第12話
一際上質な部屋に、最上の美しさを誇る猫は控えていた…紅梅を指名した男は、彼女の姿を視界に映し、生唾を飲み下す。
「ああ…ぼ、僕の、こ、紅梅!」
「いらっしゃいませ…
納戸と呼ばれた客は、紅梅の常連のひとり。最上の猫の紅梅は、常連客の名は覚えるようにしていた…紅梅に名を呼ばれた納戸は頬を染め、厭らしい笑みを浮かべる。
「こ、紅梅。ああ、き、今日は…何をして遊ぼうか。ねえ。き、今日は、き、君のお願いも、き、聞いてあげてもいいよ?」
昂奮と吃音症の口調で納戸は微笑む。胸元で両手の指を絡ませ、紅梅と目を合わせようとしてはすぐに逸らし…瞳はきょろきょろと激しく動く。
紅梅はその異様と辿々しい口調を、柔らかな笑みで受け入れ…優雅な足取りで納戸へ歩み寄る。
「猫は言うことを聞くだけですわ。どうぞ、猫のことは考えず…納戸様の思うがままに、私を痛めつけてくださいまし」
「そ、そ、そんなこと…言わないで…」
「納戸様…」
紅梅は納戸の頬へ掌を当て、ゆっくり撫で下ろし…美しい微笑みを見せる。
牝の顔で誘う。
赤い瞳が灯りに照らされ、きらりと光り。
「ああ…お…こ、紅梅…こ、こ、紅梅…こ、こ、こ…紅梅‼︎」
奇声で紅梅の名を吠えた納戸は、勢いよく彼女を畳へ押し倒し、振り上げた拳を、その白く細い腕に叩きつけた。
ごぎ、と肘関節が圧し折れる。
「あああっ!」
わざとらしく鳴いた紅梅に構わず、納戸は折れた左腕の前腕を掴み…まるで人間とは思えない力で思い切り引っ張る。
肉と皮がぶちぶちと音を立て、引きちぎれていく…皮膚には赤い裂け目が現れ、変色する。
紅梅は小刻みにふるえる。
「ね、猫でも痛いのです。お願いですわ、納戸様…どうか、こ、殺すなら一瞬で…!」
「ち、ちがうでしょ、こ、紅梅…科白は、こ、こうだよ。納戸様になら、こ、この腕を捧げたいですって、言ってよ。ど、どうか、右腕も、お願いしますって、い、言ってよ」
紅梅の左腕が奇怪に伸ばされる…しかし紅梅は、納戸に見えぬように一瞬の真顔に戻り、改めて鳴き真似をした。
「わ、わかりました、納戸様…ど、どうか、私の、両の腕を切り取ってくださいまし。ああ、納戸様に…紅梅の全てを捧げたいですわ。どうか、どうか!」
「わ、わ、わ、わ、わかったよお、紅梅‼︎」
厭らしく笑った納戸は立ち上がり、戸棚から斧を持ち出し…紅梅を強く押さえつける。
「こ、紅梅がそう言うなら、し、仕方ないなあ。仕方がないよお。仕方ない猫だねえ、紅梅‼︎」
納戸は斧を振り上げ、紅梅の伸びた左腕に刃を叩きつける。
ぐちゃ、と肉の音だけが響き、呆気なく腕は分断される。
「ああ、納戸様! 右も、右腕も!」
紅梅は下品に懇願してみせる。
彼女の言葉よりも早く、次の斧の斬撃は右腕に叩きつけられ、骨が砕け、切断される。
欲望に狂乱した納戸はもはや機械的に、げらげらと醜く笑いながら斧を振り下ろす。紅梅の左脚へ、右脚へ、脇腹へ、肩へ。
血の飛沫が部屋を染め上げた時、その刃が紅梅の顔面へ迫った…途端。
「納戸様、いけません!」
「ひ⁉︎」
血達磨状態の紅梅は真顔になり、声を張り上げて納戸を制止する。
我に返った納戸は、紅梅の鼻先で斧を止めた。
「…顔を傷つけては、貴方は、罰されてしまいます。納戸、様」
「あ、こ、紅梅…ご、ごめ…」
「猫を、殺す際は…どうか、お、お気を、つけ、て……」
諭した紅梅は、柔らかな微笑みのまま死んだ。
納戸が奇声を上げる。
「ああ、おお、こ、紅梅! ご、ごめんよ‼︎ ぼ、僕を、たす、助けてくれたんだ、ねえ⁉︎ ああ、おおお‼︎」
遺骸となった紅梅へ抱きつき泣き喚く。
その間にも紅梅の切り落とされた四肢は、這いずるように胴へ帰る…骨が接着し、肉が絡み合い、皮膚が縫い合わされ、血が通う。
そうして再び心臓は動き、肺が呼吸を始め、脳が思考を取り戻す。
紅梅は取り戻した腕で納戸を抱きしめた。
「…泣かないでくださいまし。ご無事でよかったですわ、納戸様」
「ああ、こ、紅梅…!」
蘇生を喜んだ納戸は、起き上がった紅梅に強く抱きつき、ごきり、ごきりと肋骨を砕く。
「こ、紅梅…ねえ、ぼ、僕…もう、き、君を、こ、殺すのは、嫌だなあ。だ、だから、こ、紅梅…き、君のお願いも、き、聞きたいよ。き、聞きたいんだよお!」
ごきり、ぐちゃり。
骨が砕け、肺に刺さり、内臓が破裂する。
納戸の腕の中で紅梅は泡を吹き、白目を剥いて絶命する。
くたりと脱力した紅梅を納戸はゆする。
「こ、紅梅? あれ…こ、答えてよ。き、君のお願いは? ねえ、き、聞いてる? ねえ?」
ぼうっと天井を見上げていた紅梅の瞳が再度焦点を定め…血のあぶくに塗れた薄い唇が、小さくふるえながら動く。
「…私の、お願い…ですか」
「あ、そ、そう。き、君のお願い。き、聞かせて、こ、紅梅!」
「……でしたら、納戸様」
まばたきをひとつ。
紅梅は確かな眼差しで灯りを見つめた。
「…猫に、幸せをくださいまし」
「し、幸せ?」
「ええ…」
うつろな声で紅梅は言葉を紡ぐ。
「猫には本物の幸せがないのです。猫は白昼夢に浸っております。こうしてお客様へ、死を売るのみが幸せだと…そう思い込んでいるのです」
「こ、紅梅…?」
「ですが…私は知っております。猫の本当の幸せとは何なのか。猫は死を売るのみが幸せではないということを」
紅梅はぎょろりと目を見開き、身体を起こして納戸の肩を掴む。
「納戸様!」
赤い瞳がぎらぎらと光る。
「納戸様…紅梅は美しいでしょうか。この彩潰しの上物の猫だと、そう仰ってくださりますか?」
「も、勿論だよ…こ、紅梅は、こ、このお屋敷で、い、一番の…」
「でしたら、どうか…どうか納戸様!」
「この紅梅を、持ち去ってくださいまし! この彩潰しから、紅梅を連れ出し、解放してくださいまし!」
「え…そ、それって…」
「保護でも婚約でも何でも良いのです。私は外に出たい。猫をやめて、人間の世界で、自由に生きたいのです。人間に戻りたいのです!」
「も、戻る? そ、それって、こ、紅梅…」
「私を僅かでも好いておられると言うのなら納戸様、どうか、紅梅を、この狂った色屋敷から、解放してくださいまし‼︎」
…猫は、まるで人間のように喚く。
懇願は今際の断末魔よりも醜く、必死な形相は死に顔よりも悍ましく…猫の姿にあるまじき狂態は、あまりにも奇怪だった。
美しいが故に、ひどく醜悪で。
「ひ、ひいい⁉︎」
納戸は紅梅を突き飛ばし、部屋の出入り口まで後ずさる。
なおも猫は納戸を見つめる。赤い瞳で甘い顔を見せつけ、願う。
納戸は紅梅に背を向け、戸を叩いた。
「だ、出して! き、今日はもういい! か、帰ります! だ、出してください‼︎」
…血まみれの部屋に取り残された、血だらけの紅梅は唇を噛む。美しい顔を苛立ちに歪め、暗く目を伏せる。
その背後に黒い影が現れる。
檳榔子は真黒の瞳で紅梅を見下ろす。
「醜いな、紅梅…ああ、お前は醜い。その牝の面と声でどれだけ取り繕おうと、肚の底の醜さは、昔と変わらぬままだ」
「…貴方は嘘つきですわ、檳榔子様」
紅梅は低く呟く。
「…猫だって、人の世で生きてゆける。猫にだって自由はあるのです。色売り屋だけが、猫の居場所な訳がない」
「白昼夢だ、紅梅」
「猫は自由気ままなものです。真昼の空の下、屋根の上で昼寝をし、草原で毛繕いをし、下町を散策するものです…私は、猫の幸せを知っております」
ぎりりと歯を食い縛り。
「…檳榔子様。色売り屋は、猫を不幸にする。貴方は…嘘つきだ!」
振り返ったそこに、檳榔子の姿はなかった。
ただひやりとした、死人がそこに居たかのような冷気だけが残る。
…紅梅は醜く顔を歪め、裏切った客への苛立ちを、ひとり呻いた。
「…願いを聞くと言ったではありませんか」
所詮は元々、醜い人間なのだ。
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