第16話

猫の面の仲居に導かれ、美麗な男は東側の階段を降り、廊下を優雅に進む…澄ました微笑みを浮かべ、興味深そうに内装を観察し。

「こちらでございます」

青い襖の一室の前、仲居の言葉で立ち止まる。

微かに茉莉花の香りがした。

男はふわりと仲居へ微笑み、軽く頭を下げる。

「ご丁寧にどうも。後は…時間まで、猫は私の好きにしても良いのでしたよね」

「くれぐれも、顔は傷付けぬよう」

「わかっておりますとも」

「では…お気に召すままに、ごゆっくり」

襖を開け、男が中に入るのを見送った仲居は、静かにその部屋を閉ざした。


先日見た顔の猫がそこに居る。

客の男はくすりと艶やかに笑った。

「今日は遅刻なさらなかったようで」

「先日は失礼をいたしました」

「いえいえ。まともに休む暇もなくお仕事をしているのですから…わかりますとも。は大変でしょう」

「っ……!」

猫の顔色が変わる…元々青ざめていた顔面はさらに血色を失い、ぞわりとふるえ上がり口元に手を当てる。

おや、と客は手を伸ばし、軽く猫の背を撫でる。

「お身体の具合が悪いのですか」

「す…すみません。どうか、猫様と呼ぶのだけは、お許しください…」

「何か嫌な思い出でも?」

「私が未熟なだけなのです。猫に成りきれていない私が、猫様と敬われることが、あまりにも恐ろしい…」

猫は必死に言葉を紡ぐ。己を卑下する言葉を述べることで、呼び戻される心的外傷の記憶から逃げる…虚言や誤魔化しこそしていないものの、猫の言葉にしては、醜い科白には違いない。

俯き背をふるわせる猫の様子に、客は静かに微笑む。

「お身体に異常があるのでしたら、無理はさせませぬよ。猫をどうするも、この時間以内ならば私次第。貴方を殺すも、休ませるも、私の自由なのです」

「それではいけないのだ!」

猫は客の手を振り払い吠える。

「猫は殺されるものだ。殺されなければ価値がないと…そう言われている。俺は殺されなければならない。そうしなければ、俺は、俺の願いは!」

「ああ、どうか落ち着いて。そう仰るなら、ちゃんといたしますから…ねえ、群青様」

艶やかな微笑みを浮かべ、客は戦慄する猫、群青の肩を掴んで宥める。

怯えと焦りの呪縛に支配された群青色の瞳。

客はふ、と溜息をつき、鞄の中から水筒を取り出した。

「…まあ、まずは少し、心を落ち着けましょうか」

「は…」

客は群青から離れ、茶器が並んだ座卓へ向かう…群青が痛みの時間から逃れるための小細工。急須の中には既に茉莉花茶を淹れていた。客はそれを覗く。

「…群青様はお茶が好みなのですねえ」

「…苦丁茶は苦手ですが」

「ああ、苦いですものね。でしたら、こちらはいかがでしょう」

客が湯呑みへ、水筒の中身を注ぎ、群青へ差し出した…群青はびくりと後ずさる。

青い液体だった。真っ青の、不気味な色。

思い出すのはつい先日の狂人。群青に代わって茶を淹れて…その後、どうなった。何をされた。

騙されたのだ。

「……飲みたく、ないのですが」

「ああ、この青色は自然由来のものです。蝶豆茶と言いまして。貴方の瞳の色によく似ている」

「そうではなく…俺…私は、以前、毒物を仕込まれたことがありまして」

「猫ですからねえ」

「………」

返す言葉もない。猫は殺されるものだと、たった今自分で言ったばかりで、一体何の被害報告だ。猫なのだから、毒殺くらい当たり前だろう。

だから、この中に毒物が入れられていようと、猫なのだから飲むしかない。飲み干し、のたうち回り、悶え狂って、死に果てるしかない。猫なのだから。

吐き気を生唾と共に飲み下し堪える歪んだ顔に、客は優しく微笑む。

「…疑うのも無理はありませんね。ですが毒物は仕込んでいない。これは本当です」

「いや…いや、わかった。わかりました。飲みます。いただきます」

群青は引き攣った笑みを浮かべ、その青い液体、蝶豆茶を一気に飲み干した…胃の底が恐怖と嫌悪感で受け入れるのを拒否し、舌の根を押し返して逆流を促すが、それでも飲み下し、腹に収める。

ほのかな豆の香りに混じり、檸檬に近い柑橘の風味が混じる…檸檬草の茶ならば飲んだことがある。混合茶か。

毒物のような味はしない。

深く息を吐いた群青に、客は目を細めた。


「…一応、申しておきます。群青様」

「は…」

「私は貴方を、殺すこともいたしましょう。それはこちらが色売り屋で、貴方が猫で、私が客だからです…ですから私は、望まれるならば貴方を殺します」

「…はい」

「ですが…ひとつお尋ねしても良いでしょうか」

「…はい」

客もまた、同じ水筒から蝶豆茶を湯呑みに注ぎ、口をつけながら…群青へ問いかけた。

「…貴方は先天性の猫ではない。これは先日の色買いで確かにわかりました。貴方は紛い物。元々は人間だった。ですよね?」

「…その節は、大変申し訳…」

「いえ、そうではない。私が聞きたいのは、群青様…貴方は猫になる以前、どこで何をしていた方でしたか」

……ぞくりと。

群青は目を見開いた。

腹の底がふるえたのは、毒物のせいではない。毒物など入っていない。

しかし明らかな拒否反応。

吐き気が込み上げる。呼吸が詰まる。喉元に手を当て、吐くように喘ぐ。

聞きたくない。聞かれたくない。

思い出したくない。

猫。猫に。猫になる。猫にならなければ。猫にならなければならない。猫になれば。猫になることで。猫に。猫が。猫。猫だ。猫だ。猫。猫。猫。猫。猫。猫。

いつから。

あのとき。

そのまえ。

ああ。

ああ。

「群青様」

「は───ぎ⁉︎」


千枚通しが迫る…反射的に防御した群青の手の甲を貫き、掌を貫き、首に突き刺さった。

ずぶ、ぶつ、ずぶり、ぐちゅ。

激痛が襲う。

なおも深く侵入する冷たい熱に、群青は逃れようと身を捩る…ぶつり、ぐずりと、自らで首の傷を広げてしまう。

「ぎい、がああ、ああ、がああ‼︎」

「暴れなさるな。ただいま抜いて差し上げますから」

そう言った客はすぐに千枚通しを引き抜いた。ずるりと鈍く肉に引っかかりながら抜けた先端は、首、掌、手の甲から濃い血の糸を引き、畳へ滴り落ちる。

呻く群青の手や首からは大量の血が噴き出る…猫の蘇生は間もなく始まるが、所詮千枚通しで開かれた小さな傷口でも、出血量は普段よりも多く、痛みに眩み畳へ倒れる。

客が冷めた目で見下ろす。

「先刻の蝶豆茶は、血の流れを良くするのです。程度の傷でも、出血多量になりましょう」

「…あ、が…」

「もう一度、お尋ねしてもよろしいでしょうか、群青様。貴方は猫になる以前のことを、覚えておりますでしょうか」

「い……」

いやだ、と、掠れ声で群青が拒絶すると、客はもう一度、千枚通しの切っ先を、今度は右胸に深く突き刺した。

肋骨の隙間を通り、右の肺に穴が開く。

「ごぽっ⁉︎ ごえっ…‼︎」

呼吸ができない。

血のあぶくを吐く。

ずるりと抜かれ、刺傷口から血が溢れる。

客はもう一度。

「では問いを変えましょう。群青様、貴方は、人間に戻りたいとは思いませんか。人の世に帰りたいとは、思わないのでしょうか」

「ひっ、ひゅっ、げほ…」

「お答えください」

蘇生しながら、苦痛に悶えながら、心底から怯えながら。

それでも群青は、確かな意志で。

首を横に振った。

客は無表情で群青に跨り見下ろし、千枚通しを振り上げる。

「紛い物が」

首に深々と、悪意を含んだ打撃で刃が突き刺さる…ぐぐぐ、と捻り込まれ、動脈を傷つけ、引き裂き。

ぶつ、と…奇怪な手応え。

千枚通しを引き抜けば、僅かな傷口から、脈打つように、細い血液の噴水が溢れ出た。

蘇生は追いつかない。

失血する。

群青は畳を掻き毟り、吐血しながら客を見上げる。

冷めた黒い瞳は、嘲るでもなく、哀れむでもなく、猫を見るでもなく…まるで蟻の死骸を見るかのように、まったく興味のない眼差しをしていた。


×


やがて蘇生した群青へ、客ははじめのように微笑んで見せる。ありがとう。またご指名してもよろしいでしょうか…などとにこやかに約束し、血に染まった部屋を出て行く。

猫の面の仲居に導かれ、外界に帰る前に汚れと血のにおいを落とした客は、会計時に仲居に問いかける。

「失礼…電話をお借りしたいのですが」

「喫煙所のお隣ににございます」

どうも、と丁寧に礼をした客は、教えられた通り、喫煙所の隣の小さな電話室に入り戸を閉める…素早く数字板を回転させ、壁に寄りかかりため息をつく。

間も無く相手に繋がった。

「出てくれるということは、私の家に居るんだね、根岸ねぎし君。ああ、新橋しんばしだよ」


「恐らく、君が探している男を見つけた。残念ながら猫になってしまっていたよ。心以外はね…さて、どうする?」

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