第14話
学びの時間を終えた直後…紅梅は群青の席へ移動し、教科書を開き帳面を覗く。
「…群青は帳面の取り方も綺麗だな。黄丹様が黒板に書き出す文面よりも読み解くのが簡単だ」
「…そうか」
「今日も書き写していいか?」
「ああ」
学びの時間の後の、紅梅の日課だった。
群青の横に座り、筆を滑らさせ文字を書き写す…しかし画数の多い漢字は使わない。
「…これは何と読むんだ?」
「網膜…視細胞…錐体細胞…」
「難しいな…群青は頭がいいんだな」
「…そんなことはない」
「そんなことあるぞ。なあ、どうして同じ桜萌葱の班なのに、私たちと柳の学びの間は別室なのか、教えてやろうか」
紅梅は群青を見上げる。
「柳はな、私たちよりも学びの才が劣っているんだ。柳だけではない。あの性悪な石黄もだ。この部屋に居る猫は少ないだろう。私たちは、知能の優れた猫なんだよ、群青!」
にまり。
嬉々と紅梅は笑みを浮かべる。
猫の学びはまず、文字の読み書きから始まる。ほとんどの猫は文字を読めず、教科書すら読めないからだ。
そこから少しずつ、計算や読解を進め、数年経過してようやく簡単な社会勉強が始まる。
群青と紅梅が居る学びの間で学ぶことは難しいが所詮は雑学…通常、猫には要らぬ知識だった。
己たちを誇る紅梅に対し、群青は暗く目を伏せた…その知能の差の真の理由を察している。
「…そうだな。俺は、人の世で生きていたのだから」
この学びの間に居る猫は、紛い物ばかりだった。
人の世を知っている猫は、社会についてよく知っているものだ。人間の言葉を理解し、人間の行動を理解し、人間の心情を理解する。
死がどれほど恐ろしいものかを理解する。
猫には要らぬ知識すら持ち合わせている。
故に知能が高いという才は、紛い物の特徴のひとつ。文字の読み書きが可能で、人の世について常識を持っている猫ほど、色売り屋の中で下等扱いされるのだった。
群青の乾いた眼差しを見た紅梅は眉を顰める…少し苛立った。
「私は貴方を否定するつもりで、そんなことを言ったつもりではないのだが」
「ああ、わかっているよ」
群青は小さく口角を上げた。
「紅梅、お前は…お前も、昔は猫ではなかったのか?」
「ああ。私がここに来たのは、十二の時だ。それまでは、傷を負えば一週間も治らない、ただの人間だったんだぞ」
「…なのに、今はこの屋敷の、最上の猫と呼ばれているんだな」
「喜べる話ではない。汚い金銭と厭な視線が集まるだけだ」
「教えてくれないか、紅梅。どうしたら、紛い物でも猫に成りきることができるのだ。死を恐れることなく、快楽として受け入れることができるようになる…」
「……」
自嘲のような薄ら笑みすら浮かべ問いかける群青に、紅梅は胸の内に靄がかかり、さらに苛立ちを表す。
嫌悪感を覚える。
距離を取るように背筋を伸ばし、冷ややかな眼差しを群青へ向ける。
「…貴方からそんな言葉は聞きたくない」
「…何故だ」
「群青は猫に成りたいのか」
「…成らなければここに居る資格はない。そう言ったのは柳と、紅梅、お前だろう」
「そうだが」
「いつまでも人間のふりをしてはいられないのだろう。死を恐れてはいけないのだろう…檳榔子様に応えるためにも、俺は人の世の学びより、まずは猫の本質について学ばなければならないのだ。だから紅梅」
「教えないぞ、群青」
紅梅は荒い動作で帳面と教科書を畳む。
「猫のたちなど学ぶ必要はない。猫は気ままで、好き嫌いも得手不得手もそれぞれだ。皆が似たり寄ったりな猫になっては、私が最上と呼ばれることもないはずだ」
「だが、そもそも俺は猫にすら…」
「それが群青という猫なのだろう。人間のふりが得意で死が苦手。茉莉花茶が好みで血液が嫌い…それで良いじゃないか。実際、貴方の本気の抵抗を愉しむ客も居るのだろう」
「……」
群青は目を伏せ、固く唇を閉じる…言葉を探すが見当たらず、それでも何事かを言い返そうとしたが、紅梅の赤い瞳に見つめられれば、呼気すら飲み込んでしまう。
猫が睨む。
だが嫌な気分になっているのは、睨む猫の方だった。
その苦しげに堪えるような顔の、壮年の男を見つめれば、紅梅は僅かに下瞼を痙攣させる。
不快だ。
それでも、あからさまにはしない…洋装のような短い袴をふわりとゆらして立ち上がり、深い溜息の後、美しい微笑みを浮かべた。
「本来猫に学びは必要ない…だから、猫が何たるかなんて、学ぶものではないんだよ、群青」
「……」
「群青は群青のままで良い。多少苦しくても、貴方は人の心を忘れずに生きるべきだ。それに」
紅梅は群青へ背を向ける。
「貴方のお陰で、私は、本当の自分を思い出せたよ。ありがとう」
「…どういう意味だ」
早足で立ち去る紅梅へ問いかけたが、答えはなく…学びの間には群青だけが取り残される。とっくに猫たちは、不自由を強制される場所から逃げ去っていた。
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