第15話
自由時間、談話室に訪れた群青へ、柳は一枚の封筒を手渡す。
「銀朱様から預かりました。貴方に文が届いたそうで」
「…苦情か」
「ご自分でお確かめください。勝手に中身を覗くような無礼はいたしませぬ」
群青は適当な席に着き、封を開ける…中には花模様が描かれた和紙の文が入っていた。柳はくすりと笑う。
「随分と洒落た物を寄越すお方だ…これで苦情でしたら、むしろ好意ではありませぬか」
「そうだな」
群青も小さく笑った。
少しでも力加減を誤れば容易く破けてしまいそうな、そんな脆い手触りの文を開く。
達筆での文字。
柳が目を細める。
「…成程。このお方、相当貴方を好んだようだ」
「……」
文面に苦情などは見当たらず…まるで空想的な詩歌のような言葉で表された内容は、群青への評価と、今日の指名の申し出。
「本日訪れる約束とは…銀朱様が急ぎでわたしに預けた理由も察せました。群青様、本日はとても楽しい夜になりますな?」
「……ぐ」
思わず群青は口元に手を当てた。
吐き気を堪えた。
楽しいと思えるのは猫だけだ…猫に成りきれていない群青にとって指名の申し出とは、散々な苦痛を与えられ、無惨な死に様を晒す運命を決められたということ。
人間のように死を恐れる自分を選ぶ客は、単純に猫を虐め殺したい嗜好の者とはまた違う…むしろ『人間を殺したい』ほど残虐なたちの者がほとんどで。
本気の抵抗と、心底からの悲鳴、そんなものは程度に無視され、一歩誤れば発狂してしまう…そんな悍ましさが、恐れが、嫌悪感が、まるで今起こっているかのように身体を包み込み、四肢がふるえ、指先で畳を引っ掻く。
「群青様…呼吸を」
「は……」
顔を覗く柳が群青の口元に袖を当てる。
気づけば群青は、殺されてもいないのに、今際のような息遣いになっていた…視界が眩み、気管に呼吸が擦れる音がする。
「…猫は自死などしませぬ。醜態です。ここは猫共用の談話室なのですから、粗相をなさらないでください」
「……すまない」
ゆっくりと、息を吐くことに専念し…群青は間も無く落ち着きを取り戻す。顔面から血の気は失せたが、胸の痞えは、猫の蘇生本能ですぐに取り除かれた。
深い溜息をついた群青に、柳は呆れた顔をする。
「溜息をつきたいのはこちらです。猫が心的外傷を負ってどうするのですか」
「……ああ」
「ろくな手解きもなく客に出されたのは同情しますが…今はもう、貴方は死に慣れているべき時期です。今後は言い訳など通用しませぬ」
「……」
「文の相手は、憎い客だったのですか」
「……いや」
紙面に名は書かれていなかった。
指名の申し出は仲居に言伝してあると書いてあった…猫に名を教えるのはその時に、と、文面でさえ気障ったらしく、きっとろくな者ではないと思った。
憎い客だと。
柳はそう言うが、『憎い』と思うのは猫の感情だ。
群青は『恐ろしい』と感じている。
以前、名を書いて群青を指名した男は、ひどく陰惨で、非道だった…いや、猫を殺しに来る者たちは皆そうなのだろうが、とりわけその男は、猫を殺す行為に悪意があった。
群青の恐怖心を察しているからこそ、はじめは猫撫で声で宥め、甘やかし…絆されたところで本性を現し、凄惨に虐待する。
まだ人間へ甘えを持っていた群青にとって、それは裏切りで、苦痛で、悲しかった。
「…そんな客なんて幾らでも居りますよ」
話せば楽になる、と宥めた柳へ、群青は素直に話してみれば…返ってきたのは小馬鹿にするような含み笑いだった。
「猫は殺されるために生きているのですから…相手が陰惨だろうと卑劣だろうと、どれほど悪逆非道だろうと、猫は受け入れるのみです。裏切られたと思うのは貴方の甘え。絆されてしまうのも全て、貴方の責任なのです、群青様」
「…責任は、わかっている」
群青は項垂れる。
「苦しむのは俺が猫に成れていないからだ。しかし…人間とは、あれほど残虐なものだっただろうか」
「はい?」
嫌なものを振り払うように小さく頭を横に振り、群青はふるえた声で呟く。
「ここに来てから、わからなくなってきた。人間とは本来どのようなものだったのか…人間は、もっと温厚で、慈悲深く…獣とは違う理性的な生き物ではなかったのか。ここに来る客たちは、どいつもこいつも狂っている。猫殺しが罪に問われぬからと、遊楽で残虐の限りを尽くすなんて、まるで」
「ふはは、あははは!」
けらけら。けらけら。
柳は思い切り吹き出し、腹を抱えて笑い転げた。滑稽な狂言を称賛するように、突飛な世迷言を嘲笑するように、にたにたと顔を歪めて馬鹿笑いする。
「群青様…だから貴方は容易く騙され、絆されるのです。生まれつきの猫であるわたしからひとつ、猫としての心構えをお教えいたしましょうか」
「何だ…」
けらけら笑う柳は、目尻の涙を指先で拭い深く息を吐き出すと…。
素早い動きで群青の胸倉を掴み顔を寄せ、猫のような釣り上がった目を見開く。
「人間を信用してはなりませぬ。人間は皆愚か者。醜い肉塊に美麗な皮を被せ、美言を吐いて着飾るだけの、本来獣ほどの知能もない虚像。わたしたちが見ている人間とやらは、皆偽物なのです」
「…柳」
「あいつらは汚い。汚れたあいつらは、常々汚らしいことしか考えておりませぬ。故に我々、猫を殺す無罪の殺傷権利を得ようと色売り屋へ通う…死肉食らいの蛆虫共なんですよ」
「…それは」
「わたしは知っているんです‼︎」
ぎらぎらと緑の瞳を光らせ、柳は吠える。
人間への嫌悪感を吐き出した彼は、らしくなくひどく呼吸を荒らげていた。
ずるりと脱力するように群青から手を離し、深く息を吸い込み顔を上げたと同時、その顔は普段通りの、皮肉な笑みを浮かべていた。
「…人間を信用して、ろくな目にあった猫は居りませぬ。どうか忘れずに…そして猫として、もっと強い精神を持つように、精々励んでくださいな、群青様」
「…柳」
「失礼。学びの間に帳面を忘れてきてしまったのです。また後ほど」
「柳」
談話室を去ろうとする柳の背へ、群青は問いかける。
「…お前、人の世で何かあったのか?」
くるりと振り返った柳は、見開いた目で、狂気を含んだ微笑みを返した。
「生まれてすぐに捨てられただけですが、それが何か?」
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