間章 母に会うだけで

 ニューヨーク・ヒルトン・ミッドタウン。

 ニューヨークのマンハッタン地区、近代美術館の向かいに位置する高級ホテル。レジャー・ビジネス・家族旅行、どの目的の宿泊客にも対応できる広々とした個室は一千以上。冷暖房はもちろんネット環境完備、スパやフィットネスクラブも含む長期の滞在にも不自由しない施設の充実。NYへの旅行やビジネスなら、どのガイドでも必ず一度は名の上がるホテルだ。

 ──もっともこれらは、今の龍一にとってはどうでもいい要素ではある。そもそも彼がここにいるのは、宿泊客としてではないのだから。

『監視カメラは殺した。移動するなら今だ』

 手首から伝わる微振動──どんな通信機器よりも頼りになるアレクセイの〈糸〉が彼の声を直接伝える。『ただ、長くは保たない。ここの対電子侵入システムは優秀だ。滞在は短いに越したことはない』

 了解、と唇の動きだけで返事。

「そこのあなた」振り向くと、髪を引っ詰めにした黒人のメイドがこちらを睨んでいた。龍一とさほど歳が離れているようにも見えないのに、さらには龍一より頭一つ分背が低いのに、肩幅といい腰回りといい物凄い貫禄がある。

 彼女は硬直してしまった龍一にずかずかと歩み寄ってくると、レーザーのごとき眼光で彼の胸のネームプレート──清掃員枠のビジターランクだ──を一瞥した。「このフロアは私が担当のはずだけど、見ない顔ね。新人?」

「8……891号室の掃除に」

 龍一はそれだけ言った……というより言えなかったのだが、メイドは業務用のタブレットに指を滑らせた後で合点したようにああ、と頷いた。「あの長期滞在のお客様ね。ルームサービス以外は部屋に篭りっきりみたいだから、よほど仕事に集中なさっているんでしょうね。部屋に入る時も、出る時も、丁寧な挨拶を心がけるのよ。マニュアルを忘れずにね。何かあったら呼んで」

 龍一は黙って頭を下げた。彼女が角を曲がるのを確認して、再び手首の〈糸〉が震える。『危なかったね。君の演技は正直赤点ものだったけど、それがかえってよかった』

「うるさいな」思わず口を尖らせてしまったのは紛れもない事実だからである。メイドが一瞬でも不信感を抱いてしまったらそこでおしまい、一目散に逃げ出すしか手はなかっただろう。「大体、演技がどうとか言い出したらアレクセイの方が適任じゃないか」

『しっかりしてくれよ。僕が君のお母上の前に立って、何を話せばいいんだい? これはなんだ、忘れたのかい?』

「忘れちゃいないって」

『急ごう。これ以上おかしな邪魔が入るのは君も本意ではないだろう?』

「当たり前だ」龍一は早くも全身に冷や汗をかき始めていた。やれやれ、自分の母に会うだけで、どうしてこんな苦労をしなけりゃならないんだ?


 正直、間抜けな新人清掃員の演技よりも電子ロック解錠機マスターキーで目当ての部屋をこじ開ける方がよほど楽だった。

 無意識に足音を忍ばせる。ある種の予感を覚えながら。

 柔らかな間接照明が、一通りの調度が整ったホテルの一室を音もなく照らし出している。

 気配を殺す必要はないとすぐにわかった。窮屈さを感じさせない広々とした客室だが、隠れる場所がないくらいは一目瞭然である。

 白木しらき透子とうこは綺麗に姿を消していた。

「やられた」

『やられたか……』アレクセイの返事にもさほどの失望は感じられない。これで三回目の空振りだった。

 一週間滞在の割にはダストボックス内のゴミも少なく、シーツにも皺どころか髪の毛一本落ちてはいない。チェックアウトの形跡はなかったから、変装でもしてホテルを出たのだろう。あるいは清掃員に扮した協力者の手引きで、業務用ワゴンにでも入って脱出したか(龍一には馴染みのありすぎる手口だ)。いずれにせよ三回目ともなると、もちろん偶然ではあり得ない。

「……会えればそれで何もかもが解決する、なんて思ってたわけじゃないが」皺一つないベッドに腰を下ろす。「こうまで徹底して避けられるとは思わなかったな……」

 何しろ、ここに至るまでの時間と手間が全て水泡に帰したのだ。徒労感は否めない。

『失望しているところに追い討つようで申し訳ないが』〈糸〉を通して伝わるアレクセイの声も苦みを隠せていない。『僕たちの努力が空振りに終わった、だけにとどまらない、考えなければならないことが浮かび上がってくるな』

「どんな?」

『一つ。おそらく君のお母上は狙われている──おそらくはヨハネスの刺客に。こうして寝ぐらを転々としなければならない程度には身を隠さなければならない身の上らしい。

 二つ。彼女には相応のバック──かなりの影響力を持つ組織が力を貸しているらしい。こうしてヨハネスや、僕たちを出し抜ける程度には。

 そして三つ。まず彼女自身に、僕らに会うつもりがない──少なくとも当面は。こうも徹底して、実の息子である君から逃げ回るとは思わなかったけど』

「そういう身勝手な人ではあるよ。そうでなかったら驚いたくらいだ」何しろ子育てよりも仕事の方が楽しい、と言い捨てて出ていったような女だ。

 だが今回は、今までの「空振り」と違って置き土産があった──ベッド脇のテーブルに置かれた、人差し指サイズのICレコーダーだ。

「これで充分、と思っているんだろうな……相変わらず自分勝手な人だ」


『久しぶり……どころじゃないか。

 何が息子くんだよ、と龍一は呆れた。やっぱりふざけた女だ。

 男の声にしては甲高く、女の声にしては歯切れが良すぎる。十数年ぶりに聴く母の声は、記憶のものとさほど変わらなかった。この調子だと、外観も最後に見た時と大して変わっていないんじゃないか。『そろそろ君がを立ててる頃だと思ってね。私も地獄の悪鬼ってわけじゃないから、録音ぐらいは残しておくべきだと思ったのさ』

「いらん配慮だ」龍一はますます憮然となった。そもそも逃げ回らずに、直接会えばそこで済む話ではないか。

『ところでどうだい。〈竜〉にはそろそろ慣れてきた頃合いかい?』

 何かの聞き間違いでは、と疑いたくなるほど、母はその名をあっさりと口にした。

『ま……君の性格からして、あんまりいい気にはなっていないか。〈竜〉の力を持ってしても、どうにもならないことの方が多いって気づいてきたんじゃないのかい?』

 ──その通りだ。

 ディロンの死に顔が、ブリギッテの涙を湛えた顔が脳裏を過ぎる。〈竜〉では助けられなかったし、置き去りにしてくるしかなかった。

『なぜ私がその名前を知っているか──当然の疑問だろうね。そもそも私は〈竜〉の兆候に備え、それを監視する組織の一員だった。その組織の名を〈機関エンジン〉と言う。手っ取り早く言うと、各国の軍や情報機関、政財界や資産家たちの共同機構だ』

「ずいぶんと陰謀論めいた話になってきたな」思わず呟く。「……〈機関オーガナイゼーション〉じゃないのか」

『駆動系のエンジンと掛けているんだろう』とアレクセイ。

『期待させて悪いけど、組織の内実や〈竜〉とは何か、についてはあんまり詳しく話せないんだ。いちおううちの組織にもコンプライアンスってもんがあってね』

 秘密組織の癖に何がコンプライアンスだよ、と龍一は呆れる。だいたい、あんたがそんなもん気にするようなタマか?

『そうだね……どうしてこうも私が君から逃げ回っているか。それは私が君を置いて家を出たことと、同じではないけど無関係でもないかな』母の声色が今までと違う質感を帯び、龍一を少なからず驚かせた。『今さら言っても詮無い話ではあるけど、当時は私もさんざん悩んだんだよ。私と、と、君と。家に留まり、いつか確実に訪れるだろうヨハネスの刺客におびえて日々を過ごすか。あるいは、〈機関〉の意のままに動き、少しでもヨハネスの耳目を惹きつけるか。選択肢がそのどちらかしかなかったというのはあるね。どちらを選んだかは、もう言うまでもないだろう?』

 いつしか、龍一は息を殺して聞き入っていた。どこまで本当かはわからないが──それが事実なら、今まで母に抱いていたイメージの質感が根底から変わってくる。

『焦る気持ちはわかる。何しろヨハネスのは、君についてはパンツの銘柄まで知り尽くしているんだからね。対して君の方は、彼については何も知らない。そのギャップを埋めるべく、私に会おうとしているんだろう?』

 龍一も──〈糸〉を通してその録音を聴くアレクセイも、全身を耳にして彼女の言葉に聞き入る。

『だが心配は無用だよ、。なぜなら君が生きていること自体が、今やヨハネスにとって最大のたり得るんだからね。世界中を股にかけて、彼と彼の組織を引っ掻き回してやればいい。何せ彼は、──それこそがヨハネスの最大の弱点なのさ』

 龍一は思わず口を半開きにしていた。確かにそれは──今までになかった視点ではあった。

『それに、ほら、君がよくやっているゲームだってそうだろう? 最初から最強の武器が手に入ったり、いきなりラスボスと戦えたりしたら面白くないだろう?』

「だからそれがいらんお世話なんだって!」龍一はもう少しで手の中のICレコーダーを握り潰すところだった。「息子の人生をゲーム扱いすんなよ!」

『それから、龍一の傍らにいる君』

 アレクセイは声こそ出さなかったが、面食らっている気配だけは伝わってきた。

『愚息を頼むよ。側にいるメリットよりもデメリットの方が多いだろうけど……まあ、薄情だけど、あんまりその辺は心配していないんだ。どのみち我が身が可愛い者が、あの子の側にいられるわけもないからね。坂口安吾だって言っていただろう? 親がいない方が子はもっと立派に育つ、ってね』

 録音はそこで終わっていた。ボタンを操作したが、本当にこのトラックしか使用していないらしい。

「言いたいことだけ一方的に言って切りやがったな……」録音だから仕方がないのだが、彼女相手だとそれにまで腹が立ってくるから不思議だ。というか、何が坂口安吾だよ。

 聴いていたアレクセイまで一緒に呆れていた。『何というか……確かに彼女は君のお母上だという気持ちになってきたな』

「どういう納得だよ!?」

 まったく、と龍一は盛大に鼻から息を吐いた。母への腹立ちが半分、そしてそれにどこか納得している自分への怒りが半分だ。

 龍一は手の中のちっぽけなICレコーダーを見つめる。

「こんなもんを置いていく程度には、俺を気にかけてたってことか?」

 言いたいことは山ほどあるが、

「まあ……それは次に会った時にとっとくか。チャラにだけはしないけどな」

 鼻から息を吐いた時。


 数キロ先の対物ライフルから発射された20ミリ徹甲焼夷榴弾が、室内の何もかもを燃やしながら吹き飛ばした。


「……しんみりした途端にこれかよ!」

 ベッドとテーブルの燃えさしを全身から滝のように振り落としながら、龍一は起き上がる。素肌には傷一つなかったが、舞い散る粉塵で盛大なくしゃみと鼻水が出た。「やってくれたぜ……刺客から逃げるついでに、それを俺たちにいくなんてな!」

『……似た者母子だね』

「嫌味を言うなよ! アレクセイ、どっちへ逃げればいい!?」

『隣の部屋へ抜けろ。NYの中心部で襲撃を敢行するくらいだ、狙撃だけで済ませるはずがない。確実にとどめを刺しに来るぞ!』

「わかった!」どのみち、廊下へ逃げようものなら敵の本隊と鉢合わせするだけだろう。

 脆くなった客室の壁を一蹴りで打ち壊し、足を踏み入れようとした瞬間──とっさに身を前方へ投げ出した。

 次の瞬間、破砕音とともに龍一の頭上数十センチを50口径の機関銃弾が通過した。銃弾はなおも放たれ続け、花瓶もデスクも室内の何もかもが砕かれ、穿たれ、粉々に飛び散った。廊下に面した壁が砂糖菓子のようにぼろぼろと崩れていく。

(襲う側からしちゃ、楽なもんだな……!)

 何しろ動くもの全てに銃弾を放てばいいのだから。

 ガラスを踏み抜いたような破砕音が連続して響き、拳から二の腕近くまでが一瞬に黒光りする〈竜〉の皮膚に包まれる。

 戦闘の狂乱バトルフレンジーに身を任せるべき時間だ。

「行くぞ、なんて言わねえ。こちらの都合をガン無視でそっちから来たんだから……」

 龍一は右の拳を握り締めた。軽く息を吸い込み、

「そっちから来いよ」

 龍一が拳を引いた瞬間、壁を突き破って重機関銃を装備した兵士が転がり込んできた。突入ブリーチングではない、まるで壁を蹴破ろうとした瞬間に引きずり倒されたような無様な動きだ。

 物品引き寄せアポーツ。全身戦闘装具の兵士が、見えないロープを足にくくり付けられたように勝手に龍一の眼前までずるずると引っ張られてくる。が、引きずられながらも銃口が蛇のように跳ね上がってきた。

(やはりHWか!)

 動きは速い。車載機銃を手持ち火器のように扱う膂力は、人間の兵士には不可能。龍一の顔面に向けて銃口が火を噴く寸前、

「歯を食いしばれよ」

 龍一のアッパーがHWの全身を跳ね上げた。天井に衝突した全身が粉々に砕け散り、血と肉と装具の全てが同心円状に爆ぜる。シャンデリアを模した天井の照明が血飛沫を浴びて大きく揺れた。

 まるでそれを見透かしていたように──いや、実際そうなのだろう、後続部隊が突入してきた。

 牽制役の短機関銃手サブマシンガンナーと、散弾銃手ショットガンナー。当然いずれもHWだ。

 跳躍。龍一の立っていた床を銃弾と散弾が撃ち砕く。限定された室内に逃げ場はほとんどない。避け損ねるか、物陰に追い詰められるか、最後は無数の銃弾に引き裂かれる。

 龍一はどちらも選ばない。前方へ飛び、散弾銃手の顔面のバイザーを鷲掴みし、

「〈スケイル〉展開」

 一瞬で散弾銃手の頭部が倍近く膨れ上がり、炸裂した。頭部の半分ほどもが消し飛んだ後に露出するのは、剣山のように突き出した無数の〈鱗〉だ。掌大サイズの、つるりとした質感の〈鱗〉には血も肉片も付いていない。

 空中から音もなく湧き出す、距離と遮蔽物を無視する、出現地点も思いのままの〈鱗〉はそれ自体が必殺の武器だった。

 生きたまま内側からミキサーの刃で裂かれるようなものだ。人間の数倍増し程度の耐久性しかないHWが耐えられる攻撃ではなかった。

 短機関銃手が銃口を向けるが、

「遅い」

 頭部を失った散弾銃手の銃口がそれより先に跳ね上がっている──その腕に食い込んだ無数の〈鱗〉が、膨張と凝縮を自ら行い、腕の人工筋肉を勝手に動かしている。

 短機関銃とは比べ物にならない重々しい銃声が響き、短機関銃手の頭部が弾け飛んだ。

 龍一の手が、HWの手に握られたままの散弾銃を掴んでいる──指紋照合機能のためHWから奪った銃器は使えないが、なら別だ。

 息を吐く間もなく室内に何かが投擲される。非殺傷性の閃光手榴弾。

 ──が、それもまた無数の〈鱗〉に空中で受け止められ、内側から信管を引き裂かれてただの鉄塊となり床に転がる。

 新たに2体のHWが発砲してくる。全力で走り込みながらアサルトライフルの反動を物ともしていない。

「〈鱗〉展開」

 空中から湧き出た〈鱗〉はただ銃弾を跳ね返しただけではなかった。複雑な軌道を描く〈鱗〉反射された銃弾が、逆に発砲したHWへ残らず突き刺さっていた。全身穴だらけになり、衝撃で奇怪な踊りを踊りながらもまだ発砲しようとするHWに、

「〈鱗〉展開」

 全身を引き裂いて内側から突出した〈鱗〉がとどめを刺していた。

「こうも堂々とHWを展開してくるかよ……戦争ならよそでやってくれ」

 龍一は装填された銃弾を残らずHWたちの頭部に撃ち込んで吹き飛ばし、用済みになった散弾銃を捨てて外へ出た。


 当然のことだが、廊下は大混乱になっていた。我先にと避難する宿泊客たちの中にはバスタオルやローブ姿の女性や寝入りばなを叩き起こされたようなパジャマ姿のビジネスマンらしき男性まで見える。パニック映画の一場面のような有り様だ。

「お客様、こちらへ!」

 聞き覚えのある声の方を見ると、先刻のメイドが宿泊客の夫婦を引き連れて必死の形相で誘導しようとしている。ホテルが武装集団に襲撃を受けた際のマニュアルなどないだろうに、どう考えても給金以上の働きをしている。大したもんだと思うし、いささか疾しさを感じないでもない。

 まさか襲撃があれだけでもないだろう、龍一の予感は悪い意味で当たった。

 逃げる宿泊客たちの中で、ほんの一部だけがひどく冷静に──手持ち火器をこちらへ向けようとしている。

(HW……擬装タイプか!)

 一般人とほぼ見た目の変わらない、火力よりもステルス性を重視した不正規戦仕様。逃げることで頭が一杯の宿泊客たちの中から、砲火が向けられ──

?」

 龍一の目が金色に輝き、

 複眼と化した龍一の瞳孔が残らず擬装型を捉えた。

「〈鱗〉展開」

 周囲の宿泊客ごと龍一を撃とうとした擬態型が残らず、全身を引き裂かれる。

「……見た目がグロいから、あんまり多用したくはないんだが」

 そうも言ってられないのが辛いところだな、と龍一は嘆息する。

 ほうぼうで上がる悲鳴に、あっこれ凶悪な犯罪者が丸腰の市民を虐殺しているようにしか見えないじゃないか、と気づいたが悠長に誤解を解いている余裕もない。今は逃げるしかない。

 ──それもこれも何もかもお袋が悪い!

 誰もが伏せて震えている中、小さな男の子だけが目を丸くしてこちらを見ている。龍一は唇に人差し指を当てて「内緒」のジェスチャーをしてみせた。


 それにしても──龍一自身が呆然となる〈鱗〉の威力だった。単なる思いつきで、HWの一個小隊が残らず消滅したぞ?

 いや、単に威力が上がったというだけではない。狙った標的を確実に屠る正確性、〈竜〉の力を危なげなく扱う精密性、どれをとっても以前の比ではない。

 しかしそれなら──この黒々とした不安が、消えるどころか日に日に増していくのはなぜなのだろう?


 龍一の耳が新たな軍用ブーツの響きを捉える。どんだけ後続がいるんだよ、と呆れるしかない。

『白木透子の身一つを確保するだけにしては重武装すぎる。あわよくば君の排除も目論んでのことだろう』

「付き合う義理はないけどな」どころか、付き合っていたら身体がいくらあっても足りない。

「階段も駄目、エレベーターは論外だ。どこへ逃げる?」

『窓だ』

「わかった」即答していた。聞き返す気にもならなかった──

 嵌め殺しの窓に向かってダイビングする──衝突の寸前、まるでレーザーでも振るわれたように音もなく窓が円形にくり抜かれる。

 数十メートルの高さから真っ逆さまに落ちながら、龍一は腕を振った。

 その一振りで、窓から身を乗り出し射撃しようとしていたHW数体が真一文字に首を切断される。野次馬たちの悲鳴が響く中、

 路面に叩きつけられる寸前で。

 龍一の身体がぴたりと止まる。龍一の背中は、路面から数センチも離れていなかった。

「………っぶねえええ!」アレクセイの〈糸〉の繰りに今さら疑念などないが、心臓が勝手にばくばく言い始めた。もう少しで地面のシミになるところだった──いや、もっと悪くなっていたかも知れない。何しろ今の龍一はうっかり死ねもしないのだ。

「乗れ!」

 ブレーキ音とともに停まったピックアップの運転席からアレクセイが手を伸ばす。

 龍一が車内へ転がり込むのと、ピックアップがタイヤを路面に擦りつけて発進するのはほぼ同時だった。

「シートベルトを。飛ばすよ」運転はどうするのか、と見るとハンドルが勝手に動いている。言うまでもなく〈糸〉だ。なるほど、素手の運転よりよほど正確に違いない。

「周辺のカメラは殺した。後は追っ手から逃げ切れれば勝ちだ」

「逃げ切れれば、な。それに今度の相手はHWより厄介そうだぞ……別の意味で」

 早くも交差点の向こう側から、ニューヨーク市警──NYPD所属のパトカーが鳴らすサイレン音が急速に近づいてきている。


 NYヒルトン・ミッドタウンの玄関口──6thアベニューはホテルの中に負けず劣らずの大混乱に陥っていた。何しろただでさえ観光客やランチを楽しむ会社員や作業員、さらにサービス業者やらでごった返しているのだ。そこへ警察車輌が山ほど押し寄せてきたのだからたまったものではない。さらに何か騒ぎがあったらしいと押し寄せる人々と、ホテルからの避難客がぶつかり合い、そこかしこでトラブルが発生していた。市井の人々にとっては降って湧いた災難以外の何物でもないが、当の警官たちにとっても不幸だった。

「通してくれよ、子供がいるんだ! 向こう側へ行きたいだけなのに何で邪魔するんだ!?」

「通りでも天国でも好きなところへ行けばいいだろう! あんたこそ何の権利があって俺の行く手を阻むんだ?」

「あんたは阿呆なのかそれとも馬鹿なのか!? ホテルの中は血の風呂ブラッドバスなんだぞ、イカれた奴が手当たり次第に殺しまくってるんだ! 実際に見てないからそんな呑気を言えるんだよ!」

「いい加減にしろ、二人とも怒鳴り合っている暇があったらさっさと避難……危ない!」

 エンジンの轟音に硬直した男たちの首根っこを、割って入った警官がぐいと引いた瞬間。

 数メートルと離れていないところを、ブレーキの軋みを響かせながらピックアップが猛スピードで通り過ぎた。さらにその後を、何十台もの警察車輌がけたたましくサイレンを響かせながら猛追する。

 ピックアップはタイヤを擦りつけながらも、レーシングカーもかくやとばかりの角度で6thアベニューとウェスト53rdストリートの交差点を曲がり切ったが、そこまでだった。猛然と追いすがるパトカーの一台が、車輌後部へ力一杯追突したのだ。容疑者の車を「強引に停める」ためにバンパーを補強したパトカーと、カーチェイスを想定しての設定などしているはずもないピックアップでは勝負にさえならない。ピンボールの球のようにタイヤを空転させ、前方で逃げ惑う人々を蹴散らし、携帯電話ショップの自動ドアを突き破り、陳列棚に正面衝突してようやく停まった。

 スマートフォンの軽やかな呼び出し音が鳴り響く中、ようやくアレクセイが呟く。「龍一、生きてるかい?」

「それくらいしかいいことが思いつかないな。あと俺、カーチェイスは映画以外で体感したくない」

「……抵抗はやめろ! 両手を上げて出てこい!」

 ブロークンな英語を聞き間違えるはずもなかった。バックミラーの中で防盾と拳銃を構えた警官たちがにじり寄ってきているのが見える。

「殺すな」

「わかっている」

 龍一もアレクセイも、警官を殺せば後がとてつもなく面倒になることは承知している。

「お前たちには黙秘権と弁護士を呼ぶ権利が……ぐえ!?」

 銃による反撃以外は予想していなかったのだろう、龍一が蹴り開けたドアで腹部を強打されて警官がのけぞった。龍一が叫ぶ。「出せ!」

 もうその時にはアレクセイは発車していた。タイヤがショップの床面に汚い跡を残して空転し、ばきばきと音立ててピックアップが棚の残骸を振り落とし、スマートフォンをタイヤで踏み潰しながら後退する。泡を食った警官たちが発砲し、うち数発がリアウィンドウを粉々にした。

「停まれ!」

 声だけでなく次々と銃弾が飛んでくる。通りに戻り、蹴飛ばされたように疾駆するピックアップにまたも警察車輌が追いすがってくる。

「……来るぞ!」

 またもパトカーが真横から突っ込み、強引に進路を塞ごうとする。アレクセイは決死の表情でハンドルを駆り、衝突こそ免れたが大幅にバランスを崩した。そこへ輸送用の大型バンが後部から追突し、衝撃でリアウィンドウが今度こそ根こそぎなくなった。

 口の中の塩気をぺっと吐く──衝撃でどこか切ったらしい。「仕事とは言え、しぶといな!」

「感心している場合じゃないよ。このままだと振り切れない」

 アレクセイの意見はどうやら正しいなと思った。ピックアップのエンジンは明らかに性能以上の働きをしているが、後続との距離はじりじりと詰められている。拳銃弾に加えてライフル弾までが飛来し、バックミラーの根元を撃ち飛ばした。

 猛った雄牛のように追いついてきた大型バンが、ついにピックアップの真横へ並んだ。スライド式のドアを開けて姿を見せたのは──通常の警官よりも遥かに重武装の巨大な影だ。機動隊員のようなヘルメットに、爆弾処理にでも使うような耐爆スーツ。さらにその上からボディアーマーまで着ているため、力士のごとき膨れ上がったシルエットになっている。

 何か──ひどく嫌な予感がした。見かけのいかつさや兵装とはまた違う意味での。

 アレクセイがそれを裏づける声を上げる。「まずいぞ、龍一。あれはHW……それも、NYPD緊急対応チーム装備だ」

「警察が……HWを?」

 確かにあの冷え冷えとした雰囲気は、紛れもないHW特有のものだ。しかし、

「重武装の犯罪者やテロリストに対抗するため、NYPDが試験的に運用しているとは聞いていたが……こんなところでお目にかかれるとはね」

「いいこともあるな。生身の警官ならともかく、HWなら遠慮する必要はない」

 なら〈鱗〉で──集中しようとした龍一の全身に、どすん、と車を揺さぶる振動が伝わってきた。

 反射的に振り向いた龍一は目を疑った。バンとは反対側を疾駆するパトカーから、何と生身の警官が一人、決死の形相でピックアップの荷台に飛び移ってきたのだ。一歩間違えば本当に路面の染みになりかねない無謀さだ──が、無謀でも何でも、彼はやってのけた。

「冗談だろ!?」

「いい加減にしろ、この犯罪者どもめ! さっさと車を停めろ!」飛んでくるのは怒声だけではなかった。死に物狂いで上半身を引きずり上げた警官が、握り締めたトンファーを振り下ろす。先端が龍一の右肩を強打し、激痛に悲鳴を上げさせる。

「停めろ!」

「やなこった!」

 日本語はわからなくても意味は通じたらしい。第二撃が振り下ろされる。とっさにシートベルトを外して避けたが、勢い余ってフロントウィンドウにまで突っ込み、大穴が開いた。どっと車内に強風が流れ込んでくる。

「掴まれ!」

 ピックアップが急速にスピードを落とし、龍一と警官をつんのめらせた。龍一の肘がまともに警官の顔面を直撃、鼻血が飛び散る。だが警官は苦鳴を上げながらも、なおもトンファーでぐいぐいと龍一の喉元を締め上げてきた。息が詰まり、目玉が飛び出そうになる。アレクセイが明らかに躊躇っている……龍一を助けたい、が警官は殺せない、ジレンマもいいところだ。

「抵抗は無駄だ! お前もさっさと車を停めろ!」

 赤く染まる視界に、急速接近してくる大型バンが映る。耐爆スーツのHWが手にした得物を振りかざし、

「……くそったれ!」

 龍一は最後の力を振り絞って腕を伸ばし、ハンドルを殴りつけた。ピックアップが車体を軋らせて曲がり、HWの一撃がわずかに逸れる。

 それだけで、直撃を受けたドアが消失した。

 振るわれたのは屋内突入用の大型ハンマーだった。がらんがらんと音立てて歪んだドアが後方へ転がっていく。

 喉元のトンファーが緩んだ隙に、裏拳で警官の顔面を殴りつけた。二撃、三撃目でようやく力が緩む。四撃入れてようやくぐにゃりと身体の力が抜けた。恐るべきタフさだ。

 バンの中から新たな得物が突出する。

「あれは……!」

 サイドウィンドウに亀裂が走った。ガン! と強烈な衝撃とともに荷台に突き刺さったのは、大型の銛銃スピアガンから放たれた銛だ。モーターウィンチに直結されたワイヤーが強引に巻き取られ、ピックアップの車体をずるずると引き寄せていく。何しろ馬力からして違う。突き立った銛自体もびくともしそうにない。

 なら今度こそ〈鱗〉で……構えた龍一の腕を、

「そこまでだ……」

「なっ……!?」

 顔面どころか頭頂部からまで鮮血を滴らせた先ほどの警官が握り締めた。しかも驚いたことに龍一が振りほどこうとも、びくともしない。「お前には……黙秘権と……弁護士を呼ぶ権利がある!」

「っ……このお巡り、ゾンビか何かか!」

「龍一よりしぶとい人がこの世にいたとはね……」アレクセイは半分呆れ半分感心した顔でこちらを見ている。

「おい、感心してないで助けて……伏せろ!」

 あの大型ハンマーがまたしても、今度は横薙ぎに振るわれた。耳障りな金属音と衝撃、今度はピックアップの屋根がごっそり持って行かれた。

 龍一の嫌な予感が確信に変わった瞬間だった。

(こいつら、〈鱗〉の性能を知っている……)

 HWに必殺の効果があるのを知っている──そしてそれを人間に対して振るうことへの、龍一の躊躇いを知っている。「戦闘情報をアップデートされたか……!」

 文字通りの人間の盾だ。しかも執念のみで掴みかかってくる人間の警官に、説得は通じそうにない。

 逡巡の時間はない。

「アレクセイ。こちらから近づけるか?」

 ちらりと視線を感じる。「近づけば勝てるのかい?」

「やれるさ」

 口の端でだが、彼は確かに笑った。「任せてくれ」

 今やピックアップはアレクセイの技術と、生来の頑丈さだけで走っているようなものだった。チャンスはこれが最後だろう。

 ワイヤーに引きずられる一方だったピックアップが初めて自ら軌道を変え、大型バンに向かっていく。無論、大型バンも逃げる理由はない。遥かに大型のタイヤとエンジンに物を言わせて突進していく。

 ──薄暗いバンの車内から、一本の腕が突き出た。NYPDで採用されているどの銃器とも違う。電気発射式の、特殊作戦用消音拳銃だ。

 運転に集中しているアレクセイの眉間に向け、今、銃口から、

 ──発射された弾丸は、甲高い音を立てて龍一のトンファーに弾き返されていた。正確には朦朧とした警官の、その腕に握られたままのトンファーを操る龍一によって、だ。

「どうした? 目論見が看破されてびっくりしたか?」

 トンファーの本体、棒の部分から突き出した取っ手が、消音拳銃を持つHWの首に引っかけられる。それを外す間も与えず。

「まず馬を射よ、か。なかなかいい線行ってたぜ……にはな」

 気合一閃。振り抜かれたトンファーが、HWを車内から引きずり出し。

 そのまま猛スピードで、街路の電柱に叩きつけた。

「貴様……!」警官が我に返る前に、

「そろそろあんたにもご退場願おうか。悪く思わないで……いや、思ってくれていいぜ!」

「うああああああ!」

 後続のパトカーに投げつけた。フロントウィンドウにぶつかり、派手にスピンして停まる。路面へ蹴り転がすよりは優しいよな、と思うことにした。

 なおも大型ハンマーを振りかぶったHWが──そのままの姿勢で硬直する。自分の取ろうとしている行動の危うさに気づいたように。

「いいぜ。そのまま思いっきり振り抜いてくれ……自分自身のドタマにな」

 間近に生身の人がいなきゃ遠慮なく使えるんだよ、と龍一は嘆息。

〈鱗〉展開。

 振り上げられたハンマーが、使用者たるHW自身の頭部に振り下ろされた。頭部自体が破裂し、勢い余って車床までへこませる。危なげなく走っていた大型バンが跳ね上がり、着地した時には空き缶のように潰れていた。

 ハンマーの衝撃はそれだけにとどまらなかった。潰れた大型バンを中心に同心円状に衝撃波が広がり、周囲を走る警察車輌を片っ端から横転させた。横転を免れた車輌も街灯に衝突し、あるいは店舗のショウウィンドウを突き破り、交差点は悲鳴と衝突音に埋め尽くされた。

「龍一、このまま飛ばしていいかい?」

 龍一はようやくにやっと笑うことができた。「もちろん!」


「惨憺たる有り様だな……これはNYPD創設以来の大失態だ。署長の首ぐらいで済めばまだましな方だぞ。被害状況は?」

「それが……緊急対応チームHRT配属HWがほぼ全滅なのに対し、人的被害はゼロです。いや鹿がPCのフロントウィンドウに衝突して鞭打ちになった以外は、ほとんどの者が打撲傷程度で済んでいますが」

「何だって? ……済まない、もう一度言ってくれないか。自分の耳が信じられなくなるのは思春期以来なんだ」


「……ただ自分の母親に会いに来ただけで、何でこんな目に遭うんだ?」

 ──数時間後、龍一とアレクセイは高架の下に停めたバンの中で話し合っていた。あのピックアップはとっくに乗り捨てていたが念のためだ。夕闇にまぎれて行動を開始する予定だったから、あと数時間は必要だろう。

 龍一も、アレクセイも、自分の血と返り血と、さんざん車内で揺さぶられた打撲傷と、さらに頭からかぶったガラスの破片で生きたままミキサーに放り込まれたようなひどい有り様だった──しかし少なくとも、生きてはいた。

「ただ会おうとしただけでこんな騒ぎになるあたり、確かに君のお母上だとは思ったけどね」

 だから嫌味を言うなよ、と龍一は半目になる。「しかし……これからどうする?」

 まずは母に会う、ロンドンを脱出して以来の目標自体が雲散霧消してしまったのだから、隆一としてはちょっと黄昏れたくもなる。「いっそ観光でもするか?」

 ほとんど自棄気味に言ったその言葉に、なぜかアレクセイは大真面目な顔で頷いた。「……そうだね。案外、悪くないかも知れない」

「おいおい」

 お前まで何を言い出すんだ、とアレクセイの顔を凝視してしまったが、彼は大真面目な顔のままだった。「龍一、僕らの抱える問題は今さら一日二日でどうにもならないよ。それにお母上も言っていただろう? 君が生きていること自体がヨハネスへの最大の嫌がらせだ、って」

「それは……そうだが」

「真に受けるかどうかはともかく、一考の価値はあるんじゃないか?」

 彼にそう言われると考え込まざるを得ない。観光を楽しめって? お尋ね者で、体内に街一つを灰にしかねない爆弾を抱えたこの俺が?

 しかし──少しだけだが、気が楽になったように思う。

 あの『アルビオン大火』以降、龍一の中に渦巻いていたもの……幾度となく死にかけ、数多くの死を目の当たりにし、身体の一部を置いてくるような思いでブリギッテと別れて以来、やり場のない怒りとやり切れなさが少しだけ薄れたような気になった。

「……なんか、美味いもんでも食うか?」

「いいね。調子が出てきたじゃないか」アレクセイはちらりと笑うが、すぐに顔を曇らせる。「どうせなら……少し毛色の変わったものを食べたいかな。それも肉以外の。この国の料理は基本的に味も濃ければ、量もすごいからね……」

「ああ……それはあるな」龍一はつい頷いてしまった。「そうか、悪かったよ。俺、どうも一緒に食事する奴の好み無頓着なところがあるからな。以前も夏姫の部屋に泊まった時『朝何食べる?』って聞かれて『ステーキ』って答えたら泣かれたっけ」

「それは彼女じゃなくても泣くと思うよ」

「いっそ和食にでもするか? 腹減ってる時にあんまり突飛なもんは冒険だし、今日はもう冒険なんて懲り懲りだ」

「そうだね。日本食に思い入れはないけど、ブーツの底みたいな分厚さのステーキや器からはみ出るくらい盛られたチリビーンズよりはましかな……」


 ──その日の夜に選んだ日本料理店で、アレクセイは「馬にでも食わせるような」巨大なカリフォルニアロールを前にげんなりすることになるのだが……それはまあ、別の話である。

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