第2話
「昨晩は散々だったようで…群青様」
色売り屋『
こぢんまりとした食堂に、ふらふらと不安定な足取りで現れた新入り猫、群青へ声をかけたのは、少年とも呼べる齢の若い猫、
「顔を傷つけられたと」
「最低なお客だな」
柳の隣に座る女の猫、
「いくら私たちが不傷不死だとしても…禁忌を破るなんてとんだ狂人だ。客が神だと誰が吐かした」
「当然、そのお客様は罰されたのでしょう? 御主人様の救済に感謝致しませんと」
「群青、早く座れ。貴方の分の食事もちゃんと用意してあるぞ」
立ち上がった紅梅は群青の腕を引き、柳の隣の空席へ座らせる。
玄米と汁物、数種の副菜、それから煎茶…彩潰しの猫たちに出される食事は、他の色売り屋と比べれば上質なものだった。
目の前の食事をぼうっと見下ろし、群青は小さく呻く。
「…ただの事故だ」
「はい?」
「いや、むしろ…俺が悪い」
群青は片腕を押さえ項垂れる…長い白髪は後頭部できつく結い、しかし前髪は垂れ、目元を暗く陰にして隠す。
長身に広い肩幅の筋肉質、他者からすれば麗しい体つき…しかしその顔立ちには、他の猫よりも歳を重ねた皺や隈が目立つ。
「…俺が抵抗などしなければ…あの客は死ぬことはなかったはずだ。顔が傷ついたのは自業自得なんだ」
「それは否定しませんが」
「初めてなら仕方がないだろう。貴方は猫としての手解きもせずにお客に出された…昨晩のような馬鹿繁盛などなければ、無理に駆り出されることもなかったはずなのに」
「おい紅梅!」
のそりと現れた青年が腰に手を当て紅梅を見下ろす。
「駆り出されたなどと…言葉遣いに気をつけるんだな。それは御主人様への苦言だぞ。自分で言えないのなら、僕が言いつけてやろうか」
黄の瞳の猫、
紅梅はため息をつく。
「私は檳榔子様を否定したのではない。はやとちりも大概にしないか、石黄」
「お客様の盛りはよく同日に集中なさる…群青様は不可抗力に遭っただけです」
「言うね、柳。じゃあ君はお客様に文句を吐くというのかい?」
「わたしの売りは挑発ですからね。お客様を怒らせるのは、わたしの技巧と捉えてもらいたい」
柳はくすりと笑い、煎茶の残りを流し込み目を閉じる…その不敵な笑みに石黄はひくりと下瞼をふるわせ。
「…群青とか言ったか」
やり場のない怒りを、未だ食事に手をつけない群青へ向ける。
群青は俯いたまま視線だけを石黄へ向ける。
睨むような目になる。
石黄はにたりと笑う。
「…猫のくせに殺されることを喜びとしないなんて、とんだ愚か者だな。それに顔を傷つけられただと…なんて惨めだ!」
「石黄、いい加減にしないか。群青は」
「なんとでも言え…」
低く静かに群青は呟く。
その地を這う声は、むしろ食堂によく響き、一瞬室内は静まった。
視線だけでは睥睨も同然の群青の瞳に、石黄は思わず後ずさる…生気はなくとも、疲弊した大人の煩わしがる鋭い眼差しには、苛立ちにも似た嫌悪感が含まれていた。
「…檳榔子様が俺を救ってくださった。だから俺はここに居る。だがまだ死にきれない。それだけだ。お前の言う通り俺は愚劣だ。猫にもなりきれない…それでいいか、石黄」
「…面白みも糞もないな、年増」
「せめて食事だけはさせてくれないか。死ぬためには生きていなければならないんだ」
「石黄様、どうかお引き取りください。喧嘩を売るくらいなら、死を売るのが猫商売でしょう。みっともない」
くく、と柳に喉奥で笑われ、石黄ははっとする…食堂内の猫たちは、悪目立ちする石黄に不快な視線を向けていた。
「…調子に乗るなよ、餓鬼が。年増が!」
舌打ちをした石黄は、腹いせに群青の食卓を蹴って去っていった。
汁物がこぼれた。
群青は伏せた目でそれを見つめる。
「群青、汁物のおかわりなら残っているぞ。持ってきてやろう」
「要らない…」
「群青様、布巾をお持ちします」
「やめろ…」
紅梅と柳の心遣いに対し、群青は引きつった声で呻く。血の気のない唇を噛み、肩は小刻みにふるえる。
殺しにくる客たち。
対して猫たちは猫に対して優しい者が多い。
群青は呼吸を乱す。
「……俺は…」
「群青」
紅梅が群青の肩を掴む。
「…この世は非情ではない。檳榔子様のように優しいお方もいらっしゃる。私は貴方の味方で居たい。群青」
「あまり張り詰めていると、仕事に支障が出ますよ。不傷不死とはいえ、心が死んでは猫でも死ぬ…と、聞いたことがあります。気を抜ける時には、思う存分楽になっておくべきですよ、群青様」
紅梅と柳に宥められるも、群青は顔を上げることはなく…結局食事をまともに摂取することはなかった。
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