問3.ギャルが勉強を教えてほしい理由を求めよ

 静かな教室に、凛とした声が響く。

 今は朝のSHRの時間で、担任の氷雨先生が今日の連絡事項などを話していた。

 耳では氷雨先生の話を聞きつつ、視線は机の上の単語帳へ。昨晩覚えたはずの知識が抜け落ちていないか、しっかりと確認する。

 英語表現の授業は一時間目。あと十分ほどしたら単語テストが始まる。

 単語テストの勉強をしつつも、脳裏に浮かぶのは昨日の白瀬とのやりとりだ。


――藤波恭二さん、あたしに勉強を教えてください


 意志の強い声。深く下げられた頭。

 勉強なんてものとは縁遠そうな白瀬から投げかけられた、どこか切実なものをはらんだお願い。


 問題集を見ていたはずの視線が、気付けば白瀬の机に向かう。

 そこには誰も座っていない。白瀬が、まだ登校してきていないのだ。

 白瀬愛來という人物を一言で表すとギャルである。

 派手な色の髪。着崩した制服。よく言えば華のある、悪く言えば煩い連中と輪になって、何が楽しいのかいつも賑やかにしている。

 そんな、これまで教室で見てきた白瀬の姿は、昨日図書室で見たものと上手く重ならない。


「すみません、遅れましたっ!」

 と、SHRも終わる頃になって、白瀬がようやく教室に姿を現す。


「白瀬さん、また遅刻ですか。今月もう三度目ですよ」

 氷雨先生が眉を顰めて言った。

 確かに、白瀬はこれまでも遅刻が多かった。「すいません、また寝坊しちゃって」と笑っている姿を何度か見たことがある。しかし今日は……


「ごめんなさい、小テストの勉強してて」

 白瀬が言うと、一瞬の静寂の後、教室がどっと沸いた。

「愛來がテス勉とか、雪でも降んじゃねーの」

 いつも白瀬と連んでいる男子の一人が、教室中に聞こえるような声で言う。それにつられたように、教室の笑い声が一段と大きくなった。


「言い訳は結構です」

 ぴしゃり。名前の通り、氷のような冷たい声。

 教室中に響いていた笑い声全てが、氷雨先生の一言で消え去った。

 その静寂を塗りつぶすように、氷雨先生は言葉を重ねる。


「遅刻だけじゃありませんよ。あなたは一体幾つ校則を破れば気が済むんですか。だいたい、その金髪も黒に染めてきなさいと先週も言いましたよね?」

 自分が言われている訳でもないのに、聞いているだけで背筋が凍るような声音だった。

 だが、遅刻はどんな理由であれ良くないことだし、氷雨先生の方が正論だろう。

「でも、これは地毛で……」

 何やら言いかけた白瀬の言葉に被せるように、チャイムの音が鳴る。

「とにかく。今後は校則違反をしないように。遅刻にも一層気をつけてください。いいですね?」

「……はい」


 白瀬は納得しきっていないようだったが、しぶしぶといった様子で頷いた。氷雨先生はそれを見て取ると、SHRの終了を告げて教室を去って行く。

 氷雨先生の足音が遠ざかると、教室の空気が一気に弛緩した。


「あーりん、ゆいちぃ、こわかったよぉ」

 友人らしきギャルに抱きつく白瀬。抱きつかれた女子は、「おーよしよし」とあやすように白瀬の頭を撫でる。


「っていうか、小テストの勉強してたってマジ? 熱でもあんの?」

「ちょっと、あーりんまでひどーい。あいら、ちょーがんばったんだから!」

 それにしても、陽キャの声ってなんであんなにデカいのだろうか。トーンの高さと相まって、聞き耳をたてている訳でもないのに全部聞こえてくる。


「今日はぜったいに満点とっちゃうんだからね!」

「ほお、それは楽しみだな」

 胸を張って言う白瀬に答えたのは、白瀬の友人ギャル……ではなかった。

「みんな席に着け。欠席は……いないみたいだな。日直、号令。――問題集は鞄の中に仕舞え。問題用紙を配るぞ」

 いつの間にかやってきていた英語教師が、号令を終えると同時に小テストの問題用紙を配っていく。

「ようい、始め!」

 シャーペンが紙の上を滑る音が、教室中に響いた。



 放課後。僕はいつものように図書室を訪れ、窓際の席に腰掛けた。

 この学校の図書室は特別教室棟の五階にある。辺鄙な場所にあるからか、来館者は少ない。


 しかし、今日は僕以外にも来館者が一人。

「これで約束通り、勉強教えてくれるんだよねっ?」

 声を弾ませ、白瀬が僕の顔の前にプリントを突き出す。 

 それは、今日行われた英語の小テストだった。全ての答案にマルがついている。

 まじか……。


「それにしても、きょーちゃんってホントすごいよね! 言われた通りに勉強したら、ちゃんと満点とれたもん」

 嬉しそうに言う目の前のギャルとは裏腹に、僕は頭を抱えていた。

 これから僕は、こいつに勉強を教えなくちゃいけないのか……。


「昨日トイレに行く回数訊かれたときは、どんな変態だし! って正直どん引きしたけど」

 ああ、あの時真面目に勉強法を教えたりしなければ。そんな後悔とともに、僕は昨日のやりとりに思いを馳せた。



「白瀬は一日に何回トイレに行く?」

 僕の質問を受け、白瀬は、

「……はあっ? ちょ、は、キモ!」

 顔を真っ赤にして、罵倒と共に机の上にあった消しゴムを僕の顔面に投げつけてきた。


「へぶッ。いやいや、満点を取るために大事なことなんだって」

 消しゴムを顔面でキャッチし、僕は再度問いかける。……よく考えれば、女子に訊くべきことではなかったな。高校に入ってからというもの、ずっと一人で行動していたから、そういう人付き合いする上で必要な常識を失念していた。


「……えっと、学校ある日は、家では五回くらい、かな」

 白瀬が、恥ずかしそうに目を伏せながら、指折り、小声で答えた。

 ちゃんと答えてくれる辺り、よほど満点が取りたいらしい。

 五回か。まあ、それだけあれば十分かな。

「そしたら、今から僕が言うとおりにしてみてくれ」

 ここで僕が出した指示は次の通りだ。


①テスト範囲の英単語を大きめの紙に書いて、トイレの壁に貼る。


②英単語の訳を小さめの紙に書いて、トイレットペーパーホルダーの蓋の裏に貼る。


③用を足す際に、①の英単語を見て意味を思い浮かべ、紙で拭くタイミングで、思い浮かべた訳が合っているか②を見て確認する。


「……これだけ? 単語の暗記って、ノートに何度も書いたりとかしなくていーの?」

 白瀬が、猫目をまん丸にして訊ねてきた。

「ああ。ノートに書くと、ノートを埋めることに満足しちゃって覚えられなかったりするしな」


 なおも訝しげにしている白瀬に、僕は説明を重ねる。

「人間、インプットよりアウトプットの方が、記憶を定着させやすいんだよ」

「いん、なんて?」

 どうやら、インプットとアウトプットという言い方がピンとこなかったらしい。


「……つまり、覚えるための作業をするよりも、問題を解いた方が記憶に残りやすいってことだ」

 ここまできて、白瀬はようやく合点がいったとばかりに頷いた。


「そっか。トイレに入る度に小テストを解いてるのと同じになるから、覚えられるってことか」

 そういうことだ。僕が頷くと白瀬は満足げに頷いて、


「よーし! じゃあ、帰ってさっそく試してみる! ありがとっ!」

 と、笑顔で手を振り、図書館を去って行ったのだった。



「じゃ、きょーちゃんせんせ。約束通り勉強おせーて?」

 白瀬の「早く早く」と急かす声に、思考が現実に引き戻される。

 白瀬は机を挟んだ目の前に立っていた。席に着いている僕を見下ろす形だ。


 っていうか、さっきから気になってたんだが、

「そのきょーちゃんというのは、もしかして僕のことか……?」

 なんか、口に出すのも無駄に恥ずかしいんだが。昨日までは普通に藤波って呼んでたじゃないか君は。


「ん? いやほら、藤波って呼ぶのもなんかヨソヨソシイ? じゃん。そんで、きょーちゃんならカワイイかなって」

 イヤだった? と訊ねられ、いや、べつに嫌というほどでもないが、ともごもご言っている間に、「じゃ、きょーちゃんで決まりね!」とされてしまった。自由人過ぎないか、ギャル。僕が勉強教える側のはずなのに、会話のペースを握られっぱなしである。


「それと、もう一つ気になってたんだが、白瀬はどうしてそんなに勉強を教えてほしいんだ?」

 昨日勉強を教えてほしいと頼んできた白瀬は、かなり切羽詰まっているように見えた。普段教室で見ているのとは様子が違っていて、どうにも気になってしまう。

 人と関わるのなんて面倒だし時間の無駄だが、気になりごとがあっては勉強に身が入らない。そんな思いから問いかけると、白瀬は、「あーね」と謎のギャル語(?)で頷いた後、口を開いた。


「あいらさ、読モやってんじゃん?」

 いや、初耳だが。読モってのは読者モデルってやつのことか?

 クラスにそんな芸能人みたいなことをやっている人間がいるなんて知らなかった。そもそも、うちの高校はアルバイト禁止じゃなかったか?

 だが、知ってて当然みたいな体で話してくるところを見るに、白瀬が読モなのは周知の事実で、僕が知らなかったのは、単に僕がクラスメイトと交流を持っていないからなんだろう。

 そう判断して、特に口を挟むことなく話の続きを促す。


「実は、あいら成績がちょっとヤバくて……。ママに、このままだと読モの仕事辞めさせるぞって言われちゃったんだよね」

 叱られた犬みたいに、しゅん、とした様子で白瀬が言う。

 しかし、なるほど。そういうことか。

 現在、高校二年の六月。追試の時期でもないし、受験勉強に本気を出すには少し早い。こんな時期に一体なぜと思っていたが、どうもそういうことらしい。


「放課後は撮影が入ること多いし、塾にはぜったい行きたくないの。先生達はモデルのお仕事のことよく思ってない人が多いから、相談したら「辞めればいいじゃん」って言われちゃいそうだし」

 それで僕を頼ってきたって訳か。


 ようやく状況が飲み込めたところで、僕は考える。

 正直、本当に満点を取ってくるとは思っていなかった。どうやら、白瀬の覚悟は本物らしい。

 また、白瀬の話を聞くに、教員に丸投げするというのも難しそうだ。

 つまり。


「――仕方ない。約束通り僕が勉強を教えよう」

 どうも、こうするより他にないらしい。ああもう、どうして僕は昨日余計なことを言ってしまったんだ。口は災いのもととは、なるほど的を射ている。

 僕の言葉に、白瀬はぱあっと顔をほころばせる。


「きょーちゃんありがとっ! これでヒャクマンリキだよ!」

「それを言うなら百人力だ」

 もしくは百万馬力だ。続けようとした言葉は、しかし、僕の口からでることはなかった。


 白瀬が抱きついてきたのである。

 突然のあたたかさと柔らかさ、それに何やら甘い匂いまでして、僕は思わず口を噤む。

「?!?!?!」

 これはきっと、そう、大型犬がじゃれついてきているようなものだ。嬉しさを全身で表現しているだけで他意はないと分かっていても、心臓はそんなことお構いなしに駆け足になるから困る。下手なところに触れてしまわぬよう、白瀬の腕の中で硬直することしかできない。


 やがて、白瀬の腕がふわりと解かれる。ほっとする気持ち九割、残念なような名残惜しいような複雑な気持ち一割のため息をつき、僕は気になっていることを訊ねた。


「ところで、成績がやばいって言うが、どの程度ヤバいんだ?」

 勉強の面倒を見ると決めた以上、真っ先に確認すべき事柄である。

 成績上位者は壁に張り出されるが、その逆については公開されない。

 英語の小テストも毎回0点だったと言うし、なんとなく白瀬たちのグループはクラスの中でも下の方なのかな、と予想はしていたが、正確な成績までは知らなかった。


「訊かれるかなと思って、持ってきたよ」

 そう言って、白瀬は五月に行われた中間テストの結果を取り出した。

 テストを実施した九科目について、各科目の点数と学年順位が一覧になっている。

 正面から差し出されたそれをのぞき込み、僕は思わず眉をひそめた。


「これは……確かにヤバいな」

 平均点に達している科目は当然のようにゼロ。ここまではまだ予想の範囲内だったが、一桁しか点が取れていない科目が複数あるのには流石に驚いた。


 学年順位は二四〇人中二三八位。


 親御さんが心配してモデルを辞めるように言うのも、納得だった。

「だからね、早速勉強しよ! 今日はいっぱい教えてもらおうと思って、ロッカーに置きっぱだった教科書とか全部持ってきたんだよ!」

 言いながら、白瀬ははち切れんばかりに膨らんだ鞄を机の上に置く。

 ズドン、と大きな音がたって、思わず図書室内を見渡した。人が僕ら以外に居なくて良かった。


「なにからやる? 生物? 日本史? あいら国語はちょっとだけ得意だよ! 数学と英語は苦手だけど、きょーちゃんせんせとならイケる気がする! 小テストも満点取れたし!」

 勉強へのやる気に燃え、きらきらした目でこちらを見る白瀬。

 そんな白瀬に、僕はゆっくりと口を開いて言った。


「いや、今日は教科書もノートも必要ない」

 へ……? と、白瀬が不安げに眉で八の字を描く。


「でもでも、いま確かに勉強教えてくれるって……!」

 おおう、乗り上げてこっちに迫ってくるな胸が近いんだ胸が。

 今日も第二ボタンまで開けられているワイシャツ。覗く谷間が急接近し、思わず全力で後ろに飛び退く。


「落ち着け白瀬。勉強は教える。けど、その前にやることがあるだろう」

「……? あ、もしかして、あいらが〝いいこと〟教えるっていうやつ? 先払い的な?」

 きょーちゃんって思ってたより肉食系なんだね……。乗り出した身を元に戻し、心なしか頬を赤く染めて白瀬が言った。


「バカか君は。白瀬はマラソンを走るとき、ゴールも道順も確認せずいきなり走り出すのか?」

「?」

 頭上にはてなマークを浮かべ、首を傾げる白瀬。

「今日最初にやるのは勉強じゃない。こっちだ」

 言いながら、僕はポケットからスマホを取りだした。



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