幕間 鼠の王にして、虚の王

「おい、トラビス! トラビス・アルバレス! 今日の作業は中止だ中止!」

 同僚のベン爺さんが怒鳴りながら入ってきた時、トラビスは清掃作業用の消毒液が規定濃度を満たしているかどうかチェックしている最中だった。

 トラビスは人と話すのが苦手だ。今いる部署も、入社の際にできるだけ人と話さずに済むところにしてください、と頼んだ結果だった(おずおずとしたトラビスの懇願を『社長』はどうでもよさげに承諾した)。その願いはほぼ叶えられたと言ってよい──わざわざ頼まなくとも乱れた前髪の隙間から小動物のように小さな目を覗かせる、口下手な大男を好き好んで相手する人間はそういない、と気づいたのはだいぶ後になってからだが。トラビスは毎日、誰よりも早く出社し、淡々と割り当てられた作業をこなし、一番最後に帰った。誰もトラビスに構いはしなかったし、トラビスも他の社員に話しかけはしなかった。ただ一人を除いては。

「ど……どうしたんですか?」トラビスはぎごちなく尋ねた。ベン爺さんが自分に悪意も敵意も持っていないことはわかっていたが、実のところまだちょっとだけ怖かった。

 いつもくしゃくしゃの顔と噛みつくような喋り方をする小柄なプエルトリコ系の老人は、今日は本当に頭から湯気を立てんばかりに怒り狂っていた。「どうしたもあるか! あの社長、給料払えねえからってとんずらしやがった!」

「ええっ、ま……またですか? こ……これで二ヶ月目ですよ?」トラビスは手を止めてそう返事はしたが、頭の中に浮かんでいたのは別の考えだった──社長はそろそろ本気で「本業」を動かすつもりだな。

「金も支払われないのにどうやって働けってんだ! 俺たちがいなけりゃ、この街は半月も立たずにゴミとクソの海に沈むんだぞ!」憤懣やるかたないといった調子でベン爺さんは吐き捨てる。「何にせよ、おめえももう帰れ! 給料も払われねえのに残業したって、あの忌々しい配給券クーポンは増えやしねえぞ! それだってケツ拭く紙にすらならねえのによ!」

 ひとしきり社長と天を呪う言葉を吐いた後、老人は一転して肩を落とした。「なあトラビス、俺は何だか、自分の人生そのものが愚弄されている気がしてきたよ。いや、俺の人生だけじゃねえや、信じてきたものとか、積み重ねてきたものとか、何もかもをさ……倅は家に寄りつきゃしねえし、かみさんはおっ死んじまうしよ……」

「ぼ……僕の配給券を使ってください。ど……どうせ僕には必要ありませんし……つ、次に給料が入った時に、返してくれればいいですから」トラビスがそう言ったのは老人のとりとめない愚痴にも、そして疾しさにも耐えきれなくなってきたからだった。なぜなら──社長は夜逃げどころかまさに「本業」に取りかかる寸前であり、この会社でそれを知らないのはベン爺さん一人だけだからだ。

「いいんだ。そんなつもりで言ったんじゃねえ」溜め息を吐いたベン爺さんが、急に顔を上げた。「そうだ、トラビス。おめえも一緒に行かねえか?」

「ど……どこにですか?」

「抗議集会だよ! おめえも知ってるだろ、もうすぐワイオミング州知事がこの街に来るんだ。タイニー・ルーロンがトゥエルブ・リバーを訪れるんだよ!」

 知っているどころではない──

「聞けばルーロン知事は、俺たちと似たような境遇の出身だそうじゃねえか。俺たちの苦労を知っているようなお人なら、訴え出ればきっと境遇を改善してくれるさ……」

 それは議会制民主主義の否定ではないか、トラビスはちらりとそう思ったが何も言わなかった。誰にだって夢が必要だし、それにベン爺さんが何をしようと自分の「本業」に支障はないのだ。

「おめえら若いやつらは集会なんて好かねえだろうが、なあに、晩飯くらい奢ってやるよ。そのな……おめえを見てると何だか家を出てく前の倅を思い出してなあ……」

 老人の際限ない愚痴に付き合わされるのは閉口するが、食事代が一食分浮くのは心が動かなくもない。だがそうもできない事情があった。

「ご……ごめんなさい。し、仕事がないならないで、い、行くところがあるんです」

 ベン爺さんは悲しげな顔をしたが、引き留めはしなかった。「そうかい。だけど、気が変わったらいつでも来いよ。これは俺たちだけじゃねえ、おめえら若いやつらの問題でもあるんだからな」


 ベン爺さんが際限なく愚痴をこぼしながら帰っていった後、トラビスはオフィスの全ての鍵を閉めたが、帰りはしなかった。会社に一基しかないエレベーターの階数ボタンを決められた手順で押すと、ボックスが表示された最下層よりも遥か下へと降り始めた。

 扉が開き、広大な空間がトラビスを出迎えた。

 まるでポストアポカリプス映画に出てくる核シェルターのようだ、とトラビスは思った。コンクリート打ち放しの寒々とした空間は縦にも横にも広く、蛍光灯特有の冷たい光の下、大勢の屈強な男たちが銃の詰まった箱を運び、片手でブリトーを食いながら片手でノートPCをチェックし、あるいは各人の愛用する銃器を整備している。いずれも今回の仕事のため集められた傭兵たちだ。車両も数台並んでおり、整備員たちがまるで蟻のように取り付いている。

 エレベーターの真横、まるでトラビスを出迎えるように、椅子に腰かけて本を読んでいた若い女が顔を上げた。ペーパーバックの表紙がちらりと見えた。『老人と海』だった。

「時間に正確ですね。いいことです」女は左手でペーパーバックを閉じ、右手首を返して腕時計を確認し、静かにそう言った。予め脳内でシミュレートした結果を寸分狂わず実行したような、機械じみた動作だ。

 フレデリカ、という名が本名かどうかはわからない。初めて彼女を見た時、トラビスはこんな若い娘が暗殺請負を取り仕切っているのか、と驚いたものだ。目の覚めるようなオレンジに染めた髪といい、そばかすの点々と散った頬といい、ロウティーンであってもおかしくない細い手足といい、どう見てもトラビスと同年代か、下手すれば数歳は歳下だ。

 だがトラビスが彼女を怖いと思うようになるまで時間はかからなかった。何しろ彼女に余計なちょっかいを出そうとした傭兵2人が、のを目の当たりにしたのである。以来、彼は常に敬語を使って彼女に接している。

「い、いえ、仕事道具が届いたと聞きましたから。俺も……」一瞬詰まったが、その後の言葉は案外スムーズに出た。「早く見たかったので」

 彼女は初めて、口の端を吊り上げて見せた。「こちらです」

 自分より頭ひとつ分ほども背の低い彼女の後を、トラビスは大人しく着いていく。飾り気のない男物のスーツを着込んだ弾むような肢体を周囲の傭兵たちが忌々しそうに見つめたが、それ以上の何かをすることはない。仲間の無惨な死がよほど効いたらしい。

 壁のスピーカーが雑音を発した後、トラビスの聞き慣れた、酒焼けした中年男の音声を吐き出した。『時間通りだな。いいことだ』

 社長の声だ。実を言えば、トラビスは彼の生身の姿を一度も見ていない。面接時にベン爺さんに連れられて社長室へ通された時も彼の姿は室内になく、スピーカーを通して面倒臭そうに一言『採用』と言われただけだった。案外、本当に彼は生身の存在ではないのかも知れない──それこそSF映画のように「脳だけ」で生きていたとしてもトラビスは驚かないつもりだ。

「それはもう私が言いました」すかさずフレデリカが言う。トラビスの見る限り、どうもこの2人はあまり折り合いが良くない。

「き、休業中はベン爺さんにも給料を払ってください。か、会社を閉めたのはし、社長の都合でしょう? この会社がダミーでも、雇用責任はある」

『わかってるよ。お前さんの心配することじゃない』酒焼けした声がくっくっと笑う。『ま、お前さんのそういうところが気に入ってに加えたんだがな。殺すこと、ぶっ壊すことしか頭にない奴と組むのは効率的には違いないが、退屈ではあるしな。きっとお前さんのご両親は立派な人だったんだろう? と違ってな』

「……だから早死にしましたよ」トラビスは呟いた。自分でも力ない、つまらない声だと思った。

 やがて2人は壁際の、棺桶のように見えなくもないコンテナの前まで来た。コンテナはかなり大きく、トラビスの背よりも高さがある。

 フレデリカは懐から小さなリモコンを取り出し、操作した。「実を言えば、私もかなり興味を持っています。あなたがをどこまで使いこなせるか」

 圧縮音とともにコンテナの扉が開く。

 その中身と、トラビスは真正面から向き合う形になった。内部に収められていたのはフレームで台座に固定された、一体の強化外骨格エクソスケルトンだった。

 ネットに落ちている動画で見た、どの軍用強化外骨格にも似ていなかった。センサーの集中する頭部は細く鋭く、獣、それもどこか齧歯類を連想させた。腕も足も長いが、全体的に細身で、あまり強そうには見えない。

 だがトラビスはすぐに、この強化外骨格が秘めたものを感じ取った。「これは……正規の機体ではありませんね」

「その通りです。さすがですね」そちらを見なくとも、彼女が再び口の端を吊り上げたのがわかった。どうやら彼女の中で、トラビスの株がまたもや上がったらしい。「これは〈島々〉の全面的支援を受けた技術者たちが総力を上げ完成させた、闇市場ブラックマーケットにさえ流通していない特製品。現時点では世界に唯一つの、です」

 またスピーカーから社長の声。『これだけの戦闘機械メックを独自に開発できるなんて〈島々〉にはよっぽど金が唸ってんだな?』

「あなたに私どもの懐事情を心配される謂れはありません」冷ややかに彼女は返す。やはりどうもこの2人は折り合いが良くないようだ。「〈島々〉がこれを、あなたがた〈掃除屋クリーナーズ〉へ提供すると決定したのも、今回の依頼の重要性を認めてのことです。それは、おわかりですね?」

『忘れちゃいねえよ。どう見られてんのかは知らねえがな、俺の脳味噌の容量はあんたの股ぐらに生えている毛よりは多いんだ。仕事はきっちりこなしてやるから心配すんな』

 社長が生身でないのは幸いだったかも知れないな、トラビスはちらりと思った。この2人を直に会わせたら殴り合いどころか殺し合いが起きかねない。

「……そうでなければ困ります」かろうじて手近のものをスピーカーに投げるのを我慢したらしいな、と即座に察せる声色だった。「ワイオミング州知事とその護衛だけなら、あの傭兵たちだけで充分でしょう。ですが最大の障害は、他の2人にあると考えています。むしろ彼らこそが本命、と言ってもいいでしょう」

『〈ドラゴン〉相良龍一。それに〈最後で最初のヒュプノス〉アレクセイか』社長の声は珍しくやや神妙になった。『犯罪界でもすっかり有名になった2人だ。あの〈犯罪者たちの王〉に賞金を掛けられてなおも生き延びてやがる。〈ヒュプノス〉は言わずもがな、リュウイチとやらは人間離れした強さに加え、おかしな超能力まで使うらしい……噂が大半にしても、単なる手品で殺し屋サグどもを返り討ちにできるほどこの世界も甘かねえだろうよ』

 渋々と彼女は認めた。「ええ……その通りです。既に〈竜〉とはオカルトでも手品でもなく、物理法則を捻じ曲げる純然たる力である、と私たちは認識しております。これは〈島々〉が完成させた現実歪曲技術の結晶。言わば〈島々〉が独自に産み出した〈竜〉と呼んでいいでしょう」

「な……なぜそこまで、あなたたちは彼らに拘るんですか? 何か、深刻な恨みでもあるんですか?」

「それは……申し訳ありませんが口外できません。困ったことになってしまいますから。私も、あなたも」

 トラビスは頷いた。是が非でも知りたい事情でもなければ、彼女を困らせるつもりもない。

「……質問していいでしょうか」強化外骨格を見つめたまま、トラビスは呟く。

「何なりと」

「なぜ、僕なんですか? あなたたちならもっと相応しい人材を探し出すのは難しくないでしょう。元軍人なり、傭兵なり」

「おっしゃる通り戦闘のプロを用意するのは可能ですが、それでは意味がないのです」まるで姉が弟に教え諭すような口調だった。「詳細は省きますが、これの真価の一つは膨大な戦闘データを状況に応じてダウンロードし、装着者の肉体にフィードバックさせる、言わば素人でもプロ並みの戦いを可能とするシステムなのです。なまじな戦闘経験は、むしろ邪魔です」

「僕は被験体モルモットですか?」

「そう思っていただいて結構です。もちろん、報酬には危険手当を含めて反映させたつもりです」

 自分の横顔を、彼女が真っ直ぐに見つめているのがわかった。今までの人生の中で……さして良いことの少なかった人生の中で……一度も向けられたことのない眼差しだった。「検討を重ねましたが、現〈掃除屋〉の人員であなた以上に適正と思われる者は存在しませんでした。これを扱うのに必要なのは、技量よりもむしろ動機なのです。あなたならこれの尖った性能を、限界まで引き出せるでしょう」

 トラビスはどう答えていいかわからなかった。動機──僕にそんなものがあるのか、とさえ思った。ワイオミング州知事には恨みどころか、そもそもさほどの感心もない。

 それは他の2人、相良龍一とアレクセイとやらも同様だ。出会ったこともない人間をどう憎めばいいのか、彼にはわからなかった。ただそれほど強い者たち、〈島々〉にも〈掃除屋〉にも一目置かれているような男たちを殺したら世の中はどうなるのか、それともどうにもならないのか、それを確かめたいだけだ。

 だから別の質問をした。「最後に一つだけ……この強化外骨格に、名前はあるんですか?」

「〈鼠の王ラットキング〉」

 逡巡する気配があった。「もし……気に入らないようでしたら変更もできます。開発時コードネームに過ぎませんから」

「いえ。それでいいです。いや……むしろそれがいい」

 僕に相応しい、と思いながら彼は改めて〈鼠の王〉に向かい合う。

 センサーの集合体に過ぎない、人とは似ても似つかぬ顔は、どこか歯を剥き出しにして笑っているようにも見えた。まるで鼠か……あるいは、髑髏のように。

 トラビスは自分の顔も、同じ形に歪んでいることに気づいていた。

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