2-3
アスミナがサンディから球房を譲り受けるという約束を交わしてから、数年が経った。あの日以来、アスミナには目に見えて変化があった。
以前から学業は優秀だったが、それ以上に励むようになった。刺々しい雰囲気こそ変わらないが、余計な一言を口にして誰彼構わず絡むことがなくなった。まるでそんな暇も惜しいとでも言わんばかりであった。
そしてプロスペルを、その名で呼び掛けるようになった。
「プロスペルは球房に入ったことある?」
それまで教室内でもハージーブ導師以外とまともな会話を交わすことのなかったアスミナが、プロスペルに限っては積極的に語りかけるようになっていた。彼女がプロスペルに関わろうとするのは、単純に彼がハージーブ門下生の中で最も成績優秀だからだ。学業で不明な点を質問するなら、導師以外にはプロスペルに尋ねるのが手っ取り早かった。プロスペルもまたアスミナの質問に丁寧に対応するものだから、ほかの友人たちもあからさまに彼女を蔑むことはなくなっていた。
「母さんに連れられて、何回か行ったことあるよ。周りを星空に囲まれるのは、何度経験しても圧倒される」
プロスペルの記憶にある球房は、スイッチを入れる前はただの球状の空間だ。コンソールを兼ねたデスクや
果てのない漆黒の中に、眩い光の点が数え切れないほどに散りばめられている。光点の群れは大きさから明るさ、色合い、密度から形状まで実に様々で、じっくりと目を凝らせばひとつとして同じものがない――とは、サンディからの受け売りだ。
無限の空間を映し出す球房を初めて訪れたとき、プロスペルが感じたのは、突然宇宙に放り出されて漂うかのような強烈な不安であった。母の傍にいなければ、おそらく泣き出してしまったに違いない。思わず繋いだ手を握る力を込めたプロスペルを、母はどう思っただろう。まだ幼い我が子が宇宙に圧倒される姿を見て可愛らしいと微笑んだのか、それとも――
「私は一度だけ、八歳のときだ。いつ見ても満杯だった予約表が、たまたま三時間だけ空いてたのを見つけて、慌てて申し込んだよ」
それまではアスミナも、漠然と観測者に憧れを抱いていたに過ぎなかった。だが球房で過ごした三時間が、彼女の観測者志望を決定的にしたという。
「億万の星明かりに包まれる球房は最高だった。三時間があっという間に過ぎてしまった。ここは私の居場所に続く入口だと確信した」
アスミナの感想が自分と大きくかけ離れていることに、プロスペルは今さら驚きはしなかった。間もなくハージーブ導師の教室から巣立とうという年齢に達して、アスミナとの違いは既に十分理解しているつもりだった。
アスミナはきっと、生まれながらの観測者だ。《繋がれし者》でもない、《自由民》社会にも居場所がないと彼女は言うが、裏返せばそのどちらにも居場所を必要としないということなのだ。彼女は間もなく球房を手中にして、あの足下の心許ない空間にひとりで漂いながら、昼夜を惜しまず宇宙に目を凝らし続けるだろう。
それは自分に有り得ない資質だと、プロスペルは痛感していた。プロスペル自身はハージーブ門下生の首席であり、未だに宇宙船内で最も将来を嘱望される「サンディの子」であり、いずれは観測所長となって《自由民》たちをまとめ上げるものと見做されていることに変わりはない。
だがそれは観測者として優れているからではないということを、アスミナを見る度に思い知らされていた。
「観測所長が私に球房を譲ると約束してくれたのは、プロスペルのお陰だ。感謝してる」
その頃のアスミナはもう、プロスペルには素直に謝意を示せる程度には成長していた。
「球房を手に入れたら、必ず植民可能な惑星を発見してみせる。あんたは観測所長として、私が星を見つけたって報告を待ってればいい」
それはもしかすると、アスミナなりのプロスペルに対する報恩の誓いだったのかもしれない。十五歳になったアスミナは、くすんだ金髪こそ頭の後ろで無造作に束ねるようになったものの、三白眼気味の目つきもやや痩けた頬も昔のままだ。ただ以前に比べれば、随分と表情が豊かになったように思う。
翻ってお前はどうなのだと、プロスペルは自問する。
アスミナは観測者たろうとして、明らかな成長を見せている。では自分は、皆が期待するような成長を遂げているのだろうか。果たして自分は次代の観測所長に相応しいのだろうか。
そもそも自分は、本当に観測所長になりたいと思ったことがあるのだろうか。
◆◆◆
プロスペルがハージーブ導師に呼び出されて面談したのは、門下卒業を一ヶ月後に控えたときのことであった。
「君たちがこの教室から巣立つのは、喜ばしいと同時に寂しくもある」
導師の私室に招かれたプロスペルは、ハージーブと机を挟んで向かい合うように座っていた。かつては黒々と豊かだった髭をすっかり真っ白にしたハージーブが、瞳に一抹の感傷を湛えながら言った。
「導師には何から何まで教わりました。教室に通うことのない日が来るなんて、未だに想像つきません」
「そう言ってくれると教えた甲斐があるよ。何しろこの教室自体、いつまで続くかわからない。最近では《自由民》の子は《自由民》が育てるべきだという風潮も強いからね」
ハージーブの言う通り、《繋がれし者》による子供の教育は今や流行遅れの向きがある。《繋がれし者》と《自由民》ではそもそも感性が異なる、《自由民》の子は《自由民》の手で教育すべきではないか――そんな声を受けて、《自由民》が講師を務める私塾が増え始めていた。
「僕はそうは思いません」
だがプロスペルは昨今の風潮に懐疑的であった。
「古代から宇宙船の機械に刻まれてきた記憶を元に、これまでヒトが蓄積してきた知恵を教え伝えることに関して、《繋がれし者》に勝るものはない。母もその点については認めてます。あれほど《繋がれし者》から離れて自立しようとしてきたのに、僕の教育は導師に委ねたんですから」
サンディは《繋がれし者》に守られ続けることを嫌ったが、一方で《繋がれし者》から完全に離れることは不可能であると理解していた。彼女が担った役目とは、いずれ大多数となる《自由民》が自らの手で社会を構築する、その先鞭をつけることであった。《繋がれし者》がサンディの行動を看過してきたのは、《繋がれし者》もまた《自由民》主体の社会が成立することを望んでいたからだ。
《繋がれし者》の掌の上で転がされてきたように見る者もいるだろう。だが宇宙船内にある限り、《繋がれし者》が司る船内で多くの《自由民》が代を重ねていくという構図は変えようがない。サンディは《繋がれし者》に反発しながらも、その
「といって誰しも君や君の母のように考えるわけではない。《自由民》にしろ《繋がれし者》にしろ、そこにはヒトの数だけ異なる考えがあるし、またそうあるべきだ」
ハージーブの言葉に、プロスペルは首を傾げた。
「《自由民》についてはわかりますが、《繋がれし者》には当てはまらないのでは?」
「ああ、プロスペル。それは君たちのように一度も《繫がった》ことのない、生まれながらの《自由民》にありがちな誤解だ。我々《繋がれし者》も、それぞれは間違いなく異なる個人なんだよ」
そう言って白い髭を撫でながら、ハージーブはどう言えば正しく伝わるか模索しているようであった。
「《繋がれし者》たちも各々は当然異なる人間だし、考えも様々だ。ただ《自由民》と違うのは、お互いの考えの伝達にほとんど時間を要しない点だろう」
「時間を要しない……」
「私たちも君たち《自由民》同様、それぞれ異なる考えをぶつけ合い、議論し、全員で折り合いをつけている。ただし我々の《繋がり》が処理する情報の質・量・速度は、《自由民》の、主に会話によるコミュニケーションに比べると格段に正確かつ膨大で、何より速い。ほとんど一瞬と言ってもいい。だから君たちには、我々全員が同じ思考に染まっているように見える」
「《繋がり》とはそれほど強力なものなのですか」
プロスペルは精神感応的なコミュニケーションを意味する《繋がり》について知ってはいたが、その実態は彼の想像をはるかに上回るものらしい。驚きを隠さないプロスペルを見て、ハージーブは頭を掻いて苦笑した。
「君たちのような生まれながらの《自由民》にはなかなかぴんと来ないだろう。それはわかっていたが、私たちも正確に理解されることを怠ってきた。今後は注意しよう」
反省するハージーブの言に、だがそれはどうだろう、とプロスペルは思案する。《繋がれし者》の間ではそこまで思考速度も質も量も異なると知って、単純に感心する者ばかりなら良い。しかし実際には想像しきれないまま、無用な畏れを抱かれる可能性もある。ただでさえ《繋がれし者》と《自由民》の間に溝が生じつつある今、両者の差異を強調するのはいかがなものだろうか。
プロスペルの脳裏に閃いた思考に、まるで応じるかのようにハージーブが大きく頷いた。老導師は少年の思考を読み取ったことを態度で示した上で、言った。
「その通りだ、プロスペル。様々な意見、考えを、完全にまとめきることは不可能だ。さっき私が言った台詞を思い出して欲しい。《繋がれし者》の間でさえ、考えを完全に統一出来るわけじゃない。ただお互いの考えを擦り合わせ、互いの妥協点を見つけて折り合いをつけているだけなんだ」
そこでハージーブは机の上に両肘を突き、心持ち身を乗り出した。
「折り合いの付け方にも色々ある。全員の意見を隈無く吸い上げて、事案の正否を判断しつつ、誰もが納得出来る妥協点が見つかれば良い。しかし《繫がれし者》同士であればともかく、《自由民》はそうはいかない。いちいち時間も労力もかかりすぎて、身動き取れなくなってしまう。そういう場合には単純な議論以外にも、印象的な行動を示すなり利益誘導なり、手練手管を弄する必要がある」
「それは」
プロスペルは戸惑って、ハージーブの言葉を遮るように口を開いた。いつの間にか話題が不穏な方向に傾きつつあると感じて、プロスペルは導師の真意を測りかねた。
「どういうつもりで仰っているのですか。そこまでして折り合いをつけなければいけないようなことが、そうそうあるとは思えません」
「ところが今がその時期なんだ、プロスペル。《自由民》が《繋がれし者》に抱く拒否感は、君が思うよりもずっと強い。君の周囲は、特にサンディは君に悟らせまいと努めてきたから気づかないのも無理はないが、実際には日に日に緊張感が増している」
「そんな――」
ハージーブに打ち明けられて、プロスペルは愕然とした。《繋がれし者》を毛嫌いする《自由民》が一定数いることは知っていた。だがまさかそれほど緊迫した状況にあるとは、予想だにしていなかった――
いや、そんなはずはない。実際は勘づいても良かったはずだ。ただ皆が知らせまいと繕っていることに気づいて、彼らの期待に沿うよう目を瞑っていた。
今までと同じく、周囲の期待に応え続けてきたのだ。
「だからプロスペル、《繋がれし者》は君にひとつ、協力をお願いする」
少年の動揺を穏やかに無視しながら、ハージーブは豊かな白い髭の下で、厳かに口を開いた。
「我々は君を、新たな《繋がれし者》として迎え入れたい」
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