幕間

 人生は学力が全てである。

 そんな父の口癖に対して僕は、バカじゃないのと思っていた。

 確かに、学力はないよりも会った方がいいだろう。テストの点が高ければ先生にも褒められるし、偏差値が高ければ行きたい学校に進学することができる。人生の選択の幅が広がるのだ。


 でも、学力より大切なものだってあるだろう。

 例えばそう、友達とか。

 だって、友達と一緒に本気で全国を目指して部活に打ち込む日々は、とても充実している。

 そりゃあ練習はキツいが、試合で勝てればそんなのチャラだ。特に、格上の高校に勝てたときの嬉しさったらない。

 練習のあとの買い食いは旨いし、自転車を漕げば夜風が汗を冷やしてくれて、なんだか爽快だ。みんなでじゃれ合いながら帰るのも、なんだかんだ気に入っている。


 だから、人生は学力が全てなんて言ってるのは、友人に騙された父の僻みだと僕は思う。

 当時僕はまだ幼くて、だから父と友人の間に何があったのか詳しくは知らない。

 だが、酔った父が「俺がバカだからって騙しやがって」「絶対儲かるって言ってたくせに」「俺はあいつを信じてたのに」と言っているのを聞いて、何となくの想像はついた。大方、親友だと思っていた相手に誘われたマルチ商法かなんかで失敗でもしたんだろう。


 ともかく。

 人生は学力が全てである、なんてのは父の僻みに過ぎなくて、大切なものはほかにもたくさんあると僕は思っていた。友情とか。部活とか。今はまだしてないけど、恋愛とかさ。

 そう、思ってたんだ。



「それにしても、藤波も可哀想だよな」

 昼休み。個室トイレで用を足していると自分の名前が耳に入り、僕は思わず耳をそばだてる。

「それな。引退試合ももうすぐだってのに」

 声の主は二人。どちらも、僕がつい先週まで所属していたバスケ部の仲間だ。

 クラスが同じということもあって、部員の中でも特によくつるんでる二人だ。いつも昼飯は一緒に食うし、部活が休みの日にはカラオケやスポッチャに遊びに行ったりもした。

 まあ、もうスポッチャは一緒に行けないだろうが。

 個室の隅に立てかけた松葉杖を見て、小さくため息を漏らす。


 最初は、成長痛かと思っていた。身長一七五センチは中学生にしては高身長だが、高校でもバスケを続けるならもっとあった方が良い。

 まして、自分はスポーツ推薦ももらっているのだ。

 高校で、強いチームで戦うならあと二〇センチくらいほしい。膝が痛いのは背が伸びてる証だと信じて疑わず、痛みを歓迎してすらいた。

 しかし、膝の痛みは徐々に無視できないものとなっていった。それでも試合は無理を押しても出たかったし、試合前の練習を休みたくはなかった。

 それに何より、僕はみんなのために頑張るのが好きだった。


――藤波のおかげで、ほんと助かるよ。


 初めてそう言ってくれたのは二学年上の先輩だった。効率的な練習メニューを考えて提案したところ、返ってきたのがそんな言葉だった。

 その後も僕は、少しでもチームに貢献しようと、色々なことを行った。それは自主的なボール磨きであったり、トレーニング方法の見直しであったり、3ポイントシュートの練習であったり。


 全部、チームのためだった。僕が頑張ることで、弱小だったバスケ部がどんどん成長していき、全国大会を狙えるところまでこれたのが、嬉しかった。

 この試合が終わったら病院に行こう。アイシングやマッサージを丁寧に行い、騙し騙し使っていた膝は、しかし、試合の最中に壊れてしまった。


 試合でシュートを決め、着地した瞬間だった。

 立っていられなくて、体育館にぐしゃりと倒れ込む。息のできないほどの痛み。チームメイトや監督が何か叫んでるようだが、全ての音が遠くて何を言ってるのか分からない。

 運び込まれた病院で、もう二度と、激しい運動はできないと言われた。日常生活は送れるようになるだろうが、それにも治療とリハビリがいると。


 まだたった、三週間前のことだ。

 自分の呼吸音がうるさい。ちょっと思い出しただけでこれだ。心臓も早鐘を打ったようで、背中も手のひらもびっしょりと汗ばんでいる。

 そうしている間にも、扉の向こうでは二人の会話が続いていた。

 なんとなくタイミングを失って、僕は個室から出そびれてしまった。


「けどさ、」

 声を潜めて、一人が言った。

「ちょっと、いい気味だと思わねえ?」

 思わず、耳を疑う。

 自分がフラッシュバックに魘されてる間に、話題が変わっていたのだろうか。そんな細い希望を潰すかのように、もう一人も言う。


「まぁ確かに。正直藤波抜けてからの方がやりやすいわ」

 今聞こえたのは、自分の名ではないか。

 こいつらは一体、何を言って。

「一人だけ熱血で、正直うざかったし」

「それ。俺らが全国いけるわけないじゃんね」

 二人の笑い声が響く。


「しかもあいつ、バカのくせして駒城高の推薦取るとか。ありえないっしょ。ちょっと背が高いだけのくせに」

「分かるわー。二年の時だっけ? 急に背が伸びてシュートバンバンはいるようになってさ」

 違う。シュートが入るようになったのは、練習終わったあとも夜の公園で一人特訓してたからで。

 僕が強くなった方がチームのためになると思って。


「先輩たちも、内心うっとうしがってたよな」

「それな。「助かるとか言わなきゃよかった~」って皆川先輩が言ってたの、聞いたことあるわ」


 ひゅっと、喉が鳴った。


――藤波のおかげで、ほんと助かるよ。


 これまで、僕が支えにしてきた言葉を、先輩はそんな風に思っていた……?

 じゃあ。それなら僕のこの二年半は、一体何だったんだ。僕は何で、こんな怪我までして。


「どうせならさ、二年の時に怪我してくれりゃよかったのにね。そしたら俺レギュラーだったじゃん」

 確かに、僕が特訓する前はお前がレギュラー候補だったかもしれないけど。

「ちょ、言い過ぎだって」

 言葉こそ制止するようなものだったが、声には笑い声が滲んでいた。


 用が済んだのだろう。笑い声はそのまま遠ざかり、やがて聞こえなくなった。静寂が男子トイレに満ちる。

 聞こえなくなってからも、僕はしばらく動くことができなかった。

 胸に去来するのは「ああ、これか」というシンプルな感情。

 怒り、ではなかった。悲しみでも。絶望でも。

 今の気持ちに言葉で輪郭を与えるなら、虚無感だろうか。

 それと、納得。


 父さんが言っていたのは、これだったのだ。

 なるほど確かに、友達なんてばからしい。部活も、青春も。何もかも。

 友達のため、チームメイトのため、そんな思いで部活に打ち込んだこの二年半は全て無駄だった。

 人生は学力が全てである、か。

「ったく、バカなのはどっちだよ」

 口から乾いた笑いが漏れて、けれどちっとも嬉しくなんてなかった。



「おい、お前どこ行ってたんだよ。もう昼休み終わっちまうぞ」

 教室に戻ると、先の二人が話しかけてきた。いつも通りの軽いノリで。

「ちょっと図書室に行ってたんだ。僕はスポーツ推薦がダメになっちゃっただろう? だから、勉強しておかないとって思ってな」

 二人の顔に浮かぶのは、怪我をした友人を気遣っている用にも見える薄い笑み。少なくとも、さっきまではそう思っていた。けれど今なら分かる。これは自分より下の者を見るとき特有の、余裕と哀れみが混じった笑みだ。

「これから昼休みは、図書室で過ごそうと思う。弁当も一人で食うから」

 そう言うと、二人は少しだけ戸惑いの表情を見せた。その顔がなんだか間抜けで、少しだけ胸がすっとする。

「お、おう。頑張れよ」

 そんな声を背中にうけながら、僕は考える。

 どうせなら、スポーツ推薦をもらっていたところよりも上の高校を目指してみようか。さっきは二人ともう一緒に過ごしたくなくて咄嗟にでた言葉だったが、本当に図書室で勉強するのもいいかもしれない。


――だって、人生は学力が全てなのだから。

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