解答.あの日彼女は

 私が初めて彼を見かけたのは、中学二年の初夏だった。

 昼間は湿度が高くてむわっとしているが、夜になると風が涼しい、そんな季節。 

 夜の空気は好きだ。独特の匂いがして、落ち着くのに胸が沸き立つ。

 なんだか、ここに居てもいいよって言ってくれてるみたいな匂い。


 あの頃、家ではパパとママが毎日のように喧嘩をしていて、私はあまり家に帰りたくなかった。

 でも、一歩外に出れば友達がいて、先輩がいて。クラブに行けば知らない人でも気軽に話しかけてくれるし、今日紹介された友達の友達もみんないい人だし、全然さみしくなんてない。

 みんなと過ごすのはとても楽しい。だからこそ、駅から一人で家に向かって歩くこの瞬間が、たまらなく寂しくてイヤだった。


「……帰りたく、ないな」

 気付けば、そう零していた。


 帰ればまた、「こんな遅くまでどこに行ってたんだ」と怒られる。

 そして、次に続く言葉も決まっていた。

「お前の教育が悪いから、愛來がこんな風になったんじゃないか」

 それに対する返事だって、知ってる。だって、もう何度も聞いたから。

「家庭を放っておいて、文句ばっかり。あなたっていつもそう。愛來が家に寄りつかないのは、あなたに似たからじゃないの?」


 結局二人とも、お互いを罵りたいだけなのだ。私のことを話題にしていても、二人の目には私のことなんてちっとも映っていやしない。

 昔はこうではなかった。そのはずなのに、今ではもう、仲の良かった二人の様子が思い出せない。


 早く帰るべきだ。そんなことは分かっている。けれどもやっぱり帰りたくなくて、駅から家までの短い道のりをゆっくりと歩いていると、音が聞こえた。

 遠く、何かが弾むような音。 

 なんだろう、と純粋に疑問に思った。

 あるいは、単に帰りたくなくて、そう思っただけかもしれないけど。

 とにかく、私は音のする方へ歩いて行った。


 そこで、私は彼に会った。

 たどり着いたのは、高架下の小さなスペース。

 バスケットゴールが一つだけ取り付けられていて、足下には白いラインが引いてある。

 公園と呼ぶにも微妙なその空間で、一人の男の子がフリースローの練習をしていた。


 男の子がボールをバウンドさせる。視線はゴールだけを見つめているのに、ボールは吸い寄せられるように地面と手を往復している。磁石でも入ってるみたいな動きで、思わず目で追ってしまう。

 夜の住宅街に響く、ボールが跳ねる高い音。

 不意に、男の子がバウンドをやめた。

 胸の前でボールを構え、小さく息を吸って、止める。

 少し膝を落としたかと思うと、一気に伸ばして――跳躍。

 高い打点から空中に放たれたボールは放物線を描いてゴールに接近し――ゴールリングに当たって明後日の方向へ飛んでいってしまった。

 男の子が駆け足でボールを拾いに行く。

 同じ場所に戻ってきて、数度のバウンド。ゴールを見定めて、跳躍。

 またしても、ボールは弾かれる。


 けれど、少年は諦めない。弾かれては拾って投げ、また弾かれる。

 何度も何度も。

 その様子を、私はただ、じっと見ていた。

 どうしてこんなにも頑張れるのだろう。そう思いながら。

 

 次の日も、その次の日も、男の子は練習をしていた。

 そして、一ヶ月ほど経ったある日、私はその男の子と初めて会話をする。



 毎日楽しくて、たくさん笑って。そのはずなのに心のどこかで、このままでいいのかなって思ってる自分もいて。そして、そんな思いを忘れるためにまた友達と遊んで。

 本当はきっと、心のどこかで求めてたんだ。

 自分が、一生懸命頑張れる何かを。

 だから。


「なら、モデルでもやってみては?」


 そう言われたときは、ぱあっと世界が開けるみたいだった。夜なのに、見えるもの全部が一段階明るくなったような。

 その日から、前はただ何となく好きだったファッションについて、色々と考えるようになった。自分なりにコーデを考えて写真をSNSにあげて、そのうちフォローしてくれる人も増えて、読モのオーディションに受かって。


 オーディションの合格を伝えたくて、前に男の子と喋った高架下に向かう。けれど、どれだけ待ってもその日は誰も来なかった。

 今日はたまたま来なかっただけかもしれない。明日こそは。

 何日かそんなことを繰り返し、けど一度も会えなくて。

 結局私は彼と会えないまま、引っ越しをすることになった。

 だから、高校生になって彼のことを見かけたときは、跳び上がりそうなくらい嬉しかった。



 一瞬で、あの日の男の子だと分かった。

 けど、それが自分でも不思議なくらい、彼は中学の頃とは変わってしまっていた。

 肩は丸まり、顔を隠すように前髪を伸ばし、目線は常に下を向いている。

 何があったんだろう。

 どうやら彼は、藤波恭二くんと言うらしい。

 彼と同じ中学の子は周りに居なかったけれど、彼の名前を検索したら何となく事情は察することが出来た。

 そっか、オーディションの合格を伝えようと公園に通ったあの頃、彼は既にバスケの出来ない身体になっていたのか。

 なんでだか知らないけど涙が出てきて、無邪気に再会を喜んでいた自分が嫌になって、どうしたらいいか分からなくなる。

 もしかしたら、彼はバスケに関する記憶丸ごと、忘れたがっているかも知れない。そしたら、話しかけたりしない方が、いい、よね?

 っていうかそもそも、一回話しただけの私のことなんて、最初から覚えてないかも知れないし。

 だから私は、このまま彼と話すこともなく、高校生活を終えてしまうんだろうと思っていた。でも、なんとしてでも成績を上げなくちゃいけないってなったとき、一番に頭に浮かんだのは彼だった。


「できるようになるまで」「頑張ればいい!」


 思い出すのは、夜の高架下で何度も何度もシュートの練習をする彼の姿だった。気付けば、私は走り出していた。


「よかったぁ。藤波が放課後は図書室で自習してるって話、ほんとだったんだ」


 実を言うと、私はこの時、彼が放課後に毎日自習を頑張ってることは知らなかった。成績だって、きっといいんだろうなぁとは思ってたけど、どのくらい勉強が出来るかまでは分かってなかった。

 でも、私は彼以上に頑張っている人を知らない。頑張り方を教えてくれそうな人を知らない。だから、大丈夫だと思った。

 それはもうほとんど直感で、けど、絶対彼しかいないって思ったから。


「ねえ、藤波。私に勉強教えてっ?」



 どうしても彼が良かった。彼じゃなくちゃイヤだった。だから咄嗟に言ってしまったのだ。

 〝いいこと〟を教えてあげる、なんて。

 いいことって何?! 

 何にも思い浮かばなくて、必死で考えた女の子ゴコロレッスンもきょーちゃんには不評っぽいし。


 終わりにしようって言われて、頭が真っ白になった。

 このままじゃ見捨てられちゃう。そりゃそうだ。だってあいらはきょーちゃんが頑張るための大事な時間を奪っている。奪うばかりで何も返せてない。

 あいらに返せそうなものなんて、もう自分の身体くらいしかない。

 きょーちゃんなら、いいと思った。そのはずだった。少なくとも、このまま見捨てられて、モデルの仕事も続けられなくなっちゃって、何にもなくなるよりはずっといいと思っていた。

 けど、いざそういう雰囲気になったら恐くなった。

 恐くて、でも今更あとには引けなくて、そんなあいらをきょーちゃんは見抜いてくれた。見抜いて、思いやってくれた。嬉しかったしほっとした。


 それなのに、私はきょーちゃんがムリしてることに、きょーちゃんが高熱を出して倒れるまで気付けなかった。

 きょーちゃんは面倒見が良い。泣いてる初対面の女の子に飲み物を驕ってくれるくらいに。そんな彼だから、私のことも一度面倒を見ると決めた以上、すっごく一生懸命勉強を教えてくれてたんだ。自分の体調や勉強が疎かになるまで。

 気付くのが遅すぎた。私は何をやってるんだろう。


 七月十三日。定期テスト翌日。

 教室の前に張り出された、期末テストでの成績上位三〇人の中に、きょーちゃんの名前は入っていなかった。

 思わず、愕然とした。愕然としたし、私のせいだって思った。


 だから、きょーちゃんから《勉強会はもうやめにしよう》ってLINEが来たときは、そりゃそうだって思った。

 本当はマーク模試前日まで、きょーちゃんと一緒に勉強したかった。

 でも、もうこれ以上、きょーちゃんに迷惑はかけたくなかったから。

《うん、わかった》

 未練が滲まないように、なるべくシンプルに返信をした。

 大丈夫。きょーちゃんは嘘を吐かないから。

《僕が教えることは全部教えた》

 きょーちゃんがそう言うなら、きっと私は大丈夫なんだろう。

 大丈夫。大丈夫。

 そう言い聞かせて、私はいつもより少しだけ早く、学校に向かう。

 だって、今日は運命のマーク模試、当日なんだから。



 教室に着いたとき、私のほかにはまだ誰も来ていなかった。

 しんとした教室は見慣れなくて、何だか恐ろしいもののようで、私は思わず入り口で立ちすくんでしまう。


 いけないいけない。勉強するために早く来たんだから。

 寝坊して遅刻するのが恐かった。そっか、どうせなら早く行って勉強してればいいじゃんって思った。

 でも、失敗だったかも。誰もいない教室ってなんだか寂しくてイヤな感じだ。

 両の頬をぱちんと叩き、気合いを入れる。自分の席について、問題集を開く。二〇一八年のセンター過去問は、昨日二周目を解いたばかりだ。つまり今日解くのは三回目。だから答えも解き方もすぐ浮かぶはず、なのに……

「なんで、」

 全然分からない。っていうかこんな問題解いたっけ? 見覚えないんですけど???

 どうしようどうしよう。頭の中がパニックになる。せっかくきょーちゃんが教えてくれたのに。三〇位以内に入れないと、モデルを辞めさせられちゃうのに。


 そうしたら、もうなんにもなくなっちゃうのに。


 見覚えがなかろうと、とにかく目の前の問題を解かなきゃという一心で筆箱に手を伸ばし、

「あっ」

 手が滑って、シャーペンが机の上をころころ転がる。

 もう一度手を伸ばすも、またも掴み損ねてしまった。

 そこでようやく気付く。自分の手が震えていることに。

 どうしようどうしようどうしよう。焦りと混乱が加速する。だってこれじゃあ、こんなに手が震えていたんじゃ字が書けない。

 机から落下したシャーペンは、一度床を跳ねて何度か転がり、いつの間にかやってきていた誰かの上履きに当たってやっと止まった。


「……白瀬が開いているのは追試験の問題だぞ」

 聞き慣れた声に弾かれるように顔を上げ、


「え……?」

 私は目を疑った。

 もしかして、会いたすぎて幻覚でも見ているんだろうか。

 だって、そんなことって。


 私の困惑をよそに、目の前の青年は足下のシャーペンを拾って手渡しながら、説明を続けた。

「その問題集には、本試験と追試験のどちらも載っている。僕の指示通りに解いていれば、白瀬が解いたのは本試験の方だけだ」


 この一ヶ月半、たくさん聞いていた声が耳を撫でる。けれど、上手く頭に入らなくて、私は呆けたように彼を見ていた。

「ん? 随分焦っていたようだったから、てっきり解いたはずの問題に見覚えが一切なくて混乱しているのかと思ったんだが違ったか?」

 訊ねられ、ようやく私は口を開くことが出来た。でも、出てくるのは問いに対する答えではない。


「な、んで……?」

 私の漠然とした問いに、きょーちゃんは短くなった前髪を指で弄びながら、バツが悪そうに言った。

「……ちょっと色々あってな」

「いや、色々ってなに?! 全然答えになってないし! っていうか、え?」


 今日のきょーちゃん、めちゃくちゃかっこいいんですけど???


 さっきとは別の疑問で頭がいっぱいになる。

 元々、素材が良いとは思っていたのだ。たぶん、このクラスでそれに気付いているのは、私と氷雨先生だけだと思うけど。

 今日のきょーちゃんは、表情を覆い隠していたうっとうしい前髪を切り、後ろ髪や左右の髪も清潔感があって爽やかな印象に仕上げられている。眉毛も適度に整えられ、胸も自然な開き具合で、猫背を直した身長はいつもよりずっと高く見えた。


「宣戦布告した手前、前のままってわけにもいかないかと思って……。仕方なくだ、これは」

 あまりにじっと見過ぎたからか、きょーちゃんは照れたように顔を背けた。

「ぜんぜんなに言ってるのかわかんないけど……まぁ、きょーちゃんがカッコよくなるのはうれしいからいっか!」


 早く来たのは失敗だったと思ってた。一人きりの教室は寂しいし恐い。

 でも、やっぱり早く来てよかった。

 だって、二人きりの教室は、とっても楽しい。


「なぁ、白瀬」

 いつの間にか普段の仏頂面を取り戻したきょーちゃんが、呼びかけてくる。

 ちなみに、頬の赤みは引いているけど、耳はまだ赤くなっていた。前は髪の毛で隠されていたから気付かなかったな。きょーちゃんにはしばらくナイショにしておこう。


「なあに?」

 私が問いかけると、きょーちゃんが言った。

「このタイルから真っ直ぐ教室の端まで、タイルの上からはみ出ないように歩いてみてくれ」

「?」

 いったい何の意味が? と疑問に思いつつも、きょーちゃんが言うんだから必要なことなんだろう、と素直に歩いてみる。

「歩いたよ?」

 教室の端から問いかけると、きょーちゃんが言った。

「じゃあ、今度は想像してみてほしい。とても高いビルが二棟ある。その二つを結ぶように、橋が架けられている。その橋が、このタイルだ。柵や手摺りは無い。こっちまで、歩いて戻って来られるか?」

 私は想像する。ここは地上なん百メートルのとっても高いところ。下を見ると街並みはおもちゃみたいに小さくて。時折冷たい風がびゅうっと吹き抜ける。

 命綱はもちろんナシ。そんな状況で、この幅三〇センチくらいしかない橋を渡る……?

「ちょっと……恐いかも……」

 思わず身震いして答えると、きょーちゃんは言った。


「これで分かったと思うが、人間は本来簡単にできることでも、〝もし失敗したら〟と考えると、たちまち出来なくなることがある」

 言われて、はっとした。思わずきょーちゃんの顔を見る。


「白瀬。白瀬なら、大丈夫だ」

 照れることもなく、皮肉を言うでもなく。

 珍しいくらい、真っ直ぐな言葉。視線。

 そう言ってくれるのは嬉しい。けど。


「……でも、私にできるかな」

 いつかと同じ弱気が零れる。

 きょーちゃんが、僅かに目を見開いた。

 そして、一文字に結ばれがちな口元を緩めて言う。


「……できるようになるまで」

 ああもう。ずるいなぁ。

 だって、そう言われちゃったら、私が返せる言葉は一つしかないじゃないか。


「頑張ればいい!」

 白瀬はもう、たくさんたくさん、頑張ったろ? だから、大丈夫だ。

 そう言って、きょーちゃんは笑った。

 いつの間にか、私の手の震えは止まっていた。

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