ワイオミング、ヴァルハラ、ヴァルキリー(2)森の男
「どうだ?」
「駄目だ。ぴったりついてきている。振り切れない」
そうか、と龍一は頷く。今日聞いたこれが一番悪い知らせというわけでもないからだ。最後でもなさそうだが。
襲撃を受け、横転した車から這い出した直後だった。突如として飛来したヘリコプター──それも都市伝説にでも出てきそうな、不気味な黒塗りの大型輸送ヘリだった──が上空に現れ、そのままファストロープで完全武装の兵士たちを下ろし始めたのだ。泡を食って逃げるしかなかった。
「あれが俺たちとは全く無関係の誰かを探してるって可能性は?」
「なくはないけど、限りなく低いね。どのみちそれに命を賭ける気にはならなかったよ」
「だよなあ。それにしても、荷物を下ろせなかったのは痛いな……結果論だけどさ」
大したものを積んでいたわけではないが、それでも換えの衣服や非常用の発煙筒など役に立ちそうなものがなくもなかったのだ。それが一目散に逃げ出したせいで、今や龍一たちの荷物は身につけた衣服以外、アレクセイの持つスマートフォンくらいしかない。その上、最寄りの街まで十数キロは先と来ている。
「なあ、アレクセイ。こんな大自然溢れる山の中を、一晩かけて踏破した経験ってあるか? あのペルーの山中だって、ここまで厳しくはなかったぞ」
「ないね。〈ヒュプノス〉の──僕のかつての同胞たちならあったかも知れないけど」
「俺もさ。くそ、自分がとんでもなくひ弱になった気がしてきたよ」
山の冷気が鼻の穴に忍び込み、龍一はもう少しでくしゃみをするところだった。
「……とにかく歩こう。この時間の山は危険だけど、とどまる方がもっと危険だ」
「違いない」
見れば山陰に日が傾いている。どこかで名も知らない鳥が一声、甲高く鳴いた。
ずっと後になって龍一は思い返す。この時、もう少し冷静に観察していればその後の展開はどう変わったのだろうかと。
もちろん後知恵ではある。襲撃の直後だけに、龍一はもちろんアレクセイもやや冷静さを欠いていた。要するに二人とも若いと言うより幼かったのだ。
数キロ歩いただけで、龍一は自分の読みの甘さを認めざるを得なかった。
日中の平地で十数キロならそう困難ではない。だが日が落ちた山中でとなると、健康的な成人ですら難しくなる。龍一も、アレクセイも、無言で足を動かし続けた。それでも前進できた距離は数キロにも満たない。ろくな防寒着もない身体に、山の冷気がしんしんと沁みてくる。
「少し休憩しよう。この調子じゃ夜明けまで保たないよ」
見かねてアレクセイの方からそう言い出した時、龍一は頷くことしかできなかった。
二人して朽ちた倒木の傍らに腰を下ろす。どちらもしばらく言葉さえ発せられなかった。ここから出られたら一生山には登れなくていいやとさえ思った。ひ弱なシティボーイで充分だ。
それにしても水はないか、一息入れた途端に喉の渇きが耐え難くなってきた。ここへ至るまでに水源といえば、腐葉土の溜まった水たまりくらいしか見かけない。霞んできた目に、数センチほどの深さだが岩と草の間を流れる小川が見えた。
「待った。龍一、駄目だ!」
「え?」
アレクセイの示す方を見て龍一は凍りついた。小川の先で、黒い物体が淵に横たわっている。当に事切れ、蛆の湧いている鹿の死骸だ。
「何てこった……」
さすがにへたり込みそうになった。オアシスを見つけたと思ったら、それが蜃気楼の見せる幻だったのと同じだ。
「こんな水を飲んだら即座に腹を壊すよ。ただでさえ生水は危険なのに……」
「まったく……自然は優しくないな!」
龍一は足元の黒い土を爪先で蹴った。無意味な動作だったが、そうせずにいられなかった。
が、無意味と思っていたのは龍一だけだったらしかった。そうわかったのは急に足を強烈な力で引っ張られ、視界が一回転し、龍一の全身が宙に吊り上げられてからだったが。
「……罠か!」
踏んだ途端にバネ仕掛けでロープが引っ張られ、獲物を宙に吊り上げる。単純だが効果的な罠だ。
「龍一、大丈夫か?」
世界が逆さになっている。まるでタロットカードの『吊るし人』そっくりの格好で足元から吊り下げられた形だ。
「大丈夫だ……くそ、機械的な罠じゃないから気づかなかった」
機械的でなくとも、例えば仕掛け矢や尖らせた杭など、もっと致命的な罠と組み合わせることもできたはずだ。身動き取れなくなるので済んだのならむしろ僥倖だろう。
今の龍一なら首を切断されても平気だろうが、わざわざ試したくはない。
「しかし、おかしい」
「何がだ?」
「この罠自体に積もった埃の量から見て、少なくとも仕掛けられてから半月は経っている。どう考えても昨日今日で設置したものじゃない」
「俺たちのための罠じゃないってことか?」
「そうだね。それにワイヤーを除けば、使っている材料はこの森で採れた廃木だ。さっきの殺し屋ならもっとモダンな罠が使えるんじゃないか?」
確かに──先刻の襲撃から間髪入れず龍一たちの先回りをし、この森林地帯で逃走経路を逆算し、先んじて罠を仕掛けられる観察眼が敵にあったら、龍一たちは死んだも同然だった。
「とにかく、もう少し我慢してくれ。ロープを切るから……」
「いや、それには及ばないぜ」
吊り下げられた姿勢から足に絡まったロープを解く、厄介だが龍一の膂力を持ってすれば造作もないことではある。上半身をぐいと起こし、足のロープを掴もうとした瞬間、
「動くな」
声は低かったが、効果は覿面だった。身を起こそうとしていた龍一は、またも逆さ吊りに戻らなければならなかった。アレクセイも迂闊に動けない様子だ。
数メートル先の茂みに、まるで最初からそこにいたように長身の男が音もなく佇んでいた。氷のように冷ややかな眼差しと、こちらに向けられる大砲のように巨大な
何もかもまずかった──この体勢からでは拳を振り回そうが、足を蹴上げようが、全部空を切るだけである。その巨大さならさぞかし重いだろうに、男の構えた銃口は空間に固定されたようにぴくりとも動かない。
「動くんじゃないぞ。長生きしたければな」
マジかよ、と思ったがどうにもならない。龍一は凍りついたように、吸い込まれそうな銃口を見つめるしかできなかった。
銃声。
重々しい轟音が響き、龍一の足を戒めたロープが容易く切断された。
地面に頭から激突する寸前で受け身を取り、一回転して身を起こそうとしたところで、
「起きていいぞ。ただし、ゆっくりとだ。そこの相棒も動くな」
言われた通り龍一はぎごちなく身体の向きを変えた。振り向きざま確実に相手を仕留められる自信がない限り、反撃を試みるべきではない。
「……子供か」
男の氷のような眼差しには、情けも容赦も期待できそうになかった。「観光客にしても軽装すぎるな。山を舐めているのか?」
もっともではあるが、龍一たちもやむに止まれずではある。「車が事故を起こしたんだ。無線も壊れたし、歩くしかないと思った」
「それで遭難したら同じことだろう。この季節のこの時間帯に山越えしようなんて、舐めているのには変わりない」
ぐうの音も出ない。
「まあいい」だが、物騒に見える男は案外あっけなく銃口を下ろした。「それなら俺の小屋に来い。一晩くらいなら泊めてやる」
呆気に取られたのはアレクセイも同様のようだった。「それはありがたいですね。この国では頭を吹き飛ばされても正当防衛で済まされるようですし」
皮肉には取り合わず、男は巨大なリボルバーの輪堂を振り出し、空薬莢を外してポケットに収めるとソーセージほどもある替えの弾丸を装填し、脇腹のホルスターに収めた。
「こいつの弾丸は一発3ドルもする。いつもならこんなやり方でロープを切るなんてしないが、まあ仕方がない。お前らを引っかけたせめてもの詫びだと思ってくれ」
言うと、龍一たちのことは忘れたかのように背を向けて歩き出した。用心にも値しないと言わんばかりの態度だ。
龍一は一瞬躊躇ったが、ほんの一瞬だった。何しろ寒かったし、腹も減っていた。アレクセイも黙って着いてくる。
既に周囲はほぼ闇と同化していた。男の先導なしでは、一歩も歩けなかったに違いない。
「こっちだ」
山腹にぽっかりと口を開けた洞穴が男の棲家らしい。近くからは水の流れる音も聞こえてくる。
上手い位置を選んだもんだな、と龍一は感心した。洞穴までの道は曲がりくねってはいるが、入り口からなら麓の様子が一望にできる。対して麓からは、藪と雑木林で洞穴は直視できない。近くに水源があれば、水にも困らない。
「道を外れるなよ。さっきのほど凝ってはいないが、仕掛けはしてある」
「糞便を塗りたくった棘を上向きに据え付けた落とし穴とかか?」
「そんなものあるか。この辺りにだって釣り人は来るんだぞ。無関係な人が誤って落ちたらどうするんだ」
一応、節度はわきまえているということか。
中に入ると洞穴は緩やかにカーブしており、入り口から覗き込んでも奥までは直視できないことがわかった。そして何よりも、風雨を避けられる分、暖かく快適だった。男が熾火を起こすと、たちまち暗闇の中にオレンジ色の炎が燃え上がり、昼間のように明るくなった。炎を見ているだけで寒気が嘘のように吹き飛び、龍一は不覚にも泣きそうになった。アレクセイまで生気を取り戻している。
夜遅くに他人の寝ぐらに上がり込んで晩飯にまでありつこうというのだから、正直、水とドッグフードが出てきても文句は言わないつもりだった。だがその夜、イライアスが振る舞ってくれたのはコーヒーに、香草をまぶして焼いた川魚、それに大麦パンという結構な振る舞いものだった。味以上に量がありがたく、龍一もアレクセイもしばらくは何も言わずに食べた。考えてみれば昼のドライブイン以降、ろくに食べてもいなかったのだ。
「お前らついてたな。冬も近いから食料も多めに貯めている最中だったんだ。ちょうどパンも作りたてだったしな」
鉄製のフライパンの上で芳香を立ち上らせている川魚を器用にひっくり返しながら男が言う。心なしか、料理中の彼はだいぶ上機嫌に見える。
「え……作りたてのパン?」
龍一は驚いて齧りかけのパンをしげしげと見た。確かに、市販のパンにしてはやや粒が粗い。「どうやって?」
「パンを作ったこともないのか?
「真水はわかりますが……体温?」
「ストラップ付きのブリキの箱に発酵種を入れて、自分の腹に巻きつけてな。苦労はしたがそれだけの価値はあった。カインなんざ、小麦粉を川石で挽くところから始めたんだぞ」
この大男が妊婦のように大きくなった腹をさすっている光景を想像し、龍一は何となくおかしくなる。それにしても、食い物のこととなると饒舌になるあたりテシクそっくりだ。龍一は自分がこの男に親しみを感じているのに気づく。
「それで? お前ら本当は何なんだ?」
男が口を開いたのは、龍一がパンの最後の一片を口に放り込んだ時だった。それまで質問は我慢してくれていたらしい。やはり見かけによらず気を遣う男だ。
「ここは本当に静かな土地なんだ。
ぐうの音も出ない。
「あなたは……サバイバリストなのか?」
言ってから失言だと龍一自身が気づいた。考えようによっては随分と失礼な質問だ。
「サバイバリストか……まあ、他人から見ればそうとしか見えないだろうな」意外にも男は怒らなかった。「俺としては
「そういえば、あなたのことは何と呼べばいい?」
「イライアス。友人にはそれで通る」
アメリカ人の男性としては一般的な名前だ。偽名ともそうでないとも取れる。
「銃を持った兵士たちに追われてきた。警察でも軍でもない、薄気味悪い兵隊たちにだ。確かに俺たちは素っ堅気じゃないが、そんなのに追われる心当たりもない」
食い詰め者の犯罪者、という言われようが完全に無実ではないのも確かだったが。
「……そうか。どうもここしばらく、上空を目障りな蠅が飛び回っていると思ったが」
「ヘリボーンしてきた完全武装の兵士たちに、追い回されるような心当たりが?」
イライアスはカップの縁をなぞりながら考え込んでいる。「隠しても仕方がないから言うが、俺は
「抵抗運動?」
「と言ってもテロとは無縁な、ただこの国のやり方に馴染めないというだけの善男善女のグループだ。アメリカ人だからって御国のやる全てに両手を挙げて賛成するってわけじゃない。特にあの薄気味の悪い、人造の兵士に関してはな」
まただ。
自分の顔色の変化を隠せたかどうか、龍一には自信がなかった。少なくともイライアスはそれについて言及はしなかった。
「……前から聞こうと思っていたんだが」龍一は慎重に言葉を選んだ。「この国の人たちはどう捉えているんだ? その……あれを」
「確かに、HWによって兵役はなくなった。貧乏人の小倅が、募集係の上手い言葉に乗せられて聞いたこともない国で殺したり殺されたりするのは減った。だがだからと言ってそれでいいのか? 今この国で進んでいるのは、より巧妙になった、新たな搾取の形なんだ」
イライアスの口調に変わりはなかったが、それは皮一枚下で押し留めている、冷ややかで強烈な怒りを余計に感じさせた。
「……お前たちが気にする必要はない話だ」明らかに喋りすぎた、という口調だった。「寝ろ。明け方まで眠くなくても寝ておけ。俺はもう少し起きている」
言うと彼は洞穴の入口の方へぶらりと歩いていってしまった。何しろ家主の言葉だ。龍一は遠慮なく好意に甘えることにした。
洞穴の中は意外に暖かく快適で、寝袋に入るとほとんど寒さを感じなかった。歩きすぎて足が倍に腫れているようだったが、それでも寝袋の中で足を存分に伸ばせるありがたさには代えられなかった。あくびを一つした時、アレクセイが口を開いた。
「龍一。話しておきたいことがある」
「うん?」正直瞼が重くて仕方なかったが、アレクセイがそう言うのでは仕方ない。
「彼──あのイライアスと名乗る男、只者じゃない。犯罪者でもない。元特殊部隊だ」
眠気が吹き飛んでしまった。「確かか?」
「確かだ。歩き方を見てわかった。素人がプロを装うことはできるが、その逆はできない」
「元特殊部隊員がこんなところで何を?」言いながらも、あの無愛想だが親切な男の素性にも答え合わせができてきてしまう、と龍一は思った。脱走兵だ。
「あのヘリと兵士たちは、彼を追ってきたんだ。僕たちじゃなくて」
「……とんだ誤解で、半日近くも山の中を逃げ回っていたのか」
脱力しそうになったが、同時に新たなトラブルの予感も覚えた。イライアスが標的なら、あの兵士たちがそう簡単に諦めるとは思えない。
「今のうちに休んでおきなよ。僕ならすぐ起きられる。それに、この時間から移動するのは無謀だ」
アレクセイはそう言って横になったが、完全に寝ていないのは確かだった。彼がすぐ起きられる、と言うのなら任せて大丈夫だろう。
大丈夫だろう、と思った瞬間に限界が来た。疲労も手伝い、龍一は即座に寝入ってしまった。
夢を見ていた。
方角どころか天地さえ定かでない薄闇の中を、龍一は走り続けていた。前方には見覚えのある、ほっそりした娘の後ろ姿がある。
夏姫だ。
大して早足でもないのに、距離が一向に縮まらない。龍一の方は死に物狂いで追いかけているというのに。
『待てよ。どうして待ってくれないんだ? 話すことがいろいろあるんだ。君だってそうだろう?』
『人のことを気にしている場合?』
夏姫は振り向き、龍一は悲鳴を上げそうになった。彼女の目があるはずの部分からは黒い結晶体が突き出し、まるでオイルのようにどす黒い涙が滴り落ちている。
『あなたが今いる場所、とっくに
「……龍一!」
アレクセイに揺り起こされる前に、龍一は目覚めていた。周囲は暗闇で、洞穴の入り口から微かに差し込む星明かり以外の光はない。一瞬、龍一は自分がまだ悪夢の中にいるのかと錯覚した。全身がびっしょりと冷や汗に濡れている。「どうした?」
大して睡眠も取れなかっただろうに、アレクセイの表情は平時と変わらないほど引き締まっている。「イライアスが君を起こせと。どうも様子がおかしい」
「起きたんなら伏せていろ」油断なく表を伺いながらイライアスが低い声で言った。その手には早くも、例の巨大なリボルバーが握られている。「静かすぎる。鳥も……獣も。嫌な雰囲気だ」
彼は傍らに顎をしゃくる。「そこのノートPCを使え。監視カメラに直結している。
龍一は飛びつくようにしてマウスを操った。熱探知モード特有の、薄緑色の画面の中に動くものはない。あったとしても、サイズからして小動物のものだ。
いや──今横切ったのは何だ?
心臓が一つ、大きく波打った。数人分の人影がこちらへ向けて接近しつつある。
それなりの訓練を受けた者特有の、統制の取れた動きだ。少なくとも素人の動きではない。
その中の一つが体勢を変え、何かを肩へ担ぎ上げるような動きをした。
そう、ちょうど大型の携行火器を構えるような体勢だ。
対戦車ロケット──!
「伏せろ!」
龍一の警告は、鋭い笛のような発射音に掻き消された。
轟音と閃光が洞穴内に吹き荒れた。数百メートルをほぼ一瞬で駆けたロケット弾は、洞穴の入り口付近を粉砕し、龍一の身体をボールのように弾き飛ばした。
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