二章

第5話

それはまだ、わたしが自我を持つ前のことだろうが、物心もつかぬ頃のことだろうが…だがはっきりと記憶にある。夢や妄想、想像などではなく、確かな記憶だ。


親の顔など知らないが、その憎い声は鮮明に覚えている…まだ身体を動かすことすらままならないわたしを地面へと叩きつけ、両親は吐き捨てるように、死んだわたしへ言い放った。

化け猫だ。

化け物だ。

お前は要らん。

わたしは泣くこともなくそれを聞いていた。その憎い声を聞いて息を吹き返した。潰れた頭が元に戻る感覚すら覚えている。

真っ暗闇だ。虫の声が響き渡る、少し涼しい夜の闇。わたしは路上に捨てられ、呆然と空を見上げていた。

赤子のわたしは動けず、声すら出ず…初めて知った感情は憎悪で、それを打つける相手も失い、噫、いっそこのまま心を手放してしまおうかと、生まれて間もない赤子のくせに達観した。

そんなわたしを何かが踏みつけた。視界は真っ赤に染まった。かろうじて潰されなかった脳と鼓膜は、顔が踏み潰されるぐちゃりという音を聞き取っていた。今も覚えている。

だが間も無く視界は再度夜空を映し。

そしてまた何かに蹴り飛ばされる。赤子の脆い四肢は四方八方に折れ曲がり、肋骨はぼろぼろに砕けて内臓を破裂させた。吐血で溺死する記憶も鮮明だ。

今思えば、あれは車だ。夜中に出回る旅人の馬車や貴族の車。わたしはそれに何度も踏みつけられ、潰され、蹴り飛ばされていた。

だが死ぬことはなかった。

いや確かに死んだ。

しかし何度も息を吹き返し、傷を失い、元の姿に戻る。

わたしはまたも達観した。己が化け物だということを理解した。両親がわたしを捨てた理由を理解した。

…いや。

いや…そもそも、捨てられる前に、殺されるはずだったのだ。わたしの両親は、もっと以前にわたしを殺すつもりだったのだ。しかしわたしは傷を負うことはなく、死んでも息を吹き返し…だから、わたしは、はじめから化け物で、化け猫で、愛されるはずなどなかったのだ。

何度目かの轢殺の後…わたしは笑った気がする。泣くように笑った。虫の声をかき消すほどの大声で、赤子のくせに狂ったように笑った。佯狂だったのかもしれないが。

わたしはその時に覚えた達観を今も疑いはしない。化け猫は愛されず、人間の世界では生きていくことはできない。人間は猫を嫌い、人間は自己愛と欲望しか持たず、人間は極めて愚かだと…今もそう思っている。

ただ一人を除いて。


そう。

生まれてすぐに捨てられ、血だらけになりながら、自ら発狂しようとしていたわたしを抱え上げたのは…今の御主人様だ。

わたしをここまで育ててくださった御主人様…檳榔子様。

あの人は特別だ。

檳榔子様は出血と血反吐と排泄物で汚れたわたしを、嫌悪することなく抱き上げ…噫、今も鮮明に記憶にある。

檳榔子様はわたしへ微笑んでくださった。

猫のわたしに。化け物のわたしに。

その大きな腕の中に包み込まれても…温かい体温を感じることはなかったが。

檳榔子様の、死体のように冷えた腕や胸に包まれ、徐脈の心音を聞き取り…わたしが憎悪の次に知った感情は、崇拝だった。

「…かわいそうに」


きっとその時のわたしは、赤子のくせに、すべての悪意を悟ったような、歪んだ笑みを浮かべていただろう。

それははっきりと、御主人様の真黒の瞳に映っていた…気がする。

夢でも想像でもなく、記憶だ。

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