灰と煤の女王(2)砂塵の彼方から来るもの

「……墜落?」

 金髪の若い女性秘書から報告を受けたヨハネスは、彼女の顔をまじまじと見つめた──そうすれば、そこに答えを見出せるかのように。「確かか?」

「はい。当該機は墜落。ドバイ郊外の砂漠地帯です」

 数秒の間だが、ヨハネスは確かに呆然となっていた。まるで自分の言うべき言葉が何も思いつかないような様子だった。

 が、それは本当に数秒の間だった。「捜索隊を出せ。直ちにだ」

「お言葉ですが、サウジ政府を含め公的なものとしては派遣できません。あのジェット機自体、ドバイ入りのため幾重にも偽装を施してあります。まして、陛下の目的を考えれば……」

「極秘裏の手配が、裏目に出たか」

 憤懣を押し殺すような呟きだった。

 僅かな逡巡の後、女性秘書は口を開いた。「私にお任せ願えますか、陛下?」

「君がか?」

「はい。本来はUAE圏内での非合法任務に備えて準備していたチームですが、直ちに動かせる者たちがいます。小規模ですからサウジ政府の面目を潰す恐れもありませんし、陛下が懸念なさる不穏分子の目も掻い潜れます」

 他に手はないな、とヨハネスは頷く。「わかった。君に一任する、アンジェリカ」

「かしこまりました。御心のままに、〈犯罪者たちの王〉」

 アンジェリカは一礼し、退室しようとして──

「このようなただの偶然の事故で、私の計画が水泡に帰すのか?」

 振り向いた。しかしそのヨハネスの言葉は、彼女に向けられたわけではなかった。まるで自らに問うような呟きだった。

 彼女の唇が開きかけたが……結局、何も言わずに扉を閉めた。


 ヨハネスの居室を後にしたアンジェリカは、足早に歩きながらスマートフォンの短縮ダイヤルを押した。相手はすぐに出た。

「……私です。はい、例の部隊は待機していますね? 直ちに動かしてください」

 次に吐き出した言葉には、普段の彼女ならヨハネスの前では決して見せない──彼女自身見せようとすら思っていない強烈な決意が込められていた。

「あの〈バビロン〉を葬り去るのに、この機会を置いて他にありません」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 まずこの過酷な地では、生きるだけでも可能な限りの知恵を振り絞らなければならなかった。

 最初に夏姫が行ったのは飲料水の確保だった──この暑さでは飲み水がなければ数日どころか数時間と持たない。が、半壊したビジネスジェット機を調べた彼女はひどく落胆した。非常用飲料水はその大半が機体もろとも砂と金属の下敷きとなっており、また機内のウォーターサーバーも墜落時の衝撃で完全に破損し、どうにか回収できたのは乗務員用のペットボトル入り飲料水くらいしかなかったのである。

 やむを得ず夏姫は仮の拠点を乗務員室に定めた。機体の中央部だけあって破損は軽微であり、トイレも近いので用を足すには困らない──衛生観念を気にしなければだが。機体下部の貨物室も候補の一つではあったが、砂丘に突っ込んだ機体は大きく損壊した上に砂の侵食を受けつつあった。下手をすると寝ている間に生き埋めになりかねない。

 居住スペースとしてはあのヨハネスに与えられた監禁部屋が懐かしくなるほどのいじましい広さだが、贅沢は言っていられない。それに、天井が大きく吹き飛んだ上に射殺されたCAたちや突入してきた特殊部隊員たちの死体が転がる機内で助けを待つなど論外だった。どのみち、今の夏姫には彼ら彼女らを弔う術もない。ありあわせの毛布をかけてやり、短く祈ってやるくらいしかできなかった。

 後は救助を待つだけだった──それ以外に助かる方法がないのはわかっていた。GPSすら持たずに砂漠を横断して人家のある場所まで徒歩でたどり着くなど、検討するまでもない馬鹿話だ。

 それに、ヨハネスが少なくない金と手間をかけてこのビジネスジェット機を手配したのは確かだ。夏姫が砂漠のど真ん中で日干しになるのに手をこまねいてはいないだろう。襲撃を知り次第、彼は即座に手は打つはずだ。だから彼女は、救助が来ること自体を危惧はしていなかった。

 だ。戦闘機まで投入して夏姫を殺そうとしたあの特殊部隊なら、通信傍受ぐらいはお手の物だろう。あのスーツケースに内蔵した〈豊穣の角コルヌコピア〉なら通信機ぐらいは作れるが、無線通信に目を光らせている相手がいるとなると迂闊に救助を求めるのは悪手である。

 苦肉の策として、夏姫は別のものを〈豊穣の角〉で作成することにした。スーツケースを開けて制御パネルを叩き、引き出した収納ホースを乗務員室の便器に突っ込むと、たちまちホースは脈動を始め、中身を吸い上げ始めた。水も汚物も区別しない。〈豊穣の角〉にとっては等しく貴重な材料である。

 空気中につんとオゾンの臭いが漂い始めたのを確かめ、夏姫は鼻をつまみながら頷いた。これでよし。

 後は待つだけだった──最善の策も、唯一取れる手も、全て待つだけだった。

 陽光は凄まじいが、ほとんど湿気がないために機体の陰で日の光を避け、毛布をかぶってさえいればどうにかやり過ごせないことはない。

 実際、昼間の行動は諦めるしかなかった──暑いだけでなく、危険だったからだ。ついうっかり剥き出しの金属に足の裏をつけてしまった時は「じゅっ」と本当に肉を焼く音がして慌てて飛びのいたものだった。どのみち室内履きのような華奢な靴では尖った金属やガラスの破片を防げないので、夏姫は靴の上から引き裂いたドレスを巻きつけて対処した。

 夜は夜で過酷だった。毛布を頭からかぶっても震えが止まらないほどの寒さ。毛布を全て引っ張り出しても寒さが凌げないとなると、やむを得ず夏姫は夜会用のイブニングドレスをありったけ引っ張り出して身体に巻きつけるしかなかった。他人から見れば無様なことこの上ないが、この際命には代えられない。

 だが何よりも夏姫を苛んだのは、恐ろしいほどの静けさと孤独だった。

 殊に、静けさに関してはあのヨハネスの監禁部屋の比ではなかった。少なくともあそこにあったのは文明であり、こんな剥き出しの自然ではなかったからだ。風と、さらさらと砂が流れる音。後は何もない。本当に何も。

 孤独もまた夏姫には堪えた。彼女は本来社交的な娘であり、傍らには常に誰かがいた。だがここには誰もいない。W1も、彼女の弟のW2も、ヨハネスすらいない。孤独を慰める術が何一つないのだ。夏姫が完全に参らなかったのは、この状況で参ってしまったら本当に死ぬ、と自分に言い聞かせたからに他ならない。

 うとうとと眠ろうとしても、飢えと寒さと空腹で何度も目が覚める。割れた窓と大穴が空いた天井から見える星空は美しかった──この世のものとは思えない美しさだった。死が迫っているからこその美しさだ。毛布と、ドレスの成れの果ての布切れにくるまって震えながら、夏姫は飽きることなくそれを見つめ続けた。

 ふと、笑ってしまった。ヨハネスの虜囚から脱し、自由を得たと思った途端に死が迫ってくるとは何という皮肉だろう。


『資材も量子通信のレンタル代も全部向こう持ち? 今回のクライアントはずいぶんと気前がいいね、クロエ姉さん』

『〈王国〉絡みの仕事よ。少なくともあいつらはケチじゃないからありがたいわ……それにしても本当、便利な時代になったものね。地球の裏側から人が殺せるなんて』

『各兵卒、狙撃位置。大気及び風速のスキャン補正……終了。いつでもいいよ、姉さん』

『こっちも目標を視認したわ、ファビアン、可愛い弟。意外に元気そうね』


 寒さに震えながら、彼女は目を開いた。空腹だからかも知れないが、鋭敏になった知覚が何かを感じ取った気がしたのだ。

 気のせいではない。確実に近づいてくる。紛れもない機械音──ヘリのローター音だ。

 星空を背景に、黒いシルエットが3つ。ティルトローター機、オスプレイだ。身分を隠匿するためだろうか、国籍や部隊を示す一切の徽章は見当たらない。

 胸騒ぎがした。単なる救出部隊に、あれだけの重装備が必要なのだろうか? もしかすると……「保険」は思ったより早く必要になるかも知れない。


 3機のティルトローター機が巻き起こすダウンウォッシュはさすがに凄まじかった。身体に巻きつけた毛布を吹き飛ばされないために、彼女は渾身の力で我が身を抱きしめなければならなかった。

 後部ランプドアが開き、中から生身の人間にしては歪な影が数体、姿を見せる。

 夏姫はビジネスジェット機の残骸から歩み出た。何しろ徒歩とヘリである。走って逃げられる相手ではない。だがサーチライトの中に現れたそれには、息を呑まざるを得なかった。

 降りてきた者たちは素肌を露出していなかった。ヘルメットもバイザーもマスクもスーツも、金属製の戦闘用ブーツまでもが一体化されていた。身体各部は艶のない黒のハニカム複合装甲で覆われ、星明かりの下で不気味に煌めいている。まるであの特殊部隊を思わせる出立ちだが、こちらの方はより洗練され、油断ならない印象を与える。直立した金属製の蟷螂、とでも言おうか。

 これって本当に救助部隊なの? 私をどんな怪獣だと思っているのかしら?

『ナツキ・セガワさんですね? お迎えに上がりました』威圧的な外見に反し、蟷螂兵士が発したのは若く溌剌とした女性の声だった。流暢な英語だったが、どこか欧米風の訛りがある。

「あなたたちは?」

『申し遅れました。〈オリオール・ダイレクトアクション〉の現地派遣員オペレーターです。救難信号も発信されていなかったため、救助までに時間が経ってしまいました。まずは謝罪を』

 まさかUAE正規軍やレスキュー部隊にヨハネスが直接依頼をしたとも考えにくいので、まずは極秘裏に現地の軍事警備請負会社ミリセクを動かしたということか。辻褄は合う──が、何かが引っかかる。

「謝らなくていいわ、本当にこのから連れ出してくれるのならね。このヘリに乗ればいいの?」

『はい。医療スタッフも同乗していますのでご安心ください。どうぞこちらへ』蟷螂兵士の物腰はあくまで穏やかで、そつがなかった。

 夏姫は一歩踏み出す──と見せかけて、できるだけさりげない口調で呟いた。「一つだけ聞かせて。ヨハネスはもう現地入りしているの?」

『失礼。今、何と?』

「あなたたちのクライアントを聞いたつもりだけど。それとも『聞いては駄目よニーズ・トゥ・ノウ』とでも言われた?」

『……滅相もない。ええ、ひどく心配されていますよ。さあ、どうぞ……』

 返事の代わりに、夏姫は握り締めていた掌を大きく打ち振った。

 夏姫の左右に立っていた蟷螂兵士たちのバイザーへ、無数の散弾のように〈黒い氷〉が突き刺さった。狼狽の悲鳴こそ上がらなかったが、兵士たちは大きく態勢を崩す。

「この嘘つき。用心深いあの男が、私ごときの身を案じてこんな地の果てまで来るわけないでしょ!」

 まして現地雇いのミリセクに「私は〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスである」などと名乗るはずもない──本当にヨハネスの手配した者たちなら「そのご質問には答えられません」で事足りるのだ。

 しかし次の瞬間、驚愕したのは夏姫の方だった。のけぞった兵士の上半身がそのまま後方へ大きく折れ曲がり、内部の複雑な機構を露わにしたのだ。

(生身じゃない……!)

 後方の兵士2人、いや今や2体も同じような体内機構を展開させる。

 何かするつもりだ──飛び退き、〈黒い氷〉を展開しようとするより先に。

 目に見えない何かが全身を貫き、まともに立っていられないほどの激痛が夏姫を襲った。

 血という血が煮えたぎる。目玉が沸騰し、頭蓋から飛び出んばかりだ。肌には何の光も熱も当たっていないのに、生きたまま蒸し焼きにされているようだ。苦痛のあまり、気絶することさえできない。

(電磁波……!)

 薄れゆく視界の端の端で──何かが光る。砂と風と砂丘の彼方から、ゆっくり、ゆっくりこちらに突き進んでくる。

 何十倍、何百倍にも引き延ばされた水飴のような時間の中で、

 こちらの頭部へ向けて回転しながら直進してくるライフル弾。

 20ミリ以上。おそらくは対物ライフルから発射された徹甲弾。

 ヘリや武装車輌を撃ち抜くための大口径弾だ。まともに食らえば夏姫の頭蓋など西瓜のように弾け飛ぶだろう。

 頭蓋が弾け飛ぶその一瞬前に、夏姫が用意した「保険」が作動した。

 分厚い砂地を突き破り〈黒い氷〉の防壁が展開する。夏姫の意思によるトリガーではなく、地中深くに予め埋められていた〈黒い氷〉自体の防御反応だ。

 幾重にも連なった〈黒い氷〉の防壁は、自ら砕け散ることにより20ミリ徹甲弾の威力を減殺させた。

 激しい衝撃波が夏姫の側頭部を叩き、彼女は悲鳴すら上げられずサッカーボールのように砂地を転がった。その程度で済んだのは幸運だったはずである。20ミリ弾なら直撃を受けなくても掠めただけで皮膚が裂けるからだ。

 テシクならきっとそう言ったわね……砂まみれになりながらも、夏姫は改めて確信する。〈黒い氷〉の展開を阻害する電磁波。感知困難な超遠距離からの大口径ライフルによる狙撃。

 こいつらは知っている──〈黒い氷〉の威力も、その弱点も。

 


『今ので仕留め切れなかった? 調子が悪いの、可愛い弟? 喉が渇いたからってセーヌ川の水でも飲んだの?』

『狙撃は完璧だった。相手が聞きしに勝る怪物なんだよ、姉さん』音を伴わない舌打ち。『主力戦車の正面装甲以外なら一撃で貫通する大口径弾、出力次第では軍用強化外骨格のパイロットだってローストにできる電磁パルス発生機。どちらもしのぎ切るなんて、こんな話聞いてない』

『私たちが請け負ったのは怪物殺しよ、可愛い弟。感心している暇があったら対応して。せっかく生死を問わずデッドオアアライヴとクライアントには言われたのに』

『姉さん……本当に生け捕りにするつもりかい? 追加報酬があるからって、それで肝心の標的を逃したら何もならないのに』

『言葉は正確に使いなさい、可愛い弟。弊社は暗殺が本業じゃないわ。ただ暗殺だけの話よ』


〈黒い氷〉の自動反撃は確実に作動していた。砂の中から殺到する鋭い針が、蟷螂兵士たちをあらゆる角度から貫く。

 が、蟷螂兵士たちの動きも止まらない。貫かれた箇所をそのままに、頭部や腕や足などの各パーツがばらけて分離する。

(ドローンの集合体……!?)

 極端にモジュール構造されたドローンが無数に集まり、一体の人型に見せかけていたのだ。これもまた〈黒い氷〉への対処なのか。

 周囲に展開したドローンたちがまたもや照射を開始した。再び全身を激しい苦痛が貫き、夏姫は悲鳴すら上げられず砂の上をのたうち回った。夏姫の苦悶に呼応して〈黒い氷〉が漣のように細かく震え、砂糖菓子のようにぼろぼろと崩れていく。

 まずい状況だ──これでは〈黒い氷〉の防壁よりも先に、夏姫の方が参ってしまう。

(まさか用意しておいた切り札が……)

 最後の力を振り絞り、曲げた五指を砂地に突き立てる。(こんな早く役に立つなんてね!)

 空気が震えた。

 足元の砂がとめどもなく流れ始める。水のように音もなく。ビジネスジェット機の残骸が大きく鳴動し──機体を傾けたまま沈み始めた。骨組み同然の客室も、夏姫がかろうじて命を繋いだ乗務員室も、何もかも。

〈黒い氷〉を通じて夏姫にはわかっていた。地中深くに達した〈黒い氷〉が周囲から急速に熱を奪い、流砂を作り出している。夏姫たちのいる位置を中心に、周囲の何もかもが流砂に沈みつつあるのだ。

 当然、周囲に展開するドローンたちもただでは済まなかった。殺虫剤を浴びせられた虫のように、もがけばもがくほど砂中に引きずりこまれていく。何しろ駐機していたティルトローターまでもが砂に飲まれ、機体を大きく傾けているのだ。

 このままでは夏姫もそうなる。

 だから動いた。砂の中から引きずり出していたあのスーツケースに向かって。

 銃弾が数発身体をかすめるが、夏姫は気にも留めなかった。地獄のことなど死んでから考えればいい。

 スーツケースにまたがり叫ぶ。「行って!」

 音声コマンドに従い、まるで馬のように一度身を震わせてから、

 数日かけて旅客機の汚水溜めから必要な原料──水と炭素と水素を吸収しつくしたスーツケースは、夏姫の命令コマンドに従いせっせと組み立て作業に取りかかっていた。原料さえ揃えればレーザー砲だろうが核爆弾だろうが何だって作れる3Dプリンタ──〈豊穣の角コルヌコピア〉内蔵スーツケースにとって、単純極まりない砂上走行機構を組み立てるなど朝飯前だった。

 あらゆるセンサーを無効化する欺瞞煙幕を盛大に焚きながら、夏姫を乗せたスーツケースはわずか数秒で時速100キロ近くに達した。

 頬に痛みを感じる──遥か遠くの砂丘に潜む狙撃兵、あの対物ライフルの使い手が彼女の頭部に狙いを定めている。狙撃兵もドローンなら、弾道予測は容易だろう。こちらが高速で動いていようと、数ミリの誤差もなく頭蓋を射抜ける。

 だから彼女はもう一つの罠を用意した。

(……今!)

 周囲の物音が一瞬途絶え──次の瞬間、地を揺るがす轟音が沸き起こった。

 極限まで熱を吸収していた地中深くの〈黒い氷〉が、その熱を一気に放出したのだ。温度差により、数百メートルにも達しようとする砂の柱が立ち上り、次の瞬間、内側から弾けた。砂も金属も、何もかもが危険なほどの勢いで飛び散り、何もかも薙ぎ倒した。狙撃ドローンも狙いを定めるどころではなく、砂の上をもみくちゃにされてなすすべもなく押し流された。


『逃した』今度は姉の方が舌打ちをする番だった。『昼を安物の拉麵ラーメンで済ませたせいかしら』

『それより僕は、彼女が口走ったことの方が気になるよ、姉さん』

『ナノマシンにより限界近くまで身体強化を施された危険極まりない少女暗殺者。標的についてそれ以上を私たちが知る必要ある、可愛い弟?』

『彼女は「ヨハネス」と口にした。おかしいじゃないか? 〈代理人プロキシ〉を介してはいてもこの依頼はほぼ確実に〈王国〉からのものだ。なのに彼女は……攻撃される寸前までは僕たちをヨハネスの送った救助隊だと信じていた。クライアントは何かを隠しているよ。それも、僕らにとって致命的な何かを』

『気にはなるわね、可愛い弟。でもそれを確かめるのは、彼女を捕らえてからでも遅くはないんじゃなくて?』

『〈王国〉の内部抗争に自分から首を突っ込む気かい、姉さん? 自殺にしてももう少しましな方法があるんじゃないかな?』

 クロエは沈黙した──ファビアンにとっては怒声よりもよほど恐ろしい沈黙だった。

『そうね。目標の無力化に当たって必要な情報を欠いていた──その線でクライアントには改めて追加の報酬を要求しましょう。交渉は私が行うから、あなたはこのリストにある物品リソースを揃えて』

『……何だよこれ。戦争でも始める気なのかい、姉さん?』

『わかってないわね、可愛い弟。こんなものただの怪獣退治よ』


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 スーツケースは百足のような無数の足により猛スピードで走り……いや這い続けていた。顔を上げると向かい風もろとも無数の砂粒が顔面に飛んでくるので、夏姫は顔を伏せたまま必死にしがみついているしかなかった。実際、振り落とされたら二度と掴み直せないだろう。

 空を飛んで逃げることも考えないではなかったが、レーダーを警戒すればそれもできない。ともかくあのジェット機の残骸から1メートルでも離れる、彼女が今考えているのはそれだけだった。

 疲れと焦りに、やや警戒心を欠いていたのは否めない。

 不意に何の前触れもなく、砂地を蹴立てて這い進んでいたスーツケースがつんのめった。

「……!」

 悲鳴を上げる暇もなかった。スーツケースもろとも夏姫の全身は何かに絡め取られ、たちまち自由を失った。ごろごろと砂地の上を転がってようやく止まる。全身にかつてはドレスだった布切れを巻きつけていたのであまり痛くはなかったが、もがけばもがくほどそれが手足に絡みついてくる。

 その時になって、ようやく彼女は自分の全身を戒めているのが魚だか獣だかを捕獲する網であるのに気づいた。魚臭だか獣臭だか、とにかく網自体が猛烈に臭かったからだ。

「すごいよディガー! 本当にこっちへ逃げてきた! でも、どうしてわかったの?」

「へ、蠍よりまともなオツムがありゃすぐにわからあな。あの忌々しいを抜けるにゃ、ここを通るしかねえ。なんせこの地の果ては、どの都市からも離れているしな」

 ひどい訛りと独特の語彙で半分ほどもわからなかったが、夏姫がかろうじて理解できたのはそういう意味だ。

 砂丘の影から、点在する岩の裏側から、どこにそれだけ潜んでいたのかと思うような無数の人影が立ち上がった──黒い肌の者もいれば、黄色い肌の者もいる。ろくに食べていないのか、誰も彼もが飢えて皮ばかりで白い目をぎらぎらと光らせていて、性別も定かではない。服装はぼろ布か、ぼろ布よりは少しましな服の成れの果てばかりで、つまりは今の夏姫と大して変わりはない。

 もう一つ共通点があった。下は5、6歳くらいから上は15、6歳くらいまで、つまり大人は一人もいない。

 がんじがらめになった夏姫を黙りこくって睨みつける少年たち(彼らの眼差しが虎かライオンでも見つめるようなものなのに、彼女は少なからず機嫌を損ねた)の中から、一際大柄な体格の少年がのっそりと立ち上がった。わざと逆立てた髪は白に近い金髪で、肌の色も白い。ダークグリーンの瞳が真っ直ぐに夏姫を見据えていて、彼女は眉間の辺りに痛みさえ感じたほどだった。着古しているがそれなりに綺麗な白のシャツが、たくましい胸筋でぱんぱんに張り詰めている。背丈も横幅も、あの相良龍一といい勝負だ。

 もう一つわかったことがある。こいつが「ディガー」だ。

「人魚姫にしちゃ、ちょっとばかし干からび気味だな。水でもかけたら元に戻るか?」

 夏姫への呼びかけより、周囲への受け狙い目的のような言い方だった。案の定、周囲から野卑な笑い声がどっと起こる。

 見たところ彼らの武器は鉄パイプを削って先を尖らせ、その先に電極を取り付けた──コードの先は腰のバッテリーに繋がっていて、おそらくはスタンガンなのだろう──手製の槍くらいしかない。脅威の度合いで言ったら、先刻のミリセクの足元にすら及ばない連中だ。〈黒い氷〉の前には一捻りだろう。

 ところが肝心の〈黒い氷〉は視界の隅に現れすらしなかった──どうもあれは、夏姫の身にもっと直接的な命の危険がなければ動かないらしい。〈黒い氷〉の弱点が図らずもまた一つ露わになってしまったことになる。何よ、と毒づきたくなった。あんたが高を括っているせいで、私は大ピンチじゃない。

「チャイニーズだかコリアだかは知らねえが」少年は無遠慮極まりない視線で夏姫の顔面を舐め回した。「身ぐるみ剥げば一財産できそうな上玉だ。ヴァレショーの『親父』に突き出しゃ、高値で売れそうだ」

 奇しくもそれは、あの望月崇が叩いた軽口とまるで同じだった。男尊女卑の下衆野郎は国籍を問わないわね、と内心思う。もっとも彼らがこちらを舐め腐ってくれているのは、彼女にとって好都合だった。こっそりと唇を舐める──チャンスを待つのだ。幸い飛び道具の類は見当たらない。隙を見て、一息に薙ぎ倒してやる。

「……何て言うとでも思ったか?」

 だが、その直後に少年が口にした言葉は、夏姫を心底凍りつかせた。彼はぎらぎらと燃える眼差しで彼女を睨みつけたままこう言ったのだ。

「言えよ。てめえは何者なんだ? ?」

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