問21.頑張れる理由を答えよ
職員室で氷雨先生の話を聞いた後、僕はいつも通り下校時刻まで自習室で勉強をし、いつも通り帰宅をした。
《おめでとう。これで僕が教えることは全部教えた。だから、勉強会はもうやめにしよう》
僕が送ったLINEに対し、白瀬からはしばらく経ってから返信が来た。
《うん、わかった》
どんな返信がくるか。なんで? と問われたらどう説明しようか。色々考えていたので少し拍子抜けだ。
だがまぁ、元々マーク模試で成績を上げるための、一時的な関係だったわけだし、こんなものだろう。
こうして呆気なく、僕たちの勉強会は終わりを迎えた。
そして翌日、七月十四日。マーク模試までのこり五日。
いつも通り登校し、いつも通り誰とも喋らずに一日の授業を終える。
途中、何度か白瀬の視線を感じた、気がした。
その度に顔を背けていたので、単なる自意識過剰かも知れないが。
SHRが終わり、僕はいつもの通り図書室へ向かう。
図書室は相変わらずの静けさで、前は心地よかったはずのそれが、今はどうしてか落ち着かない。
窓の外を誰かが通る度、来ないはずの人間を探している自分に気づいて、無性に恥ずかしかった。
勉強会を終わらせたのは自分だろう。
一ヶ月前の生活に戻っただけのはずなのに。一ヶ月前は、この生活に十分満足していたはずなのに。
気合いを入れ直して、僕は問題に向かう。
図書室が閉まるとそのまま自習室へ向かい、勉強の続きをする。
完全下校時刻になって学校を追い出され、家で夕食を取り、シャワーを浴びて、また机に向かう。
スマホが鳴ったのは、そんな時だった。
「……通知、か」
画面に表示された名前を見て、チャットがとんできたのかと思った。
しかし、僕の予想に反して画面に躍るのは「白瀬あいらさんが【勉強配信! 今夜もみんなでがんばろう♪】を始めました」という通知文。
少しだけ悩んでから、僕は家族で共用のタブレットを自室に持ち込んだ。
白瀬との関係は断つと決めたのだ。僕が未練がましく白瀬の配信を見ていることを、知られたくはなかった。
家族共用のタブレットで配信アプリを使うのは、主に妹だ。妹のアカウントでログインしっぱなしになっている配信アプリを立ち上げ、白瀬の配信にアクセスする。
画面の中では、もこもことした部屋着に身を包んだ白瀬が、問題集と格闘していた。
髪を頭の上の方でひとつに束ね、真剣な表情で問題をこなしていく。
時折「ぅん」と口をへの字にして唸る。丸つけの際には、正解していたのか、ぱあっと笑顔になったり、かと思えば「そっか……」と呟いて、すっきりしたような、悔しそうな顔を見せている。
どうやら、勉強は順調に進んでいるらしい。
少しだけ安心して、僕も自分の勉強に取りかかる。
白瀬は、きっと大丈夫だ。
そうなると問題は、氷雨先生の件だけ。
「次の職員会議は、明日か」
職員会議は毎週木曜日に行われる。
僕と白瀬に何かあったことは、今日の様子から氷雨先生も分かったはずだ。
これであとは、僕の成績さえ元に戻れば氷雨先生も文句はないだろう。
だから、今の僕にできることは勉強だけ。
どうか氷雨先生が、考えを改めてくれますように。祈るような気持ちで、僕は問題を解き進めていった。
時計の短針に長針が追いついて、ぴったりと真上を指す。
そろそろ寝ようか、と僕が画面の×印に指を伸ばしたのと、画面の中の白瀬が大きく伸びをしたのはほぼ同時だった。
そのまま白瀬は両肩を回し、
「ちょっときゅーけーしよっかな」
と、画面に視線を向ける。
思わず伸ばしていた手を引っ込め、画面を見遣る。
コメントを確認しているのだろう。白瀬がこちらに手を伸ばし、人差し指で画面を上下になぞっていた。
「……そうだよね」
イヤフォンで無ければ聞き漏らしていた小さな声。そう呟いた白瀬の瞳はどこか寂しげだった。
一体、何が「そうだよね」だったんだろうか。
〈あいらちゃんお疲れ!〉〈なんかちょっと元気ない?〉〈毎日遅くまで頑張っててえらい〉〈モデルのお仕事もあるのに大変じゃない?〉
白瀬がコメントを見ているのに気づいたのだろう。コメント欄が一気に賑わう。
「みんなもお疲れさま! あいらは元気だよ。毎日お勉強づけでちょっち疲れてるけど、ラストスパートだし。えへへ、えらいって言ってくれてありがとー」
先ほど見た寂しげな瞳が見間違いかと思うくらい、元気な笑みでコメントに反応する白瀬。
と、その視線が一点に留まった。
〈どうしてそんなに頑張れるの?〉
何の変哲もない、普通のコメント。僕にはそう見えるのに、白瀬は縫い付けられたかのようにそのコメントをじっと見つめている。
そんな様子が気になって、僕は思わず寝るタイミングを逃してしまった。
数瞬の後、呪いでも解けたかのように、白瀬がいつもの元気な様子に戻る。
「……んー、ちょっと昔話してもいい?」
かと思えば、今度は懐かしそうに、眩しいものでも見るように目を細めた。
もしかしたら、先ほどの白瀬の視線は過去に向いていたのかも知れない。
コメントをではなく、その向こうにある、懐かしい記憶に。
「あのね。あいら、あいらよりもすっごくがんばってる子を知ってるんだよね」
胸が跳ねた。
違うだろ。期待するな。
「その子と初めて会ったのは中学の頃だったんだけど」
ほらやっぱり。
考えてみれば、先ほど白瀬は「昔話をする」と言っていたじゃないか。
白瀬と話すようになったのは、勉強を教えてほしいと頼まれた一ヶ月ほど前からだ。話題の人物は自分じゃない。
考えるまでもなく分かっていたはずだった。それなのに、どうして僕は落胆しているのか。
「……寝るか」
今更ながら、知り合いの昔話をこっそり聞くのは、いけないことではないか、という疑問が湧いてくる。いくら配信で不特定多数に向けて語られたものだとしても。
今度こそ配信を止めようと画面に指を伸ばして――
「その子ね、毎日毎日、ずーっと遅くまで、バスケのシュート練してて」
またしても、胸が跳ねた。今度は、先ほどよりも強く。
いや待て。冷静になれ。白瀬とは別の中学で。面識なんて無いはずで。
期待なんてしても、ろくなことにはならないって、知ってるだろ。
己の意思に反して、胸が鳴る。ずっと。鳴り止まない。
「それをね、何回かこっそり見てたんだけど、一回だけ話しかけられたことがあって」
あ。
思わず小さな声が漏れた。
思い当たることがあったから。
「その日はちょっと悲しいことがあってぼんやりしてたから、うっかり近づき過ぎちゃったんだよね。そしたらね、「すみません、独占してて。すぐ退くんで、あと一回だけ投げていいですか?」って聞かれちゃって」
甦る。そうだ、あの日確かに僕は。
思い出す。夏の夜のむっとした空気。ボールの感触。シューズが地面を蹴る、体育館とは違う音。
あの日確かに、僕は話しかけていた。
パーカーのフードを目深に被った見知らぬ少女に。
画面の中で、白瀬が語る。
「あいら、その日はかなしいことがあってぼーっとしてたからさ、すぐに返事できなくて。しかも、ちょっと泣いちゃってたんだよね」
あれは確か、中学二年生の夏だった。
ずっと忘れていた記憶、忘れようとしまい込んできた記憶が、ぶわっと一気に溢れ出す。
目の前の少女が泣いてると分かったときの焦り。どうしよう。どうしたんだろう。何かしなくちゃ。
当時の僕は、自然とそう考えるような人間だった。困っている人が居たら当たり前に手を差し伸べられるような。世間のことを知らない、警戒心もない、真っ直ぐな子ども。
画面の中で、白瀬が語る。
「そしたらその子が、どこかに歩いてっちゃってね。あ、逃げられた。そりゃ逃げるか。って思ったの。だってあいら泣いてたし。いきなり知らない女の子が側で泣いてたら、びっくりするよねフツー。
でもね、ちょっとしたらその子が戻ってきて「コーヒーとココア、どちらがいいですか?」って訊いてきて。なんと、自販機で飲み物を買ってきてくれたの!」
大切な思い出を語るように、穏やかな瞳と、跳ねるような声で。
あの日、見知らぬ少女に話しかけられた僕は、咄嗟に飲み物を買ってきて少女に手渡した。
そして、驚いた様子の少女をベンチに座らせ、「僕でよければ、話、聞きましょうか?」と声をかけたのだ。
ベンチに腰掛けた少女は、僕が手渡したミルクティーをちびちびと飲むばかりで、しばし無言だった。フードを目深に被っており、その表情はうかがい知れない。
これは対応を間違えただろうか。焦りを募らせる僕に、少女は零れるように呟いた。
「……なんでそんなにがんばれるの?」
少し考えてから、先ほどまで行っていた3ポイントシュートの練習のことだと気付く。もしかして、結構前から見られていたのだろうか。まだ全然上手く入らないから、そうだとしたら、少し恥ずかしい。
「誰かのために、頑張るのが好きなんです。僕のシュートがもっと決まるようになれば、チームはもっと強くなれるでしょう」
少し考えてから、僕はそう答えた。
今にして思えば、馬鹿な答えだ。誰かのためにする努力なんて何にもならないのに。そんなことに時間を割くくらいなら、自分のための勉強を頑張った方が良いのに。
画面の中で、白瀬が語る。
「それでね、あいらその子に訊いたんだ。
「がんばってもできるようにならなかったらどうしよう、って恐くなったりしないの?」って。
もしそうなったら、自分が本当に何もできないって分かっちゃうじゃん? それってめっちゃ恐いことなんじゃないかって思って、聞いてみたのね。
そしたら――
「それは無いですね。できるようになるまで頑張るので」って。
それ訊いて、めっちゃかっこいいって思って!」
過去の自分の発言を聞かされ、僕は思わず赤面した。なんて恥ずかしいことを言っていたんだ僕は。
画面の中で、白瀬が語る。
「あいらもさ、何か頑張りたいなって思ってたんだよね。
そんで、その日泣いてた原因なんだけど、実は知り合いの男の子に、背が高いことからかわれてさ。「進撃のあいら」とか言って。だからあたし、訊いてみたんだ。」
「あいらも……私も、何かがんばれるかな?」
「何か、がんばりたいこととかあるんですか?」
「うう、それはまだ、思いついてないけど……」
「せっかく背が高いんですし、スポーツでもやってみてはどうですか? バスケットボール、楽しいですよ」
「球技は爪割れちゃうからなぁ」
思い出す。そう言った少女は、両の手を地面に向けて、僕に爪を見せてくれた。色とりどりのマニキュアで塗られた小さなキャンバスは、可愛らしいイラストが描かれ、それを輝かせるように散った小さな石がきらきらと煌めいていた。
画面の中で白瀬が語る。
「そしたらね、その子が訊いてきたの。
「ファッションとかに興味があるんですか?」って。それであいら、
「うん、服とかめっちゃ好き!」って答えたのね。そしたらさ、その子が言ってくれたの。
「なら、モデルでもやってみては?」
その時にはもう、すっかり涙も止まっててね。モデルかぁ、確かに良いかもなって思って。でも、自分に自信とかなかったからさ。
「……でも、私にモデルなんてできるかな?」っても思ってて。
その時にね、直前にその子から聞いた言葉を思い出したの」
思い出す。俯いたまま発された言葉。不安げな声。
けど、すぐにはっとした様子で彼女は僕の方を見た。
「できるようになるまで」「頑張ればいい!」
二人で顔を見合わせて笑う。出会ったとき泣いていた少女は、最後は笑顔で家に帰っていった。
画面の中で、白瀬が語る。
僕との思い出を。当時は知らなかった白瀬の気持ちを。
「それであいらはモデルになった、というわけ。そしたら、モデルのお仕事ってちょー楽しくてさ。ほんと、あの日あの子に出会えて、ほんとに良かったよ。おかげで、みんなにも会えたしね」
画面に向かってウィンクを飛ばす白瀬。
白瀬の家庭環境について話を聞いてから、僕はてっきり、白瀬は家計を支えるためにモデルの仕事を頑張っているんだと思っていた。けど、違った。
確かに、家計のためというのもあるのだろう。でも、それ以上に、〝楽しいからやっている〟という部分が大きいみたいだ。
だって、「モデルのお仕事ってちょー楽しくてさ」と語ったときの白瀬の顔は、とても活き活きとしていた。
どうしたって、胸の鼓動を抑えられない。
白瀬がモデルを始めたのは、僕との会話がきっかけだった。白瀬はモデルの仕事を、とても楽しんでやっている、らしい。
「つまりね、あいらはがんばってるというか、今目標があってね、それはとっても大変な目標なんだけど、絶対達成したいって思ってて、だから、
――できるようになるまで、やってる。それだけなんだよ。
あとはまぁ、その子がすっごく頑張ってる姿が、かっこよかったからかなぁ。きらきらしてたっていうか、眩しかったっていうか。
あいらも、負けてられないぞーって思ってさ」
そう締めくくって、白瀬ははにかむように笑った。
今日まで、そんなやりとりをしたことすら忘れていた。
バスケに打ち込んだあの二年半は全て無駄だったと思って、関連する記憶丸ごと全部に蓋をして、仕舞い込んで。
けれど。
全部が全部、無駄ってわけじゃなかったんだ。
あの日の練習は。頑張りは。
少なくとも、一人の人間の心を、人生を動かしていた。
鼓動が鳴る。何度も。
ここにきて、僕はふと思った。
誰かのために頑張っても無駄だと、人と関わってもどうしようも無いと思っていたが、果たして本当にそうだろうか。
一人で勉強を頑張ることが、最善の道なのだろうか。
窮地に立たされている白瀬のために、何か他にできることがあるんじゃないか。
繋がりを断って、一人で勉強して。
白瀬のためとか言って本当は、自分が傷つくのが恐くて逃げているだけじゃないか。
自分で言ったはずなのに、すっかり忘れていた。
「できるようになるまで、頑張ればいい」
そうと決まれば、あとはやるだけだ。
僕はそっと自室を抜け出し、隣で寝ているであろう妹の部屋を訪ねる。
「柚子、悪いんだけど、ちょっと協力してくれないか」
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