問9.彼女の本当の気持ちを答えよ

 一体何がどうなっている?


 混乱する僕をよそに、白瀬はするりと改札を抜け、帰宅するべくずんずんと歩いて行く。

 後をついて歩く僕に、その表情は見えない。

 一体どういうつもりなんだ。意図が読めず、けれどここで引き返す気にもなれず、僕は黙って白瀬の華奢な背中を追う。


 商店の類いがあったのは駅前だけで、十分も歩くと周りはすっかり住宅ばかりになっていた。

 速いペースで歩いていた白瀬が、古ぼけたアパートの前で立ち止まる。


「ここ。あいらの家。……おどろいた?」

 小さく笑いながら、白瀬が言う。いつもの快活な笑みとは違う、寂しげな自嘲。

 僕が返す言葉を見つける前に、白瀬はアパートの敷地に入り、階段をのぼっていく。木造なのだろうか、踏みしめる度に僅かに音が鳴って、壊れるんじゃないかと冷や冷やした。


 鍵を回して、「ただいまー」と言いながら部屋に入る白瀬。

 どうしていいか分からず玄関先で立ち尽くしていた僕だったが、白瀬に促されて恐る恐る敷居を跨ぐ。


「お邪魔します」

 遠慮がちに呟く。家には誰も居ないのか、返ってくる声はなかった。

 狭い玄関には女性物の靴と子供靴が置かれ、廊下の向こうには畳敷きの居間らしき部屋が見えた。


「こっち」

 白瀬が、再び僕の手首を握る。

 六月だというのに白瀬の手は冷え切っていて、ひんやりと冷たい。


 連れられてきたのは、白瀬の部屋らしき場所だった。

 ベッドにはぬいぐるみが並び、勉強机には雑誌やら鏡やらが乱雑に置かれている。

 女子の部屋に入るのなんて初めてで、何をどうしたらいいか分からない。きょろきょろしてたら気持ち悪がられるのでは? と目線のやり場すら見つけられず突っ立っていると、


「座ったら?」

 と、ベッドを促された。ベッドを促された?!

 ここで意識するのも逆にアレだろう。そう考えて、されど落ち着かず、せめてもの抵抗とばかり無駄に浅く腰掛ける。


 さて、白瀬はどこに座るのだろうか。そう思って視線をあげると。

 ぽすん。

 ベッドが跳ねる。拳ひとつ分の距離をあけ、白瀬が隣に腰掛けていた。

 白瀬は普段から距離が近い。が、この状況でそれは流石に無防備が過ぎるのでは……? 

 いくら自分の家だからといって、くつろぎすぎだろう。まぁ、僕が異性として見られていないからかも知れないが。 


 そんな悲しいことを考えていると、指先に何かが当たるのを感じた。白瀬の指だ。

 慌てて引っ込めようとした小指に追いすがるように、白瀬の小指が絡まる。触れているのは小指だけのはずなのに、触れたところから熱が瞬く間に広がり、身体中が沸騰しているみたいに熱い。


 なんだこれは。白瀬は一体、何を考えている?


 白瀬がどういうつもりか知らんが、とにかく離れなければ。

 僕が白瀬から離れた位置に座り直そうとするのと、白瀬がもたれかかってくるのは同時だった。

 温かくて、柔らかくて、おまけに何かいい匂いもする。小指が触れ合っただけでもどうにかなりそうだったのに、これはいよいよ本当にまずい。


「今日さ、ママ帰ってくるの遅いんだよね。たっくんも、あー……うち、弟いるんだけどね、今日は習い事であと三時間くらい帰ってこないの」

 腰を上げるタイミングを逃し、僕はその場を動くことができない。


「何のつもりだ」

 全力で顔を逸らして言う。そうでないとおかしくなりそうだった。

 必死でこの状況から意識を逸らす。玄関で見かけた子供用の靴は、弟のものだったのか。となると、女性ものの靴は、外出中だという母親か、白瀬自身のものだろう。


 ここにきて、僕の脳裏にひとつの疑問が浮かぶ。

 今日は土曜日。世間一般では休日のはずだ。それなら、白瀬のお父さんは……?

 疑問が顔に出ていたのか、胸中の疑問に答えるように白瀬が言った。


「パパね、外に愛人つくって帰ってこなくなっちゃったんだ。それで、前住んでたお家を売ってここに越してきたの。その時のお金で、あいらの学費とか払ってもらってなんとか生活してるって感じ」

 予想外の告白に、身体を支配してた熱が一気に引いいていくのを感じる。


「あいらはね、高校辞めてモデル一本で頑張るんでもいいかなって思ってるんだよ? でもなんか、ママがムキになっちゃってて。パパが出てったのは、自分に学がないからだって思ってるみたいなんだよね。相手の人はパパの会社の人でね、なんか有名な大学出てるとかって」

 一体何を聞かされているんだ。先ほどとは異なる困惑を胸に抱えた僕をよそに、白瀬が続ける。


「ママさ、あいらにモデルを辞めさせて、塾にいれようとしてるじゃん。そんなお金あるわけないのにね。いまだって、土曜日もパートに出てとっても大変そうなのに」

 白瀬の声が震えている。

 いや、震えてるのは声だけではなかった。


「それにさ、お金はもっとゆーいぎ? に使うべきだと思うんだよね。たっくん、弟はすごくてね、小学校のテストはいっつも百点なんだよ! 塾のお金とか、大学のお金とか、そういうのはたっくんのために残しとかなきゃダメじゃん。だからさ――」

 言葉を切る。俯いていた白瀬が顔をあげ、その視線が僕の視線とぶつかる。


「――だから、あいらはどうしても、モデルを辞めるわけにはいかないんだよ」


 決意の篭もった、強い眼差し。その瞳は潤んでいたが、頬は濡れていなかった。

「そのためには、勉強を頑張ってママを納得させなくちゃいけなくて。そのためならあいらは――」

 触れていた小指が一瞬離れ、僕の手に白瀬の手が重なった。


「ね、きょーちゃん……〝いいこと〟しよ」


 吐息が耳朶を打つ。電気でも走ったみたいに腰の辺りが痺れ、ついでに思考も不明瞭で、一瞬本能に全てを支配されそうになる。だが。


「この前振りで「はい、そうですか」ってお前を押し倒すような奴は人間じゃなくて猿だから、縁を切って山に返してきた方がいいぞ」


「な、んで……?」

 僕の言葉に、白瀬は泣きそうに顔を歪める。

「でも、それでも、あいらはきょーちゃんに勉強教えてもらわなくちゃいけなくて。確かに、あいらはバカだよ? だから無駄かもしれないけどっ。でも、」

 白瀬の言葉に、僕は何か引っかかるものを感じる。


「それで、だから、きょーちゃんに返せるものなんて何もなくて、メリットなんて思い浮かばなくてっ、でもどうにかしなくちゃって思って、何も思いついてないのに〝いいこと〟なんて言って、期待させるようなこともしちゃってっ。なのにきょーちゃんすごく一生懸命教えてくれるし、何かそれに見合うメリットを考えなきゃって、思って頑張って考えて、考えて」


「それで思いついたのが、女の子ゴコロのレッスンだった、と」

 こくり。白瀬が頷くと同時、滴がベッドに落ちてシーツの色を変える。

「でも上手くいかなくて。きょーちゃんの時間を奪うばっかで。きょーちゃんに見捨てられたら、モデル続けられなくなっちゃうのに」

 もうほかに捧げられるものが思い浮かばず、自分の身体を対価に差しだそうとした、と。


「なんであいらじゃダメなの? きょーちゃんはもっと、黒髪で大人しい感じの女の子の方がいいの? でももう、あいらがきょーちゃんにあげられるメリットなんてこれくらいしか」

 白瀬がぐっと身を乗り出して言う。その表紙にキャミソールの襟ぐりから白い谷間が目に入って、慌てて顔を逸らす。ちなみに白瀬の手の位置は僕の太ももの上だ。さすがに身体が反応してしまいそうになり、僕は白瀬を「とりあえず落ち着け」と引きはがし、2、3、5、7、11、13、17、19、23、31……必死に素数を数えていた。

 二人ともの息が整ったのを見計らい、僕は口を開く。


「何でも何も……モデルなら自分が今どんな顔してるかくらい、把握できるようになっておけ」

 そんな真っ白い顔で震えながら誘ってきて、いいこともクソもあるか。

「でも……」

 なおも食い下がろうとする白瀬に言い聞かせるように、僕は言った。


「それに、白瀬は何か勘違いをしているようだが」

「勘違い?」

 首を傾げる白瀬。思い返すのは駅でのやりとりだ。


 ――もう、やめにしないか?

 ――やめる、って?

 首を傾げる白瀬は、思えば妙に不安げだった。


 ――だって、無駄だろう?

 この言葉を、僕は〝女の子ゴコロレッスンを僕が受けても無駄だ〟という意味で言ったのだが、白瀬はきっと。

 

「白瀬は、僕が「無駄」だと言ったのを気にしているみたいだが」

 白瀬の肩がびくんと跳ねる。


「あれは、「僕が白瀬からコミュニケーションに関する手ほどきを受けたところで、僕に人と関わるつもりがない以上何の意味もない」という意味で言ったんだ」

「え? あいらに勉強教えても無駄ってことじゃなくて?」


 ぱちぱちと瞬きをしながら白瀬が言う。

 やっぱりか。僕は思わず顔を手で覆った。

 僕は白瀬のことを、コミュニケーション能力が高いと評価していた。そして、気づかぬうちに、白瀬に読み取って貰うことを前提としたコミュニケーションをとってしまっていたのだろう。

 端的に言って、甘えてたのだ。詳しく説明しなくても、こいつなら汲み取ってくれるだろうと。


 己の愚かさに気づき静かに反省している僕をよそに、「あれ、でも……」と白瀬が遠慮がちに口を開く。

「そうだとしても、きょーちゃんがムダって言ったのが女の子ゴコロレッスンのことだとしても、だめじゃない? 女の子ゴコロレッスンがきょーちゃんにとってメリットにならないなら、あいらは他に差し出せるものもないし、そーなると、やっぱり勉強は教えてもらえないってことなんじゃ……」

 白瀬の表情が、再び不安げに翳る。


「あー……そのこと何だが、」

 歯切れ悪く僕が言うと、真っ直ぐな目でこちらを見つめる白瀬と目が合った。

 太ももに載せられていた手こそ退いているが、未だ僕たちの距離は近い。思わず全力で顔を逸らし、頬を掻きつつ言った。


「その、なんだ。女心なんて分からなくていいと思っていたが、今回それが分からなかったせいで、支障をきたしただろ? それで女心を知る有用性を再認識したというか」

 僕のまだるっこしい言い回しに、白瀬が首をひねる。あーもう。


「今回僕の一言がきっかけで、白瀬を泣かせてしまったことを、僕なりに少しは反省してるんだよ。だから、つまりその……今後はそういうことが起こらないよう、僕に女心を教えてもらえると助かるんだが」

 別に僕が直接的に白瀬を泣かせた訳ではないが、僕の言葉が白瀬を思い詰めさせてしまったのも事実な訳で。

 無駄だと思って切り捨てるのは、早計だったかもしれん、と思い直したのだ。そう、それだけだ。


「きょーちゃんってさ、やっぱり優しいよね」

 白瀬が、気の抜けたようににへらと笑う。いつもの快活な、おひさまのような笑みではない、柔らかな笑み。


「あいらが一方的に教えて貰うだけになったら気にするかも……って思って、言ってくれてるんでしょ?」

「……深読みのしすぎだ」

 こんなところで行間を読まないでいただきたい。

 思わず頬が赤くなり、隠すように顔を背ける。そんな僕をみて、白瀬が「ふふっ」と声に出して笑った。

 その拍子に目の端から、溜まっていた滴がつうっと零れて頬をつたっていく。


「ねえ、きょーちゃん……ちょっとだけ胸、貸してくんない?」

 僕の返事を待たず、白瀬のおでこが、こつん、と僕の胸元に当たる。


「きょーちゃんの心臓、めっちゃどきどきいってんね」

「生きてるんだから鼓動くらいするだろう。……鼻水つけるなよ?」

 白瀬の体温を、線の細さをすぐ側に感じ、軽口でも言ってないとどうにかなりそうだった。


「ひっどー。鼻水なんてつけないもん。あ、でもファンデはつくかも」

「それはマジでやめろ」

 帰宅後、ほんとについてしまったファンデーション汚れを母に指摘され、「人混みに行ったからぶつかったときについたのかもしれん」という言い訳をするハメになったのだが、それはまた別の話。

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