エピローグ3 私は、あなたがたの時代に一つのことをする
裸電球が微かな音を立てる中、相良龍一は自分の足元を見つめたまま何時間も動かなかった。
動けなかった。動きたくもなかった。
「龍一……」
「……アレクセイ、おかしいよな。俺は正しいことをしたはずなのに、そのはずなのに……どうしても、そう思えないんだ」
笑顔も、怒った顔も、ちょっと拗ねた顔も、そして一番最後に見た、悲しみに満ちた泣き顔も。その全てが龍一を責め苛む。
そして今の自分には、自分を憐れむ資格すらないと思った。俺は一体、彼女に何をしてやれたのだろう? こんな結末以外、本当に用意のしようがなかったのか……?
アレクセイも自分の言葉を思いつかないようだった──龍一同様、彼なりに噛み締めていたのかも知れない。置き去りにしてきたものの大きさを。
こればかりは〈犯罪者たちの王〉のせいではないよな、と思う。確かに今の自分たちの窮地はヨハネスによるものだが、考えれば暴力に暴力で応える、という選択をした結果が今なのだ。
俺が自分の気持ちを殺していれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
わからない。今となっては詮無きこと、なのかも知れない。
だが。
「……アレクセイ」
「うん」
「何年かかっても、ブリギッテにもう一度会いに行こう」
何年かかろうと。何十年かかろうと。
それだけが今の自分にできる、彼女にしてやれる最良であり、唯一の償いだ。
アレクセイは微笑した。いつもの笑みとはどこか違う笑みだった。「そうだ。それでこそ君だ。相良龍一だ」
龍一の視線が、初めて机の上のファイルに合わされた。血と煤がこびりついた一冊のファイルに。
「あれだけ資料があったのに、結局持ち出せたのはこれだけだったな……」
「ベルガーの遺品だよ。ある意味、彼のおかげと言えなくもない」
龍一は頷いてファイルを手に取る。「とにかく、今はこれだけが手がかりだ」
これを得るために、一体何人の血が流されたのだろう。そう思えば余計無駄にはできない。
意を決して、龍一はファイルを繰り始める。が──すぐに眉根が寄るまで十数秒とかからなかった。「アレクセイ、俺は一体、何を見ているんだ……?」
「わからない……」龍一でさえ初めて見るような彼の困惑の表情だった。「わかるのは、これは偽造でもトリックでもない、本物の〈犯罪者たちの王〉に関する情報というだけだ」
「そんなことってあるか?」手が滑ってしまい、龍一はファイルを取り落とす。中に収納されていた写真がばさばさと溢れ出る。
そこに写っているのは、鉄製のベッドの上に横たわる老人の死体。頭頂部にはほぼ毛がなく、残りの髪はもつれて藁束のようで、全身ががりがりに痩せ衰えた威厳も何もないみすぼらしい老人の死体だ。
だがその死体がまるで複製したようにずらりと並んでいれば話は別だ。何十、何百と並ぶ鉄製のベッドに横たわる、何十、何百というヨハネスの死体写真。
「だって、これを真に受けたら……この世にはプレスビュテル・ヨハネス、少なくともそう名乗る人間が、何百何千単位で存在することになるんだぞ!」
「僕たちは何か、大きな見落としをしていたのかも知れない……」アレクセイが額の汗を拭う。滅多にしない仕草だ。「〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスとは、全世界の殺し屋と銃の密売人と、ハッパ売りの頭目だけではない……それは単なるおまけに過ぎないと、直視しなければならないのかも知れない」
龍一は頭髪を掻き毟りたくなった。「一体何なんだ……〈犯罪者たちの王〉って、一体何なんだ?」
互いに見つめ合ってしまう──もちろん、そこに彼らの求める答えなどない。
「……龍一、一つ話していいかい? 僕の推理、いや、推理とさえ言えないただの推測だ」
「もちろん」
「ありがとう。龍一、僕も君も、今まで何度も君の中の〈竜〉の力を目の当たりにしてきた。艦隊を沈め一都市の半分を灰にする〈竜〉の力を」
「……ああ」今さら言われるまでもない。
「当然ヨハネスが──君の強み、力、そして性格と弱点までも熟知したヨハネスが、それを知らないはずがない。君のルーツとヨハネスの目的、それはきっと密接に繋がっているはずなんだ。君のルーツを解き明かすこと、それは同時に、プレスビュテル・ヨハネスなる人物が誰で、どこから来て、そしてこれから何をしようか、それと無関係ではありえないはずなんだ」
龍一は頷く。筋は通っている。どころか、何一つ間違いがない。「それに関しては、俺に当てがある」
「それは?」
逡巡は短く……いや、今さら何を躊躇う必要があるだろう。むしろそれは、今まで目を背けてきた全てへの問い直しとなるはずだ。
だから、その答えも短かった。
「母に会う」
「〈鬼婆〉マギー、いや〈大きいブリギッテ〉だったか……思えば生真面目な娘だったな」
「生真面目……ですか?」
〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの言葉に、金髪の女性秘書が小首を傾げる。
「だってそうじゃないかね? 相良龍一とぶつかることなくマギー・ギャングがロンドン統一を成し遂げる方法などいくらでもあるし、実際、私は反対などしなかった。だが彼女はあくまで相良龍一との直接対決を望んだ──自分が今まで築き上げてきたもの全てを犠牲にしてまで、だ。しかも確実に勝つために〈将軍〉や〈階梯〉までも巻き込んだ以上、仕掛けはどうしても大掛かりになる。まあ、だからこそ私も手を貸したのだが」
「……なぜ、そうしたのでしょう」
「さあな。ロンドン統一にさほどの価値を見出していなかったのか、あるいは単に自分のルーツと対決してみたかったのか……今となってはわからない上、わかる必要もないことだが」ヨハネスは女性秘書に改めて目を向ける。「ロンドンの現状は?」
「HWの都市戦闘情報、そして試作段階のHB実戦データ、この二つは〈ロンドン・エリジウム〉により充分に収集・解析が進んでいます。もちろん〈ペルセウス〉も含めてです。残骸そのものの回収は不可能でしたが……」
「それくらいはやってくれんと困るな。何せ、敗者復活戦でさえ敗退した連中だ。身ぐるみ剥がれないだけでもありがたいと思ってもらうしかない」ヨハネスは片手を振ってみせただけだった。「それよりも、私にはこちらの方が遥かに重要に思えるがね」
正面のモニターに映し出されたのは、文字通りの更地となった〈ザ・シャード〉だった。
「〈アンドロメダ〉……ですか」
「これに関しては自らの不明を恥じないわけにはいかないな。あれだけ綿密に準備した計画が無惨に失敗し、かつて一銭の価値もないものとして打ち捨てたものが成功していたとは。少なくとも〈竜〉のできそこないでしかない〈ペルセウス〉よりよほど価値がある」
その件ですが、と女性秘書は躊躇いがちに言う。「MI6がブリギッテ・キャラダインに接触を試みています」
「ほう?」珍しくヨハネスは笑った。笑うというより痙攣のような笑い方ではあったが、笑いには違いない。「何とも親切なことだ。現在私が最も関心を寄せている人物を、わざわざ私の元まで送り届けてくれるとは。ありがたくて涙が出そうだよ」
ひとしきり身体を震わせてから、彼は真顔に戻った。「相手は
承知いたしました、と女性秘書は一礼する。「御心のままに」
一瞬だけ彼女の目の中で昏い炎が揺らめいたが、彼は気づかないふりをした。
「本題に入ろう。全体の進捗は?」
「米・露・中、先進諸国の陸・海・空軍のHW占有率が70%を突破しました。日本のみ導入が遅れているのは法整備の問題であり、時間の問題かと。なおこれらのパーセンテージには、先の実用化まで秒読み段階となったHB、HWの司法警察バージョンなどの項目は含まれておりません」
「いささか早いか? ……いや、むしろ頃合いだな」少し考えた後、ヨハネスは頷く。「〈茨の冠〉を
「かしこまりました。仰せの通りに、〈犯罪者たちの王〉」
「……見よ、侮る者たちよ
驚け、そして滅び去れ」
秘書が再び一礼した時には、ヨハネスは既に関心を失ったようにモニターへ向き直り『使徒行伝』の一部── 第13章41節を口ずさんでいた。
「私は、あなたがたの時代に一つのことをする
それは、人がどれほど説明して聞かせても
あなたがたの到底理解できないものなのである」
──なぜこんなことになってしまったのか、レーナ・マクドーマンドにはわからないでいる。
兄の葬儀が一通り済み、母親のポーリーンが手がかからなくなり(それどころかそれなりに地域の顔として存在感を発揮し始め)、自分の身の回りが片付いて、多少余裕ができたというのはある。だがそこからモリィ・スタインフィールドの見舞いに行こうという発想になぜ至ったのか。
相手は生死に関わる大怪我をしたばかりの患者、しかも自分から見れば雲上人の類である。実のところ門前払いを食わされるのではないかと半ば予想、半ば期待していた。
しかしモリィは門前払いどころか、まるで旧知の友のようにレーナの見舞いを喜び、にこやかに病室へ招き入れてくれた。
それだけでなく、
「……なあ、手術したばっかりなんだろ? 寝てなよ。それに林檎の皮ぐらい、私でも剥けるからさ……」
駄目、とモリィは一蹴する。「お客様に林檎の皮を剥かせたなんてバレたら、パパやママに私が叱られちゃう」
歳下の癖にタメ口どころか姉ちゃんみたいな口の聞き方をしやがる、と思う。「あのなあ……その林檎からして、私が送ったものなんだけど」
「あなたがお見舞いにくれたんでしょ? 今は私のだよ。だから二つにしようと四つにしようと、それは私の勝手」
そういう理屈だろうか、レーナが首を傾げている間にも、モリィは林檎相手にナイフを繰って悪戦苦闘している。どう見ても林檎の皮より先に自分の手首を切断しそうな手つきである。しかもナイフを握っている右腕は、内部のアクチュエーターも露わな義手なのだ。
「かっこいいでしょ? サイボーグみたいで」レーナの視線に気づいたモリィは、恥じ入るどころかむしろ誇らしげでさえあった。「お医者さんからもリハビリのためにもできるだけこっちの腕を使えって言われているから、できるだけそうしているんだ。あ、でもどうせならもっと変わった腕にした方がよかったかな? 多機能ナイフとか。あ、いっそのこと先分かれの触手とか」
「はあ?」
レーナは呆れて二の句が継げなかった。大金持ちのお嬢様ってのは皆んなこんな感じなのか、それともこの娘が特別なのか。
「ごめん。ちょっと調子に乗りすぎた」モリィはやや恥じ入ったが、それにしても変なところで恥じ入る娘だとは思う。「私もまだ混乱しているんだよね。自分の腕がなくなるなんて、そうそうあっていいことじゃないもの。今の腕に慣れて、パティシエールになるのは最低5年くらい先延ばしになるし、そうなると最低5年は長生きする必要があって……」
レーナはハンカチを出して、モリィの額の汗を拭ってやった。「別に急いでないから、気が済むまで剥きなよ」
「ありがとう」
──最終的に林檎は一回りどころか三回りほども小さくなってしまったが、モリィは満足したようだった。レーナもまた林檎のご相伴に預かることになった。モリィがどうしても半分食べないと承知してくれなかったからである。見た目より遥かに強情な娘だ。
「レーナは、どうして私のお見舞いに来てくれたの?」レーナは(ほとんど一口で)林檎を食べ終えてしまったが、モリィはまだ口をもぐもぐさせている。「他に大怪我をしている人はたくさんいるのに。当ててみようか──私たちには、共通の知人がいるんじゃない? それもたぶん綴りが『B』で始まる、蜂蜜色の髪が素敵なあの子がね」
至極当然の問いである。レーナ自身、これ以上黙っていることに良心が咎め始めていた。
「……私、あの子に水かけちゃったんだ」
モリィが目を瞬く。「水をかけた? それは何かの喩え?」
「喩えじゃなくって言葉通りの意味。兄貴の弔いに来たあの子に、私は頭に来て水ぶっかけちゃったんだ。一緒に来たでかぶつ二人も巻き込んでさ……」
わお、と彼女は目を丸くする。「やるじゃない。あのブリギッテ・キャラダインに水をぶっかけるなんて」
「そこ褒めるところか? ……でもあの子は怒りも、殴りもしなかった。ただ黙って帰ってった。自分には怒る資格がないみたいな顔で……」
「後悔している?」
優しい目に、優しい声だった。
「……わかんない。でも、私は卑怯者だと思う。兄貴を殺したギャングじゃなくて、お悔やみを言いに来たあの子に水をぶっかけて……」
モリィは一瞬、義手の右手を差し出そうとして、思い直したように左手を伸ばしてレーナの肩をさすった。「今でも、彼女に水をかけたい?」
「ううん……いきなりはかけない。話をしているうちにムカついて、またぶっかけるかも知れないけど」
「だったらそれでいいじゃない。ブリギッテの方だって、あなたの顔を見るなりいきなり殴りかからないと思う。ああ、何なら前もって私がひっぱたいておこうか? そうすれば彼女もびっくりしすぎて、殴り返す気をなくすかも」
「意味がわからないよ!?」
「うん、それは冗談だけど」こんな場合に言う冗談ではない。「それにしても、お見舞いに来たブリギッテがあなたを見てどんな顔するか、それだけでも見ものだと思わない?」
「あんた、意外に意地が悪いね……」
「悪いよ。でもその気持ちに嘘はない。ブリギッテの方だって、それで頭に来たら私をひっぱたけばいいんだよ。怪我人相手なんて関係なしに。頭に来るものは頭に来るでしょう?」腹に一物どころか、一物足らないように見える顔でモリィは笑う。「そこで頭に来て手を出したって、私はあの子を嫌いになったりしない。聞いた訳じゃないけど、ケイトもアンナも、あの子の友達は皆同じだと思う。あの子はもう少し、そのことを思い知ってもいいんじゃないかな? 私たちはあなたが高を括っているよりも、ずっとあなたのことが大好きですって」
「……」
「だからね、私は案外、あなたとブリギッテは上手くいくと思っているの。だって似たもの同士だもの。真面目すぎるの。くそがつくくらいに」
レーナは彼女の言葉を全て飲み込めたわけではない。だが、こういう娘だからブリギッテの傍らにいられるのかな、とは少し思った。
モリィは微笑んでドアの方を見る。「あなたと彼女がどんな話をするのか、本当に楽しみ。ブリギッテ、早く来ないかな?」
(相良龍一の章・アルビオン大火 完)
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