復習問題.クラスのギャルに「勉強おしえてっ」と言われた時の、最適解を答えよ。

 運命のマーク模試から一夜明け、七月二十日。

 まだ早い時間の廊下で、僕は見慣れた横顔を見つける。

 朝陽を浴びて輝くブロンドの髪。整った鼻梁。色素の薄い瞳は真剣そのもので、壁に貼られたあるものを一心に見つめていた。

 白瀬の視線が上下する。どうやらまだ自分の名前を見つけていないらしい。

 不意に、瞳が見開かれた。長い睫が揺れる。足音に気付いたのか、僕の方を振り向く。その拍子に髪が金の弧を描く。

 きっと、僕はこの日見たものを、生涯忘れないだろう。

 

「きょーちゃん、あいらっ、やったよ……!」


 力が抜けたようにへにゃりと笑う。押し出された滴が目尻から零れる。言葉の最後の方は震えて、すぐに嗚咽に変わった。

 泣きながら笑う白瀬は、これまで見たどんなものよりも美しかった。

 しかし、その美しい顔はすぐに僕の胸元に埋められて見えなくなる。

 白瀬に胸の中で泣かれるのは二回目だ。前回、白瀬の家で同じことがあった際は所在なく彷徨わせていた両の腕を、白瀬の背に回してぽんぽんと優しく叩く。

 まるで子どもをあやすようにしつつ、僕も壁に貼られたプリントにようやく視線をやった。


【学期末マーク模試 成績上位者発表】


 一位 藤波恭平

 …

 ………

 二十四位 白瀬愛來


 ある。確かにある。僕たちの名前が。

 思わず、大きく息を吐いた。知らぬ間に緊張でこわばっていた肩が、一気に軽くなる。氷雨先生との約束がある以上、これで僕が一位じゃなかったら洒落にならないところだった。

 ともかく。

 これで白瀬は、僕たちは、目標を達成することが出来たのだ。

 白瀬は今後も、モデルの仕事を続けることが出来る。

 そう思うと、胸の内から熱いものがこみ上げてきて、身体に火がついたみたいだった。べつに、僕に何か得があるわけではないにもかかわらず、だ。


 どれくらいそうしていただろう。いつの間にか嗚咽の止んだ白瀬が、一度僕の胸元に顔をこすりつけて涙を拭うと、一歩後ろに下がった。

 情感あふれる、そのくせどこかすっきりした表情で、白瀬が言った。


「きょーちゃん。あいらがここまできたのは、全部きょーちゃんのおかげです。この一ヶ月半、本当にありがとうございましたっ!」

 深く頭が下げられ、根元まで金の髪と旋毛が露わになる。

 その旋毛に向けて、僕は言った。


「バカか君は」

 勉強を教え始めてすぐの時は、何度となく言った言葉。白瀬が成長してきた最近は、ほとんど口にして無かった言葉だ。

 へ? と小首を傾げる白瀬に、僕は続ける。


「前にも言ったと思うが、僕はただ、あれこれ口うるさく指示を出したにすぎない。この結果は、白瀬の努力によるものだ」

 中学英語の勉強を終えたときにも言った言葉を、もう一度白瀬に伝える。


「おめでとう。よく頑張ったな」


 白瀬が、ふわりと笑った。花の咲くような、穏やかな笑み。

 その笑みのまま、白瀬は首を横に振る。


「前にも言ったと思うけどさ、やっぱりあいらは、きょーちゃんのおかげだって思うよ。だって、あいらが今日まで、最後までちゃんと頑張れたのは、きょーちゃんと一緒だったからだもん」


 白瀬と目が合う。色素の薄い瞳は潤み、朝陽を浴びて煌めいている。


「きょーちゃん。あいらをモデルにしてくれて。モデルを続けさせてくれて、本当にありがとう」

 やっと言えた、と小声で白瀬が呟く。その頬は、照れたように赤みを帯びていて、涙の跡はもうすっかり乾いていた。

 


 数分後。僕たち二人は図書室にやってきていた。

 早めに登校してきた生徒たちの足音が聞こえたため、人気の少ない特別教室棟の方へ移動したところ、図書室が開いているのに気付いたのだ。 

 示し合わせたわけでもないのに、入り口付近の席ではなく、いつも勉強会をしていた席に二人とも座ったのが、少し可笑しい。


 机を挟んで向かいに、白瀬が座っている。ここ一ヶ月半で、すっかり見慣れた光景。

 それを見るのもこれが最後か。それを意識してしまうと、胸に空っ風が吹いたように冷たくて落ち着かない。

 目標を達成した以上、白瀬と僕の関係もこれで終わりだろう。元々教室では関わり合いも無かったわけだし。

 最初はうっとうしいっばかりだったのに、こんな気持ちになるとは。自分でも驚きつつ感傷に浸っていると、白瀬が言った。


「それにしてもよかったよ。きょーちゃんが完全復活してさ! きょーちゃんも一位おめでとうねっ」

 期末の時は、ちょっと調子悪そうだったから……と白瀬が言った。


「そのことなんだが……期末の点が下がったのは、予定通りだったんだ」

 僕の言葉に、白瀬が「どゆこと?」と首を傾げる。


「実は、今回の定期テストから、選択と集中をすることにしたんだ。期末試験の順位は、全科目の合計点で決まるだろう? でも、そのうちの大半は受験には使わない。だから、今回の期末からは手を抜くことにしたんだ」

 もちろん、手を抜くと言っても勉強を一切やらずにテストに挑むわけではない。ただ、前ほどには頑張るのをやめた。平均点の少し上くらいがとれるよう、最低限の復習に留めることにした。


 それにより浮いた分の勉強時間を充てた科目が――英語。

 一見不可能にも見える「マーク模試で学年一位」という条件も、なんのことはない、先生に宣言する前から、こっちはそのつもりで、ずっと勉強を続けていたのだ。


「まあ、僕は猛勉強してこの学校に入ったからな。大して勉強せずともここに入れた奴らの方が、本来ずっと頭はいいんだ。そんな奴らに全教科で食らいつき続けるのは現実的じゃないし、メリットもそんなにないからな」


 僕が口を閉じ白瀬を見ると、きらきらとした視線を向けられていることに気付く。

「きょーちゃんって、やっぱ頭いいね」

「君は人の話を聞いていたか?」

 僕は頭がそこまでよくないから、受験に必要な科目以外を捨てた……という話をいましてたというに。


 「だってさあ」と前置きをして、白瀬が口を開く。

「それってさ、自分の力量をきちんと測ることが出来て、将来のために必要なこともきちんと把握していて、そのために適切なシュシャセンタク? が出来てるってことでしょ?」

「まぁ、そう言えなくもないかもしれないが……」

「つまりさ」

 ぐいっと身を乗り出して、白瀬が言う。


「きょーちゃんは、努力するのが上手いんだよ。努力の方向も、必要な量もちゃんと分かってて。しかも、必要な量がどんなに多くても、きちんと、〝できるようになるまでやれる〟人なんだなって、あいらは思うよ」

 聞き覚えのあるフレーズに、胸が、どきりと鳴る。

「きっとさ、これまでたくさん努力してきたからだよね。勉強をがんばるよりも前から、たくさんたくさん努力をして。努力をする練習がしっかり出来てたから、今のきょーちゃんがあるんじゃないかな」

 そう言って、白瀬は笑った。


 何か言い返そうとして、しかし、開いた口を力なく閉じる。

 何も言えなかったのだ。言葉が、胸が詰まって。


 ずっと、無駄だと思っていた。

 勉強以外の全てが。

 勉強以外に熱を注いでいた、中学校での二年半が。

 先日の配信で、無駄だと思っていた日々が、白瀬に影響を与えていたことを知った。全くの無駄ではなかったんだと、それだけで嬉しかったのに。

 そうか。

 あの時の延長線上に、今の僕はいるんだ。

 あの時の僕はどうしようもなく愚かで子どもで、無駄なことに時間を浪費してしまったという後悔は消えないけれどでも。

 全くの無駄ではなかったんだな、と改めて思った。


「あ、やばっ! そろそろ教室行かないと!」

 いつの間にか、朝のSHRまで残り五分となっていた。走るほどではないが、そろそろ教室へ向かわないとまずいだろう。

 次にこの図書室で自習をする時は一人だ。感慨深い思いで、僕は図書室を後にした。


 教室へ向かう道すがら、白瀬が口を開く。

「そいえばさ、きょーちゃん夏休みって空いてる?」

「……? 空いているが」

「じゃ、久しぶりに女の子ゴコロレッスンやるから、また連絡するねっ」


 ……は?

「いや待て。白瀬が僕に女心を教えるのは、僕が白瀬に勉強を教える見返りだっただろう? 目標を達成して勉強を教える必要がなくなった以上、そっちの勉強会も終わりなんじゃ……」

 困惑する僕に、白瀬は驚いた様子で言った。

「えっ? 確かにあいらは大分勉強できるようになったけど、きょーちゃんはまだぜんっぜん女の子ゴコロマスターしてないじゃん」

 これじゃ、全然釣り合ってないもん。と白瀬が言う。それは、そうかも知れないが……。


「あいらのせいできょーちゃんの成績が落ちちゃったのかな、それなら遠慮しなきゃなって思ってたんだけどさ、それも心配要らないみたいだし!」

 白瀬が言う。どうやら知らぬ間に心配をかけていたらしい。それなら最初から、期末の点が下がることを伝えておくべきだったなと少し反省した。


「夏だしプールとか海とか行こうねっ! それから、お祭りでしょ、花火でしょ、セールも行きたいし……」

 白瀬によって、僕の真っ白だったスケジュールが次々埋められていく。

 どうやら、僕と白瀬の関係は、もう少しだけ続くらしい。


 不意に、白瀬が立ち止まった。

「それにさ。今回はママも納得してくれるだろうけど、また成績が下がったら今度こそモデルの仕事を辞めさせられちゃうと思うんだよね」

 だからさ、これからも、と桜色の唇が言葉を紡ぐ。

 あの日と同じ、言葉を。


「ねえ、私に勉強教えて?」


 それに対する僕の解答はこうだ。


「……まぁ、君みたいに手のかかる生徒を教えられるのは、僕くらいだろうからな」


――引き受けよう。

 

 あの日と正反対の言葉が、引っかかることなく自然に零れた。


「じゃあ、これからもよろしくね」

 ほっとしたように笑って、白瀬が手を差し出す。

「ああ、こちらこそ」

 迷うこと無くその手を取る。いつもは僕より少しだけ低い体温が、今日は同じくらいの熱さで握り返してきた。

 そんな白瀬に、僕は告げる。


「よし、そうと決まればさっそく今日から再開だな」

「えっ?! テスト終わったばっかなんだし今日くらいよくない? 打ち上げしよっ!」

 目を剥いて抗議する白瀬。言い聞かせるように僕は言った。


「いいか白瀬。勉強は復習が一番大切なんだ。つまり、テストを解いた直後は一番勉強に適してる」

 つまり、今日は勉強日和ってことだ。夏休みの宿題も早めに片付けたいし、英語と国語以外の科目も見るなら、授業が止まっている夏休みの内に何とかしなければならない。

 やることは山積みで、時間はいくらあっても足りないだろう。

 今年の夏は、どうやら忙しくなりそうだ。


 えーそんなぁ――――――! という白瀬の嘆きが、廊下中に響き渡った。

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