エピローグ1 宴の後
【『アルビオン大火』から半月後──ウッズワース警察病院、1206号室】
オーウェンはベッドに横たわるランディを黙って見つめていた。あれほど血色のよかった元相棒の頬はげっそりと痩け、シーツの上からわかる身体の膨らみも半分程度しかない。何より陰鬱な気分になるのはその目だった──ランディの両目は、包帯と医療用ゲルで幾重にも包まれていたのだ。
「……オーウェンか?」
少なからず驚いた。「そうだ、俺だ。よくわかったな」
以前に比べれば囁き程度にしか聞こえない声で、それでもランディは笑った。「わかるに決まってるだろ。何年相棒やってると思ってんだ?」
つられて笑うしかなかった。何せオーウェンの自宅謹慎の原因が原因なのだが、それを蒸し返せる気分でも、そんな立場でもない。
黙っていると向こうから聞いてきた。「なあ、街は……今のロンドンはどうなってんだ? 看護師に聞こうにもあの女ども、俺のイチモツが尿瓶から外れないようにするので頭がいっぱいみたいでな」
「お前が思っているよりずっとひどいよ。だが、まだ今のところ……月まで吹っ飛んではいない」
「俺たちの巣は?」
「
「そうか。じゃ、戻る頃に俺のデスクはないな」
オーウェンは思わず身を乗り出しかけて、座り直した。「自棄になるなよ。お前が必ずしも罪に問われるってわけじゃないだろう」
「数日前にな、女房が来たんだ。ただの見舞いじゃないぜ、ベッドから出られるようになったら離婚だとよ。今までさんざん人の上がりで食っておいて……と言いたいところだが、まああいつにも言い分はあるんだろう」
返す言葉がないオーウェンに、ランディは笑ってみせた。他に表情の選びようがない類の笑いだ。「笑えよ。俺の守りたいものは、ずっと前からなかったのさ」
「……俺からもできるだけ口添えはするつもりだ。お前が罪に問われるくらいなら、ロンドンの警官は半分ぐらいが犯罪者になっちまう」
だが内心で難しいだろうな、とも思っていた。マギーの支配下を脱したロンドン警視庁は、今やマギーの「M」の字すら消し去りかねない勢いだ。よほどの後ろ盾がない限り、その粛清の嵐を無傷で生き延びられる可能性は低いだろう。
「違うんだ、オーウェン、違うんだよ……」
「何が?」
シーツの上からでもはっきりわかるほど、ランディの身体が震え出していた。「お前とスージーがあの子を保護した夜のことだ。あのベルガーとかいう男に聞かれて、俺はお前たちの位置情報を漏らしたんだ……ただ単にヤキを入れて小娘を連れ去るだけだなんて言いやがって。まさかお前が大怪我し、スージーが……死ぬなんて思わなかった」大男は、子供のように啜り泣いていた。「俺が、俺がお前の女房を死なせたんだよ……」
オーウェンは一瞬だけ拳を握り締め──そして解いた。それだけの激情も、今の自分からは去っているのに彼は気づいていた。
「せめて内務監査の奴らには正直なことを話せよ。お前のキャリアがどうなろうと、その後の人生は長く続くんだからな」
「オーウェン……俺を責めないのか?」
「責めてどうなる?」他にどうすればいいのだろう? オーウェンは立ち上がった。自分でも呆れるほどふやけて優しい声が出た。「相棒だからな。お大事に」
他に何が言えただろう?
病院の廊下を歩いている間、患者の容態が急変したのか血相を変えて走っていく看護師たちと数度すれ違った。
オーウェンは廊下の窓から見える、破壊された街並みを見つめた。ロンドン市内には今だ戦闘の傷跡が残り、交差点に置かれた花束も生々しい。だが街では再建のためのラッシュが既に始まっている──少なくとも、月まで吹っ飛んではいない。
しかし以前なら確実にあったはずの、あのアテナテクニカのロゴは再建に関わる企業の中には一つもない。『アルビオン大火』の責を問われ、アテナテクニカの関係者には激しい批難が連日浴びせられている。その資産の大半は被害者たちへの賠償に当てられ、今後も司法の厳しい監視下に置かれることになる。企業体としては死に体も同然だった。
クーデター部隊の指揮官も残らず逮捕され現在取り調べ中だが、大半の兵士は罪を免れ原隊に復帰している。
正義が為された、とは思えなかった。むしろクーデター部隊も、アテナテクニカも、そしてマギー・ギャングも、ただ単にその役割を終えただけなのではないか。用が済んだらもう要らない、とばかりに。
しかしその後に来るものは何なのだろう。あの〈竜〉や〈ペルセウス〉のような怪物──単体で都市部を灰燼に帰せる、怪物離れした怪物どもの闊歩する世界なのではないか。それが〈犯罪者たちの王〉の目指すものなのだろうか? 空調とは無関係の寒気に、オーウェンは身震いする。
(……今何とおっしゃいました? 不問とする、ということですか? 私の一連の自警団的……いや、戦闘行為を?)
数日前、警視庁オフィスに呼び出されたオーウェンを待ち受けていたのは彼自身半ば覚悟していた逮捕令状ではなく、定年間際のくたびれたキャリア一人だった。マギー・ギャングとの繋がりの薄さを見込まれて担ぎ出された者の一人だ。
(不問も何も、君を罪に問う理由がないという話だ)男は外見通りのくたびれた口調で言った。(〈将軍〉エイブラム・アッシュフォードも、〈鬼婆〉マーガレット・ギルステインも、SASにより無力化され、核は回収された。なお当然ながらその中に、ロンドン警視庁の警官は一人として参加していない。内務監査部もその線で納得している。内心までは知らんが)
あまりのことにオーウェンは噴き出してしまった。(馬鹿げています。私があなたなら、私の行動はいかなる理由があれ警官の規範を逸脱していると判断しますよ)
(私が君なら、まあ放っておくね。今回の『大火』でロンドン警視庁どころか、英国警察自体が大きなダメージを受けている。マギーの影響力を跳ね除け続けた警官は貴重だ──しかもそれが優秀な警官とあってはなおさらだ。それを罪に問うたとあっては、今度は私自身が火炙りにされる)
(ずいぶんと情実の入り混じった話に聞こえますが)
(もちろん、他言無用、が唯一の条件だ)男は皺の寄った瞼の下からオーウェンを見据えた。彼も伊達にマギー・ギャングと今回の内務監査、二重の嵐を生き延びた男ではないのだろう。(もし君が一言でも外部に漏らせば、我々は君を肉体的、社会的に破滅させるために、あらゆる手を尽くすだろう)
苦笑を禁じ得なかった。またしても相互確証破壊だ。(誰があなたにそう言えと命じたんです? 新しい警視総監殿ですか?)
(まさか。すげ替えられたばかりの彼にも私にもそんな権限はないよ。もっと上だ)
(首相ですか?)
(……もっともっと上だ)
(
答えがないのは「そうだ」と言ったのも同然だった。
(……わかりましたよ。ですが、これだけはお礼と同時にその方にお伝えください)相手がどれほどやんごとなきお方だろうと、いやだからこそ言っておかねばならないことはある。(この数年、私もあなたも、沈黙を守ることで市民をマギーの暴虐に晒し続けた点では同罪だ。もしあなたがマギーに取って代わるだけなら、私はいつでもあなたとの約束を反故にする、とね)
頷きが返ってきた。(何のことかはわからんと言いたいところだが、覚えてはおこう)
妻を殺したベルガーは死んだ。〈将軍〉も〈鬼婆〉も死んだ。これ以上はない形で仇を討ったはずなのに、実感は欠片も湧いてこない。
自分を警察に留める理由を失くしていることに、オーウェンは既に気づいていた。
「待たせたな」
自分の車に戻ったオーウェンを、助手席のタンが出迎えた。「うんにゃ。ダチの見舞いなら当然だろ」
ダチか、オーウェンは苦笑する。「今でもそう思っていてくれればいいんだが」
「違うのか? ……まあいいや。おっさんは警官だし、なんかややこしい事情でもあるんだろ」
「勘繰りすぎだよ」こうも気を遣われているのを見ると、今の自分は相当へこんで見えるらしい。「行こう」
「おう」
オーウェンは車を出した。
「君の今後だが、以前の脱走に関しては事情を考慮するとの形で話がまとまった。職員の虐待が日常化していたのも確認したからな」
「……うん」
心なしか、タンの反応が暗い。
「大丈夫だ。君が思っているよりこの世にはまともな大人が大勢いる。それはもうわかっただろう?」
「……そのことなんだけどさ」意を決したようにタンが口を開いた。「俺、好きな子がいるんだ。いや、いたんだ」
「ああ」誰と聞くのは野暮の極みだろう。
「でもその子……もう好きな奴がいたんだ。好きな奴がいて、俺のことは目にも入ってなかったんだ」
「ああ」
「つくづく思ったよ。今の俺じゃ駄目なんだって。だからよ、俺を……おっさんの養子にしてくれないか?」
自動運転にしておけばよかったかな、と一瞬思った。混乱しすぎて運転の方がお留守になりそうになったからだ。「どうしてそんな結論になるんだね?」
「俺、おっさんみたいな親父がいい。俺とお袋を捨てた親父じゃなくって」
ハンドルを握りながらオーウェンは口元を曲げざるを得なかった。タンが自分をそういう目で見ているなどと夢にも思わなかったからだった。いや、と彼は自問する。そもそも俺がタンを辛い浮世に晒され続けた浮浪児として以外に、「人間」として見たことがあったのだろうか?
計算が目まぐるしく頭の中を行き交い、そして彼はその全てを放り投げた。自分の過去、現在、そして未来──確かに馬鹿げた話ではある。だが世界が更なる狂気に陥ろうとしている時、今からしようとしているのはそれほど馬鹿げた話だろうか?
「わかった。後で話そう──長い長い話になるからな」
スージー、俺は警官を続けてもいいのかい?
──もう自分でもわかっているじゃない。誰かがそう笑った気がした。
人生は何度も台無しになるが、その後の方が長いのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます