アルビオン大火(18) Last Unhuman Standing
〈ザ・シャード〉への道中でも、襲撃は止まなかった。フィリパが駆る真紅のスポーツカーは今や銃撃で凄惨な見た目になりながら、狂馬のごときエンジン音を轟かせて走っていた。並走するバイクから火炎瓶を投げようとしたギャングが額を撃ち抜かれて火達磨になり、横転したバイクと人体が路面を幾度も転がった。
「見えてきたぞ……何だありゃ!?」
転げ落ちそうなほど身を乗り出してPKM機関銃を撃ち続けていた趙が目を剥いた。ひたすら眼前の脅威を排除することにのみ注がれていた一同の視線は自然に前方の〈ザ・シャード〉へと向く。
全員が自分の目を疑った──〈ザ・シャード〉の上半分は悪意を感じるほどねっとりと黒い暗雲に包まれており、時折、その中で黒い稲妻が激しく閃いている。自然界にはありえない眺めだ。
アレクセイ、それにアイリーナとフィリパが顔を見合わせる。
「あれと同じものを、〈海賊の楽園〉で見たよ」
「てことは……もう一度あの地獄を拝めるってわけでしょー」参ったねー、とアイリーナが首を振るが、目は笑っていない。
フィリパがハンドルを握り直す。「今さら退けないさ。準備しろ」
「なあ、あんたら本当にあそこへ突っ込むつもりかよ?」
「核があるからな。となれば、ベルガーもいるだろう」
「そんな『そこに山があるからだ』みてえな調子で言われても困るんだよ!」
「今のあいつは、目覚まし代わりに核をぽんと言わせかねないからねー。こっちの刑事さんも言っていた通り、生きて引き渡されるよりは死体で引き渡された方があいつの祖国も喜ぶんじゃなーい? 誰も困らないし、本人だって死んでるから気にしない。Win-Winよー」
「ミスター武器商人こそ逃げないのかね?」
「ここまで来てそりゃねえだろう。第一、俺の図体で核爆発からどう逃げろってんだよ?」
フィリパが微苦笑する。「確かに、聞くまでもなかったか」
スポーツカーは地獄から来た戦車のように突進し続けた。〈ザ・シャード〉まではもう1キロを切っている。
天地がひっくり返る感触と壁に激突する衝撃。とっさにブリギッテをかばえはできたが、確実に数秒間は気絶していたはずだ。
「……一! 龍一!」
ブリギッテの叫びでようやく意識が戻ってきた。〈ザ・シャード〉の外壁をぶち抜き、屋内に転がり込んだらしい。
フィットネスクラブだったのだろう、天井近くまである姿見に四方を囲まれたホールだった。人間には広いが、〈竜〉にとっては狭い。高価なトレーニング機器が〈竜〉の体躯で紙細工のように潰れているのを見て、龍一は肝を冷やした。コーチも客も一人残らず逃げ出していたのは幸いだった。
『ああ、ブリギッテか。大丈夫だ、俺も君もまだ粉々になってないからな……』
「何を寝ぼけたこと言ってるの! いいから起きて!」
まだ傾いでいる視界にあの白銀の甲冑騎士──〈ペルセウス〉の姿が映った。何もない空中を、まるで見えない階段でもあるように危なげない足取りでこちらに歩いてくる。
初めて見るアーティファクトだったが、〈竜〉の知識が脳内に直接転送でもされているのか、それの「機能」を龍一はすぐに理解できた。羽の生えたサンダル、自在に空を駆ける反重力ブーツ。
とっさに〈礫〉を空中から召喚し、投擲。内側から対象を破壊するはずの投擲物は、しかし〈ペルセウス〉がかざした盾によって凍りついたようにぴたりと動きを止める。
『やりにくいでしょう?』笑いを含む〈大きいブリギッテ〉の声。『いつも自分がやっていることを、やり返される気分はどう?』
『ブリギッテ、行ってくれ』思わず口にしていた──彼女をかばいながら戦える相手ではない。
「でも」
『自分のやるべきことをなせ。ロンドンを救え』
彼女は弾かれたように身を起こした。不安げな眼差しは一瞬でかき消えていた。
「……そうね。そうだわ」
龍一は面食らった。ブリギッテは躊躇いなく〈竜〉の滑らかな体表に、そっと唇をつけたのである。彼が何か言う前に、彼女は踵を返して走り出していた。
『あらあら。彼女、すっかりあなたにお熱ね』
『……何のことかわからない、とは言わないよ』
『あなたには感謝しているのよ、相良龍一。皮肉ではなくってね。私が一番恐れたのは、あの子が生きたまま〈将軍〉の手に落ちることだった。あの聞かん坊に〈アンドロメダ〉の真の価値を理解できるはずがない。訳もわからずいじくり回し、切り刻んで台無しにしてしまうに決まってる。猫をひっぱたいて言いなりにしようとする子供みたいに』
『なかなか辛辣なコメントだが』めり込んだ壁から身体を引き抜く。『要するに君は、彼女と君の間にある全てが邪魔なんだな?』
『そうよ。わかってるじゃない』生きた甲冑のような〈ペルセウス〉の全身から冷ややかな闘気が放射されつつある。『〈将軍〉はくたばり、ギルバートは私と一体化し、ロンドンを月まで吹っ飛ばす算段も整った。あなたにもう用はない』
『そうかよ』
龍一は改めて〈ペルセウス〉と対峙する。覚悟を決めるしかない。ブリギッテは既に腹を括った。俺だけがうじうじしていられない。
同時に今までのような、人間たちの兵器相手のような一方的な戦いでは片付かないとも思う。こいつは〈竜〉と同等──いや、勝るとも劣らない怪物だ。
真紅のスポーツカーのエンジンが断末魔の咆哮を上げる。急ごしらえのバリケードへ砲弾の勢いで突っ込んだスポーツカーは当然、猛烈な銃火を浴びて穴だらけになり、タイヤをバーストさせながら展望台のチケット売り場を粉砕して止まった。が、それこそがアイリーナたちの狙った隙だった。
恐る恐る斧や散弾銃を手に近づいたギャングたちが見たものは、アクセル部分へ突っかえ棒代わりにかまされたAKと、後部座席に山と積まれたC4爆薬の束だった。逃げる間もなく時限信管が起爆し、バリケードもろとも周囲のギャングたちを粉々に引き裂いた。
さらに爆煙を切り裂いて飛んだ銃弾が、仲間に降りかかった惨事に呆然とする男3人の眉間を次々と射抜いた。いずれも一人一発。恐るべき技量だった。
「弾幕を張れ! 数と火力ではこちらが上なんだ! 怯むな!」
年嵩のギャングが声を枯らして叫ぶ。中2階のテラスに据え付けられた重機関銃を撃ちまくる機銃手は恐れを知らず、それを援護する周囲のギャングたちも弾薬装填の隙を生じさせない。
破裂音が立て続けに響き、フロア全体に白煙が立ち込め始めた。
「煙幕か……小賢しい真似しやがって」ギャングは舌打ちする。「構うこたぁねえ。上がってくる奴らは残らず挽肉にしちまえ」
機銃手も汗まみれの顔で頷き返す。確かに、エレベーターに通じる道はここしかない。何人来ようと12.7ミリ弾の餌食になるだけだ。
が、次の瞬間フロア全体に轟音が響き始めた。しかもどんどん近づいてくる。
「何だ!?」
反射的に身構えたギャングたちは──人間を遥かに越える巨大な影が、白煙の中から這い出てくるのを見た。
全身防護服姿の巨人たち。龍一が制御する〈分体〉の生き残りだ。
たちまち横殴りの豪雨のごとき銃火が防護服に集中する。数十発は装甲表面で弾き返されたものの、うち数発は確実に貫通したはずだった。が、〈分体〉は苦痛を感じる様子もなく、逆に手にした大型機銃を撃ち返す。一瞬でテラスが穴だらけになり、全身を大口径弾で穿たれたギャングたちが殺虫剤を浴びせられた虫のようにぽろぽろと階下へこぼれ落ちる。
「埒が明かねえ! おい、ロケット砲を……」
「苦痛なき」
そしてその場の全員が自分の死を悟った。
コンマ数秒の間に、機銃手の目がそれを捉える──まるで死の天使のように、手摺の上に立っているアレクセイの姿を。まさか、こいつは平地のように手摺を駆け上がって来たのか……。
「眠るがごとき死を」
アレクセイが両手を一閃させた。右腕の〈糸〉と、そして左腕の見えない刃を。見た目は鋭く尖ったガラス片に、革紐を巻き付けて無理やり刀剣に仕立て上げたような、不格好な代物でしかない。が、これは見えない。光透過率99.9%、そして折れず、欠けず、歪みも変形もしない。
ナノ鍛造機以外の制作は不可能な、〈糸〉に続くアレクセイの新しい武器だった。この一振りのために英国防省の先端科学研究所にわざわざ侵入する必要があったのだが──今、その真価が発揮されようとしている。
アレクセイはこれに〈
ほぼ垂直に機銃手の首筋へ突き立てられた刃は、ボディアーマーの隙間を貫き、一瞬で心臓を串刺しにした。背後でAKを構えたギャングは、自分の目を疑った──アレクセイの手に握られた刃はまるで見えず、空中に血の滴が浮いているようにしか見えない。一振りで刃は血の滴を振り飛ばし、再び見えなくなった。
ギャングは雄叫びとともにAKを乱射する。穴だらけになった相棒の死体が崩れ落ちるが、アレクセイの姿はない。
死の瞬間、彼は自分の胸から突き出る見えない刃を見る。耳元に吐息がかかるほどの近さから死神の囁きが聞こえる。
「苦痛なき、眠るがごとき死を」
「硝子とワイヤーの死神」
「……陛下?」
金髪の女性秘書が訝しげに見やるのも構わず〈犯罪者たちの王〉は熱に浮かされたように呟く。「君の肉体は滅びたが、君の『殺しの技術』は紛れもなく彼の者の中で生きている。地獄とやらがあれば、さぞかしそこで喜んでいることだろう。最初の〈ヒュプノス〉、我が旧友よ」
「食い止めろ! ここを突破されたら、もう後がないぞ!」
必死の形相でAKを乱射するギャングたちが数人まとめて擲弾で吹き飛ばされ、身を翻して逃げようとした者も背中から機銃の餌食になった。
「すごいなーこの子、新型の
「私を付き合わせるのはいいのか!?」
悲鳴に近いオーウェンの抗議を無視し、フィリパは苦し紛れに撃ち返してくるギャングの眉間を一撃で射抜く。「エレベーターは目前だ。このままベルガーと〈階梯〉を抑えるぞ!」
「その前に俺たちのケツが挽肉にならなきゃの話だけどな」趙が機銃を撃ち続けながら淡々と指摘した。彼はふと思いついて、拾い上げた銃を〈分体〉の背に押し当ててみる。
「……おい! すげえぞこいつ、背中の空いたスペースに銃くっつけられるぞ! そこらへんに落ちてる火器、全部持ってけるぜ!」
「火力支援と防盾に加えて、火器運搬までできるのか。いたれりつくせりだな」
「米軍の
「どうだ、復旧できそうか?」
「駄目です。エレベーターはまだしも、シャフトそのものが損壊してます。重機でもなきゃどうにもなりませんよ」
ベルガーは部下たちの手前、どうにか舌打ちを堪えた。上階での〈竜〉と〈ペルセウス〉の死闘によりエレベーター自体が修復不能になっているのだ。今さら死など恐れてはいない──が、それを彼に命じたマダム本人に邪魔されるとは思わなかった。
「まだ追ってくるのか……どこまで邪魔すれば気が済むんだ、あの馬鹿どもは!?」彼の部下たちが手を抜いているわけでも、能無しだからでもない──それはよくわかっていた。腹立たしいのは、部下たちではあの馬鹿どもを阻止できそうにないということだ。
急に指揮官用の軍用タブレットから着信音。こんな時に、とは思ったが出ないわけにはいかなかった。何しろ当のマダムからだ。
『ベルガー。いよいよあなたの望みがかなう時が来たわ』
「それはありがたい話ですが……」怪訝さにベルガーは眉をひそめた。どうも彼女らしくないというか、口調に若干の焦りのようなものが伺えたのだ。「エレベーター自体が使用不能です。〈階梯〉の運搬自体ができません」
『切り札を起動させて。相良龍一は私がどうにかする。どうでもよくする』
返事も待たず通話は切られた。もう少しお言葉を頂戴したいところではあったが、それはないものねだりという奴だろう。マダムがかくあれと言って、そうならなかったことは一度もないのだ。
固唾を飲んでいた部下たちにベルガーは告げる。「続行だ。時間を稼ぐ。〈階梯〉を最上階まで届ければ俺たちの勝ち、できなければ負けだ」
「……俺たちは?」
「最上階で脱出用のヘリを呼ぶ。死んだら運が悪かったと思え」
「わかりました」
応じた部下の逡巡もまた短かった。精鋭とはいえ、わずか十数名前後。ロンドンで猛威を振るった〈
その残るべくして残った十数名を俺は使い捨てるわけだ。
ベルガーも地獄の悪鬼ではなかったから、胸が痛まないわけではない。ただ充分に耐えられる胸の痛みではある。この大混乱の最中、〈ザ・シャード〉の上空までわざわざ飛んでこられるヘリやパイロットなど存在しないし、そもそもベルガーは半ば死ぬ気だった。が、わざわざそれを口にはしない。元々が退屈な生よりは意義ある死を、と願ってやまない男たちだ。ロンドンを月まで吹っ飛ばすための礎になれればむしろ本望だろう。
近代的なフィットネスクラブはわずか数秒で爆撃を受けたような惨状と化した。いくつものバーベルが木の葉のように宙を舞い、大型のチェストプレスマシンがバターのように両断される。
全て〈竜〉の全身から滑り出た、薄く細くどこまでも伸びる〈刃〉の威力だった──が、生身の人間なら一瞬で数千もの細切れにできるそれが〈ペルセウス〉には触れてさえいない。
『それがあなたのにらめっこ?』
〈ペルセウス〉が手に握る長大な槍を一閃させた。無機質な外見の〈ペルセウス〉に反し、こちらは妙に有機的な印象を受ける。まるで生物の脊髄をそのまま引き抜いて武器に仕立てたように生々しく不気味だ。
絡みつき、あるいは切断するはずだった刃は、まるで紙テープのように容易く切断され残らずはらはらと舞い落ちる。『がっかりだわねえ。それじゃ笑おうにも笑え』
〈大きいブリギッテ〉の声が不自然に途切れたのは、〈刃〉による攻撃をことごとく防がれて微動だにしていない〈竜〉の異様さに気づいたからだ。
次の瞬間、空間から湧き出た全長数キロにも及ぶ円柱が〈ザ・シャード〉を真横から串刺しにした。
瞬時に転送可能な大質量兵器〈
フィットネスクラブは、今やなくなっていた。先程まで〈ペルセウス〉が立っていた箇所は窓も壁も全てつるりとした〈柱〉に埋め尽くされ、高度数百メートルからの外気が吹き込んでいる。
『……これでくたばってくれれば話は早いんだが』龍一の声で〈竜〉が呟く。『そうはいかないだろうな』
予想通り──白銀の光が垂直に走り、視界を埋め尽くすほど巨大な柱が両断された。
『せっかちな人ねえ。「敵」と判断した途端に一撃で殺しに来るなんて』
もうもうと立ち込めている粉塵の中から、〈大きいブリギッテ〉の呆れたような声。
『君なら大丈夫だと思ったんだが』
『……いちおう節度はわきまえているってわけね?』
世間話のような〈大きいブリギッテ〉の声には苦笑さえ混じっていたが、龍一は警戒を緩めなかった。あの刃、戦車砲程度では傷すらつかない〈柱〉を容易く両断した。そもそも差し渡し数キロ、何千トンもの重さと質量を叩きつけられて平然としている存在など、生物・無生物を問わずこの世のものではない。いや、それは〈竜〉も同じなのだが……。
『何を考えてるかわかるわよ。私をお仲間たちのところには行かせられない──そうでしょう?』
ご明察の通り、声に出さず龍一は呟く。〈竜〉でさえ歯が立たないこんな怪物を、アイリーナやオーウェンたちとかち合わせるわけには行かない。まともな応戦すらできず数秒で挽肉と化してしまうだろう。
粉塵のヴェールを切り裂き、何かが飛来した。
〈ペルセウス〉の槍だ。しかも見た目からの想像より遥かにリーチが長い。
(……!)
〈鱗〉で防がず、飛び退いて回避したのは本能的な判断だったが、間違ってはいなかった。細く、長く、予想以上に鋭いそれは〈竜〉の胸をかすめただけで、その体表をざっくりと切っていったからだ。
人間で言えば皮膚の表面を浅く切った程度のものだ。しかし、今まで人間の兵器では〈竜〉に手傷すら負わせられなかったはずである。なのに。
構うものか、〈竜〉は飛んだ。床を蹴り、壁を走りながら〈ペルセウス〉に突進する。珍妙で変幻自在な武器相手なら、〈ヒュプノス〉の〈糸〉を始め、数えきれないほどの戦闘経験がある。
が、〈ペルセウス〉もまた動いた。槍を手元に引き戻し、さらに小脇へ抱え込んだのだ。まるで手持ち火器──銃砲のように。
(……まずい!)
龍一の思考に〈竜〉が反応する。足の形状が即座に変化、生成されたノズル状の器官から圧縮空気を噴出。見えない床を蹴ったように、空中で方向を変える。
とっさに天井を蹴った、その箇所が見えない顎門に食い破られたようにごっそりと消失する。
まさか……!
『気がついた? 〈ペガサス〉の〈魔弾〉なんて、単なるこれの模造品よ。それも粗悪な』
空中で身を捻りながら〈礫〉を放つ。が〈ペルセウス〉が〈盾〉をかざした瞬間、それは敵を内側から貫くどころか、ただの石ころのようにごとりと床に落ちる。
兵装だけではない、それを使いこなす技量と、
『やりにくいでしょう? 私は〈鬼婆〉マギーとしてこの十数年を生きた。毎日のように血と銃弾の雨が降るロンドンの暗黒街を。〈のらくらの国〉出身のあなたにもひけは取らない』
構わない。龍一の狙いはあくまで牽制、接近戦に持ち込むための布石だ。
『接近戦に持ち込めれば勝てるとでも思った?』
全身に寒気が走る。
〈ペルセウス〉の手に握られた、あの長大な槍の形状が変わっていた──そもそも、これは刀剣なのか。生物の脊髄めいた槍は、今や長大な鞭と化していた。それも先端に猛禽の爪のような鋭い刃を備えた、別の生き物のようにうねうねと蠢く鞭だ。
槍から鞭、そして砲へ。
反則だろ、と叫ぶ間もなかった。必死に回避する〈竜〉に向けて、〈鎌〉の切っ先がなおも跳ね上がる。龍一の反応速度ですら追いつかない速さとタイミングだった。
『まず一本』
〈竜〉の右腕が、付け根から切断された。
よろめいた瞬間──今度こそ〈ペルセウス〉が突進してきた。腕一本を喪失してバランスを崩した龍一には回避行動が間に合わない。
『……そして蹴り!』
反重力は攻撃にも転用できる。
〈サンダル〉による蹴りは、戦車砲でも胸板に叩き込まれたような衝撃だった。〈竜〉はひとたまりもなく弾き飛ばされて壁を突き破り、隣のフロアへ転がり込んだ。
(〈ザ・シャード〉の警備や店舗従業員たちは……逃げたのかしら。さぞ災難だろうけど、ベルガーたちの人質に取られなかったのは幸いね……)
階段を数段抜かしで飛び降りたブリギッテは、その自分の考えを心底後悔することになった。
床は血の海だった。
(……!)
もう少しで胃液を口からぶち撒けるところだった。白いリノリウム張りの床も、天井近くに至るまで、血と弾痕で彩られていない箇所はなかった。
突然の襲撃に訳もわからず逃げていた人々を、ベルガーたちは「鉛のシャワー」で薙ぎ払って進んだのだ。
涙をにじませながらも口の中の苦味を強引に飲み下したのは、自分でもそれが許せなかったからだ。
阻止しなければ──〈階梯〉が〈ザ・シャード〉の最上階まで運び上げられたら全てが終わりだ。そうなればこの光景がロンドン全域のものとなる……いや、核による焼却ならそれすらも残さないかも知れない。
だが今、自分に何ができるだろう? 本物の銃火器で武装したギャングたちと、あのベルガーの前に飛び出て何ができるのだろう。狩猟用の弓と、残り数本の矢。それで勝ち目のない戦いを挑むのが、今の自分の「なすべきこと」なのだろうか?
違うような気がする。龍一が、そしてジェレミーやディロンが言っていた「ロンドンを救え」とは、そういうことではない……。
では、どうすればいい? 思わず目を固く閉じる。どうすればいいの、龍一?
彼女のその自問に答える者もいなければ、何らかの啓示があったわけでもない──だが、暗い水面の底から気泡が浮かび上がってくるように、ブリギッテの心に浮かんできたのは他ならない、彼女自身の言葉だった。〈分体〉を呼び出そうと四苦八苦している龍一に向けた言葉。あなたが動かそうとしているのはその防護服なの?
そうだ、弓を握り締める拳に力が籠った。私のなすべきことをすればいいんだ、私にしかできない方法で。
ブリギッテが決意し、目を開いた時──世界は一変していた。
「何……?」
彼女が自分の目より先に、正気を疑ったのも無理はない。
見えるもの全てが色とりどりの糸と化していた。いや、化していた、というのは正確ではない──そう見えることに気づいた、と言う方が正しいか。ステンレス製の手摺は鈍色に輝く糸。冷たく硬い大理石は、さまざまなグラデーションのより集まった糸。天井高くからフロアを照らす照明の光は、眩いばかりに輝く白とオレンジの糸──空調で緩やかに動く空気や、噴水の噴き上げる水と飛沫までもが糸の集合として見えるのだ。ぎょっとして自分の手を凝視する。何ら変わったことのない、見慣れた自分の手だ。そして無数の糸の集合体でもある。
そしてその糸の隙間を透かして、あらゆるものが見えた──遥か上階では、龍一の変じた〈竜〉と、〈大きいブリギッテ〉の変じた〈ペルセウス〉が互いの身を砕き合う猛攻を交わしている。数フロア下では、ベルガーの部下たちがバリケードを築き、追いすがってくるアレクセイやフィリパ、趙たちを跳ね返そうと必死だ。
自分が見ているものも、その意味もまるでわからなかったが、同時に紛うことなく現実だとも思った。そもそもこんな幻影を見るほど私はイマジネーションが豊かではない、という自覚がある。
「やっと到達したみたいだね。そう、それこそが〈アンドロメダ〉の真の力だ」
間近で弾けた声に反射的に跳ね退く。すかさず弓を構えたブリギッテの眼前で、全身白づくめの青年が無邪気に微笑んでいた。青年どころか、少年と呼べるほどの若々しさだった。ジャケットも、シャツも、ズボンも白、革靴も白。ただ緩く波打つ髪と、人懐っこそうな瞳だけが茶色い。
腹に一物という顔ではない。どちらかと言えば一物足りない笑顔だ。
「〈重ね合わせの現実〉、言わば世界そのものへのアクセスではあるんだけど、〈将軍〉は最後までそれを理解できなかったみたいだね。まあ、しょうがないか。彼は結局最後まで戦争屋……というか、大きな男の子をやめられなかったからね。どんな怪物でもでかい銃と大砲を用意して、死ぬまで撃てば死ぬと思ってる手合いだ」
「何を言っているの? あなたは誰?」
青年の開けっぴろげな態度に、ブリギッテはますます警戒を強めた。〈将軍〉の一味にもベルガーの仲間にも見えなかったが、別の意味でもっと油断できない相手、という気がした。
「僕はモーリッツ。僕のことは、そうだな……ゲームのチュートリアル機能とでも思ってくれればいいよ。ほら、どんなゲームにだってチュートリアルは必要だろう?」
こんな説明をされて納得する者がいたらお目にかかりたいと思った。「ふざけないでもらえる? 今はあまりひねくれたユーモアに付き合える気分じゃないのよ、ミスター?」
「ミスターなんてそんな他人行儀な。もっと気軽にモーリッツと……いや、いっそのことモーリィと親しみを込めて読んでくれてもいいんだよ?」
「嫌」
つれないなあ、と青年は口を尖らせる。「それよりも、今の君が見ているものを当面の話題にした方が得策だと思うけどねえ」
「……本当にあなたに、私が見ているこれが何かわかるの?」
「もちろんさ。あの〈
「編まれた世界……」
口にしてみて、しっくりする言い回しだと思った。世界の全てが編み物なら、掴むこともできる──手繰り寄せることも、解くことも、そして編み直すことも。
「でも、どうして? なぜ私は龍一のようにならないの?」
「コンセプトそのものが違うからさ。〈竜〉の肉体に人間の脳を持つ相良龍一と違って、君や〈大きいブリギッテ〉の場合は脳に〈竜〉を移植されているからね。どちらも〈竜〉の桁外れのパワーを人間サイズにダウンサイジングする、という最終目的に変わりはないんだけど」
「〈竜〉のダウンサイジング……」
「今や相良龍一は〈竜〉に、〈大きいブリギッテ〉はギルバートを取り込み〈ペルセウス〉としての相を露わにしている。君の中の〈アンドロメダ〉も呼応せずにはいられないんだろう」
興味深い話ね、とは思った。だが差し当たり、他に考えなければならないことがある。
「待って。それを親切に教えてくださるあなたは誰? 教えてくれたことには感謝するけど、それはそれとして何者なの?」
青年は興味深そうに目を細める。「僕を脅すかい?」
「気は進まないけどね。何ならこの場で締め上げてもいいのよ?」
半分くらい本気で声を低くしたブリギッテに対し、モーリッツは朗らかに笑っただけだった。「君に丸腰の相手を締め上げるなんて芸当は無理だよ、可愛いブリギッテ。たとえそれが必要だとわかっていてもね」
「いちいち癪に障る人ね……」
「聡明な君ならすぐに気づくだろう、それが秘めた大いなる可能性に。場合によっては、彼女に勝てるかも知れない……まだ時間は必要だろうけどね」
「彼女? ……あ!」
ブリギッテは弓を取り落としそうになった。まさに瞬く間に、青年の姿は消え失せていた。人が眠りに落ちる瞬間を知覚できないように。
何から何まで馬鹿げたことばかりだけど、ブリギッテは息を吐き出した。でも、あの妙に癪に障る青年の言うことにも一理はある──こんな馬鹿げた能力でもなければ、ロンドンを救うなんてできやしない。
彼女が手をかざすと、周囲の空気が寄り集まってきた。一度こつさえ掴めれば、後は簡単だった──自転車の乗り方を、泳ぎながらの息継ぎのタイミングを、一度覚えれば忘れられないように。
空気でできたロープを掴み、ブリギッテは何の躊躇いもなくテラスから身を躍らせた。
「頑張っておくれよ、ブリギッテ。頑張っておくれ」
上下左右どころか、過去か現在か未来かも定かではない空間で。モーリッツと名乗った白づくめの青年は楽しげに呟く。「こんなところで死なれては困る。君の煉獄は、まだ始まってもいないんだから」
〈竜〉の半身は水に浸かっていた。なぜ水が? と周囲をよく見回すと、そこは広々としたスイミングプールだった。プールサイドにはギリシャの神殿を模しでもしたのか、あまり意図のわからない(ないのかも知れない)円柱が等間隔に並んでいる。大量の水がうまいことクッションになったのだろうか。
〈竜〉の全身から、もうもうと煙が立ち昇っているのに気づく。
粉塵の向こうに〈ペルセウス〉の煌びやかな甲冑が見え隠れする。
『次はどこがいい? もう片方の腕? それとも右足、左足?』
参ったな、と呟いてしまう。こちらの攻撃は一切通じず、相手の攻撃は一撃必殺と来たもんだ。しかもこちらは右腕を丸ごと喪失している。いや、両腕が揃っていても勝てるかどうか……。
それならどうやって戦う? どうやって勝つ?
考えろ、龍一は必死で頭を巡らせる。大量の水。切断された右腕。
──〈イルルヤンカシュ〉。
やってみるか、龍一は腹を括る。どうせこのままでは追い詰められる一方だ。
『次はどんな方法で私を笑わせてくれるの?』
言ってろ、と悪態を吐きながら〈礫〉を放つ。〈ペルセウス〉に直接ではなく、水を並々と湛えたプールへ。
高速回転する〈礫〉は空気との摩擦で赤熱しながら水中に没した。もうもうと水蒸気が立ち昇り、広大なプールを覆い尽くす。
『目眩しにしてはお粗末な……ということは別の目的ね?』
正解だよ、と応じられないのが惜しいところだ。
霧が凝集し、〈イルルヤンカシュ〉の巨大な鉤爪を形成する。稲妻を纏う鉤爪が〈ペルセウス〉をがっしりと掴み、眩い雷光で甲冑に火花を散らす。
『それだけ?』
〈盾〉が光った。まるで吹き散らされたように霧が内側から膨れ上がり弾け、跡形もなく霧散する。
だがそれこそが龍一の狙った隙だ。
〈鎌〉と〈盾〉は同時に使えない。そして〈鎌〉の自動迎撃も間に合わない。今度こそもらった!
──が、〈ペルセウス〉は逃げも避けもせず、〈盾〉を振りかざした。バックハンドのように盾自体を叩きつけてくる。
いや、違う、これは……!
『最大の防御は攻撃』
絶対無敵の盾を直接叩きつければ立派な武器になる。
今度こそ〈竜〉の全身を、手足がもげ落ちんばかりの衝撃が襲った。
生身だったら目玉が飛び出ていたかも知れない。あれほど強固だった〈竜〉の体表がガラスのようにみしみしと儚く軋む。轟音と自分の上げる悲鳴の区別がつかない。直撃を免れた部分にまで毛細血管のような細かな亀裂が走っていく。
爆圧でプールの底が抜けた。〈竜〉と〈ペルセウス〉はもつれ合うようにして、大量の水や建材の破片とともに真下のフロアへ雪崩落ちる。
数フロア分を一気に転がり落ちた。傾いた視界に、なおも〈鎌〉を振りかざす〈ペルセウス〉が映る。とっさに繰り出した一撃は──ものの見事に空を切った。
文字通り、〈ペルセウス〉がかき消えたのだ。単に見えなくなっただけではない。熱も、音も、気配さえ消えた。それも龍一の五感だけでなく〈竜〉自体の五感からもだ。
〈ハデスの隠し兜〉。〈竜〉の超感覚すら欺く完全ステルス機能。
『自分が不意打ちを喰らう気分はどう?』
返答の隙すらもなかった。
〈竜〉の左足が、半ばまでざっくりと断ち切られる。
(……!)
完全に切断はされなかった。仕損じたのではない、わざとだ。切断には至らない左足自体が〈竜〉の動きを阻害できるように。まさに怪物殺しの英雄。
感嘆している余裕はなかった。振り切られた〈鎌〉の刃が反転して戻ってくる。高速で、変形しながら、回避困難な死角から。
薄く鋭い〈刃〉を放った。〈ペルセウス〉に向けてでなく、手近な柱に向けてだ。絡みつけたそれをウィンチのように巻取り、強引に〈竜〉の巨体を引きずり移動する。
〈礫〉を投げつけて牽制しておくのも忘れない。かざされた〈盾〉で食い止められるが、その時には〈竜〉の巨体は通風口へ滑り込んでいる。
『逃げ足も大したものね……』
半ば本気で感心している〈大きいブリギッテ〉に軽口を返す余裕もない。時間を稼ぐ。反撃のきっかけを見つける。だが、どうやって?
「……ブリギッテ!? それは一体、何の冗談なんだね!?」
死闘の最中、オーウェンが目を剥いたのも無理はない。何しろブリギッテは遥かな上階から、ファストロープどころか何の補助具もなしに舞い降りてきたのだ。敵も味方も全員が注視する中、彼女は危なげなくテラスの手摺の上へと着地する。
「みんな、心配かけてごめんなさい。でも私が来たからには……」
ブリギッテは躊躇なく矢をつがえ、念を凝らした。鋭い矢の先端に彼女が思い描いたその通り、純粋な窒素の塊が充填されていく。
「……こんな奴ら、残らず蹴散らしてやるから!」
嘘お、と今度はアイリーナが目を丸くした。放たれた矢を中心に同心円上の衝撃波が発生し、周囲のギャングたちを吹き飛ばしたのだ。防弾装備などないも同然だった。あれだけ強固な防衛線が、完全に消失していた。
「……龍一もそうだが、僕は君にも驚かされっぱなしだよ」
「あら、光栄だわ」
どうにか言葉を取り戻した様子のアレクセイに、ブリギッテは満更でもなさそうな顔で応じる。
「聞きたいことはいろいろあるが、時間がない。助けてくれるか」いち早く頭を切り替えたらしいフィリパが短く鋭く尋ねる。
「もちろんよ。だって、そのために来たんだもの!」
床そのものが盛り上がり、一同を急速に上昇させる。天井にぶつかる! と誰もが首をすくめた瞬間、天井の方が無数の糸と化して急速に解け、何なく上昇する床を通過させた。
目が真ん丸になってしまった趙が、機関銃を抱きしめながら淡々と呟く。「たまげた」
「ブリギッテ、君のこの……力? には限度というものがあるのか?」
さすがに驚きを隠せないフィリパの声にブリギッテは苦笑。「さあ? まだ試してはいないけど、あるんじゃないかしら? 例えば、私の想像力とか」
『くそっ、傷の治りが遅い……!』
照明の落ちたフロアで、龍一は〈竜〉の巨体を踞らせて考え込んでいた。切断された右腕からの体液流出は止まっている。が、再生が追いついていない。どうやらあの〈鎌〉には、〈竜〉の自己修復を阻害する機能まであるらしい。
『どんだけびっくりギミック満載なんだよ、あいつ……』
〈大きいブリギッテ〉が気まぐれを起こして龍一との戦いを放棄しないのは不幸中の幸いだが、それ以外に幸いなど思いつかない。それに、単純に喜んでばかりもいられない。
(認めるしかないな……〈鎌〉や〈盾〉のような兵装の性能差だけじゃない。部があるのは〈ペルセウス〉──〈大きいブリギッテ〉の方なんだ)
その気になれば彼女は龍一との「鬼ごっこ」を中断し、いつでもオーウェンたちを皆殺しに行けるのだ。対して、龍一はそうはいかない。どうあっても彼女を釘付けにしなければならない。精神面での余裕からして彼女の方が有利なのだ。
まずはその優位を崩さなければ、勝ちようがない。
(しかし、どうにもおかしいんだよな……〈ペルセウス〉は〈竜〉の粗悪なコピーに過ぎないんじゃなかったのか?)
よく考えると妙ではある。蓋を開ければ〈大きいブリギッテ〉は〈竜〉に拮抗するどころか、より多彩な兵装を危なげなく使いこなして龍一を圧倒しているのだ。〈家〉とかいう研究機関がよほど忠実に〈竜〉の応用技術の実装に成功していた可能性もなくはないが、龍一の見たところ、人間の科学力はその水準に遠く及ばない。
そしておかしいのは自分もだった。龍一が自分の中の〈竜〉を現出させられるようになってからまだ数時間と経ってないのに、自分の意識を保てるどころか、初めて扱うはずの異能をまるで手足のように扱えている。
そう──この〈ザ・シャード〉に、このロンドンに足を踏み入れてからだ。
(何かギミックがあるんだろうが、そいつを突き止める時間も余裕もないか……)
頭を切り替えよう、そう考えると急速に落ち着いた。あるいはそのマインドセット自体〈竜〉の機能なのかも知れないが。
(ここは……玩具売り場か?)
余裕が生じると、周囲の光景が目に入ってきた。ブロック状のパーツを付け替え可能な玩具のロボットやふわふわした熊や兎や鹿のぬいぐるみ、音声で自動運転可能な小型カートなど、龍一も知っている日本の玩具売り場とそう変わらない。
「……使えるな」
思った瞬間に〈竜〉の各部が早くも変形を始め、龍一は驚いた。こいつは間違いなく俺の身体なのに、俺自身が何一つ知らないな。一体、この身体は──〈竜〉は、何をどこまでできるんだ?
『鬼ごっこの次は隠れんぼなの、相良龍一?』
優雅さと重厚さを全く失わない足取りで、〈ペルセウス〉が玩具売りフロアに足を踏み入れる。ふと思いついて〈手綱〉を繰り、フロアの照明を全てオンにしておく。不意打ちを受けるのは面白くないし、加えて相手はあの相良龍一だ。実のところ、思いもよらない方法で逆襲を試みてくるのではないか、という期待もなくはない。
『私との遊びは飽きちゃったの? ここで切り上げてあなたのお仲間たちと「外科手術ごっこ」に切り替えてもいいのよ? でも、それだとあなたが困るんじゃない?』
大して期待はしていなかったが、返事はない。代わりに、何かがかちゃかちゃと音を鳴らしながら通路の中央に進み出てきた。
昔ながらの、シンバルを叩きながら歩く猿の玩具だ。反射的に〈手綱〉を使おうとして──笑ってしまうほど単純な事実に気づく。電子制御されていないガジェットに、電子制御はできない。
即座に〈鎌〉を振るう。戦車の装甲さえ裂く一撃に、玩具は容易くばらばらに壊れた。
異変を覚えたのはその時だ。ばきん、と何かが割れるような音が響き、〈手綱〉を握る〈ペルセウス〉の腕が硬直した。
愕然と頭上を見上げた──フロアを睥睨する警備用の監視カメラがこちらを向いている。〈バジリスク〉だ。
(真っ先に電子制御を潰しに来た……!)
最初から〈バジリスク〉を使わなかった理由はこれか。
並ぶ商品棚を乗り越え、ショーケースを内側から割り、玩具たちが一斉に殺到してきた。目を赤く光らせるヒーローロボット、小柄な成人ほどもあるふわふわした熊のぬいぐるみ、スーパーカーを模したゴーカート。
〈手綱〉は使えない。防衛機構がウィルスを駆逐するまであと数分はかかる。
〈鎌〉を振るい、〈盾〉を叩きつける。文字通り腕の一振りで玩具たちはばらばらになる。が、何しろ数が多い。
『こんなもので足止めになるとでも……!』
『へえ、そうかい? それなりに効果はあるみたいだが』
ぴしゃっ、と冷たい液体が〈ペルセウス〉の顔面を直撃した。
ただの水だ。
〈ペルセウス〉の視覚が目の前に漂い出てきた「それ」を捉える。触手のようにひょろ長く頼りないそいつの腕には、大型の水タンクを備えた水鉄砲が握られていた。黄色と赤に塗り分けられた子供の玩具だ。
『ほらな? 今のが酸だったら、君の顔面は溶けてるんだぜ』
それもまた確かに〈竜〉だった──ドラゴンというより鳥類に似て嘴を備えた顔、赤く光る複数の目を持ち、触手のようなひょろ長い腕を何十本も垂らし、足はなく漂って移動する、人型とは似ても似つかぬ形状ではあったが。
『……〈犯罪者たちの王〉があなたを警戒する理由、少しわかってきたわ。イマジネーションに応じていくらでも機能拡張できる〈竜〉に、相良龍一のスキルと意志が乗っかっているんですもの。彼の目的が何であろうと、どこで足をすくわれるかわかったものじゃない』
『そりゃどうも』
新たな形態の〈竜〉が腕を持ち上げる──その腕全てに先ほどの水鉄砲をはじめ、やたらとカラフルな剣と銃が握られている。
それが戦闘再開の合図となった。
「電子機器侵入・環境操作型〈シェディム〉……今日だけでいくつ
「……ま、あんまり『まとも』じゃないからね。ロンドンの地下のアレに引きずられてるせいもあるんだろうけど」
やめときゃいいのに、と白木透子は宙を仰ぐ。「ロンドンが月まで吹っ飛ぶ瀬戸際だから、手段を選んでいらんないんだけどさー。その調子で他の誰かのために、自分を燃やし尽くしちゃうつもりなのかな、息子さんは?」
ぬいぐるみが真っ二つに裂け、プラスチックの手足が粉々にされる。
〈鎌〉の動きは止まらない。即座にライフル形態に変形し、目に見えない弾丸が居並ぶ商品棚を次々と貫通していく。〈手綱〉こそまだ使用できないが、その戦闘能力はいささかも衰えていない。
だがそれが決定打にはなっていない、との歯痒さも〈ペルセウス〉にはあるようだった。
ゲームのデモを表示していたモニター群が一斉に切り替わり、ぎょろりとした〈竜〉の黄金の目玉を映し出す。〈バジリスク〉の瞳。
〈盾〉をかざす。視線を反射されたモニターが動きを止め、次々と画面が白濁していく。
『これがあなたの
〈大きいブリギッテ〉の声に、近くのスピーカーが龍一の声で応える。『いや、いつも俺の……ああ、センセイからは言われてるんだ。罠はいつも二段構えにしろって』
『立派なセンセイね』
『ありがとう』
数機のクアッドコプターが滑るように飛んでくる。玩具ではあるが、機能は大人向けのものと遜色ない。撃ち落とそうとして気づく。内蔵された3Dプロジェクターを用いて、何かの映像を投影しようとしている。
次の瞬間〈ペルセウス〉は鬱蒼とした竹林の中にいた。さらさらと微風が葉と葉を揺らす音以外、物音はない。
『どうかな? 何も君に有利なフィールドでばかり戦う必要もないな、って思ったんだけど』
『獣ね』
『どういたしまして』
茂みの暗がりから音もなく。
寸分の狂いもなく首を狙ってきた刃を〈鎌〉が受け止める。が──人間なら眉をひそめたに違いない。受け止められた刃は、プラスチックでできた忍者刀だったのだ。
ぎぃん、と耳障りな音を立てて刃が弾き返される。後方に退いた異形の〈竜〉── 〈シェディム〉が改めて得物を構え直した。誰もが失笑するに違いない、玩具の忍者刀を。
『どうも今の俺が持つと、何でも本物になるらしいな。気づいたのはさっきだけど』
返事の代わりに〈鎌〉が振り下ろされる。瞬時に飛び退き、〈竜〉が飛び込んだ茂みからカラフルな弾丸が飛んでくる。
『飛び道具は使わないのが信条じゃなかったの?』
『場合にもよるとしか言いようがないな。剣や槍と同様、銃だって道具さ』
ごっごっ、と重金属でもぶつけるような音が〈ペルセウス〉の甲冑から響く。とてもちっぽけな玩具から発射される、自然に優しい分解性の弾丸とは思えない音だ。
『手を替え品を替え、ね。面白いかはともかく、どうにか楽しませようとする気持ちは嫌いじゃないわ』
『嬉しいね、そう言ってくれると』
そうは返したが、実のところ龍一は内心で冷や汗ものだった。さて、「あれ」が完成するまで彼女は付き合ってくれるかな?
富裕層用のトランクルームともなると、一つ一つが小さい家サイズのサイズとスペースを所有している。
マギー・ギャングがダミー企業を通して購入、あるいは居住者を脅迫して確保していたいくつかのトランクルームが次々と内側から突き破られ、今、鈍く赤色に輝く複眼を瞬かせながら巨大な影が歩み出てきた。
数は6体。3体はロケットブースターを噴射して上階へ、もう3体もまた床を突き破り虚空に身を躍らせる。
『お互いにちょっと煮詰まってきたみたいね。ここはもう少し胡椒を効かせましょうか?』
〈竜〉と対峙する〈大きいブリギッテ〉──〈ペルセウス〉の左腕に変化が生じる。
龍一は目を凝らした。何か……拳の間から、金粉のような眩い粒子が次々と溢れ出し、空中に消えていく。いや、正確には消えたのではなく、目に見えないほど空気に溶け込んだのだろう。
〈
『何をする気だ?』
『さあね?』余裕を隠そうともしない声。『確かなのは、まごまごしているとお仲間の敵がどんどん強くなるということかしら』
「何か来る……!」
広大な吹き抜けから爆炎を突き破り、巨大な影が激怒した天使のように降下してくる。
「あれは……〈タロス〉か?」
「似ているけど違う」アレクセイは首を振る。「あれに乗っている──搭載されているのはHWだ」
「HWを、戦車や戦闘機などの重戦闘兵器のコアとして搭載する。アイデアだけなら聞いたことがある」フィリパがより厳しい表情になる。「さすがに現物を見るのは初めてだが」
「あんなものまで持ち込んでたなんて、マルティン坊やも相当にキレてんねー」
ベルガーの切り札──
ブリギッテがはっと息を呑んだ。「アレクセイ。私……どうして龍一がHWをああも目の敵にしているのか、少しわかった気がするわ」
そう、HBの外観はあまりにも〈竜〉に酷似していたのだ。〈竜〉を既存の金属で形造り、大型の飛行システムや姿勢制御用バーニアを装着し、さらに機関砲やミサイルポッドなどを搭載すればああなるだろうか。
「君のその直感は正しいよ。彼にしてみれば恩人を殺し、自分たちのコミュニティを焼き払った仇敵だからね。それが自分に似ているともなれば、たとえ一体でもこの世に存在するのが我慢ならないんだろう」
HBの複合センサーが瞬時にブリギッテたちを捕捉した。〈分体〉のものより遥かに口径の大きい機関砲が、まるで手持ち火器のように取り回される。
「伏せて!」
ブリギッテの警告は、咆哮に近い連続音にかき消された。上空から雨のように降り注ぐ機関砲弾。それに向けて彼女が掌を突き出したのはほぼ同時。
空気そのものが見えないレールとなり、非装甲車両なら一瞬で粉砕する大口径機関砲弾をことごとく弾き返した。彼女と、背後に庇われたアイリーナやオーウェンたちの周囲の床はたちまち月面よりも凄惨な荒地と化した。
HBの背面ミサイルポッドが持ち上がり、無数の発射炎が生じる──そして次の瞬間、その全てが空中で爆発する。
忽然と〈礫〉が何もない空間から出現した。
「……え?」
仔犬がじゃれるようにブリギッテたちの周囲をくるくる回転しながら数度回った後で、〈礫〉は一直線に飛んだ。
まるで濡れたボール紙のように胸部装甲を貫かれた途端、あれだけ力強かったHBの全身から力が抜けた。糸でも切れたように全動力が停止し、落下して床を揺るがす。
「〈分体〉を介しての観測砲撃か。しかも屋内戦ともなればこれほど心強い援護もないな」感嘆を禁じ得ない口調でフィリパが感想を述べる。
「〈分体〉だけじゃない。こんな馬鹿げた援護がなかったら、僕たちは十何回も死んでいるよ」
「違いない。是非ともベルガーの奴ばらを阻止しなければ申し訳ないというものだ」
俺はなぜ逃げないのか、ベルガーは自問する。核によるロンドン熱焼却はもはや防ぎようがない。そこまでわかっていて、なぜ相良龍一や、その一味との決着にこだわるのか?
いや「なぜ」もないだろう、と思い直す。奴ら全員の死体を見なければ、自分でもわかる、俺は納得できないだろう。核の炎に任せて済むのなら最初からそうしている。たとえ命を永らえても、あのふざけた連中にとどめを刺しきれなかったという悔いを抱えてその後の余生を過ごすくらいなら、本当に死んだ方がましだと思う。
「……行くぞ、諸君。最後の戦いだ。〈ケンタウロス〉の準備はいいな?」
「はい」鉄製の馬の胴体と人型のマニピュレーターを無理やり合成させたような、異様な形状の強化外骨格に下半身を突っ込みながら部下が応える。「でもベルガーさん、このタイプの外骨格は俺たち使ったことないすよ……」
「安心しろ。そいつに関してだけは経験の有無は関係ない──むしろ、ない方が好都合かも知れん」
ベルガーがタブレットを操作した瞬間、男たちの身体が電流でも流されたように痙攣を始めた。それも〈ケンタウロス〉を装着した者全員がだ。
「べ……ベルガーさん、こいつは一体……」
「悪いな。ここまで来て今さら裏切る奴がいるとも思わんが、念のためだ」血の涙を流して苦悶する部下に、ベルガーは悲しげに告げる。「万に一つの不安要素も潰しておきたくてな。予想外の展開にはもううんざりなんだ」
だがその言葉を聞く者は、数秒後には誰もいなくなっていた。
「ブリギッテ、もっと速度を上げられないか!?」
「ごめん、これ以上は無理……!」
上昇する床はびりびりと音立てて振動するほど速度を増している。が、追いつけない。何しろ相手はジェットエンジンだ。
「逃げんじゃねえ、このトカゲ野郎!」
趙が半ば自棄気味に機関銃を乱射するが、もちろんそんなものがHBに通用するはずもない。生き残った〈分体〉の機銃掃射も、巨体に似合わない軽敏な動きで回避される。弾道予測プログラムだ。
噛みつくように周囲を見回していたブリギッテの目が、フィリパの抱える狙撃用ガリルを捉える。「フィリパさん、それを撃って!」
かえってフィリパの方が狼狽えている。「しかしブリギッテ、相手は装甲兵器だぞ。しかもこの距離では……」
「いいから!」
訳がわからないながらもフィリパはガリルを構える。振動は凄まじいだろうに、射撃教本の手本にしたくなる見事なフォームだ。
ブリギッテはイメージする。自分と、上昇するHBの間にある空間を。正確には空間を構成する織物を。
(要は、弾丸が届けばいい……!)
銃口が火を噴いた瞬間、ブリギッテはそのイメージを解き放った。
緩やかな放物線を描いて飛ぶはずの7.62ミリ弾が、ブリギッテの思い描いた空気の糸に沿って飛ぶ。真っ直ぐに、何の抵抗もなく、そしてレールガンを超えるほどの速度と正確さで。
ちっぽけな銃弾が予想外の破壊をもたらした。厳重に装甲されているはずのHBの背面ジェットパックが薄っぺらいベニヤ板のように爆ぜて割れる。
金属の巨体が空中でバランスを崩した。安全装置が働いたのか真っ逆さまに墜落こそしなかったが、大音響とともに〈ザ・シャード〉外壁を粉砕して展望台に叩きつけられるのが見えた。
「やった……!」あまりの威力にオーウェンや趙ばかりか、撃った当のフィリパまで目を丸くしている。アイリーナに至っては喜びのあまりアレクセイにハイタッチしようとして、あっさり躱されている。
が、すぐに一同は愕然となった。がっくりと膝をついたブリギッテの額には大粒の汗が浮き、鼻血まで滴らせている。
「スイートガールちゃん!?」
「どうした!」
「ごめん……少し、気分が……」
アレクセイが眉をひそめる。「どうやら、乱用は禁物みたいだね」
「……大丈夫よ。皆んなを……無事に、下ろすまでは」
彼女の言葉通り、一同を乗せた床は展望台に横付けして静かに止まる。
オーウェンが散弾銃を握り直した。「ベルガーも、〈階梯〉もすぐそこだ。彼女の容態のためにも、早く決着をつけよう」
フィリパが頷く。「同感だ。向こうも、長引かせるつもりはないようだな」
──意外にも、展望台に着くまで妨害は一切なかった。ブリギッテたちを乗せた床は音もなく展望台に横付けされる。
『……来たか』
あの〈階梯〉を収めたシリンダーの前に、軍用犬と〈ケンタウロス〉を装着したベルガーの軍団が整列していた。が、ベルガー自身の姿は見当たらない。ただその声のみが、館内放送用のスピーカーから流れ出てくる。『一等地で花火を見物しようって魂胆か? 一目散に逃げていれば、まだ命長らえたものを』
「今さら逃げ隠れする気ー? 逃げ場なんてもうないってのに、マルティン坊やはブルっちゃったのかなー?」
『あんな歩く災厄みたいな奴を引き連れた連中に言われたくはない』アイリーナの挑発にもベルガーは乗らなかった。『あんなのと正面切った殴り合いに応じるとでも思ってるのか? 相良龍一はマダムが対処なさる。お前らはここで俺の〈猟兵〉たちに蹂躙されてしまえ』
真っ平よ、とブリギッテが一撃で切って捨てる。「それとも、自分までロンドンごと月まで吹っ飛ぶつもり?」
『お望みとあらばな。お前たちは高を括っているんだろうが、残念ながら俺は本気だ』
ベルガーの軍団が動き出す──猟犬と〈ケンタウロス〉から成る、まさに最終防衛ラインだ。『お前たちの戦闘情報は充分にフィードバックされた。おかげで部下の大半は失ったが、その価値はあった。お前たちの減らず口に耐えた甲斐もな』
何の前触れもなく、双方が同時に動いた。銃火が弾け、観賞用の植え込みが吹き飛び、経路を示した案内板が粉々に砕け散る。
パワーアシスト機能で車載機銃を軽々と振り回し、鋼の人馬たちが一斉に疾走を開始した。金属の蹄でタイルを叩き割り、植え込みやオブジェを軽々と乗り越えて突っ込んでくる。
「不整地戦・山岳戦用の〈ケンタウロス〉か……!」銃火に頭を下げながらフィリパが歯噛みする。「趙、弾幕を張れ!」
「言われなくても張ってるよ! 当たんねえんだ!」ベンチの陰からPKMを発砲しながら趙が自棄気味に喚く。銃口のみ突き出しての
「下がれ!」
金属の蹄が趙たちの隠れていたベンチをボール紙のように粉砕した。さらにそこへ〈ケンタウロス〉たちが構える機銃が火を噴く。反撃どころか、アイリーナも趙も泡を食って逃げるしかない。
だが、さらに銃火を浴びせようとした〈ケンタウロス〉たちが痙攣して止まる──アレクセイの〈糸〉が音もなく足元から忍び寄っていたのだ。
「切断は無理だが、動きを止めるだけなら問題はないな」
「よくやった!」
フィリパが狙撃仕様のガリルを一挙動で構え、撃った。一発の銃弾が二体の〈ケンタウロス〉、その頭部を撃ち抜く。運動性を重視したためヘルメットと申し訳程度の防弾板しかない〈ケンタウロス〉では銃弾の防ぎようもなかった。見事なダブルダウン。
しかし、動きが止まったのはほんの一瞬だった。頭部から鮮血をこぼしながら、車載機銃の銃口が跳ね上がる。
「危ない!」
ブリギッテが反射的に放った矢が分裂し、内部のワイヤーを展開。
フィリパは焦燥を隠せていない。「どうなっている。乗り手を殺して、まだ動いているぞ……!」
頭を低くしながらアレクセイが応える。「これは僕の単なる推測だけど……あれは単にパイロットの動きをトレースするだけでなく、外骨格自体に学習機能が搭載されているのかな。良い馬が乗り手の癖を掴んでいくのと同様に」
アイリーナがぞっとしたような顔になる。「嘘でしょー? 人間を殺しても、鎧だけが勝手に動くってことー?」
「むしろ『鎧』がパイロットの動きを覚えてしまえば、中身は邪魔物になる」
「なぜ屋内戦であんな外骨格を、と思ったが、そんな機能が搭載されていたなら納得だ。この局面では厄介だな」
『やっと気づいたか』会話を聞いていたのか、スピーカーからベルガーの声。『〈ケンタウロス〉にも俺の犬にも、同等のシステムが使用されている。そしてその全てが戦闘情報をリアルタイムでアップデートされている。どれもHWからの応用技術だ。お前たちには馴染み深い代物だろう? 相良龍一に捨てるところなしだな!』
「……意外に口の回る男だったんだね。もっと寡黙なタイプだと思っていたけど」妙なところでアレクセイが感心する一方、ブリギッテは勝手なことを、と目を釣り上げている。
柱の陰から様子を伺うオーウェンがさらに難しい顔になる。「おまけに人間以外も加わるようだ。見ろ」
音もなく、黒い塊が数体、高速で突っ込んでくる。アレクセイやブリギッテには悪夢としか言いようがない、ベルガー制御下の〈ブラックドッグ〉たちだ。散弾と機銃弾がただちに浴びせられるが、皮膚下装甲が容易くそれを弾き返す。
ブリギッテが顔を引き締める。「動きを止めればいいんでしょう? 見てて」
「スイートガールちゃん!?」
何かを感じたアイリーナの声を無視し、ブリギッテは軽く息を吸い、両掌を床面に叩きつける。
〈編まれた世界〉が瞬時に展開された。織物と化した床が波打ち、犬と人馬、双方の足を絡め取った。一矢乱れぬ統制だからこそ、動きを止めざるを得ない。
「今よ!」
ブリギッテが叫ぶまでもなく、全員が走っていた。フィリパの狙撃が立て続けに犬たちの眉間を射抜き、オーウェンの散弾銃に援護されてアイリーナとアレクセイが共に走った。銃剣が閃き、〈硝子〉がボディアーマーを貫く。生き残りの〈ケンタウロス〉たちの只中で、趙の放つ擲弾が炸裂した。
一瞬で半数を失ったのに、敵の戦意は衰えない。機械のような正確な射撃が続く。
「死を恐れない兵士か、直面すると厄介だな!」
「それなら……!」
ブリギッテの両掌が何かを掴み、振り回す。
空気の塊そのものが殺到する〈ケンタウロス〉たちを薙ぎ倒す。見えないダンプカーにでも激突されたような眺め。人馬も犬もミニチュアのように吹き飛び、壁と床と天井に叩きつけられた。
「信じられないな。あまり好きな表現ではないが、これは……魔法に近い」
アレクセイでさえそう驚嘆を漏らさずにはいられない。
「……やはりな。こいつらじゃ相手にさえならなかったか」
だが。
「大火力を繰り出しても、お前たちの馬鹿げた手品で無効化されては意味がない。速さで仕留めるしかないようだ」
その言葉通り、ベルガーが異様な速度で襲い来る。その速さは人間どころか、あの軍用犬たちを凌駕していた。
ベルガーの全身に取り付けられた強化外骨格、そのパーツが滑らかに組み変わり、それに合わせてベルガーの体勢も地を這うようなものになっていく。まるで人間が無理やり四足獣の姿勢をとったような姿だ。
プラスチックの槍が構えた〈盾〉ごと〈ペルセウス〉を弾き飛ばす。
〈竜〉の腕の一本に握られた、やたらカラフルな魔法少女のステッキが眩い光を放つ。生じた隙に、〈竜〉は〈ペルセウス〉の死角に回り込んでいる。足のない形態だからこそできる、クラゲのような異様な移動法だ。
〈鎌〉が高速変形しながら迎え撃つ。だが〈竜〉はそれを受けながら弾き、空中で高速回転しながら腕の一本を突き出した。
青と白に塗り分けられた光線銃が、周囲の暗がりを一掃するほどの荷電粒子ビームを放った。〈ペルセウス〉の〈盾〉を直撃する。飛び散る荷電粒子がドローンたちを穴だらけにし、3D投影されていた竹林が瞬時に消え去る。
(……頃合いだ!)
偽りの竹林が霧散した瞬間、〈竜〉は全力疾走に移った。フロアの中央──あの仮想現実空間に〈ペルセウス〉を誘い込む前、準備した仕掛けのある場所だ。
『何か時間稼ぎをされている感触はあったけど、もう終わったのね?』
正解。
回避すらも度外視したスピードで龍一が向かうのは、金属プラスチックを問わない無数の玩具でできた小山──竈門のようなオブジェクトだ。まるで本物の竈門か溶鉱炉のように鈍く音立てて振動し、隙間から蒸気を噴出させている。
『……それは何?』
さすがの〈ペルセウス〉も困惑したらしい声を漏らす。
『種を明かすと、真っ先に〈手綱〉を潰したのはこいつを隠したかったからなんだ。監視カメラでフロアを一望されたら終わりだからな』
龍一は躊躇わず、腕の一本をそれに突き刺した。ぼろぼろと竈門が崩れ、中から新たな〈竜〉の右腕が露わになる── ロボット、ミニカー、飛行ドローン、模型列車。無数の玩具と、ぬいぐるみまで埋め込まれた、より大きく歪な〈竜〉の右腕。
同時に〈竜〉の下半身が新たに生え始めた。短く、太く、低重心で全身を支えられるような形に。両足の先端はさらに割れ、アンカーのような爪が床面に深々と食い込む。回避など度外視した、ただひたすら衝撃と反動に耐える体型へ変わっていく。
新たな右腕を〈竜〉が大きく後方へ振りかぶる。少し格闘に心得のある者なら絶対に避けるだろう、テレフォンパンチ、と呼ばれる体勢だ。
だが〈ペルセウス〉は油断なく〈盾〉を構え直す──悟ったのだ、これは発射台だと。
『塵も積もれば山となる、って諺が日本にはあってな……この場合は「玩具も集めれば電磁加速パンチになる」かな?』
握り締められた拳が、気合とともに打ち出された。それに応じ〈ペルセウス〉も全身で〈盾〉を叩きつける。
〈盾〉と拳が真っ向から衝突した。何しろ非金属部品が大半なのだ、即席の右腕は瞬時に四散する。
が〈ペルセウス〉の側もただでは済まなかった。直撃は防げても〈盾〉と電磁加速された拳の衝突から発生する衝撃波までは打ち消せない。〈竜〉と〈ペルセウス〉の間で床が円形に抉れ、次の瞬間、フロア自体が爆裂四散した。
「くそ、当たんねえ!」
「一発ぐらい当たりなさいよー! こんだけばら撒いてるのにー!」
ほぼ全員の火力が集中しているのに、ベルガーの強化外骨格──まるで四足獣の骨組みのような異様な形状だ──には擦りすらしていない。
「英陸軍の新型〈バーゲスト〉か! 〈猟兵〉が〈犬〉とは、ドイツっぽにしてはユーモアのセンスがあるな!」
「当てこすりのつもりか、イギリス野郎が……」
回避行動だけではない。〈バーゲスト〉の背から伸びる一対の
〈バーゲスト〉の軌道を読んだフィリパが先読みして撃つ。が、それもあっさりと躱される。
「弾道予測は標準装備か……」
「動きを止めないと話にならない。任せて!」
〈編まれた世界〉を展開させるべくブリギッテは精神を集中させようとする、だがその瞬間、
「妙にしぶといのはお前が原因だったか。なら先に潰すまでだ」
〈バーゲスト〉の動きが変わった──アイリーナやアレクセイでさえ反応できない速さだった。
あっという間に、ブリギッテは抱え上げられて天井を走るダクトの上に連れ去られていた。金属のマニピュレーターが手錠のように両手首を戒めている。
悔やむしかなかった。こいつ、最初から私しか狙っていなかったんだ──!
「離して……!」
「確かに大した力だが、手を封じられると文字通り『手が出ない』か」
まさかこの短時間で初めて見たはずの〈編まれた世界〉の弱点を見抜くなんて──歯噛みするしかない。
「お仲間に呼びかけろ。武器を捨てろと」ベルガーの声はこの期でもぞっとするほど冷静だった。「さもなければ首を捻じ切る」
「冗談じゃないわ!」
「検討するまでもない馬鹿話だ」オーウェンの声も落ち着いていた。あるいは、怒りが頂点を越してしまったのか。「お前は核を破裂させることも、『男らしく』立派に死ぬこともできず、そして彼女を殺すこともできず、牢獄の中で長く長く長い間、泥を吐かされ続けるんだ。お前にふさわしい惨めな余生だろう」
「余生など諦めているさ。しくじった奴がムショでどんな目に遭うか、マダムの下にいた俺が一番よくわかっている」
「どうしようもない人ね」ブリギッテの呟きに憐みが混じる。「マギーがあなたの欲しいものをくれるとでも思っているの?」
「思っているさ。惨めな余生より遥かに価値のある死だ。拒むならお前が先に死ね」挨拶でもするような素っ気なさだった。「〈将軍〉も阿呆だ。俺に言わせれば相良龍一といいお前といい、ただの制御不能な怪物だ。生かしておけば何かの役に立つなんて、計算するまでもない馬鹿話だ」
金属がぎりぎりと喉に食い込んでくる。肺が酸素を求めて荒れ狂い、せき止められた血の流れが頭の中で爆発しそうに暴れている。あと数秒で気管が握り潰されるだろう……。
ジェレミーを殺して、ディロンを殺して、この上まだ殺すの……? まだ殺し足りないの? どれだけ私たちを愚弄すれば気が済むの……?
だが、薄れゆく意識の中、ブリギッテは渾身の力でベルガーを睨みつける。許さない、認めない……! あんたなんかに負けない、勝ち逃げなんてさせない!
今やブリギッテの喉から漏れる声は咆哮に近かった。それに応えたわけではないだろうが──フロアが大きく鳴動した。
展望台のフロアが、轟音とともに真下から爆ぜ割れた。
活火山のようにガラスと建材の破片を噴き上げ〈竜〉と〈ペルセウス〉がもつれ合いながら姿を現した。逃げる間もなく数人と数匹が床と天井に挟まれ圧死した。軍用犬たちの哀れな悲鳴が響き渡る。ブリギッテたちどころか、ベルガーまで唖然としている。
反射的に銃口を向けた〈ケンタウロス〉たちの頭部が、ほぼ一瞬で消失した。〈礫〉の猛威だ。
鮮血をこびりつかせた〈礫〉を、ベルガーが必死の形相で避ける。ブリギッテを戒めていたマニピュレーターが粉々になった。
「龍一……!」
アレクセイやブリギッテたちが知る〈竜〉とはやや異なっていたが、それが相良龍一の変じたものであるのは間違いなかった。
双方、凄惨な姿だった。〈竜〉のひび割れた体表からは内部の機構が見え隠れし、右腕は根元から消失している。〈ペルセウス〉の白銀の装甲も、煤けて無数の亀裂が生じ、艶やかさは見る影もない。
が、対峙する怪物たちの全身を包む闘志は、いささかも衰えてはいない。
『ベルガー、手こずってるみたいじゃない』
「君が……あの時の女の子なのか」オーウェンもまた、目の前の異形とかつての記憶を擦り合わせるのに一苦労するあまり、何とも形容できない表情だった。
『老けたわね、刑事さん』朗らかすぎる口調で〈ペルセウス〉が笑う。マギーの声で、そして〈大きいブリギッテ〉の声で。
『もっとも、〈階梯〉が炸裂する前に全員死ぬかも知れないけど』
「どういう意味だ?」
「皆んな、気をつけて。彼女が言っているのは嘘じゃない……」精神集中に顔を歪めながらブリギッテが苦しげに言葉を発する。「爆装したジェット戦闘機が2機、〈ザ・シャード〉を目指している……」
フィリパは即座に悟る。「〈階梯〉ごとここを吹き飛ばすつもりか! しかし、ただの誘導爆弾では核を無効化するどころか、かえって逆効果だろう」
『ただの誘導爆弾ならね』
「何だと……?」
今度は龍一が反応した。『異常技術……〈魔弾〉応用の投下弾頭か。やってくれたな!』
妙に人間臭い所作で〈ペルセウス〉が肩をすくめる。『それは私じゃなく、英国政府に言うべきね』
さすがにオーウェンは顔色を変えている。「ここからマーハム空軍基地は目と鼻の先だ。あの基地に配備されているF-35Bなら飛来するのに数分とかからないぞ……!」
龍一は視界を切り替える。市内で戦闘を繰り広げている〈分体〉と視点を共有、ザッピングを開始する。
捉えた。初めは黒い点にしか見えなかったが、それは視界の中で見る見るうちに流線型の最新ステルス統合戦闘機の姿を現していく。
が──何かがおかしい。龍一はさらに目を凝らす。
〈手綱〉だ。パイロットは既に殺され、F-35Bは今や〈手綱〉によって制御されている。
またも龍一は唸るしかなかった。『やってくれたな……!』
おどけて〈ペルセウス〉が小首を傾げる。『私に構ってる場合じゃなくなっちゃうったわねえ。どうするの?』
龍一の逡巡は短かった。全員助かるか全員死ぬか、どちらかだ。『別に見捨てやしないさ。〈階梯〉を止め、誘導爆弾を止め、君も止める。実にシンプルだ』
『なるほど。じゃ、第2ラウンドでいいのね?』
『もちろん』
そして両者は再び激突する。
〈ザ・シャード〉を目指し一直線に飛ぶF-35Bに対し、地上からの対空砲火が開始される。
生き残った〈分体〉たちだ。機銃だけでなく、軍やギャングの保有していた対空機関砲や携帯式対空ミサイルまでもが一斉に火を噴く。
最新のステルス統合戦闘機はミサイル撹乱用のフレア放出どころか、回避行動さえ取らない。単純に巡航速度のみであらゆる砲火を引き離す。
対空砲火の生じた地点を複数ロックオン。機関砲の地上掃射に加え、内蔵式のウェポンベイが展開、対地ミサイルまでが放たれた。しかも放たれるのはオリジナルよりずっと出力は低いが〈魔弾〉だ。通常兵器は無効化できるはずの〈分体〉たちが一瞬で塵となり、対空砲火が残らず叩き潰される。
全身穴だらけとなり、消え失せる寸前の〈分体〉の一体がぐにゃりと変化し、〈竜〉を形取る。
『〈手綱〉を介して異常技術を引き出しているのか。〈分体〉にはだいぶ荷が重いな……となると、やっぱり俺が直で行くしかないか』
〈ザ・シャード〉上空、尖塔の直線上に空間を割って何かが出現した。巨大な蝉の幼虫、あるいは胎児にも似た、異様な形態の〈竜〉だ。
広域殲滅型〈ラハブ〉。
F-35Bのウェポンベイが展開、搭載されたペイブウェイ誘導爆弾が露出──〈ザ・シャード〉ごと核を吹き飛ばすための、〈魔弾〉応用の特製弾頭。
投下されればGPS誘導と画像認識により、母機からのレーザーを含む一切の誘導は不要。
だからその前に〈竜〉は動く。巨大な金色の目が、終末誘導寸前のF-35Bを見据える。
数キロに渡り〈ザ・シャード〉上空に空間の裂け目が生じ──そして海が落ちてきた。
何万トン、何十万トンという海水が、瀑布の勢いでF-35Bに叩きつけられる。大出力のジェットエンジンが一瞬で停止し、ジェット戦闘機は木の葉のように落下する──爆撃予定の〈ザ・シャード〉に向かって。
真昼間のはずの〈ザ・シャード〉内が、まるでブラインドでも下ろされたように一瞬で暗くなった。
それが大量の海水のせいだと気づいた瞬間、その場の全員が顔色を失った。
「あっ、これちょっとまず……」
アイリーナの語尾を轟音がかき消す。少なくない窓ガラスが割れ、高度数百メートル上空の風が轟々と流れ込むフロアに、今度はどっと海水が流れ込んできた。〈ペルセウス〉やHBですら、足を踏ん張らなければ押し流される勢いだ。まして生身のオーウェンや趙、フィリパたちはたまったものではない。海水だけでなく〈ザ・シャード〉の調度類、椅子やテーブルや観光客向けのオブジェまでもが土石流のように雪崩落ちてくるのだ。
ベルガーでさえ、ブリギッテを放って一目散に逃げるしかなかった。水量に揉みくちゃにされる彼女を、フィリパの力強い腕が受け止める。
「助け、たす、助けてくれ! 落ちる!」
傾斜した床をずるずるずり落ちていく趙を、アイリーナとオーウェンが引きずり上げようとするが、固太りに加えて装備の重さまであるので容易ではない。結局、アレクセイまで加わることになった。
「ちょっと龍一ー! 味方にまで被害が出てるじゃないー!」
「あんまりありがたい死に方じゃないな、高層ビルの最上階で溺れ死ぬのは!」
だが彼ら彼女らを襲う不幸はそれだけではなかった。エンジン停止したF-35Bがきりきりと回転しながらこちらへ落ちてくるのだ。
「逃げろ!」
オーウェンに言われるまでもなく全員が泡を食って逃げ出す。機関砲を乱射するHBがF-35Bの機首に、まるで百舌鳥の早贄のように串刺しにされる。
床との接触で火花を散らしながら傾いだフロアを一気に滑り落ちたF-35Bは、機種にHBを串刺しにしたまま窓際で危ういバランスを保ってどうにか停止した。
『よ、ただいま』
停止したF-35Bの上から人間形態に戻った〈竜〉が降り立ち、相良龍一の声で呑気に言う。
『つくづく……ふざけた男ね。どこまでも』
〈大きいブリギッテ〉としては、それが正直な感想なのだろう。
『よく言われるよ』〈竜〉が肩をすくめる。『で、続きをやるかい?』
返事の代わりに、傍らのHBが動いた。機関砲とミサイルポッドの斉射態勢に入る──ただし〈竜〉ではなく、アイリーナやオーウェンたちに向けて。
『やっぱりそうか。油断も隙もありゃしないな!』
急加速に〈竜〉の姿が霞んで消える。その巨体から想像できない高速移動で、床面の軌跡まで炎を上げて燃え上がった。
HBが膨れ上がり、内から眩い炎を撒き散らしながら破裂した。搭載されていた機銃弾が立て続けに小爆発を引き起こす。爆炎の中から現れるのは新たな形態と化した〈竜〉だ。〈シェディム〉に比べれば両手両足の揃った遥かに人間に近い形態だが、全身からパイプオルガンか、またはバイクのマフラーのような管状の器官が突出しているのが異様だ。
『……少し、趣向を変えたみたいね』
『なあに、初心に立ち返っただけだよ』
地獄の悪鬼よろしく全身から炎を噴き上げる新たな形態の〈竜〉が、白熱した両の拳をかち合わせた。鉄塊同士が激突したような音が響き、大量の火の粉が散らばる。『さ、第3ラウンドだ』
熱溶解・近接格闘戦型──〈サラマンドラ〉。
白熱した拳が〈盾〉に叩きつけられ、火の粉と轟音を撒き散らす。空気だけでなく床と天井までもがびりびりと振動する。が、白く眩しく輝く円形の盾には傷やへこみどころか、煤一つ付いていない。
『諦めの悪い……』〈ペルセウス〉が腰へ手をやり、何かを空中へ放るような仕草をする。
空中にワイヤーフレームにも似た輝線が展開し……今度は、〈竜〉が大きくバランスを崩す。まるで空気の重さに耐えられなくなったように。
『何……!?』
〈
『私が〈手綱〉でF-35をここまで引っ張ってきたのは』
〈ペルセウス〉の手がウェポンベイを突き破った。誘導爆弾を強引に握って引きずり出し、
『このためよ』
手榴弾でも放るように投げた。〈袋〉で全身を押さえつけられている〈竜〉の回避は間に合わない。
〈魔弾〉の黒い輝きがフロアを埋め尽くした。
「ああ、そんな……」
閃光が晴れた時、ブリギッテは呆然とした。するしかなかった。〈魔弾〉仕様の誘導爆弾が直撃した相良龍一の、〈竜〉の半身は大きく抉り取られ、そして首から上は消失していた。
あれだけ荒々しい優雅さに満ちていた〈竜〉の膝が折れ、膝まづいたままの姿勢で動きを止めた。そのままぴくりとも動かない。
〈ペルセウス〉がようやく〈鎌〉の切先を下ろした。『勝負あったわね、〈小さいブリギッテ〉。あなたの切り札もここで種切れよ。他の奴らは……まあ、今晩の鼠の餌だろうけど、あなたさえ生きていれば』
言葉が不自然に途切れた。すっくと立ち上がったブリギッテは、手にした弓を静かに構えたのだ。
涙を堪えながらも、その矢の先は〈ペルセウス〉の眉間に向けられ、微動だにしていない。
〈大きいブリギッテ〉の口調は、しかし濃い失望を隠し切れていなかった。『残念ね。嘘でも策略でもなかったのよ』
だが。
何の前触れもなく、〈鎌〉の切先が消失した。
示し合わせたように全員が絶句する中、へし折れた刃が鈍い音を立てて転がる。
まだ煙の上がる機関砲の砲口を持ち上げているのは、最後に一体だけ残ったHBだった。もちろん、通常の兵器で異常技術の産物である〈鎌〉が破壊できるはずもない。
〈魔弾〉だ。
しかしなぜあのHBが……? 言葉もなく、一同の目が答えを求めて空間を飛び交う。そう言えば……あの〈竜〉の首はどこへ行った?
『俺が……どうしたって、悪い子の方のブリギッテ?』
奇妙に歪んだ、しかし聞き慣れた声が響いた。声の方向に目をやり、今度こそ全員が声にならない呻き声を上げる。
HBの肩口にあの〈竜〉の首がへばりついていた。しかも張りついた箇所を中心に、どす黒い血管にもコードにも見える紐状の器官が展開し、目に見える勢いでHBの機体全面に広がりつつある。
HBの機体が〈竜〉のそれに、強引に置き換えられているのだ。
『見ての通り……俺は元気溌剌だぜ。さあ……第4ラウンドだ』
『そんなことまでできるの……』〈ペルセウス〉に目があれば、驚愕のあまり張り裂けていたに違いない。『あんた……本物の怪物ね』
『照れるから褒めないでくれ』
HBが機関砲を撃ちながら牽制、その隙に肩部へ装着された対戦車ミサイルが発射された。
『〈鎌〉をへし折っただけで勝ったつもり?』
刃の半ばで折れた〈鎌〉が振り下ろされる。その柄からじわじわと黒い粘液が滴り始めた。床に落ちた途端、それは白煙を噴き上げる。
メドゥーサの血。全てを溶解させる侵襲型ナナイト。
HBに張りついた〈竜〉の首が内側から弾ける。内から果実の皮が剥けたように内から現れた新たな頭は、甲虫の顎にも食虫植物の花弁にも見える。
熱操作・熱転移・広域破壊型
生きたパラポラアンテナのようにぐりんと首を巡らせたそれは、顎とも花弁ともつかない頭部の器官を展開させると、室内の影が残らず消失するほどの眩い光とともにその名の由来となったけたたましい悲鳴を放った。金属をきしらせるような、聞く者全てを不快にさせるおぞましい悲鳴だ。
光と悲鳴を浴びせられた床が一瞬で白熱し、溶けた金属とプラスチックの雨を周囲に降り注がせた。〈ケンタウロス〉たちがレンジに入れられた生卵のように次々と破裂する。
焦点温度、実に数千度に達する熱光学兵器。耳をつんざく悲鳴は、大出力かつ不安定なリアクターから漏れる副産物だ。
〈ペルセウス〉も負けてはいない。折れた〈鎌〉の柄から滲み出る〈メドゥーサの血〉の量が数十倍に増加。膨れ上がった雫のような粘液を、力一杯叩きつけてくる。煮えた油が弾けるような音を立てて、粘液を浴びたフロアの床が溶けるというより消失。
脚部バーニアを噴かして回避、機関砲弾と無誘導ロケット弾を斉射。今の龍一に〈魔弾〉は連射できない。だから通常兵器で攻撃の間隔を埋める。相手が怯みさえすればいい。
回避もせず〈ペルセウス〉が血の滴る柄を突き込んでくる。身を開いて躱しながら〈ペルセウス〉の手首を取り、
『この身体で試すのは初めてだが、案外上手くいくもんだな!』
回し投げで投げた。〈ペルセウス〉の巨体が回転しながら地響き上げて床に叩きつけられる。
再び光と悲鳴を浴びせる。が、そこに〈ペルセウス〉はいない。
『またステルスか……!』
〈シュリーカー〉の電磁パルスが床を照射。白熱した床が弾け飛び、飛び散った飛沫が姿を消していた〈ペルセウス〉に降りかかる。ステルス機能で透明にはなれても、全ての攻撃を無効化はできない。
『……!』
〈ペルセウス〉の怯む隙を龍一は見逃さない。弾の尽きた機関砲を棍棒のように振り下ろす。機関砲は根元から歪んで使用不能になったが、〈ペルセウス〉の肩部が大きく歪む。ここまでの
〈ペルセウス〉も反撃する。〈血〉を先端から滴らせる柄を直接こちらの腹に突き立ててくる。ぶすぶすと煙を上げながら柄が〈竜〉の腹にめり込んでいく。強引に乗っ取ったHBの機体ではあっても、己が肉体の一部をじわじわと溶かされていく苦痛と恐怖に変わりはない。
苦痛を、恐怖を振り払うために龍一は絶叫した。絶叫しながら〈ペルセウス〉の頭部に機関砲の残骸を叩きつける。今度こそ〈ペルセウス〉の頭部を直撃し、双方ともに地響きを上げて倒れ伏した。
倒れ伏し、だがすぐに身を起こす。〈竜〉の砕けかけた拳と〈ペルセウス〉の拳が交差する。クロスカウンター。HBのアームパンチが砕けながらも〈ペルセウス〉の頭部にめり込み、歪みをさらに大きくする。〈ペルセウス〉の鉄拳も〈竜〉の顔面を捉え、破片と体液を盛大に撒き散らした。
HBの機体を強引に乗っ取り戦い続ける〈竜〉。〈鎌〉を失った〈ペルセウス〉。双方ともに凄惨な姿だった。が、戦いは終わらない。
『借り物の拳にしちゃなかなかいいパンチを繰り出すじゃないか……さすがの俺も、あっちこっちが痒いぜ!』
こんな時でも相手を煽ってしまうのが龍一の悪い癖である。
『調子……づくな!』
反撃は思った以上に激しかった。激昂した〈ペルセウス〉が〈盾〉をこれまでに見たことのない勢いで振り上げ、
(あ、これまずいな……)
後悔しても遅かった。浴びたことのない衝撃波を真正面から食らい、〈盾〉を押しつけられた箇所から装甲板がぼろぼろと剥落していく。仮初めの手足は防御すら叶わず、粉々に弾け飛んだ。
そして唯一残った〈竜〉の頭部にも。
束まで突き刺されとばかりに、全てを溶かす〈血〉を噴出させながら〈鎌〉の柄が迫った。
「待て、ベルガー……!」
生き残りの〈ケンタウロス〉を指揮し、展望台の最も高いフロアへ〈階梯〉を収めたシリンダーを運び上げようとしていたベルガーはぎょっと振り返る──血だらけ、傷だらけのフィリパやオーウェンたちが、それでも銃を撃ちながら駆け上がってくる。通常核より遥かに小型とはいえ〈階梯〉の重さでは〈ケンタウロス〉がグロテスクな神輿のように数人がかりでどうにか、という速度だ。
「あいつら……殺すまで止まらないつもりか」
片腕で〈階梯〉を持ち上げつつ、後方へ機銃を乱射する〈ケンタウロス〉に向けて大口径弾が次々と飛来し、驚異的な命中率で脚部を射抜いた。言うまでもなくフィリパの狙撃だ。自重プラス〈階梯〉の重量に負け、バランスを崩した〈ケンタウロス〉がシリンダーに押し潰される。
己を鎮めるように深々と息を吐き、ベルガーは〈バーゲスト〉のバイザーを下ろす。「なら、そうしてやる……!」
全身をたわめ、飛びかかろうとしたベルガーに。
〈編まれた世界〉で空気の屈折率を変え、忍び寄ったブリギッテが跳躍する。
「今度はこっちが不意打ちする番ね……!」
飛びかかる勢いそのままに強化弓の弦を首に巻きつけ、全体重をかけて引きずり倒そうとする。まさに獣のような唸り声を上げるベルガーの首筋、強化外骨格の隙間に深々と何かを突き立てた。軍用品でも何でもない薄っぺらな金属の板──ディロンの遺品となったスマートフォンだ。
ディロン、ごめんなさい。もう一度だけ力を貸して。
可動部がスマートフォンを巻き込み、衝撃でバッテリーが暴発した。ヘルメットが爆ぜ、ベルガーの顔の一部が露わとなる。
「糞娘が!」
怒声と共にマニピュレーターがブリギッテを叩き伏せる。だが彼女は床に叩きつけられながらも、腰の矢筒を宙に放っていた──アレクセイに向けて。忍び寄っていたのは彼女だけではなかったのだ。
アレクセイの手が空中にばら撒かれた矢を掴み取る──予想外の角度からベルガーの外骨格の隙間、露わになった右目に深々と矢を突き刺す。苦痛よりは驚愕に近い絶叫が上がる。
「すまない……僕の腕では、一切の苦痛を与えず君を殺すのは無理だったよ」
「貴様……!」
吠えるベルガーの顔面に銃口を突きつけるようにして、階段を駆け上がりながらオーウェンがリボルバーを2発撃った。ダブルタップ。射撃の腕に関係なく、絶対に外さない距離だ。怒りと無念を刻みつけたまま、ベルガーの顔面が半分ほども吹き飛ぶ。
「起爆装置は!?」
「……確保した! まだスイッチは入っていない!」
全員が深々と息を吐いた。「まさに危機一髪ねー」
「これで後は、龍一と『彼女』の決着だけだが……」
全員の視線が、先ほどまで死闘が繰り広げられていた展望台に向けられる。
そして。
「隊長……妙です。市内での戦闘が終息しつつある。ここだけじゃありません」
銃器対策部隊副隊長の報告に隊長は複雑な顔で頷く。〈将軍〉エイブラム・アシュフォードの(今は最後となってしまった)核云々の放送を聴いた途端、マギー・ギャングたちは怖気づいて次々と投降を始めていた。あれだけ殺しまくっておいていい気なものだが、市民の前で警官が無抵抗の者を射殺するわけにもいかない。
核の炸裂から少しでも遠くへ逃げるための避難は続行中だったが、行く手を塞ぐ放置車を撤去しながらでは遅々として進まなかった。しかも助けを求めてくる市民や投降するギャングを受け入れながらでは、とてもではないが間に合わない。唯一の救いは、銃火がほぼ完全に止んでいることぐらいだった。
「それにしてもあいつら、何なんですかね……」副隊長は市内のそこここに佇んでいる防護服姿の巨漢たちを薄気味悪そうに見やる。「ギャングと戦ってはいたから、味方ではあるんでしょうが……」
「わからん。本当に地の底から湧いて出たのかも知れん」
今や防護服たちは完全に動きを止めていた。子供が恐る恐る小石をぶつけ、大人たちから怒られていても微動だにしない。中に人が入っているかさえ怪しい様子だ。
「……隊長、これを!」
通信士が見せてきたドローンからの空撮映像に、二人は絶句した。
まるで人間大の白い蛆虫が、一斉に移動を開始したような光景だった。ロンドンのメインストリートを、裏路地を、建物の屋根を、HWの群れが移動している。あるものは駆け、あるものは歩くことを忘れたように四つん這いで走っていたが、その目指す方向は同じだった。〈ザ・シャード〉だ。
「戦闘が急に収まったのはこれが原因か……」
「隊長。これは推測なんですが……これは何かの終わりなんかではなく、始まりのような気がしますね。それもあんまりありがたくない方の」
複雑な顔で隊長は頷く。「奇遇だな。私も同じ考えだ」
立ち込める煙の中から現れたのは、ビルの壁からもぎ取ったらしき鉄骨を手にした〈ペルセウス〉だった。
無造作に投げ出されたそれを見てブリギッテが息を呑む。鉄骨に串刺されていたのは〈竜〉の頭部だった。
一度は投げ出した鉄骨を、しかし〈ペルセウス〉は思い直したように拾い直した。力一杯、床に、壁に、串刺しにした竜の頭を叩きつける。
『つくづく……しぶとい奴だった。それは認める』どこか疲れたような声で〈大きいブリギッテ〉。『そろそろ……終わりにしましょ。見て』
〈ペルセウス〉の指さす方角を見て一同は絶句した。白い人間大の蛆虫──HWがぞよぞよと〈ザ・シャード〉をよじ登ってくる。
「一体何だありゃ? この国の人間が低予算で撮った趣味の悪いゾンビ映画か?」
失礼だな、とオーウェンが嫌な顔をする。
〈ザ・シャード〉の最上階にまでよじ登ったHWたちは、戦慄するしかない激しさで互いの肉体を叩きつけ合い始めた。たちまち戦闘スーツが破れ、血と肉がぶつかり合うおぞましい音が響く。うねり、重なり、もつれ合うその姿が上へ上へと伸びていく──人間ピラミッドか、あるいは人体でできた蛇のように。
それに〈ロンドン・エリジウム〉制御下の無人戦闘兵器群が加わった。飛行型の〈ハーピー〉や〈ステュムパロス〉どころか〈アラクネ〉までがちゃがちゃと足音を立てながら取り込まれていく。今やHWの融合体は、HWの肉体とドローンたちを取り込んだ生きた巨塔と化していた。そしてその頂点に生きた櫓のように持ち上げられていく〈ペルセウス〉がある。グロテスクな肉と機械の融合体に、あの甲冑騎士の優雅さはない。
それはまさに巨大な蛇──あるいは
「あれもまた〈竜〉なのか……」
アレクセイの呻きは、全員の心情を代弁していた。〈ペルセウス〉も〈竜〉も、おそらく根源は同じなのだ──うすうす予想はしていても、改めて突きつけられると戦慄するしかない。
『こんなの子供のお遊びと同じ……どんぐりや松の実やきらきらした小石を少しずつ少しずつ貯めておいて、一気に放り投げるの。あ、でもよく考えたらそんな遊びがあるなんて、〈家〉で他に読むものがなくて仕方なく読んでた絵本ぐらいなんだけど』
「いい加減にしてよ。少なくとも、お遊びなんかで人は死なないわ」
『あらあら、あの頃の……別れた頃のあなたなら絶対に言いそうにない台詞じゃない』
「たまには私の言うことも聞いてみたらどう? 血の巡りがよくなって健康にもいい」
『皮肉を言えるようになったら〈小さいブリギッテ〉も一人前ね』
絡み合う肉の塔の先端が〈階梯〉コンテナを飲み込んだ。見る見るうちにそれが上空へと伸びていく。
「ずいぶんとグロテスクな『ジャックと豆の木』もあったものだな」
「……やっぱりあいつが生きた発射台なのか!」
「しかしよお、止めるにしてもどうやって止めるよ? あんな怪獣、もう一匹別の怪獣連れてくるしかないだろ。龍一とか」
趙の苦々しい言葉に全員が黙る。その頼みの綱の龍一からして……。
『……ブリギッテ』
その声に一瞬、ブリギッテは自分の耳より先に正気を疑った。自分の願望が生み出した幻聴なのではと──だが、よく聞けば声は彼女のスマートフォンから聞こえてくる。歪んではいたが、確かに相良龍一の声だ。
ブリギッテは思わずスマートフォンを握り締めた。「龍一! 龍一、無事なの!?」
『あんまり無事じゃないが、脳はずらせた。はは……つくづく便利な身体だよな。自分でもこんなことができるなんて思わなかったよ』
「ごめんなさい、龍一……」ブリギッテは涙声を堪え切れなかった。「私……彼女を止められなかった」
『謝る……なよ』
龍一の声が急速に弱まっている。〈竜〉を構成している身体の、ほぼ大半を喪失しているのだから無理もない。再生能力どころか、生のリソースそのものが失われつつあるのだ。
『君に……頼みがある。君にしか……できないことだ』
ブリギッテが弱々しくかぶりを振る。「もう、私にできることなんて……」
『できるさ。一番強い俺を思い描いてくれ』
「……!」
「ええ……ええ!」まるで──まるで暗闇に朝日が射すように、彼女の顔が一瞬で輝きを取り戻した。「できる。それなら、できるわ!」
龍一は弱々しいながらも、確かに笑ったようだった。『それでこそだ』
『……そろそろかしら。あんまり高くしても自重で倒れかねないし』
偽竜に半身を埋めた〈ペルセウス〉が呟く。『それにしても、この後に及んで何かの感慨があるかと思ったけど何もないわね。ロンドンを月まで吹っ飛ぶと決める前も、決めた後も』
〈階梯〉のコンテナを飲み込んだ偽竜がさらに身体を伸ばす。既にその重みに耐えかねて〈ザ・シャード〉がばらばらと崩壊しているが、大した問題ではない。どうせすぐに何もかもが灰になるのだから。
幼い少女に戻ってしまったかのように、〈大きいブリギッテ〉は高らかに叫ぶ。『さあ、ロンドン中にどんぐりをぶち撒けなくちゃ!』
そうは行くかよ、と言わんばかりに。
まるで戦車砲弾の直撃を受けたように巨蛇の胴体が抉り取られ、一体化していたHWやドローンが粉々に飛び散った。
愕然と彼女は周囲を見回した。砲撃? ミサイル? そんなもので曲がりなりにも〈竜〉の眷属である偽竜を傷つけられるはずが……。
『なんか……たっぷり食ってたっぷり寝た後みたいな気分だな。いつもより調子がいいくらいだ』
〈竜〉の──相良龍一の外観はまたもや大きな変化を遂げていた。最も目立つのはそのサイズだった。人間と変わらないほどに小さく引き締まった体躯。言うなれば〈竜〉を全身に纏った龍一、とでも言えばいいのか。時折、稲光のように全身を走る
『しかし、ブリギッテの目から見た俺ってこんなふうに見えるのか……そう考えると妙な気分だな』
「そ、それはあまり深く考えないでほしいかな……」
しかしこれはブリギッテの〈編まれた世界〉によって構成された仮初めの身体、言ってみれば時間制限付きの魔法だ。極めて儚いものでしかない。そう思えば、余計に負けられない。
(まあ、負けてもいい戦いなんてあった試しはないが……)
龍一は思い、思いながら音がするほど拳を握り締める。
『何を……どうやって……』
『充分な準備運動をしたのさ』驚愕のあまり口調を取り繕うことすら忘れている〈大きいブリギッテ〉と対照的に、龍一はしれっと言い放つ。『なるほど、今の俺の身体を形作っているのはブリギッテだから、ブリギッテと同じ力を少しは使えるってわけか』
龍一は跳躍、空中で身を捻りながら拳を放つ。またも偽竜の胴体が大きく穿たれ、小さくない穴から〈階梯〉のコンテナが覗いた。
『おー、こりゃいいや。何のオプションもなしに電磁加速パンチが撃てるのか』
今さら新しい能力を追加されるよりは、今ある能力が強化された方がありがたい。ブリギッテらしい手堅い選択だ。
『余計なものを取り込みすぎて技にキレがなくなってるぞ。身も心もたるんでるんじゃないのか?』
『……!』
偽竜に埋もれていた〈ペルセウス〉が動いた。腐肉と金属片を撒き散らしながら半身を引き抜き、〈竜〉の前に着地する。
『少しは胡椒が効いてきたかな? そうそう、それでいいんだよ』
『……一つわかったことがある』〈盾〉が凶悪なまでに輝く。『あんたが二度と喋れないようになるまで、あの子は絶対に屈しない。何しろ、首から蘇るくらいだものね』
『そこまで詳細に観察されていたとは汗顔の至りだ。相良龍一ソムリエの資格、初級ってとこかな』
答えの代わりにミサイルが飛んできた。偽竜と一体化した〈アラクネ〉や〈ステュムパロス〉からの一斉射撃だ。
間髪入れず龍一の手が空気中からプラズマを抽出し、鞭のように打ち振った。飛来する砲弾とミサイルがことごとく爆発する。
『プラズマの導爆索か。もっといろいろ試してみたいもんだが、時間が限られているのが惜しいな』
『……どうして? どうしてここまでして、私の邪魔をするの? 〈小さいブリギッテ〉といい、あなたといい……』
〈大きいブリギッテ〉の声には、怒りとともに色濃い困惑が隠し切れていなかった。いや、本当にわからなくなってしまったのかも知れない。
『生憎だがな、〈大きいブリギッテ〉、俺は俺が笑いたい時にしか笑わないことにしてるんだ』龍一は一歩進み出る。『そして君が今やっていることは、何一つ笑えないな……!』
一歩踏み出して──龍一は〈ペルセウス〉の背後に躍り出ていた。まるで空間を飛び越えたかのように。いや、実際そうなのだろう。
『……うん?』
一瞬、〈竜〉と〈ペルセウス〉は呆気に取られてお互いに見つめ合ってしまった。が、龍一の方が我に帰るのがほんの少し早かった。
容赦のない正拳突きが〈ペルセウス〉の背面、人間で言えば脾臓の部分を直撃した。
『ぐ……!』
『今のは親父直伝だ。どうも相良家にはろくでもない技に限って一子相伝する悪癖があってな』
『何が……親父だ!』〈ペルセウス〉の怒気が膨れ上がる。『……私が! この17年間! どんな思いで!』
繰り出された一撃に龍一はあえて前へ出、跳躍。一瞬で〈ペルセウス〉の懐へ飛び込み、胸部へ肘を突き込む。打突した部分が放電し砕けた。
『……!』
『俺の年月だって、アレクセイの年月だって、ブリギッテの年月だって無じゃないさ。あまり意味もなく俺たちを見下していると痛い目見るぜ?』
(マギーが〈ザ・シャード〉を俺たちとの決戦の地に選んだのは、どうも〈階梯〉を炸裂させるためだけじゃないんじゃないのか?)
(むしろ、〈階梯〉は龍一をここに誘導するための囮……そういうこと?)
(そういうことだ。ここの地下深くには何かあるんだ。だが、今からボーリング作業をやってそいつを掘り出し、調査している時間はない)
(地中貫通爆弾のような火力も、私たちにはないからな)合点したようにフィリパが頷く。
(でも、突破口がないでもない。ブリギッテの、えーと……)
(〈編まれた世界〉。即席でつけた名前だけど、案外しっくりしていると思って)
(そう、その〈編まれた世界〉なら地下にある何かを探り、なおかつそいつに干渉できるかも知れない。ただ、どうしてもある程度の時間と手間はかかる)
アイリーナが鼻で笑う。(もっとはっきり言ってくれていいのよー、龍一。命を代償に時を稼げってねー)
こんな時なのに、龍一は笑いそうになった。あえて彼女が今の姿を『龍一』と呼んでくれたのが妙に嬉しかったのだ。(そこまでは言わない。だけど、皆にはブリギッテが集中している間、何があっても彼女を守ってほしい。何があってもだ。今までに輪をかけて過酷な戦いになる。できるか?)
(やる)フィリパの答えは簡潔だった。実質的にこの面子の指揮官となってしまった彼女が腹を括っていないはずもない。
オーウェンは一つ溜め息を吐き、散弾銃を確かめる。(今日一日で馬鹿げた話を何度聞いたかわからんが、その馬鹿げた話が唯一の命綱とあっては、嫌も応もあるまい)
(もう今日は出血大サービス……いや、血と肉と骨と脳味噌まで売り尽くし大サービスってことにしてやるよ)と趙。(戻ったら目玉が飛び出る金額を叩きつけるからな。覚悟しとけよ)
アレクセイもまた妙にすっきりした顔をしている。(僕たちの目標も絞られつつある。彼女を止め、核を抑えれば勝ちだ。それまでの過程が問題になってくるけど)
龍一はアレクセイの、ブリギッテの、そして全員の顔を見た。(行こう。これが最後の戦いだ)
ブリギッテは目を閉じ、意識を沈めていく。深く深く、〈ザ・シャード〉の下、アスファルトと分厚い地層のさらに下の下まで。〈編まれた世界〉が触覚代わりになってくれる。方法自体は難しくない。織物から伝わってくるものを読めばいいのだから。
(アレクセイは〈糸〉を触覚代わりに使うそうだけど、きっとこんな感じなのね……)
合点しつつ、さらに意識を沈めていく。やがて──何かが意識に引っかかった。思ったより遥かに大きい。そしてそれは、確かに生きていた。身じろぎこそしないが、全くの無機物ではない。〈編まれた世界〉を通してはっきりとわかる──動いていないだけだ。明らかに脈を打ち、意識がある。
(人工物? それにしては大きすぎる……いえ、生き物にしてもこんな大きなものが……)
何より、初めて見るはずのそれには既視感があった。ブリギッテは思わず口に出してしまう。
「竜の……骨?」
『〈小さいブリギッテ〉、一体何して……まさか!』
〈大きいブリギッテ〉の怪訝が、初めて確実な動揺に変わった瞬間だった。
『ゴミ屑が! やっぱりまとめて殺しておけばよかった……〈ヒュプノス〉といい、あんたたちといい!』
床を踏み抜かんばかりの勢いで疾駆しようとする〈ペルセウス〉の前に、〈竜〉が先回りする。『彼女は精密作業中だ。せめて邪魔するなよ』
『目障りな男ね……どこまでも!』
彼女にすれば偽らざる心情には違いない。
あの〈サンダル〉──反重力ブーツによる蹴り、だが跳躍を使うまでもない。軽く後方へステップして回避。
『有無を言わせぬ大火力でぶん殴ってくるならまだしも、それさえなければ大したことないな。粋がってナイフを振り回す路地裏のチンピラ以下だ』
『……!』
折れた〈鎌〉の柄から滴る〈血〉の量が爆発的に増大した。巨大な風船のように〈血〉の滴が膨れ上がり、叩きつけられる。
跳躍で回避。だが出現先にまで〈血〉が追いかけてくる。龍一の出現先を読んで予め撒いてあったのだ。わずかに降りかかっただけで、大小無数の丸い穴がぶすぶすと煙を上げ始める。
(限界が近いな……俺も、向こうも)
今の自分を突き動かすのは気力だけだ、との自覚はある。
ブリギッテが目を凝らせば凝らすほど、それは竜に見えた。違いといえば龍一が変じた〈竜〉は人型に近かったが、こちらは爬虫類をより大きく、より恐ろしげにしたような姿だった。おおよそ全ての人が「ドラゴン」と聞けばこうであろう、と想像する造形だ。
(こんなものが〈ザ・シャード〉の、ロンドンの地下に……)
ロンドンっ子の彼女としても驚嘆を禁じ得ない。何より、それは動きこそしなかったが、紛れもなく生きていた。見つめているだけで膨大なエネルギーが渦巻き、幾筋もの束となって地上へ伸びているのがわかる。
(〈ペルセウス〉の強さも、龍一が妙に調子がいいのも、きっとこれが理由ね……!)
そこまではわかった。問題は、これをどうするかだ。単純に考えれば破壊するのが手っ取り早いが、フィリパが指摘した通りそんな火力は今の彼女たちにはない。
(〈ザ・シャード〉の〈階梯〉をどうにか持ってきて……駄目ね。地下で本物の核が炸裂したらそれはそれで大変なことになる)
待って、いい線行っているんじゃない? ──彼女は素早く検討した。要は、あれのエネルギー供給を絶てばいいのだ。
(龍一、聞こえる? あなたが思った通りのものを見つけたわ。私に考えがあるの)
龍一からの返事は短かった。(任せる)
四方からの集中砲火に、ついに最後まで機銃を乱射していた〈分体〉がぼろぼろと崩れ落ちた。だが、今さら退きも進みもできない。精神を集中させて微動だにしないブリギッテを抱えてはなおさらだ。
「落ちろカトンボどもぉ! ……まったく、こんなクソバカ兵器が役に立つなんて、人生何が幸いするかわかんねえな!」
趙が乱射しているのは、大型の箱に散弾銃を詰め込み強引にトリガーとグリップを取り付けたような奇妙な銃器だ。何でも本人に言わせれば、火薬ではなく電気で銃弾を射出する特殊銃らしい。
言うだけあって、まさに雲霞のごとく群がってくる〈ハーピー〉はぽろぽろと撃ち落とされている。が、何しろ数が多い。
「はいはい用意周到用意周到ー! おっちゃん弾ー!」
「俺の扱いどんどん雑になってないか!?」
「感謝はしているから弾をくれ。身動きが取れない分、弾幕を張るしかない」
淡々と撃ち続けるフィリパと対照的に、アイリーナはまさに
「大抵の兵隊は、弾が尽きたら逃げるしかないけどさー……」
飛びかかってくる〈ブラックドッグ〉の口中に深々とAK装着の銃剣を突き入れる。悲鳴を叩き潰すように銃弾を発射。「私の場合は弾を撃ち尽くしてからが本番よー! 切ってよし、殴ってよし、刻んでよしー!」
「その元気を少しはこちらにわけて……いや、やっぱりいらないな……」
他にやることがないといった表情で、オーウェンは散弾銃を撃ち続けている。「それにしても、ブリギッテはまだなのかね?」
「職人を急かしてもいいことは何もありませんよ」〈糸〉を繰り出しながらアレクセイが冷静に指摘。「しかし、このままではどうにもならないのも確かですがね……」
重々しい足音がフロアを揺るがす。
「ちょっとー! あんなのがどうやってここまで登ってきたのよー!?」
「そんなことより、あれこそ龍一先生の出番だろうがよ!」
〈アラクネ〉の全身に装備された銃と砲が、一斉に向けられる。
そして。
ブリギッテの意識がついに「何か」を探り当てた。
「あ……」
思わず彼女は小さな声を漏らした。一瞬で理解したのだ、自分がいかに危険に晒されていたのかを──そしてそれを払いのけるために、皆がどれだけ苦戦を強いられたかを。
そして、それが今報われようとしているのを。
あの竜の骨が、少しずつ解けている。分解している。消えるのではない、自らが生まれてきた〈織物〉に還元されつつあるのだ。
(……やっとか)
彼女がその声を聞いた時。
それがこの戦いの、終わりの始まりとなった。
『何? 何が起きたの……信じられない!』〈ペルセウス〉──〈大きいブリギッテ〉は見るも憐れなほど動揺していた。『あの〈竜骨〉を……無に返すなんて! ああ……!』
『種も仕掛けもある手品だったわけだな。道理でああもバンバン大技を連発できたもんだよ』
『あんたこそ舐めるな! 〈竜骨〉からの供給がなくても、残りの力で捻り潰してやる!』
〈盾〉の輝きと振動がさらに強くなる──今度こそ本気で潰しに来ると悟る。
しかし、龍一は逃げない。真っ向から〈盾〉の重圧に立ち向かう。
『諦めが悪い……いくら殴ったって無駄なのに!』なおも〈盾〉の出力を上げながら〈ペルセウス〉が迫る。『たとえこの世の果てまで殴り続けてもこの〈盾〉は壊せない。大人しく潰れたらどう?』
再び〈袋〉の重圧が全身にのしかかる。だが動ける。今の俺の動きを止めるには至らない──!
『そりゃ俺以外の奴に言ってくれよ。相良龍一は諦めない!』
はっ、と彼女が思わず呆れとも感心ともつかない吐息を漏らしてしまった瞬間。
その一瞬を龍一は見逃さなかった。
『無拍子』
今までのテレフォンパンチとはかけ離れた、予備動作を一切欠いた拳。
それに加えて拳と〈盾〉の隙間に〈礫〉が出現──それが深々と叩き込まれる。
そして絶対無敵の盾に大きな亀裂が走る。
決定的な大音響が轟く。〈竜〉の拳は〈盾〉、そして〈ペルセウス〉の右腕の一部までも粉砕していた。
『動くな!』バランスをどうにか立て直し、彼女はなおも龍一に対峙する。『こちらにはまだ〈手綱〉がある! 〈階梯〉を遠隔操作で簡単に起爆……』
『〈手綱〉がどうしたって?』
龍一の問いに答えたのは悲鳴だった。〈ペルセウス〉の左腕が、火花を散らして垂れ下がったのだ。
『があっあ!?』
『君にもわかっているんだろ? いわゆるその、あー……年貢の納め時だって。じゃ、まずは歯を食い縛れよ』
『え』
一瞬のうちに、〈竜〉は〈ペルセウス〉の間合いに踏み込んでいた。まさに龍一の動きそのものだ。
『ああ、悪い。歯なんてなかったっけ』
ほぼ密着状態から放たれるワンインチ・パンチ。
それが〈ペルセウス〉の胴体の芯をまともに打ち抜き、ボウリングのピンより容易く後方へ弾き飛ばす。
『さてここで問題です。あのF-35に搭載されていた誘導爆弾は何発だったでしょう?』
『……!』
偽竜の体内に飲み込まれたF-35Bのコクピット、既に事切れているパイロットのHUDに光が灯る。
それはまもなくあの金色の目──〈バジリスク〉の目を形成し、きょろきょろとヘルメットの表面で蠢き始めた。
やがて「これだ」とでも言うように、視線が何かを探り当てる。コクピットの兵装選択スティックが勝手に動いた。兵装切替──爆撃モード。
ウェポンベイの扉が開き、最終安全装置を解除。黒い魚のような誘導爆弾が、重力に従って落下し──その真下に〈ペルセウス〉がいる。
──あんた、と呆然と彼女は呟く。『案外と、根に持つタイプじゃない……』
黒い閃光が弾け、同時に鈍い地響きが〈ザ・シャード〉を揺るがし始めた。
ロンドンから逃げる者も、踏みとどまって戦い続ける者も、あるいは逃げようにも逃げられない者も。誰もがそれを見た。偵察機のコクピットから、あるいはスマートフォンやタブレットの画面を通して。
「信じられない。私たち、何を見ているの……?」
「〈ザ・シャード〉が……沈んでいく……」
巨塔は今や、はっきりとわかるほどに傾いていた。まるで流砂の上に置いた文鎮のように──音もなく、地の底に吸い込まれていく。正確には基部から目に見えないほど細かな糸となって解かれていっているのだが、無論、それ自体は大して重要でもない。
「もしや……」
地に沈んでいく〈ザ・シャード〉の空撮映像を見ながら、女性秘書は震え声で言う。「もしやこれが、陛下のお望みだったのですか?」
「全てではない。が、イスラエル製の花火ごときであの〈竜〉を殺そうなぞという戯言めいた計画に比べれば、よほどそれに近い」〈犯罪者たちの王〉の声は覚め切っており、むしろ退屈そうですらあった。「相良龍一が逃げずに踏み止まるなど、完全に予想の範疇でしかない。核と聞いて一目散に逃げ出すようなら、そもそも私の敵ですらないからな」
やや表情を改め、彼は秘書に問う。「衛星軌道上からの監視は続行中か?」
「はい。たとえ〈階梯〉が起爆してもロンドン中心部の〈竜〉観測は可能です」
「よろしい。〈将軍〉は斃れ、クーデター部隊もマギー・ギャングも事実上壊滅、〈ペルセウス〉も敗北……となれば、この後のより強く愛ある世界について考える必要がある。何せ今日一日で、あらゆる軍・情報機関・犯罪組織は思い知っただろうからな。異常技術──〈竜〉の応用技術が、いかに都市戦闘において猛威を振るうかを」
「〈
「怒るだろうさ。だがそれがどうした? あんな無菌室のマウスじみた連中を怒らせただけで殺されていたら、命がいくつあっても足らんよ」〈犯罪者たちの王〉は真顔のまま、力一杯両掌を打ち合わせた。「さあみんな、ティンカーベルを呼ぶために、もっと大きく手を叩いて!」
『〈ザ・シャード〉も限界か……むしろよく保った方だな』
全身に今まで感じていなかった痛みと疲労を感じる。ブリギッテの「魔法」も解け始めているのだ。
限界なのは俺も同じらしい……龍一はほっと息を吐き、そして。
〈階梯〉を収めたシリンダーに腰を下ろして足をぶらぶらさせている、その若い女を見る。
一瞬ブリギッテかと思った。が、似ているが違う。その女の髪はブリギッテよりもっと透き通ったプラチナブロンドであり、その氷のように澄んだ青い瞳もブリギッテの優しいラベンダー色の瞳とは違う。
若い女、というより少女に見えた。全身これ秘書、と言わんばかりの、そっけない濃紺のスーツ姿。ただ毒々しいほどに真紅のハイヒールだけが、秘書然とした見かけにそぐわない。
『君は……誰だ?』
恐ろしげな龍一の見かけにも、若い女はまるで怯えていなかった。それだけでも尋常ではない。「あなたは私を知らないけど、私はあなたを知っている。そして私の主も、あなたのことをよく知っている」
謎かけのような言葉──だがその直後、龍一の中で何かが閃いた。
『……君の雇い主の名前は誰だ?』
人形めいて見えるほど整った、その口元がゆっくりと吊り上がる。悪意の滴るような笑みだった。
「我が主のお言葉を伝えます。『性悪なトカゲが、愉快な仲間もろとも月まで吹っ飛べ』」
『……待て!』
龍一の声に、若い女は嘲笑を残して消滅した。まるで夢の中へ滑り込むような、音も光もない消え方だった。
同時に、場にそぐわない軽快な電子音が響いた。
『〈階梯〉が……!』
凍りついたような時の中、デジタル表示が動いた。4:59:59。
「龍一!」
『ブリギッテ、どんな手を使ってでもここから逃げろ。今すぐにだ!』
「……おい、一体何が起こっているんだ? それとも私の目だけがおかしくなったのか?」
狼狽するオーウェンを誰も笑わないのは、全員それどころではなかったからだ。
落ちていく、落ちていく。果てしなく空へ落ちていく。
ブリギッテの〈編まれた世界〉が生み出したのは、果てしない深みを持つ青空と同じ色の底なし穴だった。
それに向けて全てが落ちていく。まるで潮が満ちる砂浜に掘った穴のように、何もかもが全く別の空間へと引きずり込まれていく。
「〈階梯〉が炸裂するのが先か、誘導爆弾が〈ザ・シャード〉ごとそれを吹き飛ばすのが先か、それともどこへともない底なし穴へ落ちるのが先か……」
「いずれにしてもお先真っ暗って感じねー」
「いやそこで諦めんなよ! 何とかして逃げる方法考えろよ! 言っとくけど俺、あと三百年ぐらいは長生きしねえと空なんて飛べねえからな!」
「そう、それが正解よ。飛んで」
全員がぎょっとしてブリギッテの顔を見たが、彼女は大真面目だった。「ここから飛べば、私がどうにかして皆んなを地上まで降ろせる。でも、きっと私はそれ以外何もできなくなる。だから……『それ以外』の方を頼みたいの」
「……バランスを崩したり、倒れてくる建物に叩き落とされたりしたら?」
「一貫の終わり……というわけだな」
「そう、だから今のうちに謝っておく。ごめんなさい」
選択肢はないか、オーウェンはそっと溜め息を吐く。「君は確かに龍一に似てきたよ」
「やろう。他に方法はないのなら」アレクセイに逡巡はなかった。
「……ま、スイートガールちゃんを信じた結果として命を落とすんなら、本望かなー?」努めて軽い調子でアイリーナ。オーウェンは肩をすくめ、趙まで口をへの字にしながらも頷いて見せる。
「ありがとう。皆さん、私が命に替えても……」
「子供が大人のために命を賭ける、と軽々しく言ってはいけない」厳しい顔でフィリパが諭す。「全員で帰還してこそ、我々の勝利だ」
そして〈ザ・シャード〉が限界を迎え、最後まで無事だった展望台が大きく傾いた瞬間。
彼女を信じて、
全員が飛んだ。
〈竜〉の右足首に、じゃらじゃらと音立てて何かが蛇のように絡みついた。
〈鎖〉。かつて王女アンドロメダが生贄に捧げられる際、その手足を戒めた鎖。
『よせよ、〈大きいブリギッテ〉……今さらそんなことしたって罪滅ぼしにはならない。かえってそこから遠ざかるだけだ』
『罪滅ぼしなんてするつもりもない。最初から』
半壊した〈ペルセウス〉の頭部では表情の現しようがなかったが……表情があれば、彼女は笑っていたに違いない。涙を流さずに泣くような、ぐちゃぐちゃの笑顔で。
『私の負けよ。でもあんたにも勝たせない。〈階梯〉ごときじゃあんたを殺せないだろうけど、あんただって守ろうとした全てを失うわ……ロンドンも、命も、そしてあの子も』
〈鎖〉がめきめきと音立てて〈竜〉の右足首を潰していく。だが龍一は何一つ行動を起こさない。ただ悲しげに、見る影もない〈ペルセウス〉を見下ろしている。
『もう一度だけ言う。やめろ、俺には痛くも痒くもない』
『心ない素振りをしたって無駄。あんたが血も涙もない奴だったら、そもそも尻をまくってロンドンから逃げ出しているもの。その甘さが、結局命取りになるの。だからこそあの子も絆されたんでしょうけど』
『……わかったよ、〈大きいブリギッテ〉』
悲しげに目を伏せて。
龍一は躊躇いなく手刀を振り下ろす。それだけで、〈鎖〉を巻きつけた右足首が呆れるほど綺麗にすぱんと切れた。
『な』
『俺のその足、くれてやるよ。せめてもの餞別代わりだ』
迂闊だった。迂闊としか言いようがない。相良龍一とは、こんな苛烈な行動を躊躇わない奴だった……!
今度こそ彼女は落下する。底なしの青空の中を真っ逆さまに。
〈鎖〉の端を握って離さない彼女の、残りの生命力を惜しみなく〈鎖〉に注ぎ込んだ彼女の、もうその身体を押し留めるものは何もない。
龍一の右足首が、瞬時に変形する。新たな器官を形成、擬似的なラムジェットエンジンとなり、豪炎を噴きながら、彼女の罅だらけで砕ける寸前の胸部装甲を。
まるで窓ガラスでも踏み抜くように、容易く突き破った。罅の隙間から血煙が噴出する。もう止まらない。残り少ない命そのものが流れ出ていく。
『相良……龍一いいいいいいいいいい!』
落ちていく、落ちていく。底なしの青空の中を落ちていく。
落ちながら、彼女は彼の顔を見ている。どんどん小さくなっていく、勝ったはずなのに悲しげな、彼女を殺した少年の顔を。
死ねない──懸命に怒りを奮い起こした。強引に翼を形成し、奈落から飛び立とうとする。あいつをこのままにはしておけない──あんな目をした奴をブリギッテの側に置いておいたら、あの子は最後まで戦うに決まっているじゃない! 許さない、許せない、あの子のためにも自分のためにも!
どうにか形を取り始めた奇形の翼が……動きを止め、ぼろぼろと崩れ始めた。
『な……』
彼女の意思ではない。
『ギルバート……! あんた、ここぞとばかりに……!』
そして上向いた彼女の目に。
真っ逆さまにこちらへ向けて落下してくる〈竜〉──相良龍一の姿が映る。
信じられない。あいつ、とどめを刺しにきやがった……!
私を奈落に突き落としたのは殺すためじゃなく、距離を稼ぐためだったのか。それも確実に仕留めるために。
大きく後方へ振りかぶられた〈竜〉の右腕が、ほぼ胴体と変わらない大きさと太さに膨れ上がる。拳は今や戦車どころか、戦艦さえも殴り壊せそうなサイズに。そして腕から幾十と突き出た器官が紅蓮の炎を噴き出し、落下速度をさらに加速させる。
『〈犯罪者たちの王〉……プレスビュテル・ヨハネスも、そして俺も。そのうち君が行くところに行くだろう』
龍一の声は変わらない。静かで、穏やかで、そして悲しげだった。『先に行って待っていてくれ。ここよりは遥かにましだろう』
『はは……どうかしてるよあんた……』
口元から勝手に笑いが漏れる。他になす術もないから、笑うしかない類の笑いだ。
本当に、どうしてこんな奴に、私は勝てると思ったんだろう?
〈将軍〉配下のクーデター部隊も、〈ロンドン・エリジウム〉の無人戦闘兵器群も。そしてギルバートでさえも勝てなかった怪物と、どうやって戦えるつもりだったんだろう? どうやって勝つつもりだったんだろう?
『ははは……ねえヨハネス、犯罪者たちの王様……』
だから彼女の発した最後の言葉は、後悔でも呪詛でもなく、ただの純粋な疑問だった。
『教えてよ……あんた、あんな奴とどうやって戦うつもりなの? どうやって……勝つつもりなの?』
──そして、巨大な拳が〈ペルセウス〉の頭部を粉砕すると同時に。
青空の底の底で〈階梯〉が炸裂した。
〈ザ・シャード〉から立ち上った閃光に、誰もが覚悟し、目を閉じた。自分の身を、家族の身を、あるいは隣にいた誰かの身を抱いて。
しかし意に反し、いつまで経っても肌に熱も痛みも感じられない。
恐る恐る目を開いた人々は、またも目を疑うことになった。
「〈ザ・シャード〉が……」
巨塔は跡形もなく消えていた。まるで何もかもが夢だったように。
「……俺たち、生きてる……のか?」
「これで生きてるんだったら……感謝は神様にした方がいいな」
「まずスイートガールちゃんにする方が先でしょー?」
一同は呆然としていた。するしかなかった。
〈ザ・シャード〉が屹立していた一帯には、今や何もなかった。広大なクレーターでもできていた方が、まだ理解は容易く心穏やかだったかも知れない。だが〈竜〉と〈ペルセウス〉、そして〈編まれた世界〉の奔流に晒された数キロ四方の大地には、鏡のようにつるりとした、どこまでもどこまでも滑らかな平面が広がっていただけだった。瓦礫どころか、塵一つない。
「……そう。行ってしまったのね」
ブリギッテは呟いた。涙は流れなかった。既に悟ってしまったのだ。ギルバートも、〈大きいブリギッテ〉も行ってしまった。あの奈落に開いた青空の向こう側へ行ってしまったのだ。永遠に。
ある意味ではこうなるしかなかった、という思いもあった。ロンドン自体を憎み災禍を撒き散らそうとした〈大きいブリギッテ〉も、父親を殺めてしまったギルバートも。そして彼と彼女から永遠に取り残された自分も。だがそれまでに、一体何人が死んだのだろう?
いや、まだもう一つ考えることがある。
「龍一……」
彼女は弾かれたように身を起こした。「龍一は!?」
「ちょっと、スイートガールちゃん!?」
アイリーナの声に耳を貸さず、ブリギッテは次の一歩から全力疾走した。
スケートリンクより滑らかな、滑らかすぎる大地を駆けるのは彼女ですら一苦労だった。何度も足を滑らせ、膝をしたたかに打った。それでも走るのをやめない。やめられなかった。龍一まで、あの青空の向こう側へ行ってしまったら──彼女は身震いしてその考えを追い払い、再び走り出した。
「龍一!」
はたして、彼はいた──抜け殻のような姿で。
龍一は仰向けに横たわっていた。ブリギッテはもう少しで心臓が止まるところだった──彼の右足首はすっぱりと切り落とされ、噴水のような勢いで鮮血がほとばしりでている。だがそれ以上に、ブリギッテは一目で、より致命的な事態が起きているのを悟った。彼はぴくりとも動かず、それどころか息をしていない。
あれほど生命力に満ちていた頑丈な身体が、今では指でつつけばぼろぼろと崩れそうだった。
「駄目よ! 戻ってきて龍一!」
叫びながら彼女は〈編まれた世界〉を展開させた。理由や根拠があるわけではない。だがこれが〈竜〉と根源を同一にするものなら、死にかけている龍一を救うこともできるのではないか──そう思っただけだ。何より、座して彼の死を見守るのが耐えられなかった。
ひたすらイメージを強めていく。弱まり、どこかへかき消えていく彼の生命力自体を繋ぎ止めるものを。彼と自分を繋ぐものを。空中をキャンバスに見立てて絵を描くような作業だ。まして、ベルガーとの戦闘で散々に打ちのめされた身体で、〈竜骨〉を無に還元した後のその身体で、精神を集中するのは並大抵ではなかった。全身がみしみしと軋み、一度止まっていたはずの鼻血が再び盛大に滴り始めた。
「やめろ、ブリギッテ! 君の身体が保たないぞ!」
アレクセイの制止は聞こえていたが、聞くつもりもなかった。恐ろしかった。ギルバートも、〈大きいブリギッテ〉も去った今、彼のいない世界に耐えられなかった。死んだ方がましだと思った。
「戻ってきて、龍一!」全身を苛む苦痛の中、彼女は声を限りに叫んだ。
「一人にしないで!」
──かは、と弱々しい吐息が聞こえた。
我に返り、彼女は龍一の口元を見つめた。逞しい胸板が上下を始めている。無我夢中で彼の手首を探った。弱々しいが、脈拍が戻ってきている。切り落とされた足首までもが、夢であったように元に戻っていた。
「……ッテ」
「龍一……!」一気に全身から力が抜け、へたり込みそうになった身体をアイリーナとフィリパとアレクセイが慌てて支えた。今までの人生、ここまで安堵したことはない。「よかった、龍一……」
「……ない」
「え?」
「すま……ない」かさかさにひび割れた龍一の唇が動いた。「すまない」
ブリギッテの目に涙が溢れ出した。龍一が何を謝っているか、彼女にはよくわかっていた。
「いいのよ、龍一……」ブリギッテは粉塵に汚れた龍一の髪をそっと撫でた。「全部終わったのよ……帰りましょう」
──それがただの嘘にすぎないことも、彼女にはよくわかっていた。
(エピローグ1へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます