ワイオミング、ヴァルハラ、ヴァルキリー(3)鉄雨の夜
──数秒間ほど気を失っていたのは確かだった。半分ばかり土砂に埋まっていた龍一を、誰かの腕が力強く引き起こしてくれた。
「平気か」
土埃で盛大にむせている龍一の顔を覗き込んだのはイライアスだった。手には既にあの長大なリボルバーが握られている。
「大……丈夫だ」耳鳴りがひどくてそれしか言えなかったが、そうも言っていられないのはわかっていた。襲撃者たちはそれなり以上の訓練を積んだプロだ。ロケット弾を撃ち込んだだけでは満足せず、龍一たちの死体を確かめに来るのは確かだった。
洞穴の入り口付近から荒々しく軍靴の音が殺到してくる。イライアスの右腕がまるで精密機械のように跳ね上がり、撃った。
洞穴が崩れないか心配になる轟音が鳴り響き、龍一の耳に甲高い残響を残した。たちまち自動火器の乱射音が止んだ。一瞬遅れて柔らかい何かが崩れ落ちる音。そして力を失った手から銃が滑り落ちる金属音。
「ここもそう長くは保たないぞ……手榴弾でも投げ込まれたら最後だ」
「安心しろ。手がないわけじゃない」
イライアスは床にかがみ込み、力一杯に鉄輪を引いた。蓋が持ち上がり、人一人がどうにか入り込めそうなトンネルの入り口が開く。
「入れ。中は一本道だ。ひたすら進めば安全な場所に出られる」
空気の流れは感じるから塞がってはいないのだろうが、その狭さに龍一は躊躇してしまった。「これ、中で崩れてないだろうな?」
「定期的に点検はしてあるから大丈夫だ」にべもなくイライアスは言った。「あいつらは俺の客だ。お前らが付き合う必要はない」
「でも……!」
少しだけ、イライアスの口元が緩んだように見えた。「行け。いてもあいつらは譲らないぞ」
「龍一、行こう」
アレクセイは即座に穴の中へ身を躍らせていた。ままよ、と龍一もその後に続く。
耐え難い狭さと、埃の臭いと、顔面にまとわりつく蜘蛛の巣には閉口させられたが、出口の蓋を跳ね上げて新鮮な外気を腹一杯吸い込んだ瞬間、それらはどうでもよくなった。安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになったほどだ。
続いて這い出してきたアレクセイに手を貸し、洞穴の方を振り返る。
冷たい夜気を切り裂く自動火器の連射音に混じり、断続的に重々しい銃声が聞こえてくる。イライアスは今だに戦い続けているのだ。しかし──数と火力が違いすぎる。長くは保たないだろう。
「……なあ、アレクセイ」
「何だい?」
「『一宿一飯の恩義』って言葉があったよな? あのニジマス、美味かったな」
アレクセイは深々と溜め息を吐いた。言うと思った、とばかりにである。「僕はパンの方が好みだったかな」
2人は頷き合い、後にしたばかりの洞穴に向かって走り出した。空にはやや欠けた月が浮かび、星々と共に地上の激闘には不似合いなほど美しい光を放っている。
「……しかし、龍一。戻るにしても正体も規模も不明なプロの軍隊を相手に、勝算はあるのかい?」ろくに視界の効かない森の中を走りながらも、アレクセイの息は少しも乱れていない。「先に言っておくけど、〈竜〉を開放して森ごと焼き払うのはなしだよ」
「俺を何だと思ってるんだよ?」
ただしアレクセイの心配ももっともだった──数も火力も桁違いの武装集団相手に〈竜〉を使わずに勝とうとしたら、それなりに知恵を絞る必要はある。
「まさか敵もこっちが抜け穴から脱出してまた戻ってくるなんて思ってないだろ? イライアスが注意を惹きつけている間に背後から襲えば、少なくとも第一撃はこちらが入れられる」
「逆に言えば、それくらいしか僕たちの強みはないってことだね……」
後は、襲撃部隊の指揮官が真っ当な判断を下すことに賭けるしかなかった。まともな軍隊ならある程度の損害が出たあたりで撤退するだろう。それまで戦い続けるしかない。
洞穴までの数百メートルを一気に駆け抜けた──洞穴に自動火器で制圧射撃を行なっていた兵士たちが弾かれたように振り返る。
が、その時は龍一の渾身のタックルが兵士を直撃していた。小型の乗用車に跳ね飛ばされたようなものだ。大木の幹にめり込まんばかりの勢いで激突し、兵士は悲鳴すら上げられず気絶する。
傍らの兵士が銃口を跳ね上げる、その一瞬前に龍一は地に落ちた自動拳銃を拾い、渾身の力で投擲した。たっぷり数キロはある鋼鉄の礫だ。ヘルメットを揺らす衝撃に耐え切れず、兵士が棒のように倒れ伏す。
気絶?
倒れた兵士を見下ろして龍一は眉をひそめた。何か……おかしい。
フルフェイスヘルメットの留め具が外れ、中の顔がわずかに露出している。覗き込んで目を疑った。鼻血を垂らして気絶していたのは、欧米系の顔立ちをした普通の男性だった。
「HWじゃない……?」
「何かおかしい……龍一。この兵士たち、全員人間だ」
アレクセイが呆然と呟く。その腕から首を締め上げられていた兵士がずるずると崩れ折れる。
HWなら、初期ロットでさえ至近距離からの機銃掃射に耐え得る。並の格闘家や兵士の徒手戦闘術は、まず通用しないと言って良い。そう、この兵士たちには締め技が効いたのだ。
「信じられない……」アレクセイも同じ結論に達したのか、自分の目を疑っているようだった。「人間の兵士のみで構成された部隊。通常の特殊部隊でさえないわけか」
今やHWは先進諸国どころか、それなりの規模の国軍の基幹インフラと言ってさえよかった。アメリカやロシアなどの超大国よりも、むしろ発展途上国の軍の方が得られる恩恵は大きいだろう。何しろ宿舎や格納庫、水や食料や娯楽施設といった人間の兵士には必要不可欠なインフラすら必要としないのだから。
特殊部隊でさえ突入直前の「露払い」にHWを用いるのが珍しくないのだ。人間のみの部隊で構成するメリットは、ほぼないと言ってよい。
「HWを使えない理由でもあったのかな?」
再びイライアスへの疑念が膨れ上がるが、追及は後でもできる。
数人の兵士が、背後の洞穴に自動小銃を点射しながら走り出てきた──続けざまの轟音。瞬く間に全員が頭を吹き飛ばされた。凄まじい火力。
まだ煙の立ち昇る長大なリボルバーを手に姿を見せたのは、言うまでもなくあのイライアスだ。
「トーラス社製レイジング・ブル。454カスール弾を使用する、威力だけなら地上最強のハンドガンだ。走る乗用車のエンジンも撃ち抜ける」
「実に大仰でけたたましい、アングロサクソン的な銃ですね」いつになくアレクセイの口調は冷ややかだった。まあ、接近戦の申し子のごとき彼が拳銃のスペックを自慢されても確かに毛ほどの興味も抱けないだろう。
「お前の主義信条は知らないが、そう邪険にしたものでもないぞ。銃身が長いからある程度の狙撃もこなせるし、鈍器にも使えるからな」イライアスは気を悪くした様子もなかったが、いぶかしげに眉は顰めた。「お前ら、なぜ戻ってきた?」
「なぜも何も……あなたがあいつらと相打ちになるんじゃないかと思って」
イライアスが髭面を歪めた──どうやら笑ったらしい。「俺がそんなタマに見えるか? 出口は何もさっきお前らが這い込んだ穴ぼこだけじゃないんだ。反対側の崖にだって通じている。タイミングを見計らって逃げるつもりだったのに。『ワイルドバンチ』みたいな死に方をするのはまっぴらだ」
つまりその目論見を龍一たちはご破算にしてしまったわけだ。
「すいません……」
イライアスはやや表情を改めた。「謝ることじゃない。お前らの気持ちは充分に伝わった。それならそれでプランBに変更するまでだ」
イライアスの言う通り、洞穴の反対側は外へ通じていた──だが、穴から顔を出すや龍一は尻込みしてしまった。洞穴の出口は断崖の中ほどに口を開けており、その十数メートルほど下では白く泡立つ激流が渦を巻いていたのだ。
「……まさか泳いで逃げるつもりだったのか?」
「冗談抜かせ。この辺りの流れは見かけよりずっと速くて深い。泳いで渡ろうとした熊だって足を取られたら二度と浮かび上がれないんだ。甘く見るな」
「それじゃどうやって?」
「カヌーを隠してあった。俺一人がそれに乗って逃げるなら訳ないが、お前らを乗せるのは無理だ」
「
「謝るなと言っただろう。しかし、別の方法は考えないとな」
別の方法と言ってもな、と思いながら周囲を観察した龍一の目が、ふと止まった。流れの関係で流木が打ち上げられている一角があったのだ。ほとんどは水に浸かって浮力を失っていたが、一番大きな塊は龍一たち3人が優に掴まれそうなほど大きい。しかも最近流れ着いたためか、あまり水に浸かってはいない。
「あれ、使えないかな?」
3人がかりでさえ、太さが一抱えほどもある流木を流れの中央に押し出すのは容易ではなかった。が、目論見通り流木は沈まず、水に浮いてくれたままだった。枝はほとんど落ちているが、木の瘤がそこかしこにあるため掴まるのに苦労はない。
「流れに対して流木が垂直になるよう、最低一人が支えている必要がある。岩と岩の間に流木が引っかかれば、そこで終わりだからだ。だがこの寒空の下、水に浸かったままでいるのは自殺行為だ。交代で流木を押し、交代で休む必要がある。いいな?」
イライアスの言葉に龍一たちは頷く。何しろ言い出したのは自分たちであるから、嫌も応もない。
一度流れに乗ってさえしまえば、後は楽だった。バランスにさえ気をつければひっくり返る心配もなさそうだ。流木は龍一たちを乗せたまま、徐々に速度を増していく。
「そうだ。こいつを忘れるところだった」
イライアスがポケットから取り出した装置を見て、龍一は何となく嫌な予感がした。小さなボタンに小さなアンテナを付けただけと言っていい、掌サイズの装置だったが。
「まさか……」
予感を裏づけるように、イライアスはにやりと笑った。「後片付けは大事だって、パパやママにも言われなかったか?」
止める間もなくボタンが押された。
夜空を大音響が揺るがした。洞穴の入り口と、反対側の崖に開いた出口から、ほぼ同時に竜の吐息のような紅蓮の炎が噴き出した。可燃物が少なかったか──あるいは残らず吹き飛ばされたか炎はすぐに消えたが、炎の残像は龍一の目をしばらくの間眩ませた。
「これであいつらも俺が死んだと思ってくれればいいんだが……どうかな」期待はすまい、と決めているようなイライアスの口調だった。「プロなら、俺の死体を確かめるまでは止まらないだろう」
「あなたは彼らにとって、よほどの
「……ない、とは言わない」苦さの滲む口調でイライアス。「だがそれは」
「それは?」
「
「意地悪だな!?」
憤然とする龍一にイライアスは笑ってみせた。心なしか、先ほどより深く見える笑みだ。「悪いな。だが全ての顛末を話そうと思ったら、俺がお袋の股ぐらからひり出された時から始める必要がある」
「なら、あえて聞きませんよ」アレクセイの声が冷たくなる。「元々、僕らは一夜の宿を乞うただけです。それで充分であって、それ以上を要求する筋合いもない。それでいいね、龍一?」
「あ、ああ……」アレクセイの言い分は正しい。正しいのだが、だからこそ容易に首肯できないものがある。
龍一の逡巡を見てイライアスはまた笑った。「気にするな、坊や。そのままならすれ違うだけだった奴らがお互いの命を救った。それ以上を求める者に災いあれ、だ」
本人にそう言われては、これ以上追求する気にもなれない。「それで、この川をどこまで下れば安心できる?」
「ヘリまで動員できる相手に距離はあまり味方にならないな。なるとしたら時間だ……あと数時間もすれば夜が明ける」
戦闘とそれに継ぐ脱出で全員へとへとに疲れてはいたが、誰も文句を言わなかった。濡れた衣服が身体に張り付く鬱陶しさにはすぐ慣れた。それよりも流木の上に上がり、寒風が容赦なく体温を奪っていくのに耐える方がよほど辛かった。
同時に、水の中にずっといる危険性も理解した──この寒さではすぐに低体温症になりかねない。〈竜〉の生命力をこんなところで試したくはなかった。
こんな時なのに、いや、こんな時だからこそ、頭上で輝く月と星の美しさには目を見張った。わずかに青みがかって見える月と、銀の粒をぶち撒けたような、という形容が少しも大袈裟ではない星々。こんな切羽詰まった時でなければよもっとよかったのに、と思わずにはいられなかった。
だが、月と星の明かりは当然、龍一たちだけの味方ではない。
夜空を背景に、黒い粒々が徐々に接近してくる──それが立てる甲高いモーター音も。野鳥にしては早すぎるが、航空機にしても小さすぎる。
「……自爆ドローンか!」
「〈ハーピー〉だ」イライアスが即座に見て取る。「対人用の炸裂弾頭、対車輌用自己鍛造弾頭、用途に応じ何でも搭載できる。何よりも安い」
「知っているよ。同じものを〈海賊の楽園〉で嫌になるほど見たからな」
アレクセイが腕の一振りで〈糸〉を繰り出した。急降下に移っていた自爆ドローンを見事に捉え、四散させる。
だが四散しただけで終わりではなかった。撃ち抜かれたドローンは予想以上の大爆発を起こしたのだ。真昼になったような炎が視界を焼き、周囲の酸素を一瞬で燃やし尽くす。
「ナパーム弾頭だ! 息を吸うな、肺が焼けるぞ!」
「勘弁してくれよ……冷水地獄の次は灼熱地獄か!」
身の毛もよだつ知識を思い出した──ナパームの炎は水では消えないのだ。
空気を鋭く切り裂く自動火器の射撃音。龍一たちの流木から数メートルと離れていない水面を銃弾が砕いた。
切り立つ崖の真上、渓流と並行して走るRV車が数台。車のウィンドウから完全武装の兵士たちが身を乗り出し、次々と発砲してくる。
精密機械じみた反応速度でイライアスがリボルバーを構え、撃った。無造作に見えるが、流木を支持架代わりに用いた危なげない撃ち方だ。タイヤでも撃ち抜かれたかRV車の一台が急速にバランスを崩し、横転した。だが他の車が怯んだ様子は微塵もない。
それだけではない──掴まっていた流木が速度を上げていた。身の危険を感じるほどに。流れが勢いを増しているのだ。しかも、前方からは大量の水が雪崩れ落ちる轟音が聞こえてくる。
「嘘だろ……この辺に滝なんてあったのかよ!?」
「俺もここまで来たのは初めてだからな」イライアスの声にも余裕がない。「もっと手前で岸に上がるはずだったんだ」
「泣きっ面に蜂すぎる……!」
イライアスのリボルバーが〈ハーピー〉を撃ち抜く。またも火球が生じ、水面上の龍一たちの皮膚を容赦なく焼いた。イライアスの腕が微塵も鈍っていないのが唯一の救いだった──が、敵の数が多すぎる。銃弾が尽きれば、後は嬲り殺しにされる。いや、その前に滝壺に落ちて全員が四分五裂だろう。遺体が上がるかどうかも怪しい。
(くそっ、何だってこうも危機また危機がタイミング良く襲いかかってくるんだよ!?)
この場を切り抜けられたら絶対にその手のアクション映画は二度と観ないぞ、と龍一は固く決心する。この場を切り抜けられればだが。
(せめて銃撃を止められれば……自爆ドローンを全て回避できれば……滝に落ちるのを免れれば……)
いや、待てよ──龍一は何かが心に引っかかるのを感じる。全部できるんじゃないか?
「……アレクセイ。俺が合図したら〈糸〉を飛ばせるだけ飛ばしてくれ」
アレクセイの顔に生気が戻る。「何か思いついたんだね? いいよ」
「イライアス。合図と同時に全弾撃ってくれ。この際狙いはデタラメでいい」
イライアスはわずかに口を開こうとして──龍一の顔を見て、すぐに頷いた。「わかった。お前がこれを潜り抜けられたら、改宗したっていい」
「ありがとう」
龍一は流木の上に立つ──〈ハーピー〉のカメラとセンサーがそれを捉える──崖の上から一斉に銃口が向けられる。
致命的な一瞬、それでも龍一はバランスを取ることすら止め、自分の両手を静かに宙へ差し伸べた。
「〈
轟音も閃光も、痛みさえなく。
恐る恐る目を見開いた龍一はぎょっとなった。龍一の両腕が一変していた。地上のどの生物にも似ていない異形の腕に──無理に説明するなら金属化した蟹の腕とイソギンチャクの触手を足し、関節を幾重にも増やしたような外見だ。
蟹鋏とも触手ともつかない腕が勝手に動き始める。それが這い回るのは、目の前に展開された仮想の
〈ハーピー〉の群れが殺到してくる。しかも幾つもの群れに分かれ、微妙に急降下のタイミングをずらした迎撃困難な陣形。
だがそれは常識的な環境においてのみの話だ。
龍一の「腕」が最後の操作を完了する。
まるで殺虫剤を浴びせられた蚊の群れのように〈ハーピー〉がぽろぽろと落下していく。爆発すら起きない。水面に落ちる前に、その全てが機能を停止していた。どうにかふらふらと飛行していた生き残りも、龍一が仮想の腕を伸ばしてちょいと突いただけであらぬ方向へ飛んでいき、石のように落ちた。
今頃ドローンの
(お次は……滝壺だ!)
「掴まれ!」龍一が叫ぶまでもなく、他の2人は決死の形相で流木にしがみついていた。結構。
再び仮想の操作盤に仮想の腕を這わせる──流木と空気の摩擦抵抗をゼロにする。
滝壺に突っ込む勢いをそのままに、砲弾のように流木が宙を飛んだ──そして落ちない。崖のはるか上空を不格好な航空機よろしく、流木はひゅうひゅうと大気を切り裂きながら飛び続けていた。地上の兵士たちは自分たちの目よりも、まず正気を疑っているに違いない。
「イライアス、今だ!」
気を取り直したイライアスが撃つ──リボルバーの最後の銃弾を。
狙いはどうでもいい、どうせこちらで修正するから。
仮想の腕をちょいと動かし、それで全ては終わった──一発の銃弾が、疾走するRV車のタイヤを幾度も軌道修正しながら残らず撃ち抜いていた。
最後の一台が横転した瞬間、龍一の仮想の腕も四散して消えた。なおも銃弾が放たれたが、それはまるで見当違いの方角を狙い撃っていた。射手たちもそれを悟ったのだろう、銃声はすぐに止んだ。
派手な水飛沫とは裏腹に、流木が着水した衝撃は穏やかなものだった。先程まで渦巻いていた急流は、今や穏やかなせせらぎ同然のものになっていた。
イライアスでさえ驚嘆を隠し通せてはいなかった。「俺は何を見たんだ? 今のは何だったんだ……そもそもお前ら何なんだ?」
「それは……」
「それは?」
龍一は大真面目に、口の前に人差し指を立てた。「
「お前……」イライアスは怒鳴ろうとして、失敗して盛大に噴き出していた。
「悪いね。真面目に話そうとすると、17年かかるもんで」
そもそも、龍一でさえその答えを探し求めている最中なのだ。
「顔に似合わず、根に持つ奴だ……」言葉に反し、イライアスの顔に怒りはなかった。「わかったよ。命を助けられた礼だけ言っておく」
一瞬、ヘリのローター音が遠雷のように遠くから響いたが──すぐに遠ざかっていった。あの襲撃部隊がとうとう追撃を断念したのだろう。
その時、ようやく龍一は空が明るくなっているのに気づいた。藍色の空が見る見る淡い色となり、やがて眩い陽光が目を刺す。
朝が来たのだ。
水の冷たさとナパームの炎と銃弾、それに打ち身でさんざん痛めつけられた身体で岸に上がるのは一苦労だったが、これまでの試練に比べればデザートでしかなかった。
この辺りでいいだろう、そう言ってイライアスは芦原の彼方を指差す。「真っ直ぐ行けば州道だ」
「いろいろとありがとう。それから……すみませんでした。俺たちのせいで寝ぐらが」
「気にするなと言ったろう。あいつらに見つかるのも時間の問題だったからな。そんなことより、今度こそ迷うなよ。次は助けてやらないからな」
「わかりました、覚えておきます。俺は助けますけどね」
「こいつ」去り際に、イライアスは少しだけだが笑った。「じゃあな」
それほど急ぎ足にも見えないのに、彼の長身は瞬く間に芦原へ溶け込み、見えなくなった。そういうところもテシクそっくりだな、と龍一は思い、若干の寂しさを覚えている自分に気づいた。
「……道路だ!」
埃まみれのガードレールに縁取られた埃まみれの道路だったが、龍一は涙が出そうになった。何しろほぼ一晩山の中を走り回った挙句に、決死の川下りである。つくづく自分がひ弱な文明人であることを痛感する。
「結局、一晩かけてここに戻ってきたのか……」
「言うなよ」
しかしアレクセイのぼやきにも一理はある。ここまで乗ってきた車はスクラップ、最寄りの街まで徒歩で向かうにしてもずいぶんと遠い。となればヒッチハイクするしかないのだが──車の影は一つも見当たらない。
アレクセイが表情を引き締めた。「何か来る」
言葉通り、数メートルと離れていない藪ががさがさとざわめき始めた。身構える龍一の前に現れたのは──もじゃもじゃした金色の毛の塊だった。毛のもつれ具合からすると結構な歳らしい、ラブラドール犬だ。
そいつは一声鳴いて龍一の足元をぐるぐる回り始めた。黒々とした目には無邪気な好奇心しか浮かんでいない。
「……気に入られたみたいだね」
「追跡犬……には見えないな?」
容易にできる推測が一つある。犬の首には赤い首輪が巻き付いている。ということは、飼い主も近くにいるということだ。
「おーい、ロビン、いきなりどうしたんだ?」
再び藪がざわめき、背の高い男を一人吐き出した。カウボーイのテンガロンハットにも似た制帽、赤いチョッキの胸元で鈍い輝きを放つバッジ。モダナイズされた保安官といった風情の格好だが、正確には保安官ではない。それはバッジに刻まれた、意匠化された
「やあ……君たち」まさか人に出くわすとは思っていなかったのだろう、彼はぎょっとしたが、すぐに構えた狩猟用ライフルの銃口を下げた。「ひどい格好だな。どうしたんだ、電動芝刈り機にでも喧嘩を売ったのか?」
龍一とアレクセイは思わず顔を見合わせてしまった。何と説明すればいいのかさっぱりわからなかったからだ。
「いや、すまない」龍一たちの沈黙を批難と誤解したのか、猟区管理官は制帽をかぶり直し、やや真面目な顔になった。「よかったら、こうして私に出くわすまでの話を聞かせてくれないかね?」
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