エピローグ2 果てなき夜の始まり

【『アルビオン大火』から一週間後──ハイド・バーク、趙が宿泊中のホテル・バークレー】

「結局ぎりぎりになっちゃった。まったく、余裕を持って到着どころじゃなかったわね……」

 ホテルの中は外と違って暖房が効いており、ブリギッテはようやく息を吐くことができた。安堵できたのは暖房のおかげだけでもなかったが。

 思えば今日は、一日の初めからケチのつき通しだった。まず家を出るのに手間取り(父母の心配もまあ、無理からぬことではあった)アンナたちに口裏合わせを頼み、さらに尾行がついていないか確認するためだけに、真っ直ぐ行けば数十分とかからないホテルに到着するまで蛇行を余儀なくされた。スパイ映画さながらの思考がすっかり身についているのに、我ながら苦笑するしかない。

「龍一たちはもう待ってるでしょうね……」

 ポーターの案内を礼を言って断り──どうせ大した荷物も持っていない──やや小走り気味に指定の部屋へ向かうブリギッテの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。

「龍……」

「……わかった。条件を飲もう」

 どうやらスマートフォンで通話中らしい。ブリギッテは慌てて声を抑える。幸い、龍一は通話に集中しているようだった。

「もし約束を破ったらどうなるか……まあ、念を押すまでもないか。〈ザ・シャード〉の映像は見たな? 

 ──なぜだろう。鼓動が大きく一つ脈打った。

 視線の先で、龍一は通話を切り、スマートフォンを仕舞って溜め息を吐いた。怒りと、苛立ちと、そして諦めの入り混じる表情。いつもの龍一とはかけ離れた表情だ。

「龍一」

「……ブリギッテか」

 なぜか龍一は動揺したようだった。それもまた、彼に似つかわしくない仕草だった。

〈ペルセウス〉との死闘で気力を使い果たしたのだろう、あれから数日の間、龍一は歩くどころかまともに起きることもできない有り様だった。それに比べれば元気そうに見える。だがなぜだろう──ブリギッテには、以前はなかった暗い翳りのようなものが彼の全身にまとわりついているように思えてならなかった。

「ごめんなさい。大事な話だったの?」

「いや……ああ、それなりにな。でももう済んだよ」

 やはり、どうにも歯切れの悪い口調だった。

「行こうか。皆んなも待ってるしな」

「……そうね」はぐらかされたような心持ちになりながらも、ブリギッテは先ほどの言葉を反芻していた。──

「それにしても、皆んな集まってくれるなんて思わなかったわね。ミスター武器商人も、ぶつぶつ言いながら結局は貸してくれたし」

「本当は呑気にパーティなんて開いてる場合じゃない、って言われたら返す言葉もないが……まあ、このメンツが顔を突き合わせるなんて、これが最後だろうからな」

 龍一は苦笑したが、ブリギッテは胸の奥で何かが疼くのを感じた。小さいが、それだけに奥深い痛みだった。──そうだ、これはお別れ会なんだ。


「……今回ロンドンを襲った大乱は、諸君の尽力で鎮まった。だが我々が救おうとしたもの、その全てを救えたわけではない。無辜の市民、そしてそれを守ろうとした警官が大勢命を落とし、我々が直接手にかけた者もまた多い。たとえそれが銃と暴力に生き、そのために死んだ者たちだとしても、我々が結果的に彼らの更生の機会を永遠に奪った事実に変わりはない」

 音頭を頼まれたオーウェンの口上は勇壮さとは程遠い、むしろ沈痛で、自らに言い聞かせるようなものだった。ブリギッテはディロンのことを思い出して目頭を押さえ、タンは既にしゃくり上げてフィリパに肩をさすられていた。アイリーナや趙でさえ神妙な顔をしている。

「そして、我々はそれについて、世の審判を仰ぐこともまたできない。なぜなら我々の戦いは、おそらくは誰にも語ることなく、墓の底の底まで持っていく類のものだからである。せめてそのちっぽけな誇りと恥を胸に、今日を、そして明日を生きていこうではないか。乾杯!」

「乾杯!」全員の声が重なった。

 後は全員が和やかに飲んで食うモードに移行した。皆、全身の生傷もまだ癒えてはいなかったが、それでも性質の悪い風邪から回復したような顔で互いを讃えあい、感謝の言葉を伝え合った。

「改めて礼を言うよ。まさか部屋を貸切にしてくれるとは思わなかった」

「誰かに頼まれたわけでも金もらったわけでもねえのに、あそこまでこの街が月まで吹っ飛ぶのを止めようと死に物狂いで戦った奴らに何もしないほど、俺だって薄情じゃねえよ」オーウェンの感謝に、趙は音立ててグラスにウィスキーを注いで応じた。「それより飲め。俺のロンドン進出の夢は本当に夢になっちまったんだぞ。こいつは俺の夢の弔い酒なんだ」

「付き合うよ。私でよければね」

「よくないなんてことがあるかよ。……奥さんの仇を討ったんだってな。立派じゃねえか」

「……どうなんだろうな。昔やるべきだったものを今片付けた、と言えなくもないからな」オーウェンとしても、思い出にするには生々しすぎる記憶ではある。「むしろ今は……途方に暮れているよ。あれだけのことをした私が、今後も警察にいてよいのかと。いたとして、何ができるのかと」

 グラスを口に運びながら趙は横目になる。「別にいいんじゃねえのか? お咎めがなきゃわざわざ自分から言う必要はねえだろ。世の中そんなに白黒つけられる物事ばっかでもねえんだ。いや俺自身、今回はそれを思い知ったけどな」

「……ありがとう」

「頭下げんな。くそ、サツ相手にカウンセリングするなんて俺もどうかしてるぜ。代金なんて請求しないから安心しろよ」

 オーウェンは苦笑。「そうだな。私も次は君の違法取引に目をつぶる気はないから安心したまえ」

「ほざいてろ」

「皆さん、すっかり仲良くなったんですね」壁際でグラスを口に運びながら、ブリギッテはくすくす笑う。もちろん中身はアルコール類ではなくレモネードである。「少し前までは想像もしませんでした」

「全くだ。おかしな光景だが、よく考えれば私もそのおかしさの一人だな」隣でフィリパが苦笑する。子供の前で醜態は見せられない、という理由で彼女は水しか飲んでいなかった。そういう彼女の生真面目すぎる生真面目さは、ブリギッテも嫌いではない。実際、死線を共にくぐり抜けた後では彼女やアイリーナへのわだかまりはほぼなくなっていた。「一番の驚きは、ここまでアイリーナがついてきたことだよ。愛想を尽かされてもおかしくないと思っていたのに……人はわからないな」

 フィリパの視線の先ではテーブルが片付けられ、龍一とタン、そしてアイリーナとオーウェンが踊っている。アレクセイあたりが気を利かせたのか、優雅な舞踏曲まで一緒に流れ出した。意外に見栄えのするアイリーナとオーウェンはともかく、龍一とタンの組み合わせはてめえみてえなでかぶつ相手だと「高い高い」されてるみてえで落ち着かねえ、と一方が一方に文句をつけている。

「長年の相棒なのにですか?」

「長年の相棒でもだよ。確かにそれなりには長いが、それでも互いに話さなかったことはいくつもある。少し前まで、彼女はここが出身地だなんて一言も話さなかったんだ」

 ついまじまじと凝視してしまった。「ロンドンが……ですか? そんなこと、アイリーナさん一度も……」

「話したくなかったんだろうな。彼女は今の君よりずっと幼い頃に、目の前で母親を殺されているんだ。移民排斥運動で」

「……!」

 やりきれないようにフィリパは目を閉じた。「すまない。これ以上は、彼女の許可がなければ話せない」

 ブリギッテはそっと息を吐いた。「……私、以前なら話をすることもなかったような人たちに助けられました。何度も」

「私もだ」

 もしかすると、ブリギッテは考える。あの血で血を洗う戦いもまた、これから始まろうとしている全ての始まりにすぎないのかも知れない……。

「ありがとう、フィリパさん。私、ようやく自分のしたいこと、するべきことがわかった気がします」

「うん……?」

 怪訝なフィリパの視線を引きながら、ブリギッテは歩き出した。タンに脛のあたりを蹴られていた龍一に話しかける。

「龍一」

「ああ、ブリギッテ、どう……」

 自分から手を差し出していた。「私と踊ってくれる?」

「あ? ああ、もちろん……」龍一は一分間あたりの瞬きの数を倍にしながら、それでもブリギッテの手をおずおずと取った。これほど力強い男が、いつになく気を遣っているのが嬉しいしおかしい。「でも俺、踊りなんて小学校以来まるで縁がないよ」

「曲に合わせて身体を動かせばいいのよ。任せて」

 周囲の拍手と口笛に押されるように、二人は中央へ進み出た。

 実際、踊りに縁がないことなど何一つ問題はなかった。最初のステップで危うくブリギッテの足を踏みそうになっただけで、すぐに龍一の動きはブリギッテの、そして彼女の動きは龍一のものとなった。相手の動きを読み、呼吸を読む。あれほど格闘技に長けた者が踊りだけできないはずもない。

 急に、掌の下からシャツを通して伝わってくる彼の体温と筋肉の脈動を感じた。自分がひどく脆く華奢に感じられることに、彼女自身が戸惑った。龍一の目から、私はどんなふうに見えているのだろう?

 龍一の顔を見上げた。自分の運命を変えてしまった青年の顔を。彼の目にもまた自分が映っているはずだった。

 曲が止み、またしても拍手と口笛が沸き起こった。

 趙はしきりに頷いている。「俺みてえな無学者にはダンスなんてわからんが、大したもんだぜ。世界一のダンサーの弟子の弟子の、そのまた弟子の弟子ぐらいには上手かったんじゃないか?」

 それは褒め言葉なのかね、と隣でオーウェンが呆れている。

「ブリギッテ、俺は」

「聞いて、龍一」彼が何か言い出す前に──聞くのが怖くて、自分から口を開いていた。

「笑うかも知れないけど、私。初めて誰かに必要とされた気がしたの。今までだって好きと思える人、尊敬できる人は何人もいた。だけど今回のように、自分の力を限界まで出し尽くして、そして私がそうできる人間なんだって認めてくれた人は誰もいなかったの。誰もよ」

 龍一の手を握り締めた。一瞬だが確実に、彼は動揺した。「私も連れて行って」

 なぜだろう。龍一の顔が耐えがたい苦痛を受けたように歪んだ。胸を刃物で貫かれたように──いや、彼ならたとえ本当に胸を刃物で突き刺されても、そんな顔はしないだろう。

「それは……それは、できない」

 鏡を見なくても、自分の顔が一瞬で失望に塗り潰されたのに気づいた。「どうして?」

「どうしてもだ」

「答えになってない!」自分の大声に、周囲の全員が会話をやめていた。全員がこちらを見ているのはわかっていたが、なおのこと声を抑えられなかった。「1時間や2時間で考えたことじゃないのよ。ちゃんと、言葉にして説明して!」

「検討するまでもない馬鹿話だろう。俺たちはお尋ね者なんだぞ。君までそんなところに堕ちる気か?」

「お尋ね者が何よ! 今までだってそうじゃない!」

「今度はそうはいかない」龍一もまた、声を抑えるだけで精一杯の様子だった。「凄腕から単に名を上げたいだけの馬鹿者まで、世界のどこへ行っても連日連夜追いかけ回されるんだぞ。君をそんな人生に巻き込めって? 両親もお友達もいる女学生の君を? 俺はどうしようもないごろつきだが、それがわからないほど馬鹿じゃない……!」

 頭を冷やす必要を感じた。ここが分水嶺だ。「ナツキという人のことがあるから?」

 龍一の顔色が変わった。「どこでその名前を?」

 すまない、とアレクセイがいつになく遠慮がちに言った。「僕が話した。聞かれはしたけど、話したのは僕だ」

 龍一は何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。怒るに怒れない、という顔だ。

「〈犯罪者たちの王〉に捕まっているんでしょう? だったら私も行く。一緒にその人を助けるの」

「夏姫のことは、君には関係ない」

「関係はある。龍一の大切な人なんでしょう? 私と会う前の、大切な相棒パートナーなんでしょう?」

「……共犯者パートナーとしての責任がある。それだけだ」

 愛しているから、と言われた方がよほどましだった。「それでもいい、連れて行って! 私は私がやりたいこと、やるべきことを本当に見つけたのよ!」

「ブリギッテ……!」

 頭に血が昇っていなければできない勢いで彼女は龍一に掴みかかっていた。左右からアレクセイとフィリパが抑えようとしてはいたが、それすらもほとんど目に入っていなかった。「私も連れて行って!」

 物心ついて以来、これほどの声で叫んだことなどなかった。「置いていかないで!」

 ──首筋に冷たい感触を覚えた。既視感があった。

 アイリーナの手にした注射器が、首筋に突き刺さっていた。

「……スイートガールちゃんらしくないねー。いつもなら、絶対私に背後は取られなかったでしょー」

「いや……」

 薄れゆく意識の中、龍一がこちらに手を伸ばそうとして……凍りついたのが見えた。

「……さよなら」


 目を開くと彼女はソファに横たえられていて、皆が見下ろしていた。タンがおずおずと言う。「ブリギッテ……大丈夫か?」

 答えず、弾かれたように身を起こす──アレクセイと、龍一の顔だけがなかった。

「二人は行ったよ。こうなった以上、そうするべきだと私から言った」オーウェンはしきりと額を擦っていた。「こんなことになるとは。すまない」

「……あいつらも馬鹿だよ」趙もいつになく覇気のない声で漏らした。「面倒見切れねえんなら、最初からコナかけなければいいだけのこった」

 先ほどまで室内に漂っていた幸福な空気は跡形もなく消えていた──自分がそうした。生まれて初めてかも知れない恥辱が彼女の全身を震わせた。そして、恥辱に震えるだけでは済まないのもわかっていた。

「ごめんねー、」アイリーナは叱られた子供のようにうなだれていた。「腹が立つんなら、殴ってくれていいんだよー。それだけのことはしたものー……」

 できるはずがなかった。

 声もなく、ブリギッテは泣き続けた。泣き止むまで、全員が身じろぎもしなかった。


 それからブリギッテはまた一人になった。


 それから数日──後から思い返しても、その間のことはあまり記憶にない。思い出したくもない、と自分でも思う。

 ブリギッテは抜け殻となっていた。身の回りの全ての人も物も、そして自分も、書き割りじみた色褪せた背景に思えて仕方がなかった。成績は落ち、アーチェリーの成績も落ちた。オリンピックへの出場も、女王陛下への謁見すらどうでもよく思えた。自分はやるべきことを、やりたいことを見出したのに、それそのものに置いていかれたのだ。この先の人生、何を励みにすればいいというのだろう?

 両親も、ケイトやアンナも、何かと心配してくれはしたが自分でもどうにもならなかった。その優しさや気遣いに応えられない自分が恨めしく、恨めしい自分がまた惨めだった。

 右腕を喪失し入院していたモリィの容態が回復に向かっているとは聞かされた。既に義手を装着してのリハビリには入っているという。

 正直、迷った。他人を見舞えるような精神状態なのかは自分でも大いに疑問だったが、結局は見舞いに行くことにした。彼女と無性に話がしたかった。話をすればどうにかなる、そんな気がした。

 病院へ向かう途中、人通りの少ない路地に差し掛かった時。一台のバンが前方で静かに停車した。何の変哲もないバンだったが、何かが彼女の第六感に引っかかった。

 果たして、バンから降りてきたのは黒い吊るしで身を固めた、無個性な顔立ちの男たちだった。マギーの一味には見えない。とすると〈将軍〉の残党か。

 来たか──知らず笑みを浮かべて、ブリギッテは鞄から特殊警棒を引き抜いた。もしかすると自分はこれを待っていたのかも知れない。どうにもならない悲しみと自責に苛まれているより、それを目の前の敵に叩きつけた方がよほどましだった。

 音立てて伸ばされた警棒より、むしろ彼女が全身からみなぎらせる気迫の方に、素人ではないはずの男たちが確実に動揺した。

「双方、そこまで」

 静かな声が響き、車内からもう一人が降り立った。顔立ちよりも迫力ある胴回りの方が目を引く中年の女性だったが、初対面のはずなのに、なぜかそうは思えなかった。

「娘がよくあなたのことを話していた。ブリギッテ・キャラダイン」

「あなたは……」

「アンナ・キャボットの母親、と言えばわかるか。カーラだ。MI6の局長などをやっている」

 思わずまじまじと顔を見つめてしまった。そもそも、あのアンナの母親がMI6務めなど、手の込んだ冗談としか思えなかった。確かに役所勤めとは聞いたことはあったが。

「娘にはMI6のことは話していない。実際、その必要もないだろう」

 よく見れば目や口元などに面影があるように見える。十数年後にはあのアンナがこうなる可能性もあるのか、と思うと複雑な気分にはなるが。

「MI6はそんなに人材不足なのですか? それとも単に局長職が暇なだけ?」

「私が直接出向くのが最適と判断しただけだ。親友の母親が出張ってきただけで絆されるなどと期待するほど、私も愚かではない」

 それはブリギッテも同様だった。親友の母親というだけで気を許すほど、彼女も単純ではない。

「乗りなさい。話したいことがある。危害を加えるつもりはない」

「……そう言って危害を加えられなかった覚えがないのだけど」

 頑丈そうな女の口元を笑みがかすめた。「その歳でずいぶんと人間不信のようだ。まあ、無理もない。だが君も聞きたいことがあるのではないか? 相良龍一について」

 抗えないものを感じた。まだ生々しい苦痛と共に。「……聞くだけ聞くわ」

 その辺りを流してくれ、とカーラが命じ、運転手は黙って頷いた。

「国の機関が、今さら何を? 目撃者の口を封じるつもりでなければ」

 想像以上に辛辣だな、と女は呟く。「我々とて、〈将軍〉と〈鬼婆〉の企みを黙って看過していたわけではない」

「そうでしょうね。私たちの頭上に特製の爆弾を落として粉微塵にしようとしたくらいですものね」声が鋭くなったが、止めるつもりはなかった。

 運転手がちらりとこちらを見たが、カーラは黙って首を振った。「聞きなさい、ブリギッテ」

「この国に生まれたわけでもない人たちが全身血まみれになって戦っていた間、あなたたちは他に何をしていたの? 膝の上の猫を撫でるのに忙しかった?」

「聞け」

 女の声には、ブリギッテの血を一瞬で冷ますだけの凄みがあった。「私たちにはそうできない理由があった。あの〈カロン〉に積まれていたのは〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスに関する資料だけではない──〈竜〉や〈ペルセウス〉に代表される、物理法則すら歪める魔法じみた超技術。この世のものではない技術──異常技術アブノーマルテクノロジーに関するあらゆる資料だったのだ。〈将軍〉のクーデターだけで済めばまだいい……我々が恐れたのは、〈鬼婆〉やベルガーの手でそれが世界中にばら撒かれること。使だ。最悪、ロンドンの核焼却すら犠牲として甘受しなければならないと我々は覚悟していたし、首相も、女王陛下もそれは黙認してくださった。このロンドンが、英国が、世界に撒き散らす死と害悪の根源となる、それだけは阻止しなければならなかった」

 ブリギッテは座り直した。怒りは鎮まらなかったが、女の話を聞こうとは思えるようになった。

「そして君のよく知る、相良龍一もまたその条件を呑んだ」

 鼓動が一つ、大きく波打った。

「〈家〉の行ってきた非合法人体実験を含む、いかなる責任も問わない。代わりに、ブリギッテ・キャラダインへのいかなる干渉も今後はしない……その線で彼と合意に至った」カーラは苦笑した。「もっとも、ずいぶんと嵩にかかって脅されたがね」

 ──〈ザ・シャード〉の映像は見たな? 

「我々もまた、相良龍一とその一党の出国を黙認した。出国後のことまでは責任を持てないが、まさか公の場で裁くわけにも、かと言って勲章を授与するわけにも行かない以上、ぎりぎりの譲歩だ」

 そこでカーラは重苦しい溜め息を吐いた。「彼が都市を灰燼に帰す怪物だろうと、それについて気が咎めないでもないな」

「どういうこと? 龍一たちに何をするつもり?」

。考えてもみたまえ、あれほどの存在を各国が見逃すと思うかね?」

「……!」

「相良龍一の首にヨハネスが賭けた賞金は撤回されたそうだが、結局は同じことになるのかも知れないな。何しろ大っぴらではないにせよ、犯罪組織だけでなく国家そのものが彼を追い始めたのだから。もはやこの地球上に、彼の安寧の地などない」

 龍一……龍一!

 ブリギッテは固く目を閉じた。そのために、私なんかのために、どれほどの代償を払ったのか、あなたは理解しているの……?

 自分の卑小さが改めて身に沁みた。何より、龍一の、アレクセイの、その思いを知っていて黙っていたオーウェンやフィリパ、アイリーナたちの優しさが一層こたえた。あの人たちに、自分は何を返したというのだろう?

「……でもあなたたちは、こうして龍一との約束を反故にしている」ブリギッテは顔を上げた。自責の念は消えなかったが、そうばかりもしていられないという思いがあった。「それだけの理由があるのね?」

 カーラは頷く。「話が早くて助かる。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスは国家の癌だ。『世界的な犯罪結社によるあらゆる犯罪の制御』など、今となっては狂気の沙汰でしかない。たとえ彼が天使のごとき心の持ち主でも、私たちは忘れるわけにはいかない──もう少しで、ロンドンは月まで吹っ飛ぶところだったのよ」

 頷いてみせる。「事実の確認でしかありませんね。それで?」

「我々は、ヨハネスの組織に潜入するための人員を探している」

 来た、と思う自分を鎮めなければならなかった。「でもMI6なら、それに足る人員はいくらでもいるのでは?」

「ジェレミー・ブラウンも、私の最も優秀な部下の一人だった」

 無関心でいられる名前ではない。「彼は……生前に一度も会ってはいないけど、会ってみたかった。残念だわ」

 カーラは目を閉じる。「彼だけではない。今まで何人もの人員を送り込んだが、帰還した者は皆無だった。私たちは全く違ったアプローチを編み出す必要に迫られている。異常技術を応用した潜入方法も既に検討中だ」

 はっきりとカーラを見据えた。「……それを私に?」

「むしろ君以外にない、と私は判断した」カーラもまた臆することなく見返す。「それに足る運動能力も技能も、君は持ち合わせている。それに、必要なのはむしろなのだ」

 ブリギッテの動機。今さら確かめるまでもない。

 ──わかっていた。ロンドン中心部を灰燼に帰し、核すらも無効化する存在を英国政府そのものが見過ごすはずもないのだ。世界各国が彼に注目しているのならなおのこと──ブリギッテ自身に手出しできなければ、必然的に龍一が次のターゲットとなる。MI6が自分に目をつけたのも、その尖兵としてに他ならない。

 それでもいい。

 それでも!

 深く息を吸い込んだ。「やるわ。いつ始めればいい?」

「今すぐにだ。今からこの足で、ただちにロンドンを発ってもらう。対外的には海外留学ということになるだろう。当然、本日以降の予定は全てキャンセルしてもらうことになるが……」

「それでいい」モリィの顔を思い浮かべて胸の奥が微かに痛んだが、それだけだった。我ながら薄情だと思っても、やめるつもりはない。

 窓の外を流れるロンドンの街並みを見る。これが最後になるかも知れないと思いながら。そう思いながら、自分の「幼年期の終わり」はこれで終わったのだ、と思った。

「……だって、あなたのせいじゃない」

 カーラが少しこちらを見たが、ブリギッテは黙って胸中で呟き続けた。何もかも、何もかもあなたのせいじゃない。


 ──それが想像を絶する苦難の始まりに過ぎないことを、彼女はまだ知らない。

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