第4話

いらっしゃいませ…と群青が迎えれば、客は満面の笑みを浮かべ、群青へと抱きつき、耳元で囁く。

「ねえ、私のことを覚えているかい? 一昨日貴方を指名して…次も指名すると約束したんだけれど」

群青は一瞬肩を強張らせたが、すぐに偽物の柔らかな笑みを返した。

「…貴方でしたか」

「もしかして、手紙を読んでくれた?」

「はい。深川ふかがわ様…でしたか」

「そう。ああ、猫様に名前を覚えてもらえるなんて嬉しいなあ」

頬を薄桃色に染め、目を細め、客は子供のように無邪気に喜ぶ…『猫様』などと、猫を崇拝する客はそう居ない。奇怪な思考を持った、ある意味では狂人だと、猫たちは噂する。

その一言で群青は察した。深川という客は狂人だ…元より狂人でない限り色売り屋に訪れることはないだろうが。

ならばどれだけ純粋な笑みを浮かべようと、優しい言葉を吐こうと、客ならばやることは皆同じ。

…群青は長い袖の内側で拳を握り、ふるえを堪える。

「…何か飲まれますか」

「ああ…あはは、それもいいね。ふふ」

くつくつと喉奥で笑い、深川は座布団の上に座る…群青は平静を装いながら、いつものように茶の用意をする。

少しでも時間を稼ぐ。

痛みの時間。苦しむ時間。狂乱の時間。

ほんの僅かでもいい。

「…ねえ群青様!」

「…は」

唐突に名を呼ばれて振り返れば…間近に深川の顔があった。見開き、ぎらぎらと輝く黒い瞳に群青が映る。呼吸が鼻に当たる。口腔に吐息が流れ込む。

深川の手はするりと群青の手の甲に乗せられ、急須を奪った。

群青は身構える。

…しかし深川はにんまりと微笑み。

「お茶は私が淹れるよ。貴方は休んでいて」

「……は…しかし」

「いいから。猫様にもてなされてばかりじゃ、なんだか申し訳なくてさ」

茶具を奪い取られ、群青は呆然と立ち尽くす…前回とは違う。群青は生唾を飲み込む。

前回の深川は、他の客と同様に、群青とまともな会話をすることもなく、鈍器や刃物で、殴り、突き刺し、狂乱の笑い声を上げながら、約六回程殺していた。

しかし今日の深川は一向に殺しに来ない。時間は限られているというのに、呑気に茶を淹れている…本来それを行うのは、死から逃げたい群青の時間稼ぎのはずだ。

…群青は鈍い動きで座布団に座り、深川を待つ。深川の考えがわからない。このまま、今日は殺されずに済むのだろうか。そんな甘い考えまで過った。

「お待たせ、群青様」

湯呑みが運ばれてくる…華やかな香りの茉莉花茶が目の前に差し出される。

向かい側に座った深川は、変わらず無邪気な笑みで群青を見つめる。

「今日はさ…ふふ、お茶を飲みながらお話をしようよ、群青様」

「は……」

「いつも…痛い目に遭ってばかりじゃ、猫様でもつらいだろう…」

深川は湯呑みに口をつけ、頬杖をつき目を伏せる。

「…この前、貴方を、こ、こ…殺してしまった時、貴方は他の猫様達とは、全く違う反応をしたものだから…」

抵抗と拒絶。死へ抗い、生に執着し、深川をはじめとした全ての客から、引っ掻く、蹴る、突き飛ばすなどして逃げようとした。猫にあるまじき醜態だ。

その醜態に対しての苦情は散々受け取ったが、唯一文句を言わず、それどころかこうして二度目の指名をしたのはこの男、深川だ。

「…前回のことを謝りたくて。ほ、本当に、申し訳なかった、猫様…ぐ、群青様」

深川は頭を下げる…群青は慌てた。

「あ、貴方が謝ることでありません。私が猫になりきれていないだけで…むしろ、あのような醜態を晒した私を、またご指名してくださったのは…」

「いや、私の方こそ…もっと猫様の気持ちを考えるべきだった。猫様だって痛みや苦しみを恐れるのは当然だ。貴方は猫様の中でも特別なのかもしれない…私は、貴方のような猫様を求めていたのかもしれない」

「……っ」

まるで別人だ。

深川という客は、前回の群青自分の醜態接客で何かが変わったのだろうか…狂人は常識を取り戻したのだろうか。

群青は奇異な焦りから何度も唾を飲み込む…しかし喉は乾く一方。群青の呻き声を聞いた深川は、はっと顔を上げ、改めて笑みを浮かべた。

「ああ、失礼…お茶が冷めてしまうね。ど、どうぞ、飲んでください」

「は……ああ、はい。頂きます」

喉と舌は水分を求める…群青は湯呑みを手に取り、口をつけ、数口飲み込んだ。華やかな香りが鼻腔を通り抜け、口腔と喉奥は温かい水分で潤う。

はあ…と息を吐き、冷静を取り戻す。

群青は目の前の、改心したのだろう元狂人を見つめ返す。変わらない無邪気な笑み。

その黒い瞳がぎょろぎょろと素早く左右に動き、上がった口角は引き攣り、歯列が剥き出しになり、獣のような呼吸を吐き。

…何だ。

「───ぐっ、ごぶっ⁉︎」


びぢゃあっ、と…畳の上に反吐が撒き散らされた。

群青は喉を押さえ、止めどなく胃の底から逆流する反吐を吐き出し、転がった。喉が焼ける。息ができず、反吐は鼻腔からも溢れ出る。窒息する。

「ご、ぶっ、ごぶっ‼︎ ご、がっ⁉︎」

それでも尋ねずにはいられなかった。

嘔吐する濁声で、言葉にもならない奇声で、口から鼻から反吐を噴き出しながら群青は深川を見ようとする…視界は眩み、赤みがかる。

ようやく視界に認識した深川は。

舌を突き出しながら、醜く笑っていた。

「あはっあはっあはは‼︎ いいね、猫様‼︎ ああ、ざまあないなあ‼︎ ひひひははははは‼︎」

豹変…?

いや、本性だ。

何も変わってなどいなかった。

深川は何も変わっていない。

「本当に、ふふ、貴方は猫の中じゃ馬鹿で愚かで、純粋なんだねえ。あは‼︎ あはっ‼︎」

今までが演技だ。

深川は客だ。

客ならばやることは決まっている。

色売り屋にやってくる客達が何をしに来るって。

猫を殺しにくる。それだけだ。

「がぶっ‼︎ ご、ごぇっ…‼︎」

勢いのある反吐の逆流が喉を切った…それ以前に、仕込まれた毒物が胃袋を破壊した。摂取した食物を吐き切っても、なお嘔吐は止まらない…いつの間にか鮮血になり、えずく力も入らなくなった群青は、真っ赤なあぶくを口や鼻から多量に溢れさせる。

気道を塞ぐ血反吐を掻き出したくて喉を引っ掻き、白目を剥き、痙攣し…数分もたたずに群青は畳の上で溺死した。

「あはっ、あはっ…猫、おい猫、それで終わりだなんて言わないよねえ」

反吐や鮮血が吐き散らされた畳へ座り、深川は溺死した群青へ…殺害補助具として店側から用意されていた中華包丁…それを振り上げ、群青の肩へ叩き込んだ。

「ぐぶっ⁉︎」

群青の喉から奇声と同時に血反吐が吐き散らされた…猫の蘇生反応で気道を塞いでいたものは取り除かれ、声と呼吸が再開される。

群青は転がり、必死に咳き込んで血反吐を吐き出す…肩はぱっくりと開かれ新たに血を流す。痛い。痛い。痛い。痛い。

「猫…ねえ、今日は抵抗しないのかい。前みたいにさ、助けて、殺さないで、やめてって、逃げたり蹴ったりしてくれないのかい」

深川は這いずる群青の片足へ包丁を叩き込む。ごり、と骨が砕かれ、皮一枚で繋がる…群青はそれでも逃げようとした。

そんな鈍間な背中へ、どすっ、と包丁が叩き込まれる。背骨が削れ、神経が切られ、動けなくなる。群青は畳を掻き毟り、内臓が傷つけられた血反吐の逆流にまたも喘ぐ。

「っ…‼︎ …が‼︎ ひ…‼︎」

「何なに…命乞いかい。もっと聞かせてよ。ねえ何か言えって、猫。おい、群青⁉︎」

動けなくなった群青の背に、脇腹に、肩に、腕に、脚に、中華包丁を叩きつける。

部屋を真っ赤に染めるほどの出血と激痛に、群青は意識を手放し、二度目の死を迎えた。

それで終わらなかった。

次は肉を切り裂かれて目が覚めた。

中身を引きずり出されて死んだ。

次は骨を折られて目が覚めた。

首を折られて死んだ。

次は。次は。次は。次。次。次。次。

死んで、死んで、死んで、死んで、死んだ。


そうして、壁や畳や家具などの元の色がわからなくなるほど、室内が鮮血と酸化した血液に染まった時。

「お客様、お時間です」

「………ちっ」

返り血にまみれた深川は不満げに舌打ちする。

群青は息を吹き返し、頭を抱えて縮こまり小さくふるえる…声にならない声が何事かを呟いているが聞き取れないし、深川が知ったことではない。

深川は中華包丁を投げ捨て…ふるえる群青を抱きしめ、耳元で優しく囁いた。

「…じゃあ、猫様。また指名するから、私のことを忘れないでね…ふふ」

厭らしい笑い声と血の足跡を残し、深川は去っていった。


鉄と潮のにおいに満ち、天井から己の血液が滴る部屋の中で、群青は繰り返し名を呼ぶ。

檳榔子様。

檳榔子様。

呼んだところで現れるわけがないが、その名を唱えなければ自我を保てなかった。

檳榔子ならば救ってくれる。

その約束をされたから。

死ねない自分へ救済をくれると檳榔子は言った…その代わりに、この色売り屋で身を売り、死を売り、相応の結果を残せと命じられた。

結果とは何かはわからないが、群青はその唯一の救済を信じ、恐ろしい死を何度も受け入れることを心に決めた。どれだけ気が狂いそうになっても、主人を思えば理性を保てた。

救済を待つ。

楽になれる日を待つ。

群青は己の血にまみれたまま、檳榔子の名を唱える。


だが救済とは。

今はもう、群青は、何が己の望みだったのかもわからなくなってしまった。

ただひとつ。

はやく、楽になりたい。

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