、と言い淀んだ少年が、アメリアの顔を窺う。だが、彼女はやはり、優しく微笑んでいるだけだった。
その顔が、あまりにも優しかったからだろうか。少年の唇から、続く言葉が自然と落ちる。
「……自分だけじゃないの、って、……寂しい、かな、って……」
そうだ。深く愛した人にとって、自分が唯一ではないということは、とても寂しいことなのではないかと、そう思ったのだ。
だがその問いに、アメリアは静かに首を横に振った。
「キョウヤ様の仰ることは判ります。けれど、私は寂しいとは思わないんです。だって、クラリオ様にとって私は、確かに唯一であり、一番なんですから」
「……王妃様が、他の王妃様よりも愛されている、ということですか……?」
当然の答えに、しかしアメリアはまたもやそれを否定する。
「ふふふ、ちょっと理解しにくい話でしょうけれど、私も他の王妃様も、皆、あの方にとっての唯一であり、一番なんですよ。だから、私たちが誰かを羨むことはないんです」
そう言ってアメリアは笑ったが、少年には理解できない。それを承知しているのか、アメリアは再び口を開いた。
「クラリオ様は、私たちを等しく、一番に、心の底から愛してくださっています。私たちはそれで満足なのです。そしてクラリオ様は、全ての王妃が等しく一番であるという状況では幸せになれない人を、自分の妻にはなさいません」
全ての王妃を平等に最愛とする、など。そんなことが可能なのか、と思った少年だったが、アメリアがそれを疑っている様子はない。本当に、全ての王妃を心の底から一番に愛しているのだと。彼女の表情が、そう語っている。
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