問18.一番有意義な学生生活を過ごすために必要なものを答えろ

 チャイムが鳴ると共に、教室中からほっと息をつくような声が聞こえてきた。チャイムが鳴り終わるまで必死に食らいついていた数名によるシャーペンの音もやみ、教室が開放的な空気でいっぱいになる。


「こら、テストを回収し終えるまで私語は禁止だぞ」

 教師の注意を受けてみな口を噤んだものの、相変わらず教室にはゆるんだ空気が漂っていた。


 それもそうだろう。七月十二日。今日は定期テスト最終日だったのだから。

 期末試験最後の教科も終わり、あとはもう夏休み一直線。大半の生徒たちにとって、今日はそういう日なのである。

 しかし、そんなふわふわとした空気は一瞬にして凍り付いた。


「HRを始めます」

 凜とした声が、吹き抜ける寒風のように教室を貫く。試験監督だった教員と入れ替わるように、担任の氷雨先生がいつの間にか教壇に立っていた。


「なんか、氷雨先生機嫌わるくない? ひッ」

 小声で囁いた生徒が、氷雨先生の眼光を受けて思わず息を呑む。

 氷雨先生は、確かに厳しい先生だ。提出物忘れや校則違反をした生徒は、すぐに反省文を書かされたり、改善が見られないようなら親に連絡されたりしてしまう。他の先生なら見逃してくれるような僅かな違反でも、厳格に処分を下している。


 しかし、今日は凜としているとか、厳格だとか、そういった雰囲気とも少し違うような気がした。

 何というか、ぴりぴりしているというか。先ほど聞こえた〝機嫌がわるい〟という表現がしっくりくるような。


「皆さん。定期テストが終わったからといって、気を抜いてはいけません。皆さんは何年生ですか? 高校二年生ですよね? 高校二年生の夏は受験をする上で勝負の時期です。遊びや男女交際にうつつを抜かしている場合ではありません」


 氷雨先生の視線を感じた気がして、さっと視線を逸らす。

 気のせい、だよな? 先生が僕の方を見た気がしたんだが。


――氷雨先生、きょーちゃんに甘いもんね。甘いっていうか、お気に入りっていうか。


 不意に、白瀬に言われた言葉が脳裏をよぎった。

 氷雨先生がぴりぴりしている理由は、僕に何か関係があるのか?

 いや、まさかな。

 気にはなったが、教室中を見回しただけだろうと結論付け、深く考えるのは辞めておく。


「テストが終わったからといって、浮かれて事故や事件に巻き込まれることのないように。テストで解けなかった問題の復習もしっかりしておくこと。いいですね」

 氷雨先生はそんな言葉で締め、号令係に帰りの挨拶を促す。


 拘束を解かれた生徒たちは、「なんかこわかったねー」「テストどうだった?」などと言いながら、次々と教室を後にしていった。

 さて、僕も図書室に向かうとするか。今日は久しぶりに、白瀬と対面での勉強会をする予定なのだ。

 鞄に手をかけ、僕が図書室に向かおうとすると、


「藤波君、ちょっといいですか?」

 氷雨先生に呼び止められた。

「はい、なんでしょう」

「回収した数学のワークを運ぶの、手伝ってもらえませんか?」

 思わずびくりとしたが、単に暇そうな力持ちの男子が必要だっただけらしい。

 一瞬白瀬の方をちらりと見遣り、まぁ職員室に寄り道するくらいは大丈夫だろうと判断。

「いいですよ」


 ワークの山を抱えて、氷雨先生の隣を歩いて行く。

 廊下の人気が少なくなった辺りで、氷雨先生が口を開いた。

「ねえ、藤波君。先生、こう思うんです。友達は選んだ方が良い、と」

「……何の話ですか?」

 何が言いたいのか察しはついたが、敢えてとぼけてやり過ごすことにする。


「藤波君。今回のテスト、調子わるかったですよね」

 質問には答えず、氷雨先生はそんなことを言った。

「勉強不足です。申し訳ありません」

 氷雨先生の担当科目は数学。初日に行われた数学Ⅱのテストは、熱があったのも相まって、いつもより30点近く低くなる見込みだった。

 それでもクラスの平均点くらいだと思うが、数学教師としては気になるのかも知れない。


「朱に交われば、赤くなる。この言葉、藤波君なら知ってるでしょう」

「付き合う人によって、善悪どちらにも感化される、みたいな意味でしたっけ?」

 ええ、正解よ。と氷雨先生が頷く。

 持って回った言い回しに、苛立ちが募る。しかし、成績のことを考えると教員相手に心証を損ねたくはない。なんとか平常心を装い、僕は黙って氷雨先生の隣を歩いた。

 氷雨先生が核心を突いたのは。職員室まであと少しのところだった。


「……期末試験一日目の放課後に、見たって子がいるんです。藤波君と白瀬さんが、保健室に入っていくところ」

 それも、とても親密そうだったと言っていたわ。氷雨先生はそう付け加えて僕を見た。

 どちらともなく、脚を止める。廊下には僕たちしかおらず、廊下の突き当たりには、テスト期間で「生徒立ち入り禁止」の張り紙がしてある職員室の扉が見えた。


「先生、藤波君には期待しているんですよ。テストの点は全科目いいし、提出物やノートからも、真面目さや丁寧さが伝わってくる。だからこそ、心配もしていて。……何となく、学生時代の私に似ているから」

 氷雨先生と、こんなに話したのは初めてだった。期待してくれているのは素直に嬉しいし、気にかけてくれているのも分かる。


「だから、あえて言わせていただきます。藤波君、友達は選んだ方が良いわ。高校生活を悔いなく、有意義に過ごすために」

 それに、氷雨先生の言葉はもっともだ。だって、これは僕が常々考えていることとまったく一緒なんだから。


 一度しかない高校生活を、有意義に過ごしたい。

 そのためには、くだらない奴と連んでないで、勉強に精を出した方が良い。


 そのはずなのに、なぜだろう。もっともなはずのその言葉に、真っ直ぐには頷けない自分がいた。

 口を開き、閉じた。もやもやとした胸の思いは、言葉を形作ることなく胸の中に沈殿していく。


「先生は、あなたのためを思って言っているんですよ」

 ワークはここまでで大丈夫です。テスト期間中、生徒は職員室立ち入り禁止でしたね。そう言って、氷雨先生は僕の抱えていた数学のワークの山を受け取る。

 結局僕は、氷雨先生に何も言い返すことが出来なかった。



 放課後の図書室。前に来てから数日しかたっていないはずなのに、随分久しぶりに訪れたような気がした。

「きょーちゃん遅かったね。なんかあった?」

 氷雨先生と話してから来たので、今日は白瀬の方が早かったらしい。軽い調子で聞かれ、「いや、特に何も」と返す。

「んー、そっか」

 白瀬は少し気になった様子だったが、深くは追求しないことに決めたらしい。なんと説明したらいいか分からなかったので、少しほっとする。

「期末試験が終わったばかりだが、マーク模試まであと一週間だ。今日もビシバシ行くぞ」

 空元気のようにそう言って、僕たちは約一週間ぶりに対面での勉強会を始める。


――藤波君、友達は選んだ方が良いわ。高校生活を悔いなく、有意義に過ごすために。


 勉強をしている間も、氷雨先生の言葉は僕の耳にずっと残っていた。

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