叶愛花の章 幼竜覚醒

幼竜覚醒(1)いずれ天下を取る女

「私、自分のことを『いずれ天下を取る女』だと思っているんだ」

「……戦国武将ですか?」


 お世辞にも楽しいとは言えない授業の合間の昼食と、その後の昼休み。学生食堂に集う少女たちの口も自然に軽くなろうというものである。

「なんせ私の朝は、起きてすぐ『よし、これで天下統一にまた一日近づいた!』と自分に言い聞かせることから始めるからね。まずはイメージトレーニングから。私がこれから先歩んでいく勝利へのビクトリーロード、その倦まぬ弛まぬ一歩ってわけ!」

「『勝利へのビクトリーロード』って『女のお婆さん』みたいな二重肯定文では?」

 ──口が軽くなりすぎている者も若干一名存在するが。

 口が軽くなりすぎている少女、かのう愛花まなかはそこで箸を止め、向かいに座る眼鏡の少女、逢瀬おうせ奈津美なつみを心配そうに見やる。「逢瀬さん、さっきから全然お箸が動いてないけど食欲ないの? それとも具合悪いの? あ、ひょっとして恋?」

「叶さんの食べるスピードが早すぎるんですよ。そもそもあれだけ喋りながら、どうしてもう定食をほぼ食べ尽くしているんですか?」

 奈津美は半分呆れ半分感心した顔で、明らかに通常より盛りの良い愛花の定食──彼女はどんなメニューだろうと豪快に食べてくれるので、学食の女性職員たちから非常に受けが良い──を見やる。

「それはもう、出されたものを美味しく食べられない者に、天下は取れないからね。美貌や才能も大切だけど、まずは健康からだよ」

 奈津美はやや半目気味に、愛花のキューティクルも眩しい艶やかな黒髪と、よく動く口を見やる。「確かに……叶さんは健康は有り余ってますからね。頬っぺたなんかパンダイルカみたいにツヤツヤでパンパンですし」

「誰がパンダイルカだって?」

 んふっ、としか形容のできない妙な音が響いた。傍らで二人の会話を聞いていた昭島あきしま香里かおりが噴き出すのをどうにか堪えた音である。彼女にもう少し慎みがなかったら、盛大に口の中の牛乳を吹き出していたに違いない。さすがに昭島電機の社長令嬢ともなると、そのような無様はそうそう人前では見せられそうにないが……。

「昭島さん?」

「ご……ごめんなさい。お二人の話があんまりおかしくって」

 すかさず愛花が満面の笑みを向ける。「おっ、昭島さんには天下人たる私の溢れ出るオーラが見えちゃったんだ? まずいなー、よりによって昭島さんにそんな褒められたら私、興奮のあまり熱が出てきちゃうなー」

「昭島さんは別に褒めてなかったと思うけど……私も叶さんの言葉を聞いているだけで熱が出そうです。別の意味で」

 奈津美は深々と溜め息を吐き、「それで? 具体的にどうやって天下を取るか、そのビジョンはあるんですか? その自信の根拠は?」

「ないよ」

「即答!?」

「あるわけないじゃない。だって、自信って本人にだって説明つかないものなんだから」

「微妙に反論しにくいことを言いますね……」

「いずれにせよ、私にはもう見えているの」また始まったよ、と言わんばかりの周囲からの視線に気づかず(あるいは気づくつもりもなく)愛花はえへんと胸を張る。「アイドル? 政治家? 気鋭の企業家? それはわからない。でもこれだけは確実に言える──私には特別な何かがある。そしていずれ、天下を取る……と!」

「毎朝イメージトレーニングをしていてそんなふわふわしたビジョンしかないんですか!?」

 感動とは違う意味で身を震わせている奈津美とは裏腹に、愛花は満面の笑みでご飯粒の最後の一粒まで食べ終えていた。

「ふぅ……こうして食べ終えるたびに『やりきった!』感が湧いてくるよね。一歩ではあるけれど天下統一に近づいた! みたいな」

「一食食べ終えただけでそんなご大層な感慨に!?」

「叶さんに食べてもらえるご飯は幸せよね」笑っていた香里はふと真顔になる。「ところで叶さん、何か頼まれごとがあったんじゃないかしら? それで急いでお昼を済ませていたと聞いた覚えがあるけど?」

「あ、そうだ…… 小柳こやなぎ先生に呼び出されていたんだった!」立ち上がりかけていた愛花はその場で1メートル近くジャンプし、近くの者をぎょっとさせた。「ごめん、昭島さん、逢瀬さん。また後でね!」

 彼女の性格そのままにまるでじっとしていない二つ結び髪をぱたぱたさせながら食堂を駆け出ていくのを、二人は笑いながら、あるいは呆れながら見送った。

「……台風だってもう少しじっとしてますよ」

「台風はよかったわね」

「笑いごとじゃないですよ」奈津美はまたも深々と溜め息を吐きながら言う。「昭島さんも何か言ったらどうですか? あの子、昭島さんの言うことなら割と辛口の意見でも大人しく聞きますし」

「あら、過ぎた賛辞ね。でも甘いか辛いかで言ったら、逢瀬さんだって叶さんにはずいぶんと点が甘いじゃない?」

「それは……」奈津美は口ごもりながらずれた眼鏡をかけ直している。「私はただ、今はまだ良くても、あんなふわふわした子がそのまま社会へ出たら大変だな、って思っているだけですよ。皆が皆、昭島さんみたいな人じゃないんですから」

「でも……そう、そうね」

 香里はどこか寂しげに呟く。「あの子のああしたところが、世知辛い世間ですり減っていくのは、確かにあまり見たくないわね」


「……なあ、叶」

「はい、小柳先生?」

「これは……本気なのか?」

 生徒指導室にて。なぜかひどく疲れたような顔で見つめてくる小柳理子みちこ先生に対し、愛花は右手を胸に当て、真っ直ぐな瞳で見つめ返しながら答える。「はい、本気です。先生は私の真心をお疑いですか?」

「疑ってなんかいない。むしろ本気だから困っているんだよ……!」理子はがっくりと頭を前に傾ける。傍らにある進路希望シートの欄には、

「第1希望 アイドル」

「第2希望 政治家」

 とあり、そして「第3希望」には欄からはみ出しかねない(正確には、ちょっとはみ出している)元気一杯の字で「まだ私にもはっきりとはわからないけど、きっと素晴らしい何か!」と書いてある。

 愛花は小柳先生が好きだ。時折厳しいことも言うけれど、それは根底に優しさがある人の厳しさだ。だから、元気がない様子を見ると心配になってしまう。「先生……どこか具合いが悪いんですか? お水持ってきましょうか?」

「いや……大丈夫だ。別にどこも悪くないし、お前のそういうところは大切にしてもらいたいし、何よりこれはお前の話だからな……」理子はどうにか立ち直るが、その表情は既にKO寸前でどうにか立ち上がったボクサーのごとき悲愴さである。「確かに、自分が将来どのように進むべきか、が決まっているのはとても素晴らしいとは私も思う。だが叶、本当にアイドルになりたいのか……?」

「はい!」満面に笑みを浮かべ、目をきらきらと輝かせて愛花は即答する。「私、歌には自信がありますし、踊りのセンスだってかなりのものだと思っているんです。先生も私の創作ダンス、見てくださいましたよね?」

「あの盆踊……」まで言いかけて理子は盛大に咳払いした。「い、いや、確かに独創性に満ちた素晴らしいものではあったが……」

 相当に言葉を選んだ自覚は理子にもある。何しろ愛花が披露したダンスは、よさこい踊りとラジオ体操と雨乞い祈祷を見る者全てに「こいつ大丈夫か?」と不安にさせる割合で混ぜたものとしか言いようがなかったからだ。それでも愛花は周囲の驚愕と失笑の視線にめげることなく踊り終え、終わった時には妙な感動も手伝って盛大な拍手が起きたほどだった。その胆力は確かに並大抵のものではないが──それで天下のアイドルになれるか、となるとかなり厳しいのも確かだった。理子も内心、ぶっちゃけ無理じゃねえかな、とは思っている。

 だがそれを正直に告げて、夢一杯ではち切れそうな少女の心をへし折ることが、果たして教育者の取るべき態度なのだろうか……?

「この『政治家』というのは?」

 結局、判断が下せずに理子はお茶を濁すことにした。再び愛花の表情がぱあっと明るくなる。「はい、政治家です。世のため人のためになる政治家。素晴らしいと思いませんか? まさに私の目指すべき姿だと思います!」

「政治家なあ……」政治家なんてろくな仕事じゃないと思うぞ、が理子の本音である。だが、これまた愛花に直接言うのも躊躇われた。

 それに、愛花の成績は全体的に見て中の下。悪くはないが、日本の最高学府を目指すにはあまりにも厳しい位置である。目指そうにも、そもそも挑戦権がないような現状なのだ。

 アイドルや政治家でなくても、世のため人のためになる仕事はいくらでもある。例えば看護師や、そこそこ大きな会社の事務員など。ひたすら高みを目指すのではなく、自分の力量に見合った場所へ進ませるのが結局はこの娘にも、そして周囲にも幸せなのではないか? 

 問題は、それを本人が納得できるかどうかだが──

「……でも、先生」

「うん?」

 一転して静かな声で愛花は続ける。「もしアイドルが駄目でも、政治家が駄目でも、私は確信しているんです。私には特別な何かがある。そしていずれ、天下を取る……と!」

 びし、と空中に人差し指を突き立ててポーズを決めた愛花は、口を半開きにしている理子を見て我に返り、急速に肩をすぼめてしまった。「ごめんなさい、調子に乗りすぎました。先生の前でまたやっちゃった……昭島さんや逢瀬さんからもしょっちゅう呆れられるんです」

 どうやら彼女は友人に恵まれているらしいな。

 それがわかったから、理子はふっと笑ってしまった。今日は私の負けだな、と思いながら。「わかったよ、叶。お前が将来何になろうと、その気持ちを忘れずにな」

「は、はい!」またしても表情が明るくなる。

「今日はここまでにしよう──一日や二日で結論の出る話でもないからな」言いながら私もこの子には甘いな、と密かに苦笑するしかない。「そうだ、叶。親御さんとはまだ連絡を取れないのか? 生徒指導の立場からも一度お目にかかりたいのだが」

「あー……どうでしょう」愛花の表情が少しだけ曇る。「難しいかも知れません。私が電話をかけてもしょっちゅう留守録ですから」

「そうか……もし機会があれば、私が会いたがっていると伝えてほしい」

「わかりました。今日はありがとうございました。失礼します」

 ぺこり、と一礼して愛花が退室した後、理子は盛大に嘆息した。愛花の手前、直接的な批判こそ憚られたが、

「まったく、あの子の親御さんは何を考えているんだろうな。それとも、まるで考えていないのか……」

 夫婦揃ってその筋ではそれなりに高名な学者らしい、とは聞いた覚えがあるが。それとも年頃の娘をほったらかして憚らない、いわゆる研究馬鹿の類なのだろうか?

 確かに愛花は真っ直ぐで心根の優しい少女だが、だからと言ってそのままほっとけばいいわけではないだろう。いずれにせよ、

「近いうち、どうにかして親御さんに話を伺う必要があるな……」

 あるいは親御さん代わりの人物に、と理子は決意する。


「昭島さん、さよなら。また明日ね」

「はい、さようなら」

 香里がボディガードらに付き添われて──彼女ほどのお嬢様ともなると登下校だけで一苦労だ──送迎車に乗り込むのを見送った後で、愛花は駐車場に滑り込んできた一台の車を見て苦笑する。市内を走り回るロボタクに比べれば多少は高グレードだが、人間の運転手ではなくAI制御の無人車には違いない。しかもそれがウィンドウからタイヤまで全て防弾防爆仕様、車体真下での対戦車地雷の炸裂にも耐えられる──と聞くと、どんな怪獣に踏まれるのを想定しているんですか? と聞きたくなる。

「パパもママも大袈裟だなー。私は昭島さんみたいなお嬢様じゃないのに」

 まあ愛されてるって証だよね、と呟きながら後部座席に乗り込む。

 市内を走ると、嫌でもあの〈割れ目〉が目に入る。〈割れ目〉の向こう側に見える星空は、今日も美しい。

「何なんだろう、あれ……」少し見つめるつもりだったのに、気がつけば他が見えなくなるほど凝視している。愛花は慌てて首を振り、意図して〈割れ目〉から目を逸らした。

「でも……空にあんなものができるような動乱の時代だからこそ、私が天下を取るチャンスも倍増するってもんだね!」ぐっ、と拳を握り締めていた愛花はふと思い出した。「そうだ、買い物する必要があるんだった。帰る前に駅ビルへ寄ってくれない?」

『かしこまりました』


 未真名駅ビルは買い物をするに向いているスポットとはあまり言えない。ビル自体の老朽化と店舗のシャッター街化に加え、買い物客の大半を〈みまなショッピングモール〉に取られっぱなしだからである。市内で買い物をする者の大半は駅を素通りし、より新しい品揃えが豊富な、しかも飲食店が充実した〈みまなショッピングモール〉の方へ行く。

 とは言え、愛花があえて駅ビルで買い物をするのはもちろん理由がある。

「もうこのタイプのゲーム、他のところに置いていないんだよねー。筐体自体もずいぶん古いし」

 彼女が遊んでいるのは、かなり古いタイプの音楽ゲーム──画面に表示されるアイコンに合わせてステップする、いわゆる「ダンスゲー」である。そもそもこのゲームセンター自体、大半がカップル向けのクレーンゲームか、饐えた目のおっさんたちが真っ昼間から黙々と遊んでいるメダルゲームか、マニア向けの対戦格闘ゲーム(治安の悪さ故、筐体のあちこちが蹴られて凹んでいる)ばかりが並ぶかなり古色蒼然とした店舗だ。

 ゲームに集中しすぎてほとんどタコ踊りになっている愛花を見て、クレーンゲームを遊びに来たカップルがぎょっとなっている。画面からはステップミスを告げるピーブ音が鳴りっぱなしだが、もちろん愛花は大真面目である。

「ふうぅ! 今日も『この一曲のために生きている』って感じだね!」

「……なあ、あんた」

「うん?」

 額の汗を拭いながら愛花がその声に振り返ると、思ったより遥かに低い位置から見上げる一対の瞳があった。辛子色の地に「告訴してみやがれ!」と日中英の三カ国語で書かれた半袖シャツを着た小学生ぐらいの男の子が、訝しげにこちらを見ている。「ゲームオーバーになってんのに、何『やりきった』感出してんだよ」

「ああ、これ?」愛花はにっこり笑う。彼女は子供が好きだった──本人が子供っぽいからである。「きっと機械が壊れてるんだよ。私のダンスが素晴らしすぎて測定不能だったみたいだね」

「……自分の下手さをこんな堂々とゲーム機のせいにする奴、初めて見たな」男の子は深々と嘆息し、「あんた、毎日それで遊んでないか? ここんとこ三日と日を置かず来るから、ツラ覚えちまったよ」

「女の子に向かってツラはないでしょツラは。せめて顔って言いなよ」口を尖らせた愛花は一転、びしっと親指で己を指す。「でも、私の全身から滲み出る天下人のオーラを見て取るなんてキミ、見どころあるね」

「はあ?」

「いい機会だから覚えておくといい。私は叶愛花、いずれ天下を取る女よ!」

「何だこの頭あったけー女……」男の子は肩をすくめ、「……駒城こましろあいだよ。女に名乗らせといて自分が名乗らねえんじゃ、みっともねえからな」

「へー、カッコいい名前じゃない。芸能人みたい」

「やめろよ。この名前嫌いなんだ。やたらキラキラしててよ」藍少年は顔を背ける。本気で嫌がっているらしい。

「そお? 私はいい名前だと思うけどなー。ほら、私と同じ『アイ』の字がはいってるじゃない。あ、字は違うけど。よく考えたら呼び方も違うな」

「じゃ共通点ねえじゃねえかよ」藍の目がだんだん半目気味になってきた。

「ねえ藍くん」

「何だよ」

「君はゲームやらないの?」

「……やらねえよ。遊ぶ金ねえし、ここにいるのだって暇つぶしのためみたいなもんだしな」

 ふーん、と頷いた愛花が何かを思いつく。「じゃ、このゲームやってみない? 一回分なら私が奢るから」

「い……いいよ、興味ねえし」

「そう言わないでさ。あれだけ私に大口叩いたからには、さぞかし素晴らしいスコアを見せてくれるんでしょ? それとも戦わずして逃げるつもり? 男の子でしょほらほら〜ちょっとカッコいいとこ見せてよ〜?」

「わかったよ! 金くらい自分で出すよ! まったく、見かけによらず意外と根に持つ女だな……」乗り気というよりさっさと終わらせたいという顔で藍は筐体のステップに足を乗せる。

「さあ、お手並み拝見と行きましょうか」にやにやしながら見ていた愛花だったが──すぐその表情は凍りつくことになった。

「うそ……」

「……ま、ざっとこんなもんだろ」ファンファーレとともに表示される『Excellent!』の文字を背に藍は頭を掻く。「つい熱くなっちまったけど、どうにもならないってほどでもね……」

 彼の言葉が不自然に途切れたのは、愛花がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて彼の両手を握り締めたからである。「……君のこと、師匠って呼んでもいい?」

「やめろよ! 目がマジすぎて怖いよ! あんた、この程度で人を尊敬してたら絶対そのうち悪い男に引っかかるよ!」

 ──

「……そんなにドン臭えようにも見えねえんだけどな。何でゲームとなると、ああもダメダメなんだ?」

「そ、それは……たまたま調子が悪かっただけとか。……ゲーム機の」

「じゃあ俺の時に限ってゲーム機がバリクソに調子良かったってことか?」

 先ほどあれだけゲームスコアに大差をつけられた後だと、どうにも愛花の旗色が悪い。

 二人は休憩ブースに並んで腰かけていた。藍はミルクと砂糖入りのコーヒー、愛花はグレープフルーツジュースの入った紙コップを手にしている(愛花は払うよと言ったが、藍が『女には奢らせらんねえ』と頑として聞かなかった)。

「この前の創作ダンスだってさ……最後までやり終えて皆んな拍手してくれたし、努力点くらいはもらえたけど、なんとなく自分でもわかってるんだ。ああ今の踊りダメだったんだな……って」

「思うんだけどさ、あんた、余計なこと考えすぎなんじゃね?」少し考えて藍は口を開く。

「え?」

「たまにいるんだよな。頭は悪いわけでもないし運動神経が腐ってるわけでもねえ、でも

 愛花は大真面目な顔で腕組みする。「あー……そう言えばそうかも。腕の振りや足の運びに集中しなきゃいけないのに、何か他のことまで考えちゃうんだよね。今晩のおかず何かなとか、鼻の脇がかゆいとか」

「それだよ」藍はがっくりと項垂れる。「上手く行くわけねえだろ、ただでさえダンスなんて片手間にできるもんじゃねえんだからさ」

「そっかあ……」

 しゅんとしてしまった愛花を横目で見て、藍はぼそりと言う。「……ま、上手く行かなくっても、楽しかったらいいんじゃね? ゲームなんだからさ」

 愛花の顔がぱっと明るくなる。「うんうん、そうだよね! 藍くん、すごくいいこと言った! お姉ちゃん頭撫でちゃう!」

「撫でるなよ! 髪をめちゃくちゃにすんなよ!」藍は本気で嫌がって頭をかばっている。「それで? 何だってそんな必死こいてるんだよ?」

「え? 私が……必死?」

「自覚もねえのかよ……」藍はまたもがっくりと項垂れる。「あれが必死でなかったら、何が必死なんだよ?」

「べ、別に悪くないんじゃない? 何事も必死でやらないと楽しくなくない?」

「ゲームはともかくさ、アイドルなんて目指す必要あんの? さ」藍の口調に幾分かの屈託が混じった。「あんたが着てるの、礼峰の制服だろ。超お嬢様学校に通うお嬢様じゃねえか。本当なら俺なんか口も聞けないくらいのな」

 愛花はつい苦笑してしまう。「そんな。確かに私の回りにいるのは社長令嬢とか軍のお偉いさんの娘さんとか、実家がすごい人ばっかりだけど、うちは両親が……えーと、分子ナントカ学の学者ってだけだよ。娘を放ったらかしで研究三昧。お嬢様なんて、言う私が自分で笑っちゃう」

「俺に言わせりゃ、あそこに通えるってだけで充分お嬢様だよ」吐き捨てるような口調だった。「いい大学入っていい企業に就職してさ、金持ちのボンボンとっ捕まえて一生安楽に暮らせばいいじゃねえか」

「……そんなの、つまらない」愛花は紙コップを持ったまま、真っ直ぐな視線を向けた。「最初からを目指したいのなら話はわかる。でも自分にそうするしかない、って思いながら他の全部を諦めるのは、たぶん違う」

 愛花は手を胸に当てた。「私は私に特別な何かがあるって知っている。まだわからないけど特別な何かがあるって信じている。それを確かめる前に、自分の道を狭める必要なんか全然ない」

「わかんねえよ、そんなの」藍は完全に顔を背けていた。眩しすぎる何かに直面したように。「お嬢様がアイドル目指すなんて、完全に道草だろ。人生の道草見せられてもな」

 愛花は眉尻を下げる。「どうしてそんなに後ろ向きなこと言うの? どうして急に優しくなくなったの?」

「優しくなんかねえよ。あんたが俺を優しいって思ってんなら、そりゃ錯覚だ」

 しばらく黙った後、愛花は意を決したように眼差しを上げた。「藍くん。私のマネージャーになってよ」

「はあ? 何だそりゃ?」

「ええと、付き人というか、一緒にあれこれやる人のことで」

「言葉の意味を聞いてんじゃねえよ! 何で俺があんたの付き人やんなきゃなんねえんだよ!」

「私を見て。私をご覧なさい! あなたの前にいるのは叶愛花。いずれ天下を取る女よ!」愛花がここぞとばかりに胸をぐいと張る。「私がアイドルになろうと、政治家になろうと、いつか必ず君に思わせてあげる。『ああ、なんてすごい女の隣にいるんだ!』って!」

 口を半開きにしている藍を見て、愛花は少しだけ我に返った。「あ、ちょっと待って、これってまるで告白じゃない……あの、君はなかなかいい線行ってるかなとは思うけどまだ小学生だし、人生を一生共にするかどうかはまだもうちょっと猶予が欲しいっていうか……」

「さっきから何を一人で盛り上がってるんだよ?」藍は盛大に溜め息を吐き、「……わかったよ。ここで断って、もっとタチの悪い男に引っかかっても寝覚めが悪いからな」

「あ……ありがと! 安心して、私は期待を絶対に裏切らない女だから!」一転顔を輝かせた愛花は藍の手を握り、盛大にぶんぶん振って嫌な顔をさせた。「あ、お給料はあんまり出せないけど、私のお小遣いの中からどうにか都合するから、まあ出世払いってことで……」

「そんなの最初から当てにしてねえよ。あんただって俺と同じ子供じゃねえか」

 しょうがねえな、と藍が他にどうしようもなくて苦笑したその時。


 ビル内の警報が大音響で鳴り出した。


 それだけではない、愛花や藍、それに他の買い物客のスマートフォンからも耳障りな音がひっきりなしに流れ出ている。

が危険域に達しました。市民の皆さんは警備ならび治安関係者に指示に従い、速やかに避難を開始してください。繰り返します、犯罪発生値が危険域に……』

 あらゆる警報はわざと聴く者全ての神経を逆撫でする不快な音響に設定されている。またそうでなければ、警報の意味がないからだ。だが今回に限ってはそれが完全に裏目に出た──市内でこの警報が鳴り響いたのは、去年の〈のらくらの国〉叛乱以来ついぞなかったからだ。誰もが凍りついたように動けない。

「皆さん、慌てないで! 落ち着いて、一列になって避難を開始してくださ……」

 それでも気を取り直したビルの警備員たちが、避難誘導を開始しようとした瞬間。炒り豆でも弾けるような破裂音とともに、その声が不自然に途切れた。買い物客の何名か、特に危険にも目立つようにも見えない者たちが懐から銃器を取り出し、発砲したのだ。倒れ伏した警備員たちの身体から、赤茶色の液体がじわじわと床に染み出していく。当然、ぴくりとも動かない。

 警報以外の音が途絶えたフロアに、軽快な電子音が鳴り響く。上昇してきたエレベーターの扉が開いたのだ。そして中からは、

『全員、壁際に並んで手をつけ! 抵抗は無意味だ! そこのお前とお前、お前もだ!』

 音声は肉声ではなかった。日・英・露・朝、四カ国後でがなりたてる怒声はいずれも電子合成によるものだった。それをスピーカーから垂れ流す張本人は、黒光りする全身戦闘装備に身を固めている。暗視装置・無線・その他を内蔵するフルフェイスのヘルメットに甲冑じみたボディアーマー、個人単位での重火器使用を可能とする人工筋肉スーツ。まるでSF映画のエイリアンか、ファンタジー映画の異端審問官を彷彿とさせる姿だ。

『並べ! 喚くな、せっかくの整形手術を無駄にしたいのか!』

 荒々しい怒声と裏腹に、エイリアンじみた兵士たちの動きはぞっとするほど冷酷で正確だった。訳もわからず立ち向かった者は容赦なく銃床で殴り倒され、不運な者はその場で全身に穴を穿たれた。てんでんに悲鳴を上げる他の買い物客らを容赦なく銃口とブーツの蹴りで追い立てていく。

 愛花は、とっさに藍が袖口を引いてくれたためにいち早く植え込みの陰に隠れることができた──だがおかげで、この蛮行の一部始終を嫌でも見せられるはめになった。「あ……あの兵隊みたいな人たち、何なの?」

 一緒に隠れる藍の目も、焦りのあまり瞳孔が収縮しすぎている。「〈自殺軍スイサイドアーミー〉だ……!」

「すいさい……ど?」

「あんた、アイドル目指してるのに異様に世間が狭くね!? ネットのニュースぐらい見てねえのか! 東京の方じゃ相当派手に暴れまくっているっていうけど、未真名市にまで奴らがやってきたのかよ……!」


 ──軍事要塞でもない駅ビルを一定の装備と練度を保有する集団が占拠するのは、大して難しくない。

 その日、未真名駅ビルを占拠した集団は大まかに3グループに分けられる。ビルのメンテナンス業者に変装し、警備員詰所を襲撃するグループ。配達用トラックで地下駐車場に乗り入れ、大量の銃火器をビル内に運び込むグループ。そして一般の買い物客に紛れ込み、拳銃や短機関銃などで警備員たちを「排除」し、買い物客らに対する群衆制御クラウドコントロールを行うグループである。

 最初のグループは非武装同然の警備員たちを苦もなく射殺し、監視カメラや非常用シャッターなどビル全体のセキュリティを制御下に置いた。

 そしてそれに呼応する形で次のグループが悠々と大型のトラックを地下駐車場に乗り入れ、携帯用地対空ミサイルや対空機関砲を含む大型兵器を次々と各回に運び入れ始めた。

 最後のグループは命乞いをする警備員たちを残らず殺して死体を外に蹴り出し、すくみ上がった従業員や買い物客たちを次々と銃口で追い立てていった。また彼らは地下からのグループと合流し、各出入口をレーザー感知式の対人地雷や銃座、速乾性コンクリートなどで手際よく封鎖していった。

 わずか十数分で、未真名駅ビルは陸の孤島と化した。


「……逃げるぞ」

 押し殺した藍の声に、愛花は耳を疑った。「待って。あんなに大勢の人が捕まってるのに……それに撃たれた人だって、もしかしたら助かるかも」

「自分のことだけ考えろ」藍がきっぱりと首を振る。「一番の助けは、ここを出て警察に中の様子を知らせることだろ」

「で、でも、こういう立て籠もり事件には警察の交渉係の人もいるし……それに特殊部隊だって」

 わかってねえな、藍が舌打ちする。「あいつらが〈自殺軍〉なら、交渉には絶対に応じないし、警察の特殊部隊なんか敵じゃねえ。あいつらはほとんどが元軍人や傭兵だし、そもそも交渉して手に入れたいもんなんかねえ。──だから〈自殺軍〉ってんだ」

「そんな……」

 愛花は絶句しながらも、支えを求めて手を伸ばし──たのがいけなかった。金属製のゴミ箱ががらんと倒れ、兵士の一人が耳聡く振り返る。「そこ、誰かいるな!」

「……わ、私です!」

 とっさに愛花は立ち上がる。逃げても撃たれるだけであり、かと言って藍を置いて逃げるつもりもない、となれば行動は限られる。幸い、兵士たちは愛花に注目していて隠れたままの藍には気づいていないらしい。隙を見て階下へ逃れる機会は充分にある……。

「いい心がけだ」覆面の兵士は大仰に肩をそびやかす。「おい、下からの指示はあったか?」

 無線に耳を傾けた仲間が答える。「……封鎖は完了した。適当なのを見繕っていくつか死体を転がせだと。頭をぶち抜いてそこの窓から下に放り投げりゃ、サツの重てえ尻も幾分かは軽くなるだろう、ってよ」

「道理だ」兵士の目が愛花を捉える。「じゃ、まずはこの勇気ある娘さんからだ……引きずり出す手間が省けたな」

 愛花は呆然とした。死は怖くなかった──状況が急すぎて恐怖を感じる余裕がないだけかも知れなかったが。「待ってください。大人しく出てきたじゃありませんか!」

 だからだよ、と兵士が銃口を持ち上げる。「恨むなよ──いや、遠慮なく恨んでくれていいぜ。

 藍の言ったことは本当だった……痺れた頭の片隅で思う。この人たち、交渉で何かを得ようとも、そもそも生きて脱出しようとも思っていない。……。

「……っバッカ野郎!」

 藍の甲高い怒声とともに。

 兵士の側頭部に金属のゴミ箱が命中した。全力でぶん投げたらしい藍が、肩で息をしている。「何してんだよ!? 自分が身代わりになりゃ、俺が逃げられるとでも思ったのか!? 俺が姉ちゃん見捨てて逃げると思ったのかよ!?」

「藍くん!?」

「……この餓鬼!」

 体勢を立て直した兵士の動きは素早かった。逃げる間も与えず思い切り藍の腹をブーツで蹴上げる。少年の軽い身体がサッカーボールのようにバウンドして床に転がり、周囲の人質たちから一斉に悲鳴が上がる。

「見てらんねえな」仲間の兵士が嘆かわしげに首を振っている。「餓鬼のくせに、お前よりよほどガッツがある」

「抜かせ」改めて床で咳き込んでいる藍に銃口が向けられる。「だがまあ、もう少しで殺すのを思いとどまるところだったよ──もう少しでな」

「やめて……」

 声を上げようにも掠れた声しか出ない──だが、身体は動いていた。「やめて、やめ……やめろぉ!」


 さっき藍くんは何て言っていた?

(思うんだけどさ、あんた、余計なこと考えすぎなんじゃね?)

(たまにいるんだよな。頭は悪いわけでもないし運動神経が腐ってるわけでもねえ、でも


 やっとわかった──私に足りないのは集中だ。


「……おお?」

 鈍い音を立てて。

 愛花の側頭蹴りが、兵士のヘルメットを捉えていた。

「今日は本当に調子が悪いみたいだな……まあ、人間誰しもラッキーヒットの一つなら人生に一度くらい繰り出せるからな。だがこのヘルメットは」

「あああああ!」

 雄叫びに近い愛花の渾身の叫びと共に。

 

「な、何だ、何なんだこいつ……!?」

「まだかあああああ!」

 この場に奈津美が、あるいは香里がいたら、自分の目を疑っていたに違いない。

 いやその場の全員が自分の目を疑っていた。速射砲のごとき連続蹴りが寸分狂わない精確さで兵士の頭部に炸裂し続けていた。しかも驚異的なバランスで、片足立ちを保ちながら倒れる気配すらない。

 対して連続蹴りを一方的に浴びている兵士の方は、銃を構えるどころか倒れることすら許されないような有り様である。「お、お……ちょ、やめ……」

 空そのものを切り裂くような気合一閃。

 スカートの裾を翻しながら繰り出した回し蹴りが、兵士を背後の壁に叩きつけた。叩きつけられる前から気絶していたような倒れ方だった。当然、ぴくりとも動かない。

 誰もが呆気に取られていた──〈自殺軍〉の兵士たちも、人質たちも、喘ぎながらようやく顔を上げた藍ですらも。完全武装の兵士が、丸腰の女学生に手もなく制圧されたのだ。軽自動車がダンプカーを跳ね飛ばしたような、悪夢じみた光景だった。

 それでも、立ち直ったのはさすがにベテランの兵士だった。我に返り、それぞれの火器を構えようとする。「撃て!」

 だがその一方で、愛花は場違いな感動さえ覚えていた。。まるで目の悪い人が生まれて初めて眼鏡をかけた時の、その驚愕と感動を何倍にもしたような鮮明さだ。

 それだけでない、思うように身体が動く。これに比べれば、今までなど着ぐるみに包まれて生活していたようなものですらあると思った。

 私立礼峰学園の丈の長いスカートが役に立った。袴のように、足運びを覆い隠してくれる。

 発砲しようとした兵士の懐に一瞬で滑り込んでいた。覆面越しでも、確実な動揺が伝わってくる。

「離れ……」

 もう一つ、この鮮明な感覚で悟れたことがある──

 銃身の長いアサルトライフルが一瞬で手から奪われ、一瞬で側頭部に叩きつけられていた。ヘルメットの耐衝撃機能など気休めにもならない。兵士は声すら上げられず一瞬で昏倒した。

「こいつ!?」

 仲間が倒されるのを見た兵士が発砲するより先に、惜しげもなく投擲されたアサルトライフルの銃身がその顔面を直撃している。

「人質だ! 人質で動きを封じろ!」

 重武装の兵士が手もなく倒されるのを見た平服の仲間たちが動く。他の従業員や買い物客らに銃口を突きつけようとして──全員が甲高い悲鳴を上げて手首を押さえ、銃器を取り落としていた。

 銃器とともに床に転がったのは、ピンを抜く寸前の手榴弾だった。それが全員の手首を砕いていた──そこまではわかる。

 後はもう、戦闘どころか一方的なでしかなかった。無事な方の手でナイフを引き抜こうとした腕の関節が逆に捻じ曲げられ、ボディアーマーを着込んだ肉体そのものが凶器と化して仲間に叩きつけられる。ライフルの吊り紐スリングが喉元に巻きつけられ、窒息寸前で床に頭部を叩きつけられる。数分と経たずに兵士の群れは、息も絶え絶えに突っ伏していた。人質を見張るどころか、まともに立ち上がることさえできそうにない。

「藍くん、藍くん……大丈夫!?」

 いつしか痛みを忘れて見入っていた藍は、愛花に助け起こされてようやく我に返った。「姉ちゃん……」

「よかった……ありがとう。

 奇妙なことに。その言葉を聞いて藍が感じたのは、底なしの穴を覗き込んだような名状し難い恐怖だった。

 愛花の顔と声が二目と見られないほど変貌していた方が、まだ納得できたかも知れない。だがその目尻がやや下がった優しい顔も、優しい声も、あの素っ頓狂でどこかどん臭い、彼が知る叶愛花その本人だった。

「立てる? 今なら逃げられるよ。この人たちを連れて」

 ──重々しい音が、愛花の言葉尻をかき消した。

 どうやら下の階から搬入用エレベーターで何かが上がってきたらしい。振り向いた二人の目に映ったのは、金属の死神だった。

 歩行者ウォーカー、と呼ばれる火力支援プラットフォームだ。その名の通り二脚歩行し、随伴する歩兵のため重火器による支援を行う。戦車からその火力のみを抽出し、より入り組んだ市街地や屋内での戦闘をバックアップするための戦闘機械バトルメック、と言えばわかりやすいか。

 そこまで詳細な軍事知識は愛花も、藍も、持ち合わせてはいない。だがその機体に搭載された火力は、この場の全員を鏖殺してなお余りあるもの、とだけは見て取っていた。

 弾かれたように愛花が身を起こす。「やめ……」

 機銃と擲弾発射機グレネードガンをセットにした複合兵器ステーション、機体前部から象の鼻のように突き出た大型機銃がぴたりと狙いを定める。

「……やめてえ!」

 藍が庇う間もなく愛花が立ち上がり。

 掌をかざした瞬間──彼女の中で何かが弾けた。


 駅ビルを封鎖していた警官たちの間からどよめきが上がる。駅ビルの上階から眩い赤光が迸り、駅ビルそのものを真一文字に貫いたのだ。

「何だ今のは!? 何かの……光線兵器か!?」

「軍の電磁加速砲でも使用されたのか!? いくら民間のビルとは言っても、建物自体を貫通するほどのレーザーなんか持ち込めるのか!?」


 藍は固く目を閉じていた……だが、いくら待っても、苦痛も衝撃も訪れない。

 もう何があっても驚かねえからな、決意しながら恐る恐る目を開けた藍は、またしても自分の目を疑うことになった。

 フロア内に風が吹いていた──壁にマンホールほどの大穴が開き、その向こうにはやや未真名市の市街と、やや傾きかけた日が覗いている。

 そして機銃を向けていたはずのウォーカーは、機体の半分ほどを失くしていた。バーナーで炙りすぎた鉄板のように、その断面はサクランボ色に不気味に輝き、複合兵器ステーションごとざっくりと抉り取られている。危ういバランスを保っていた機体が、力尽きたようにがしゃん、と音立てて崩れた。

 そして愛花は。

「何……これ?」

 愛花は憑かれたように凝視していた──自分の右腕を。

 彼女の右腕そのものが、倍近く膨れ上がっていた。上着とブラウスの袖口は内側からの膨張に耐えきれず弾けている。そして右腕自体は──甲冑を思わせる白銀の輝きに包まれていた。滑らかなフォルムは生物の皮膚とも金属ともつかない質感を持ち、どこか奇妙な艶かしささえ漂わせている。

 彼女は音が出そうなほどぎごちなく首を回し──ようやく、呆然としている藍と目が合った。

「藍くん……どうしよう? 私、どうなっちゃったんだろう? 腕がこんなふうになっちゃうなんて病気、聞いたこともない……」

 すがるような目で見つめられる藍もまた、言葉を失ったまま首を横に振るしかない。実際、こんな状況で何を言えばいいのだろう?

「それとも……が、私の『特別な何か』なの?」


「……新種の〈竜〉だと?」

 金髪の女性秘書から報告を受けた〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスは、わずかな間だが確実に動揺した。「見せてくれ」

「はい」

 女性秘書がタブレットを操作すると、正面モニターに映像が展開した。ヨハネスはしばらく言葉すら発さずに、食い入るように見つめていた。

「これは……なるほど、精神の有り様が肉体を変異させているのか。確かに、瀬川夏姫ともブリギッテ・キャラダインともまた異なる発現の仕方だ」

「はい。ご存知の通り、は瀬川夏姫やブリギッテ・キャラダインをはじめ複数存在しますが、となると現状、相良龍一以外は存在していないはずです」

「そう、、な」ヨハネスは頷く。「あの〈ペルセウス〉にしろ、〈大きいブリギッテ〉がギルバート・アッシュフォードと強引に融合して変貌した、一種の反則技に過ぎない。純粋な〈竜〉と呼べるのは今のところ相良龍一以外にいないわけだ……もっとも」

 ヨハネスの面に自嘲の笑みが揺れる。「環境操作型にせよ肉体変異型にせよ、私たち人間の勝手な分類に過ぎんわけだが。しかしこの少女はおおよそ単体で完結し、なおかつ〈竜〉の異能を危なげなく用いている。彼女には何かがあるのだ、が」

 意を決したように女性秘書が言葉を発する。「いかがなさいますか? 〈四騎士〉はいずれも24時間以内に展開可能です──付随被害コラテラルダメージを考慮しなければ、の話ですが」

「〈四騎士〉はいずれ投入するが、今ではない」思案の後、ヨハネスは口を開く。「当面は〈自殺軍〉に相手させておけば充分だろう」

「彼らに〈竜〉の相手が務まるでしょうか?」

「務まりはしないだろうが、あれはまだだ」ヨハネスは淀みなく応える。「彼らの手に負えなくとも、既にを派遣している。どのみちそれで制圧可能な存在なら、私の敵ですらない」

「かしこまりました。御心のままに、〈犯罪者たちの王〉」

「──それを眺めている間に、人間の一生は長いお祭りの行列のようなものだと僕は思った。種々の違った五彩豊かな衣裳を行列の人々に着せて、あらゆる用意をし準備をするのは運命の女神フォルトゥーナだ。ある者をでたらめに取り上げて、王者にふさわしく装わせる。頭には冠、護衛兵を与え、額には頭飾を巻きつける。しかし、また他のある者には奴隷の衣装を着せる。ある者は美男に作ってやるが、ある者は醜く滑稽にする」

 一通り指示を出し終わると〈犯罪者たちの王〉はもう興味を失ったように椅子へ全身を預け、譫言のように呟き始めた。「だが行列の最中でもある人々の衣裳を変えることがある。はじめに定められたまま最後まで行進することを許さず、女神は衣がえをさせて、クロイソスに奴隷で捕虜の衣裳をつけさせ、それまでは召使の間にいて行列に加わったマイアンドリオスにポリュクラテスの独裁者の衣装に変えさせる。そして暫くの間はその衣裳をつけさせておくが、行列の時期が過ぎると、その時各人は道具を返し、身体ともども衣裳を脱いで、生まれる前の姿となり、隣の者となんら区別がなくなる」


(追記)本話の執筆にあたり『本当の話 ルキアノス/呉茂一・高津春繁訳(グーテンベルク21)』を参考にさせていただきました。

 誤字脱字・誤読等は著者の責任によるものです。

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