相良龍一の章 ワイオミング、ヴァルハラ、ヴァルキリー

ワイオミング、ヴァルハラ、ヴァルキリー(1)アメリカの顔の一つ

 ──私には病気など一つもない。

 だがそれこそが私の、救い難い罪であり罰である。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 車の窓から流れ行く光景に目を凝らしていた龍一は、思わず声を上げそうになった。「プロングホーンエダツノレイヨウだ……」

「何だって?」運転席でハンドルを握るアレクセイが、訝しげに聞き返す。

「図鑑で見たことあるんだ。あそこだけでも百頭はいるぜ……!」

 ああ、とアレクセイは口元だけでちらりと笑う。「州のこのあたりじゃ、人間よりもプロングホーンの方が多いらしいよ」

「マジかよ」龍一は唸り、丈の高い草の間から見える無数の角をもう一度見た。その向こうには所々を白い積雪に彩られた、青黒い山脈が見える──ワイオミング州では最高峰のウィンドリバー山脈だ。「動物園ならわかるけどここ屋外だぜ。それもあんなにたくさん……!」

「君がそんなに野生動物に詳しいなんて思わなかったな」

「図鑑で見ただけだって言っただろ」ややばつが悪くなり、龍一は座り直す。「今日は運転し通しだろ? そろそろ交代するか?」

「いいよ。今の君みたく車の窓から見るもの全てに目を輝かせている人に、ハンドルを任せる者なんていないさ」

「ぬかせ」龍一が口元をひん曲げたのは、もちろん反論の余地がなかったからである。アレクセイがいざとなれば〈糸〉で車を制御できるから龍一よりも運転手には適任、という点に目をつぶってもだ。

「俺たち、この前までニューヨークにいたんだよな。とても同じ国の光景とは思えないよ……」

「龍一は、ワイオミング州についてどこまで知っている?」

「大したことは知らないよ。観光客向けの惹句以外はな」膝の上で無料配布のパンフレットをぱらぱらとめくりながら龍一は答える。「乗馬、スキー、カヌー、無数のアウトドア・アクティビティ。豊かな自然と他では巡り会えない希少動物たちとの出会いは、あなたにとってきっと忘れられない体験になるでしょう……か」

「観光客向けの通り一遍の惹句とは言え、ここに来るまでに見たものを考えるとだいぶ異なる感想を抱くね」

 龍一は難しい顔になる。休憩のために寄ったサービスエリアにたむろしていたトラック運転手、あるいは建築現場や石油掘削所で働く労働者たちの荒んだ顔つきを思い出したからだ。彼らが龍一たちに向ける視線はかなり刺々しいものだった──目立たない服装を心がけていたのに、それでも龍一たちの格好は労働者たちに比べれば洒脱すぎたのだ。

「見ての通り、ここは美しく豊かな土地だ。都会からレジャーや狩猟のためにやってくるIT長者や観光客は多くても、その恩恵が充分に行き渡っているとは限らない。豊かな自然と希少な動物資源、そしてその恩恵を充分に受けられない貧しい人々。行政の努力とは裏腹に失業率は着実に上昇し、住民の中には銃と山ほどの弾薬を持って山に向かい、そのままサバイバリストになってしまう者も多い……らしい」

「無数の貧しい人々、か……」

「荒涼たるテキサスとも大都会NYとも異なる、数多くの問題を内包した、しかし紛れもない、アメリカの顔の一つ──それがここ、ワイオミング州だ」

 この美しい自然の中で、自分たちの生活を豊かにするものが何も見つからなかったら──そしてその苦しみが何年、何十年と続いて終わることがないと知ったら、その鬱屈はどれほどのものになるのだろう。

「ところで、アレクセイ。俺たちをこの先で待っている、その、ええと……『ミスターX』とやらは一体何者なんだ? 追われている俺たちがわざわざ会いに行くだけの価値はあるのか?」

「ある」どこか苦々しい口調でアレクセイは頷く。「というより、会わないという選択肢自体がない」

「いきなり深刻な話になってきたな」

「まず、今まで僕たちを支援してきた国際犯罪ネットワーク〈ネットの中の島々アイランド・イン・ザ・ネスト〉について説明する必要があるね。長いから単に〈島々〉と呼ぼう」

「ああ……資金やら偽造身分やらを用意してくれた組織だっけ? 要するに俺たちの同業者だし、単に親切心じゃないんだろう?」

「そう、〈島々〉は犯罪業界関連の情報収集やその売買、そして違法株取引に特化した犯罪組織でね。〈ヒュプノス〉が健在だった頃から、僕たちの暗殺業務によって生ずる市場の混乱を利用したインサイダー取引で密接な協力関係にあった。〈海賊の楽園〉との交渉も、僕らがイギリス侵入に用いた偽造身分も、全て〈島々〉あってのものだ」

 イギリス、と聞いて龍一の胸中に形容し難い疼きが走ったが、それは抑え込んだ。

「この車もな」

「そう、もちろんこの車もだ」

 たっぷり数世代は型落ちの中古車ではあるが、贅沢は言っていられない。

「数日前、その〈島々〉を介して僕らにコンタクトしてきた人物がいる。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスと戦う者たちには必要不可欠な情報がある──ただし、向こうの身分や目的などを〈島々〉は一切教えてくれなかった。本人に聞け、と言わんばかりだったよ」

「よくそれで会う気になったな?」

 まあ俺なら会わないな、と思う。ミスターX、なんて恥ずかしい二つ名を名乗って事足れりとしている奴相手なら尚更だ。

 アレクセイの苦渋はますます深くなった。彼には珍しい顔だ。「そうするしかなかったんだ。相手は〈島々〉にとってもお得意さんらしくてね」

「今までさんざん無理を聞いてやった、そのツケを払えってことか……」

 道理でアレクセイがいつになく浮かないわけだ、と龍一は合点した。考えてみれば龍一とてさんざんその〈島々〉の支援におんぶに抱っこだったわけだ。

 今の段階で〈島々〉の支援を失えば、龍一たちの逃避行は大幅な見直しを余儀なくされる──最悪、成り立たなくなるかも知れない。

 同時に、アレクセイを責める気にはなれない──どころか、責める謂れのない話ではある。

「わかったよ。まずはそのミスター何某に会ってみようぜ。ここまで凝った手で接触してくる以上、のこのこ出向いた途端にぶち殺されるってことだけはないだろう」

 あるいはこれがヨハネスの罠で、必殺の覚悟の下に繰り出してきた切り札だとしても──いや、どのみちアレクセイの言う通り「会わない」という選択肢だけはない。

「結局、お袋と会うのも失敗したからな……」

 NYでの龍一の母──白木透子との接触する試みはものの見事に失敗した。他でもない、当の彼女によってだ。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの情報を得るどころか、ヨハネスの暗殺部隊やNYPDの警官隊にまで追い回され、這々の体でNYから逃げ出す始末だった。彼女の(噴飯ものの)アドバイスによって、多少気が楽になったのは確かだが……考えてみれば、事態は別に好転したわけではないのだ。

「お母上が息子の君に会うつもりがないんだから仕方がないね。いっそ、ついでにアメリカ観光するのはどうだい?」

「あのな……君がお袋の薫陶を受けてどうするんだよ」

 アレクセイの顔に微笑が戻った。彼なりにいろいろ気に病んでいたらしい。「先ほどのサービスエリアが本日最後の休憩だ。あと6時間ほど走ればシャイアンに到着する。

「脅かすなよ……」

 何しろ『何事もない』が、それだけでどれほど稀有で貴重なものなのか龍一はこの半年で嫌になるほど思い知ってしまっている。

 バックミラーにちらりと目をやったアレクセイが嘆息。「すまない。僕がつまらない冗談を言ったせいだ」

 果たして──後方から猛スピードで、灰色のRV車が距離を詰めつつあった。3台。

 RVのウィンドウはいずれもスモークグラス仕様。運転手や同乗者の顔貌や性別どころか人数すらも定かではない。

 だが、明確な敵意と悪意は感じる。

「謝ることはないだろう……振り切れるか?」

「無理だ。車の基本性能からして違う」

 車の性能を抜きにしても、ほぼ一本道では撒きようがない。アレクセイの〈糸〉は車の性能を限界まで引き出せるにしても、言うまでもなくそれは最後の手段だ。

「ヨハネスが俺たちの首にかけた賞金は取り消しても、いなくなったのは賞金稼ぎだけか……今度はだろうな?」

「多すぎて思いつかない。軍や情報機関、あるいはその現地雇いの非合法工作員イリーガル、あるいは軍事請負企業ミリセクのオペレーターか……」

「のんびり観光もさせてくれねえのかよ……」ぼやきながら龍一はシートベルトを外す。降りかかる火の粉を払う時間だ。

「いつもの君ならここで『ロックンロールのお時間だ』と言うんじゃないのかい?」

 龍一は今日で何度目になるかわからない溜め息を吐く。「いくらここがアメリカだからって、わざわざ合わせる必要はないんだぜ?」

 バックミラーに目を走らせる。後続車は──ない。だからこそ向こうも白昼堂々と仕掛けてきたのだろうが。

「無関係の一般車両を巻き込む恐れはなさそうだな……」

「それくらいしかいいことが思いつかないけどね」

 3台のRVは馬力に物を言わせて、見る見るうちに距離を詰めてくる。しかし、

「……銃を使わないつもりか? 車ごとぶつけて停める気か?」

 左右から2台、真後ろに1台ぴたりとつけられた。こちらの速度に完全に合わされている。見事な連携であり、少なくとも無関係の一般車両という線は消えた。

 解せない話である。たとえこちらに銃がなくとも、龍一の〈礫〉なら殺すまでもなく制圧可能であるし、近接戦に持ち込んだところで〈鱗〉ならほぼ完璧に銃・爆発物を無効化できる。エンジンを破壊するか、そこまでしなくともタイヤをずたずたに切り裂いてしまえば終わる。

 まさかこちらの情報ゼロで挑んできたわけでもないだろうに。よほどの自信があるのか、それとも単に命知らずの馬鹿なのか。正直「舐めてんのか?」と思わないでもない。

 まあいい。「念のため〈糸〉は用意しておけ」

「わかった」

 アレクセイが準備していないはずもないが、念のためだ。こちらもお遊びに付き合うほど暇ではない──身を乗り出した龍一を、しかし次の瞬間襲ったのは名状し難い苦痛だった。

「が……!?」

 全身の血液が沸騰し、視界が真っ赤に染まる。悲鳴が声にならない。運転席のアレクセイも、同じような苦痛に襲われているらしく苦しげに身をよじっている。

 光も音もないのに、全身の皮膚がガラス片になったような苦痛。

「ASD……マイクロ波照射機……!」喘ぎながらアレクセイがどうにかそれだけ口にする。「暴徒鎮圧用の……非殺傷兵器だ……!」

 望月やテシクから概要だけは聞いた気がする──皮膚に痛みを生じさせて犯罪者や暴徒を殺さず制圧する、電子レンジの兵器利用みたいな奴だったか。

 激痛に歪む視界の中で龍一は見た──真横に並ぶ2台の車を。後部座席には、銃架へ据えられた反射板とスピーカーを組み合わせたような複雑な装置。そして運転席でハンドルを操るのは、人とは似ても似つかない、金属の骨組とマニピュレーターのみの機械だ。

 ASD搭載の移動式プラットフォームを兼ねた、完全遠隔操作の無人車。

 やられた──舐めていたのはこちらの方だった。完全に龍一の〈竜〉としての能力を分析した上で、それを封じる兵器。

 振りかざした手がわななく。腕を持ち上げただけで筋肉にまで痛みが走る。意識を集中できない。〈礫〉どころか〈鱗〉すら展開できない。

「照射機の……反射板!」これまでに聞いた事のないアレクセイの呻き。「片方だけでも壊せば、照射は防げる……!」

 だが身を乗り出せば届く程度の距離なのに、一切の飛び道具を持たない龍一たちには攻撃手段がない。アレクセイの〈糸〉なら可能だが、彼は車の制御と苦痛に耐えるので精一杯だ……。

 いや、ある!

 龍一は渾身の力でフロントガラスに拳を叩き込んだ。脆いガラスが粉々になり、瞬く間に突風が車内へ吹き込んでくる。

 事故防止用のガラスは破片よりさらに細かい粒へとなったが、それこそが龍一の求めたものだった。

 掴み取ったガラスの粒を掌に握り締め、投げた。

 龍一の膂力が無害なはずのガラス粒に散弾のごとき威力を与えた。真横の車のリアウィンドウが残らず砕け散り、車内の操作機構とマイクロ波照射機を深々と穿つ。反射板が破壊されたのか、全身の苦痛が嘘のように止む。

「今だ!」

 アレクセイが〈糸〉を駆る──ハンドルとアクセル、ブレーキに絡み付いた複数本の〈糸〉が人間の手では再現不可能な運転を実現させた。盛大にタイヤを軋ませ、速度をほぼ落とさぬまま車体が真後ろを向いた。同時にフロントに空いた全面の大穴から〈糸〉が放たれている。

 蜘蛛糸よりも細い〈糸〉がRV車2台の運転席を切り裂き、返す刃でタイヤまで両断している。悲鳴のようなタイヤ音と破砕音を響かせながら、RV車が次々とガードレールに激突する。

 だが、高まるエンジン音がそれすら掻き消して轟々と迫ってくる。

 残る1台だ。

(──本命はこいつか!)

 けたたましいタイヤの軋みと、歯茎から歯が飛び出そうな衝撃。真後ろを向きながら全力で走る龍一たちの車に、RVが衝突したのだ。

 ドラム缶の中へ放り込まれたように車体が揺れる。アレクセイが必死の形相で〈糸〉を繰り、どうにか横転を免れる。

 RVは衝撃で一旦離れはしたが、なおも轟音とともに突進してくる。

「あくまでステゴロ勝負たあ、いい度胸だ……!」

 もうASDの影響はない。今度こそ〈礫〉を放とうとする龍一の眼前で、今度は対向車のフロントガラスが砕け散った。

 アレクセイにすら躱す余裕はなかった。ガラスを粉砕して飛んだそれはほぼ水平に飛び、眼前のボンネットに深々と突き立った。

 龍一は自分の目どころか正気を疑うところだった。銛だ。鈍く輝く金属製の、それも捕鯨にでも使えそうな長く太い銛だ。

 向かいのフロントガラスに空いた大穴から、RVの運転手の姿が見えた。

 艶消し黒マットブラックのフルフェイスヘルメットに漆黒のライダースーツ。人間大の昆虫かロボットにしか見えない見かけだが、そいつがこちらを注視していることはわかった。それにしても、片手でハンドルを操りながらもう片方の手だけであの長大な銛を投擲したのなら、恐るべき膂力だ。

「それなら……!」

 すかさずアレクセイが〈糸〉を放つ。生身の人間相手に使うには威力がありすぎる〈礫〉や〈鱗〉に比べると、〈糸〉は遥かに柔軟だ。先ほどのように車ごと運転手を寸断することもできれば、相手を殺さず拘束することもできる。

 だが、向かいのライダースーツの行動は龍一どころかアレクセイの予想すら越えていた。走行速度を落とさず、それどころかフロントガラスを拳の一撃で粉砕すると、無造作に身を乗り出したのだ。

(まさか……こっちに飛び移る気か!?)

 そのまさかだった。ろくな助走もなしにライダースーツがRVの車体を蹴って跳躍する。

 アレクセイも容赦がない。舞い上がったライダースーツにさらに〈糸〉を放つ。

 だが龍一は、またもや目を疑うしかなかった。アレクセイの〈糸〉による斬撃を、ライダースーツは身を捻って躱したのだ。しかも回避困難な空中で。

 まるで水中の魚のような見事な身体操作だった。〈糸〉の技術は既に世界各地のブラックマーケットで解析され、防御手段も皆無ではない。だが身体能力のみでそれをことごとく無効化した者など、龍一の記憶でもそう多くはない。

 だん、と眼前のボンネットに音立てて着地したライダースーツは、ボンネットから突き出た銛をさらに深々と捻じ込んだ。

 同時に銛の先端から、いかにも健康に悪そうな深緑色の液体が滲み出す。金属と化学反応でも起こしているのか、火でも付いたような勢いで白煙が吹き出した。

(酸か!)

 とうとうその辺りで車の挙動がアレクセイの制御限界を越えたらしい。車体の振動がさらに強烈になる。何しろ内部に強力な酸を流されているのだ、たまったものではない。

 ライダースーツは躊躇いもなくボンネットを蹴る──その姿が一瞬で後方へ消えた。

「掴まれ!」

 言われるまでもない。龍一は歯を食いしばった。

 ガードレールを突き破る衝撃の後、一瞬の浮遊感。

 龍一たちは石のように、車ごと真っ逆さまに落ちた。


 路面を激しく横転したライダースーツは、しかし何ごともなかったようにむくりと起き上がった。

 しばらく龍一たちの車が転落していった谷底を見下ろしていたが、やがてヘルメットに手をやり、内蔵の無線で呼びかける。

「指示通り車は破壊しましたが、死体は確認できていません。追撃しますか?」

『必要ねえ』酒焼けした中年男の声が応じる。『追っかけてって殺せとは言われてねえ。依頼人は慈悲深いな』

 ライダーは嘆息する。「慈悲深い、ですか。確かに、車ごと人を谷底深くへ叩き落とすほどには慈悲深い」

『皮肉言ってる暇があったら帰ってこい。どっちかつうと、この後が俺らの本番だぞ』声は思い出したように、『それからお前、肩、外れてるぞ』

「えっ? ……ああ、うっかりしていました。痛覚制御ペインキルも良し悪しですね』

 はむしろ煩わしそうに、外れた肩を音立てて強引に嵌め直した。


「僕の〈糸〉を躱す身体能力……状況に応じて即興であらゆる手を繰り出す判断力……」

「……にしては、ずいぶんあっさりと退いたな。あの調子で暴れまくったら、もっとこっちを追い詰められたのに……」

 ──岩陰から龍一とアレクセイが身を起こしたのは、遥か頭上の道路から人の気配が消え、なおも時間が経ってからだった。

「本気で殺すつもりはなかった……ということかな?」

「よくわかんねえな。……そろそろ動こう。あんなのが増援を連れて戻ってきたら厄介だ」

 そこまで言って龍一は顔をしかめた。今になって全身の傷が疼き始めたのだ。

「痛ってえ……アレクセイ、そっちは大丈夫か?」

「僕はね。車は駄目だ」

 龍一もアレクセイも、苦い顔を見合わせた。ここまで二人を乗せてきた車は、今や燻る金属とプラスチックの塊と化している。偽造身分を通して入手した安物で大した荷物は積んでいなかったが、そういう問題でもない。

「これが平時ならそれこそアメリカ名物ヒッチハイクでもできるんだが、無理かな」

「あの刺客が目を光らせている可能性は否定できないからね。無関係な人は巻き込めないよ」

 急に寒気が全身を襲い、龍一はくしゃみをした。寒い。見れば、もう彼方の山肌に陽が落ち始めている。観光案内に、この地域は夏でも夜はひどく冷えると書いてあったのを思い出した──標高が高いところならなおさらだ。

「……仕方ない、歩くか。今日中に街まで着ければ御の字だと思おうぜ。歩けば数時間なんだろ?」

「それなんだけどね……」

 アレクセイは心底言いにくそうに、

「数時間で着くと言ったのは車の話なんだ。加えて、最寄りの街までどれほど甘く見積もっても十数キロはある」

「……マジかよ」

 こんな、大げさでなく本当に熊が出てきそうな山の中を十数キロだって?

 傾きかけた陽光を顔に浴びながら、龍一は呆然とするしかなかった。冗談じゃない……俺たちはひ弱なシティボーイなんだぞ?

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