猫の箱

四季ラチア

一章

第1話

いらっしゃいませ…と、長髪の男は恭しく頭を下げた。白髪に光の灯らない群青の瞳、整った美麗な顔立ち。僕はそのうつろな眼にぞわりと寒気を覚え、同時、ひどく惹かれた。

この店には『猫』が売られている…男女、老若問わない、あらゆる種の猫が。

正直女の猫の方がやり甲斐があったはず…美麗な顔立ちと体格とはいえ、やはり男にのはというべきか。取り替えを望もうにも時間はないし…いや、むしろ。

外れである男に当たった分、鬱憤を晴らすには躊躇いもなくなるというものだ。

悠長に茉莉花茶を淹れている群青色の目の男へ、僕は思い切り蹴りを入れた。急須と湯呑みが吹っ飛んで甲高い音と共に割れる…どさりと倒れた群青の猫は、僕の足を突っ込まれた腹を押さえて醜い声で咽せ込み、畳へ唾液を吐き散らした。

床に転がったまま、怯えた目が僕を見上げるが…僕は何の罪悪感も抱かない。むしろ腹の底から笑いが込み上げ、その群青の猫へ跨り、首を締め上げる。

血流を阻害され紅潮する顔、突き出る舌、唇の端からあぶくが溢れ、だらだらと垂れ落ちる…そうしてようやく、そのうつろな群青の瞳に生気が宿る。僕へと抵抗が始まる。

しかし遅い。僕はさらに手に力を込め、猫の喉仏をごりりと押し込んだ。

一際醜い奇声を短く上げた猫は。

すぐに沈黙し、白目を剥いて脱力した。

そりゃ死ぬさ。

そこを押し込まれたら死ぬだろう。

けれどこいつらは猫だ。色売り屋で売られている『猫』なのだから、これで終わりではない。そうだろう。

時間はまだ残っている。

僕は割れた湯呑みの破片を手に取り、猫の腹に深く突き刺した。

があ、と奇声を上げ、猫は息を吹き返した。

死んだはずなのに。

喉を塞がれ死んだはずなのに。

再度呼吸をする。

再度動き出す。

これが猫だ。

色売り屋の猫どもは、何度殺したって息を吹き返す。傷は超速再生する、不傷不死の奇人、通称『猫』。

色売り屋はそんな猫どもを売り、こうして客人に暴力衝動の捌け口にされる。そのために働いている…いわゆる風俗の類だ。性欲ではなく暴力欲求を受け入れるための、尋常ではない加虐嗜好専門の娼婦や男娼だ。

そして僕は、その客だ。

僕は今日、猫を殺しに来た。

傷つけても殺しても罪に問われない、不傷不死の化け猫に、日頃溜め込んだ欲求を吐き出しに来た。

僕は群青の猫に何度も湯呑みの破片を突き刺す。血液が飛び散り、部屋中が真っ赤に染まる。足りない。もっと突き刺す。当たりどころが良ければ動脈を傷つけ、噴水のように天井や床に血液が撒き散らされる。

猫の呼吸は、喉元から溢れる血に再び阻害され、真っ赤な泡をごぽごぽと吐き出し、それでも僕へ抵抗する。

…何だこいつ、素人か。玄人の猫ならば無抵抗で誘い文句まで述べる余裕を見せるというのに、こいつと来たら、本気で抵抗し、僕の殺意から逃れようと部屋の出口へ這いずっていく。

僕は腹が立って、猫を蹴り、もう一度喉へ破片を突き刺そうとした…しかし猫は血液で溺れながら最期の抵抗をして───

…破片は猫の片目に刺さった。

…まずい。

そう思ったのも束の間。

僕は。


僕の視界は反転した。

喉元に熱を感じたのは一瞬。

しかしすぐに目の前が真っ暗になる。

息ができないとか、痛いとか、そういった感覚を悟る前に…。

僕は消えた。


×


「お客様…顔を傷つけてはいけないと、あれほど忠告致しましたのに」

刀を持った黒髪の男は、切断した客の頭部を爪先で転がし、ふ、と笑うようなため息をついた。

部屋は血まみれだ。ひとりの人間以上の血液の量、それから客の出血…電灯は真っ赤に濡れ、天井から血の滴が滴り落ちる。

黒髪の男は刀を床に置き、吐血にえずく群青の瞳の猫へ歩み寄り、その頬を撫でた。

「…。初めてにしては上出来だ」

「っ…が、ぶ…ごぼ…ごっ…」

新たな傷を負わなければ、その身体に負った傷はすぐに再生し、片目は元に戻り、出血は止まり、気道は確保される。残るは痛みのみ。群青ぐんじょうと呼ばれた猫は喘ぎ咳き込み…少しずつ冷静を取り戻す。

黒髪の男は、真っ赤に染まった猫の白髪を愛おしげに指で梳き、べとりと付着する血糊を堪能する…男は笑う。

「さあ、もう身を清めて来なさい。顔は念入りに洗うのだぞ。立てるか」

「……は、檳榔子びんろうじ様」

真白の襦袢も真っ赤に染まり…全身から血を滴らせながら、ふらふらと群青は立ち上がる。

それからそのうつろな群青の瞳で、床に転がる客の頭部を睨みつけると…ぺたぺたと歩み寄り、思い切り踏みつけた。弱った身体の力では、圧して潰すことはできなかった。



色売り屋の猫たちは死を売っている。

気の狂った客人たちを待っている。

その奇怪な身体を認めてくれるのは、狂人達の他に居ないからだ。

不傷を売って金を得て。

不死を売って承認を得る。

ここはいかれた色売り屋。

猫を売る家。

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