灰と煤の女王(1)熱砂に堕ちる
「夏姫様、失礼いたし……一体何があったのですか?」
W1が素っ頓狂な声を発してしまったのも無理はない。趣味の良い調度で統一されていたはずの夏姫の部屋は、原色のドレスとスカートと下着類がそこかしこに引っかかった色とりどりの魔境と化していたからだ。
「あ、W1、いいとこに来たわ!」挨拶もそこそこに、夏姫はなおも衣類を大型のトランクに詰め込もうと必死だ。「悪いけど手伝ってくれない?」
「何をどうやったらあの部屋がこのような
「嫌味言ってる暇があったら手伝ってよ! フライトまであと一時間を切ってるんだから!」
かくしてW1もまた世にも情けない顔で、衣類をトランクに詰め込むのを手伝う羽目になった。
「時間が少ないにしても、それならやりようはあるでしょうに……荷物を半分に減らすですとか……」
「文句はあの糞じじ……あなたの王様に言って! まったく、何もかも急なんだから! 行き先はあのドバイよ、ジャージで行けるわけないでしょ!」
「このようなことになるくらいならその方がよかったのでは」
夏姫は聞こえないふりをした。
「前回の出発では、ここまでの苦労はなさらなかったと記憶していますが」
「他に荷物があるのよ。それがトランクの大半を占めているから、実質的にスペースは前回の半分ね。それをどのように詰めるかが腕の見せ所なんだけど」
「腕を見せられていませんが」
つくづく手厳しい。
「……今回も危険があるのでしょうか」
「たぶんね。でも私も覚悟の上よ。まあ、言ってみれば請負仕事だし」
言いながら、夏姫は皮肉を感じずにいられなかった。本来なら夏姫は虜囚の身であり、W1は彼女を捕らえている〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの従者だ。それが今では夏姫を案じるのが、彼女ただ一人とは。
同時に、ここで過ごした時間もそう短くはないことに気づく。
「……それじゃ、行ってくるね」夏姫はW1の肩をぽんと軽く叩いた──以前なら考えもしなかった仕草だ。「あとよろしく──私が言うのも変だけど」
「はい。いってらっしゃいませ。お気をつけて」
「きっと大丈夫よ。やることはただのおつかいなんだから」
それがただの嘘であることは、当の夏姫が一番よくわかっていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
数時間前。
「……ハビブ・ブルギバ。欧米および中東圏に違法兵器の売買ネットワークを形成する武器商人だ。複数のテロ組織だけでなく各アラブ首長国の軍部とも関係を持ち、合法違法の両面で手堅くやっている。馬鹿とは程遠い男だな」
ヨハネスの説明を聞きながら、夏姫は書類の束をめくる。
書類に混じる写真の中から夏姫を見返しているのは、初老のアラブ系男性だった。髪には白髪が混じっているものの、眼差しは強く、老いた印象は少しもない。
「君も知っての通り、私の〈王国〉は別段、副業を禁じてはいない。たとえ私の預かり知らぬビジネスであっても、本業に支障がない限りは大抵目を瞑る。またそうでなくてはならない──王が一兵卒の小遣い稼ぎに口を挟んでいたら〈王国〉は成り立たないからな。だが、最近はそうも言っていられなくなった。彼、ブルギバの動きに、彼自身のビジネスとも私のビジネスとも逸脱した不穏な動きが見受けられる。しかも、その動きは彼個人ではないらしい」
「私のやることは、要するに不穏分子の狩り出し?」
「要するにそういうことだ」
夏姫は書類から顔を上げた。「今までの話だけだと、わざわざ私に頼むまでの案件でもないように聞こえるけど? ただの不穏分子の『排除』なら私ではなく、腕利きの暗殺者なりスパイなりを動かせばいい」
「隠しても仕方がないから、言おう」ヨハネスの口調に変わりはないが、やや姿勢を改めたようにも見えた。「最近、〈王国〉内である動きが見られる。各人のそれぞれ抱えるビジネスから逸脱した、言わば〈王国〉に叛旗を翻す──あるいは新たな〈王国〉を立ち上げようという動きだ。あからさまではないが、その分厄介だ」
夏姫は眉根を寄せた。「あなたに対するクーデター、それとも革命?」
「既存の犯罪組織の中で最後まで私と戦おうとした〈連合〉が崩壊して久しい。長く続く安寧の時代に耐えかねたか。あるいはもっと『上』を目指そうとしたか。君なら理解は容易だろうが、犯罪者とはそういう人種だ。隙あらば他人を、下手をすれば身内さえも食い物にしようとする。犯罪者に限った話でもないかも知れないが」
どこか感慨深げに、ヨハネスは呟く。「君たちの
その抵抗活動を叩き潰した当の本人にそう言われるのも、奇妙な気分ではある。
「ブルギバに接近し、その行動の全てを記録し、なおかつ生きて脱出しろ。それが君に望む全てだ」
ヨハネスの青い目が改めてこちらに向けられた。「必要なものがあれば、極力用意しよう。何が欲しい?」
テシクなら「武器弾薬」と答えるだろうし、崇なら「精巧な身分証明証」と答えるところだろう。だが夏姫の答えはまた別のものだった。
「〈
一瞬、沈黙が漂った。「なぜ、それが私の手元にあると?」
「とぼけても駄目。〈月の裏側〉が崩壊した際、あなたはその保有技術を可能な限りサルベージしたはず。あれは私たちが持つ最も強力な切り札の一つだった。知らないなんて言わせない」
なるほど、とヨハネスは頷いで椅子に背を預けた。「確かに君たち〈月の裏側〉の技術は素晴らしかった──大半は何に使うのかと首を捻るような代物ばかりだったが、中にはこれは使える、と思うものも含まれていた。だが私がそれを、条件付きで自由にした君においそれと与えると思うかね?」
「私の仕事がただの調査ならね。でもあなたは、あなたの〈王国〉の内部で蠢き始めた不穏分子の調査に私を使おうとしている。なら……可能な限りのリソースを私に与えて然るべきじゃないの?」
しばし夏姫とヨハネス、年齢差が50、あるいはそれ以上ありそうな男女はお互いに見つめ合った。
「あれは元来私たちのものだから返せ、なんて言わない。どうせ言っても返すつもりはないでしょうしね。ただ必要だから要求しているだけよ」
「……いいだろう」ヨハネスは頷いた。「ただし、そこまで言うからには成功させるように。成功させ、なおかつ自分の手で、私に返すのだ」
「言われるまでもないわ。あなたもあの約束、忘れないでね。王様」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
──そして気がつけばこのビジネスジェット機に詰め込まれ、窓の外の一面の雲海を呆然と見つめていた、というわけだ。
まったく勘弁してほしいわね、夏姫は鈍痛の走る頭をさすりながら思った。ヨハネスの「おつかい」を引き受けるのはこれが初めてではないが、その度に一服盛られるのはどうにかならないものかしら。
「お目覚めになられました?」ワゴンを押したブロンドの客室乗務員が、ビジネス用の笑顔で微笑みかけてきた。小型とはいえ最新のビジネスジェット機をほぼ独り占めにしている、得体の知れない東洋人の小娘に対しては申し分のない態度だ。「何かお飲みになられますか? お加減が悪いようなら、市販のお薬もありますが」
「平気よ」夏姫は素っ気なく言ったが、すぐ思い直した。「水を貰えるかしら。この際、ペリエでもボルヴィックでも何でもいいわ」
「どうぞ」
受け取ったボトルを、夏姫は一息で半分ほども飲み切った。寝ている間によほど喉が渇いていたらしい。
「ありがとう。ところで、この飛行機はどのあたりを飛んでいるの?」
「既に大陸上空です。あと2時間もあればリビア首長国に到着するかと」
夏姫が礼を言うと、乗務員はごゆっくり、とまた微笑んで遠ざかっていった。
少し気分が良くなったので機内を見回す。このビジネスジェット機は30人乗りだが、現在の乗客は夏姫一人だけだ。機内には2台の大型テレビ、ミニバー、ちょっとしたオフィスまでもがあり、床には寝転がってもそのまま寝られそうなほど毛足の長い絨毯が敷かれている。
座席ではゲームも映画鑑賞も可能だが、これからを考えると楽しむ気にはなれなかった。かと言って寝て時間を潰そうにも、起きたばかりである。
夏姫は溜め息を吐き、窓の外を見やったが、一面の雲海にさほどの見所はない。
しばらくは穏やかな、穏やかすぎる時間が流れた。空調は暑すぎず寒すぎず、頼めば出てくる食事や水の質も申し分ない。乗務員の態度も丁寧の一言に尽きた。おおかたどこぞの大金持ちの
これがヨハネスとの取引でなく、ただの旅行だったらよかったのに。
ヨハネスの秘密とやらに興味がないではないが、彼女の勘はこれ以上ヨハネスの下に留まるのは危険だ、と告げていた。ヨハネスの目的が相良龍一を殺すこと──それも彼が何かの計画の邪魔だからではなく目的そのものであり、そのためにこそ全世界に渡る広大な〈罪の王国〉を作り上げたのだ、と判明した今ではなおさらだ。
時には後先考えず、一目散に逃げ出さねばならない時がある。〈豊穣の角〉はそのための布石だった──夏姫の唯一の手荷物である大型トランクに詰め込まれたそれは、今はまだこのジェット機の貨物室で静かに出番を待っている。
ただ単に逃げるだけならまだしも、全世界に伸びるヨハネスの「手」から逃れ続けるのは容易ではないだろう。あの相良龍一からして、夏姫を救うどころか逃げるだけで精一杯なのだ。しかし、やらなければならない。龍一が諦めていないのに、自分だけが諦められない。
溜め息を吐きそうになった。駄目だ、今からこうも頭を悩ませていては神経が捻じ切れてしまう。到着までに眠れなくても、せめて少しでも落ち着こうと目を閉じた時。
機体が大きく揺れた。シートベルトをしていなかったので、体幹がいい加減なら座席から放り出されていたに違いない。手摺に掴まってどうにか耐えはしたが、無数のグラスが鳴るようなカタカタチリチリという細かな音が十数秒ほども鳴り響いた。
「何があったの?」
客室乗務員はどうにか冷静さを保とうとはしていたが、表情の強張りは隠せなかった。「ただの乱気流ですわ。お立ちになりませんように」
嘘だ、飛行機の旅には慣れた夏姫にはわかった──乱気流とは明らかに違う、何らかの危険に見舞われての回避行動だ。
耳を澄ませると、乗務員たちの会話が耳に飛び込んできた。客を意識して声高にはなっていないが、焦りははっきりと現れている。
「……所属不明の戦闘機? 戦闘機なんて、闇市場だっておいそれと手に入るようなものなの?」
「サウジ空軍は何をやっているのよ? とっくに領空内じゃない……!」
夏姫の頭の片隅で警報が鳴り始めた。既に思い知っているが、ヨハネスの用意した身分は完璧だった──あと数時間もすれば問題なくドバイに入れたはずだ。それにヨハネスに夏姫を殺す理由はない……少なくとも、今のところは。
二度目の衝撃は先刻より遥かに大きかった。機銃やミサイルの着弾ではない。まるで巨大な鉄塊に衝突されたような──いや、実際そうだった。
ジッ、と微かな音がして、天井が一瞬で円形に切り裂かれた。分厚い鋼板をまるでバターのように切り裂いて機内へ侵入してきたのは、黒光りする円筒状の鉄塊だ。一目でわかった──特殊作戦用の突入ポッドだ。
従業員用ブースから客室乗務員が走り出ようとした。恐慌に陥ったのか、それともプロの矜持で夏姫を救おうとしたのか。
「駄目……!」
夏姫の制止は間に合わなかった。突入ポッドの前後に装着された機銃が火を噴く。乗務員は一瞬で全身を切り裂かれた。血塗れの肉塊が床の上をカーリングのように滑っていくのが見えた。
とっさに伏せた夏姫の頭上を、蜂のような唸りを上げて無数の銃弾が掠めていった。機内の調度が発泡スチロールのように穴だらけになっていく。
彼らの目的は私を殺すことじゃない……痺れたような頭の中で、そう考えられる冷静さだけは残っていた。殺すだけならミサイルの一発で事足りる。あんなもので機内に突入したのは、おそらく……!
わずか数秒の掃射のみで機銃は沈黙したが、圧縮空気の漏れる音とともにハッチを開き、機内へ踏み込んできたのは、機銃よりもっと恐ろしいものだった。
無骨なシルエット自体は、古めかしい潜水服に見えなくもない。だが黒光りする装甲で全身を覆い、センサーと複数の兵器システムを組み合わせた統合小銃を構えたその出立ちは、親しみやユーモアとは無縁だった。音もなく、声もなく、わずかなハンドサインのみで瞬く間に機内へ展開する。その数、4人。狭い機内では逃げようもない。
特殊部隊。それもHWではない、人間の歩兵。
彼らの指が動き、銃弾が放たれるより一瞬早く。
夏姫は声を限りに叫んでいた。
「〈
叫びながら鉤爪のように曲げた五指を、絨毯に叩きつける。まるで磁石を寄せた砂鉄のように、何もない空からざあっと音を立てて指先大の結晶体が集まってきた。女の髪よりも、夜よりもなお黒い結晶の集合体。
鉱物は寄り集まってロープとなり、身動きできない夏姫の全身を座席の陰に引っ張り込んだ。
同時に黒い流れが夏姫の足元から這い上がり、黒いドレスと化して夏姫の半身を覆う。着のみ着のままで戦うよりは遥かにましだろう。歯を噛み締める──
兵士たちは眼前の怪現象に一瞬、動揺したが、それは夏姫が期待したより遥かに短かった。直ちに気を取り直し散開、遮蔽を取りながらじりじりと接近してくる。
その様子に夏姫の疑惑は確信へと変わった。やっぱり、こいつらの狙いは私か……!
先のフィリピン、アセンプション・パギオで「実戦経験」を積んでおいたのは幸運だった──加速する時間の中、夏姫は頭の片隅で思う。〈黒い氷〉を再び使えるかは賭けだったが、一度出せれば自分の手足のように扱える。扱えるのが移動中の機内でなければもっとよかったのに。
たちまちのうちに銃火が彼女へ集中する。無闇に乱射するのでなく、一人が動きを止める隙にもう一人が死角から距離を詰める、充分に訓練された制圧射撃だ。
(悪くない……私以外の相手ならね!)
そして銃弾がことごとく弾き返される。
声こそ上がらなかったが、完全武装の兵士たちがヘルメットとバイザーの下で息を呑む気配は確実に伝わってきた。
展開した結晶体の群れが黒い壁となり、残らず銃弾を防いでいた。そして夏姫へ向けて突進しようとした兵士が、くぐもった悲鳴を上げて動きを止めた。
床面から無数の黒い棘が伸び、兵士のブーツを貫通していた。その隙に夏姫の方から距離を詰める。
(殺しはしない……痛い思いはしてもらうけどね!)
夏姫の右腕に結晶体が集結、円筒状の
強化された筋力で突き出された衝角が、兵士のヘルメットを直撃した。悲鳴すら上げられず大柄な体格が吹き飛ぶ。座席と座席の間を真っ直ぐ飛んだ兵士は、床に落ちる頃には気絶していた。
〈黒い氷〉の形成したドレスが、生きた強化外骨格として筋力を増強してくれるのは幸いだった。護身術の心得程度では、百戦錬磨の特殊部隊に太刀打ちするなど不可能だろう。
(まず1人!)
こんな時でなければガッツポーズを取っていたところだ。だが結果的に、安心するのはまだ早かった。
今までの銃声とはまた異なるくぐもった発射音。同時に展開した結晶体の防壁が、ガラスのように砕け散る。
「があっ……!?」
右脇腹に強烈な衝撃。声にならない悲鳴を上げ、夏姫は身体をくの字に追ってしまった。貫通こそしなかったものの、床にぽろりと落ちたのは小銃弾より遥かに大きく強力な、散弾銃用の
小銃弾に慣らしておいて、特製の大口径弾でとどめを刺しに来た──さすが特殊部隊と言うべきか。
床の結晶体を銃撃で撃ち砕きながら前進してきた兵士が、容赦なく夏姫の頭部に銃口を向ける──銃身下にアタッチメントで装着した散弾銃の、黒々とした発射口も一緒に。
まだだ……!
涎と吐瀉物を床になすりつけながら、夏姫は必死に意識を保とうとする。寝るな! 動け!
夏姫の身体が床面を滑る。正確には夏姫の全身を包むドレスが、イカの体表のように波打って彼女の身体を運ぶ。側から見れば軟体動物めいた、奇怪極まりない回避行動だ。狼狽えながら放たれた銃弾が絨毯を穿つが、夏姫の頭部はもうそこにない。
構え直された銃口が火を噴くより早く、夏姫が指先を振る。黒く細く、まるであの〈ヒュプノス〉が操る〈糸〉のように縒り合わされた結晶が向かうのは、兵士が胸部にスリングで装着した閃光手榴弾の安全ピンだ。
眩い光と大音響が炸裂した。対閃光防御と大音響キャンセラーが作動しても、間近で炸裂したのではたまったものではない。
ほぼ垂直に繰り出された夏姫の蹴りが、兵士の身体を機体の天井に、亀裂が入るほど強烈に叩きつけた。
(……2人目!)
残る2人の戦意は衰えない。まるで精密機械のように素早く巡らされる銃口が、夏姫が床面に展開した結晶体を正確に撃ち砕く。付けいる隙がない冷静さだ。
夏姫を牽制しながら、兵士の一人がパウチから取り出した手榴弾を投擲する。
(この狭い機内で? ……違う!)
回転しながら迫る手榴弾が空中で展開。まるで百足か蠍のような、金属の節足を広げる鋼の昆虫と化して夏姫の顔面に迫ってきた。しかも尻尾状のパーツからは、鋭い注射針のようなものが振りかざされている。侵入・暗殺用の小型ドローンだ。
「こっ……のお!」
思わず苦鳴を漏らしてしまう。間一髪で危うく節足を掴むものの、鋭い節足と顔面に突き出されてくる注射針を避けながらでは迂闊に振りほどけない。昔のSF映画に登場する、人の顔面に齧りつく異星の生物そっくりのおぞましい姿だ。
その隙を兵士たちが見逃すはずもない。銃による制圧を断念したのか、一人が腰からナイフを引き抜いて突進してくる。しかも、そのナイフの刃が小刻みに震えている。薄い金属程度ならバターのように切断できる、高速振動の刃だろう。
振動する刃が突き出され──宙で止まった。
夏姫の手に握られたドローンの注射針が、兵士の首筋に突き刺さっていた。
「……制御を奪えるかどうかはほとんど賭けだったわ」
黒い結晶体で覆われたドローンを後方に放り投げ、夏姫は気合いを発する。
意識を失った兵士の頭部を掴み、前転を打つような姿勢で最後の一人に向けて力一杯投げる。
小型自動車同士が衝突したような破砕音が響いた。ヘルメットとボディアーマー、それに装備一式をまともにぶち当てられてはひとたまりもない。それこそ自動車に撥ねられるのに近い衝撃だろう。
悲鳴すら上げられず吹き飛んだ兵士に歩み寄り、容赦なく小銃を蹴飛ばす。
「言いなさい! なぜ私を狙ったの!? あなたたちの所属はどこ!?」
「だ、誰が言うものか……!」幸いにも返ってきたのは、夏姫にも解せる英語だった。「〈犯罪者たちの王〉の遣い、〈
「な……!?」
夏姫は一瞬棒立ちになってしまった。大淫婦呼ばわりされたのもさることながら、自分が完全にヨハネスの一味として認識されているのが改めて身に染みたからだ。
その時、機体が大きく揺れた。しかも機体そのものが高度を急激に下げている。まさか……!?
「寝てて!」
兵士のヘルメットを床面に力一杯叩きつけ、気絶させる。素性は改めて聞き出せばいい──それよりも確かめるべきことがある。
操縦室へのドアはロックされていたが、夏姫が掌をかざすと結晶体がパネル上に展開、即座にロックを解除する。
操縦室に展開していたのは半ば予想できた光景だった──操縦士も副操縦士も、既に後頭部へ赤黒い穴を穿たれて事切れていた。
歯を食い縛り、計器板に掌を叩きつける。瞬く間に黒い結晶体が展開し、夏姫の神経系統とビジネスジェット機の操縦系統を直結した。自分の身体が何倍にも膨れ上がっていくような感覚。
「上がれ……!」
降下しつつあったジェット機が制御を回復、徐々にではあるが機首が持ち上がっていく。しかし背後に凍りつくような悪寒を覚えた──夏姫と半ば一体化したジェット機の各種センサーが、後方から迫る戦闘機を捉えたのだ。
(……ミサイル警報!)
彼らが欧米の特殊部隊なら、おそらくレーザー誘導さえ必要としない画像誘導とセミアクティブ誘導を複合した新型のミサイルだ。このジェット機にもミサイルへの対抗手段はあるが、想定されているのはテロリストの携帯式地対空ミサイル程度。そもそも、軍用の戦闘機相手には手も足も出ない。ロックオンが完了すれば一瞬で殺される。
声にならない叫びを上げ、回避行動。機体が大きくロールを打ち、ジェット機としては驚異的な軌道を描いた。同時にミサイル欺瞞用のフレアを残らず放つ。ミサイルが目標を大きく外れ、後方で爆発。ジェット機は木の葉のように揺れ、無数の金属片が機体に突き刺さりはしたが、どうにか直撃は免れ得た。
夏姫の安堵を塗り潰すようにミサイル警報が止まらない。更にミサイルが立て続けに放たれる。もはやフレアも種切れだ。
躱し切れない──!
今度は至近距離でミサイルが炸裂した。エンジンが停止したのか、機体が大きく姿勢を崩す。夏姫ももはや墜落は避けられないと覚悟を決めるしかなかった。全神経を集中させても、錐揉みに陥らないようにするだけで精一杯だ。
後方をカメラで見れば、粉々になった突入用ポッドと特殊部隊の兵士たちの身体の一部が、機体に開いた大穴から吸い出されて虚空へ消えていくのが見えた。突入部隊が失敗した時点で、機体もろとも始末する覚悟を固めたのか。
(人口密集地に落ちることだけは、避けないと……!)
自分の命が助かるかどうかだけは──賭けの領域だろうが。
夏姫が意識を失う寸前に見たのは、眼前に迫る一面の砂だった。
瞼越しにですら眩しい陽光を感じ、夏姫はうっすらと目を開いた。
呻きながら身体を起こした。幸い、手足がもげて落ちることはなかった。全身が打ち身でずきずきし、ひどい耳鳴りが止まないが、生きてはいる。
コクピット内は、控えめに言っても壊滅状態だった。分厚い風防ガラスは砕け散り、大量の砂に埋もれ、壊れていない計器類を探す方が難しい。
落下したのが砂地だったため、落下した機体が粉々に砕け散るのだけは免れたらしい。
(あの有り様で生きていたんなら……神様にお礼ぐらいは言った方がいいかもね)
もっとも、その幸運に恵まれたのは夏姫一人だけだったようだが。操縦士たちも、客席乗務員たちも、壊れた人形のような姿で事切れていた。
心の中で彼ら彼女らに詫び、夏姫は足を引きずるようにして緊急脱出口のハッチに手をかけた。ここがどこかはわからないが、人家のある場所まで行けば助けを呼べるはずだ。
機体の外へ出た途端、溶鉱炉に放り込まれたような凄まじい光と熱気が全身を焼き、危うく肺が焼けるところだった。慌てて機内へ駆け戻り、もう一度恐る恐る顔だけを出す。
見渡す限りの砂。見渡す限りの岩と剥き出しの大地。そして溶ける寸前の金属のような輝きを放つ、巨大な太陽。
他には何もない。少なくとも視界内に、生けるものは夏姫以外何も見当たらなかった。
呆然と、夏姫はただ呟くしかなかった。
「どうしろって言うのよ……」
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