第11話
「まったく愚かな客だったよ」
猫は気ままなものだ。学びと商売の時間以外は自由。許された班は外界への散策もできる。
談話室にて、紅梅は昨日の客に対しての話をぼやいていた。
「猫の顔を傷つけては罰されるというのに、あの客は、やたらと危険をおかして私を痛めつけていた…猫でない者が死んだなら、ただの一度で全てが終わる」
「ああ、居りますな。危険をおかすほど昂奮なさる…物好きな客なのですよ」
隅の座卓に用意された、自由に飲食を許された茶菓子を、何度目か菓子器に取って戻ってきた柳が笑う。
「紅梅様は余計に、ではありませぬか?」
「言われてみればそうだが…何故だ」
「美しいからだ…紅梅」
桜萌葱の班の集いの机…紅梅と柳から少し距離をとって座る群青が低く呟く。
振り返った紅梅は群青へ寄る。
「美しい? どういう意味だ、群青…何故、美しいと顔を傷つけたくなる?」
「わかりますとも、群青様。ええ。わたしも…可愛らしい小鳥や金魚などは、遊び半分で殺めてしまいたくなりますもの」
「俺はちがう…」
にたにたと意地の悪い笑みを向けられ、群青は顔を逸らす。
「紅梅様もありませんか。飯事で、赤ん坊役のお人形があまりにも可愛らしいと、虐待紛いのことをしてやりたいとか」
「柳は趣味が悪いな…客のようだ」
紅梅もまた顔を顰めた。
「それに…私は美しくなどない」
「謙遜なさる。貴方がこの彩潰しで最上の猫であるのは、その美貌故」
「私はそんなでは…」
「紅梅様、ご自覚を」
柳は向かいの席から紅梅へ顔を寄せて囁く。
緑の瞳で周囲を見るように紅梅へ促せば…声が漏れたか、話を盗み聞きしていた他の猫たちが、紅梅へ苛立ちの視線を向けていた。
「…貴方に嫉妬なさる猫は、この彩潰しに数えきれないほど居ります。その貌と売り上げで謙遜されれば嫌味も同然。口は禍の元ですよ」
「…面倒な」
向けられる視線を睨み返し、紅梅はその美しい外見で、荒々しく片膝を立てて座る…群青は目を伏せ、呻くように呟く。
「紅梅…脚を立てるな。下品だ」
「下品なのは嫌いか、群青?」
「お前は女だ」
「猫に牡も牝もない」
紅梅の袴は短く膝丈程しかない。西洋の衣服に似せた作りだ…膝を立てれば容易くその内側が覗く。
色売りを商売とする猫に恥じるという概念はほとんどない。牝猫が性別を売りにするのは人間に対してのみ。
猫同士で牝を売りつけても、何の得もない。
「それとも群青…群青は私を牝と見てくれるのか?」
「牝などと言うな」
「私を美しいと言ったな。賞賛するのは柳のような嫌味か。それとも…本心などとは言うまいな、群青?」
紅梅は群青へにじり寄り、顔を寄せて微笑んで見せる。
無意味を行う。
無意味に牝の貌を見せつけ、牡猫を誘う。
…群青は目を伏せ、顔を逸らし、紅梅と距離を取ろうと身じろぐ。
けらけらと柳が笑った。
「まったく群青様は…まるで人間のようだ。猫の誘いに心を乱されるとは!」
「群青、猫は猫に惹かれないものだぞ」
「惹かれてなどいない…女ならば、少しは恥じらいを…」
「色売りの猫が今更何を恥じらうと…それに群青様、猫を『女』と呼ぶのは俗語です。わたしたちは人間ではない」
「…むしろ己を『猫』と呼ぶ方が卑言ではないか、柳」
「おや…貴方がご自身を猫だと仰ったのは、先日、石黄様に対しての、その場凌ぎの科白でしたか」
干菓子を手に取りながらくくっ、と愉快に笑う柳に、群青は喉に詰まった空気を苦悶の顔で飲み下す…返す言葉もない。
その様子を見た紅梅は、ふ、と溜息のように息を吐き、俯く群青へ更に身体を寄せる。
「群青…色売り屋に住まうなら、己を猫と認めるしかない。猫は他に行き場なんてないのだから。それはわかるな?」
「子供扱いをするな」
「いや、貴方は色猫としては赤子も同然だ。何の知識も、自覚もない…昔の私のように」
紅梅は赤い瞳で群青の顔を覗く。
「猫になるしかないんだ、群青。私たちにはそれしかない。人間に戻ることは不可能なんだ」
「……」
「齢も遥か下の牝猫に諭されるとは…流石の猫でも羞恥心を抱きますね」
和三盆糖を噛み砕いた柳は頬杖をつき、下卑た会話ににたりと口角を上げる。
「子猫といえば、紅梅様…こんな客と会ったのですが」
「…何だ」
「わたしはまだ若造故、客に子猫扱いされることが多いのですが…三日前でしたか、やたらとわたしを憐れむ客が訪れて」
にたりと。
邪悪に微笑う。
「…身請けを申し込まれたのです」
「………」
紅梅は目を見開く。
群青から離れ、向かいに座る柳へ振り返り、身を乗り出し、訊ねる。
「…三日前だと」
「ええ」
「何故、お前はここに居る…柳」
「何故とは?」
「お前…その申し出はどうしたんだ。その客に何と答えたんだ、柳」
「どうも何も…」
「お断りしましたよ。当然でしょう」
「何故だ、柳⁉︎ それは猫にとって、猫にとって、最大の‼︎」
紅梅の悲鳴にも近い美しい声が談話室に響き渡った…猫たちが桜萌葱の班の席へ振り返る。
同時、時計が申の刻を報せ、若女将の銀朱が入室し…猫の自由時間は終わった。
立ち上がり、獣のように荒れた呼吸を吐く紅梅の豹変に…群青は呆然とし、対して柳は、心底愉しげな笑みを浮かべていた。
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