アルビオン大火(17) Fury,Oh Fury

【午前10時──ロンドン地下を驀進する〈レテ〉車内】

(何だ……こいつらは一体何だ?)

 部下たちに迎撃の号令をかけながらも、ベルガーはそう考えずにはいられなかった。

 無蓋貨車に衝突されて無惨にも潰れた〈レテ〉の最後部からは、耐爆防護服に身を固めた巨漢たちが大口径機銃を手に次々と乗り込んできている。部下たちも豪華な調度に身を隠しつつ必死で応戦してはいるが、何しろ火力が尋常ではない。博物館クラスの名画が機銃弾で額ごとはぜ割れ、精緻な細工を施された本棚が雀蜂のような唸りを上げる跳弾に容赦なく抉られていく。

 しかもそれに加えて、あろうことか狭い地下トンネルの中をジェットスーツでかっ飛んできた敵の新手もいる。

「奴らを釘付けにしつつ後退しろ。戦闘興奮剤コンバットドラッグも使え。ここで押し込まれたら後がないぞ! 状況によっては、車体の切り離しも行う!」

(こいつらは何なんだ? あのユダヤ女どもの呼びやがった増援か? それともこちらで把握していない新勢力か?)

 いや、それ以上に重要なことがある。こいつらの「目標」だ。まず普通に考えるなら〈レテ〉の奪取だが、この程度の人数でそれが叶うと思うほど相良龍一とその一味も間が抜けてはいまい。

 それに──彼は指揮官用のタブレット端末に目を走らせる。車内監視カメラから転送されてくる映像には必死で抵抗を続けるベルガーの部下たちを、まるで雑草か何かのように薙ぎ払っていく襲撃者たちの姿がある。地上最後の〈ヒュプノス〉、〈ダビデの盾〉の女たちの片割れ、そして遠い昔に殺し損ねたあの刑事だ。が、龍一とブリギッテの姿はない。

 何かがおかしい──ベルガーを幾度となく救った戦場の勘が、警報を発している。ただでさえ数少ないはずの戦力を、さらに分割したのか? だとしたら残りの奴らは、今どこで何を?

 そこまで考えて、ベルガーは愕然とした。

(……まさか!)


【同時刻──ヴィクトリア駅近辺の操車場】

〈ヘカトンケイル〉の全体像は円錐状だ。より正確には、頂点に近づくほど小さくなっていく金属のリングを長大な棒に突き刺したような、と言った方が正しいか(幼い頃、父に見せられた『ハノイの塔』をブリギッテは思い出した)。リングの外周部には機銃をはじめとする重火器が無数に取り付けられ、必要に応じてリング自体を回転させられる。言わば寸詰まりのクリスマスツリーのような図体で、それがひどく短い二本脚でのたのたと歩く様はユーモラスに見えなくもない。が、その全火器を向けられる方としては、笑ってばかりもいられない。

 全身に搭載された大小無数の機銃が間断なく大口径の銃弾を吐き出し続け、軍事要塞ですらない操車場の外壁がドリルを当てられたスポンジのように秒単位で削り落とされていく。しかも、重砲やミサイルの類はまだ使われもしていないのだ。

 ブリギッテ、フィリパとタン、それに救出された駅員たちは建物の奥に避難して辛うじて無事だったが、拘束されたギャングたちはそうはいかなかった。拳大の穴を全身に穿たれ、悲鳴を上げる間もなく血煙の中で人の形を崩していく。

「マジかよ……味方ごと撃ちやがった」タンは驚きのあまり恐怖すら感じていないようで、デスクの陰で頭を抱えながら目を丸くしている。

「あるいは味方と思っていないのかもな」フィリパが苦く呟く。「マギー・ギャングが施設奪還のため逆襲してくる可能性は想定していた。が、あんなの来訪は予想外だ」

 あるいは──ブリギッテは口に出さず考える。あれは施設の奪還より、むしろなのではないか。戦略的にどうこうより、むしろ個人的な悪意めいたものを感じたのだ。おそらくは〈将軍〉の。

 どう八つ裂きにしてやろうか、と腹の底が煮えたぎってくるが、まず考えるべきは現状だ。ブリギッテは制御コンソールに取りついて躍起になっている駅員たちに呼びかける。

「ポイントの切り替えはまだなんですか?」

「やってはいるが、時間がかかる。それに制御システムが壊されてしまったらお終いだ」

 思わず唇を噛んでしまう。自分たちは逃げ出せばいいが、線路の制御システムはそうはいかない。それに文字通りの砲火が降り注ぐ中である。駅員たちへ文句を言う気にはなれない。

「ブリギッテ、正面から立ち向かって勝てる相手でもないぞ。何より今の私たちには戦車どころか、重火器すらない」

 フィリパの忠告はもちろん痛いほど身に染みた。が、

「……それでも、やるしかないわ」手の強化弓を構え直す。「あいつは私たちの勝ち目を完全に潰しに来たのよ。とても逃げられないし、逃げるべきでもない」

「しかし、それにしてもどうやって戦う? どうやって勝つ?」

 そうね、ブリギッテは考え込む。こんな時あの人たちならどうするのだろう──龍一なら? アレクセイなら?

 身じろぎした拍子に、何かが音を立てた。腰に吊り下げた、予備の矢を入れた矢筒と、アイリーナから手渡された接近戦用の電撃警棒スタンロッドだ。

 ──(メイド・イン・イスラエルの逸品よー)お気に入りの玩具でも自慢するような口調でアイリーナが胸を張る。(トリガーを引かない限り暴発の危険性はないし、なんせ10万ボルトの高圧電流。大の男でも一発で昏倒するわよー。しかもただの警棒としても威力は充分)

 トリガーを引いた瞬間にばちばちっ、と弾ける音とともに目も眩む閃光が電極間を結び、その迫力にブリギッテは思わずのけぞってしまう。

 危険じゃないのか、とフィリパが眉をひそめる。(護身用とはいえ、当たりどころが悪ければ死ぬぞ)

(あら、充分に人を殺せる弓矢を持った子に今さらじゃなーい?)

 常にのらくらした言動のアイリーナにしては的を射た答えであった。それ以上に、彼女が自分を信頼し切っているような言葉にブリギッテは目を瞬かせる。(あ……ありがとうございます)

(今さらスイートガールちゃんの『覚悟』なんて確かめるまでもないわー)アイリーナはすかさず投げキッスを飛ばしてくる。(あ、感謝は言葉よりも熱いキッスの方が嬉しいかなー?)

(アイリーナさん……どうして、その、せっかく上がった株を自分から下げるんですか!?)

「何を考えている?」黙考し続けるブリギッテにフィリパが気づく。「ブリギッテ、相手はれっきとした軍用兵器だ。そんな警棒ごときでは傷もつかないぞ」

「……そうですね。でも思ったんです、正攻法で勝てないのなら、イカれた方法を使うしかないって」ブリギッテは電撃警棒を握り締める。掌が痛くなるまで。「あの人たちも、きっとそうします。フィリパさん、手伝ってくれますか?」

 処置なしといった顔でフィリパは嘆息する。「やむを得まい。君を置いて逃げられないなら、そうするしかないな」

「ありがとう。タン、ここの人たちに声をかけて。ロンドンを救いたくないか、って」


【同時刻──メイフェア、オクスフォード・ストリートの商店街】

 ──自分が砕けたガラスの上に膝をついているのに、やや時間がかかった。

 慌てて立ち上がると、膝に食い込んでいたガラス片がぱらぱらと落ちた。驚いて見下ろすと、そこにあるのは見慣れた自分の手足だ。〈竜〉のものではない。

「くそ……元に戻っちまったのか」

 横転して燃える車と、窓ガラスが残らず割れた商店街の中で龍一は呆然と呟く。

 乱れた靴音、それも軍靴のそれが路地に響き始めた。龍一はとっさにゴミ箱の陰に身を隠す。果たして、現れたのは軍兵士の一小隊だった。それも全身のいずれかに傷を負い、敗走寸前の兵士の群れだ。自力では歩けず、戦友の肩を借りてどうにか歩いている者も混じっている。誰も銃を投げ捨てていないのは立派だが、どう贔屓目に見ても戦意が底を突きかけているのも確かだった。

「どうなっている? 〈将軍〉どころか、上級司令部からの指令もないのか?」

 焦燥を隠そうともしていない指揮官に、これまた疲労困憊した通信兵が応える。「通信システム部隊が壊滅して以降、応答ありません。全部隊が通信途絶状態のまま、各個でマギー・ギャングに応戦しています」

「どちらが掃討されているんだかな」指揮官が吐き捨てる。「移動するぞ。ハイドパーク近辺に友軍が集結中との情報もある」

 本当にそこまでいけばどうにかなるのか──兵士たちの表情が物語っていたが、異を唱える者もまた皆無だった。

 乱れた靴音を残して兵士たちが立ち去ると、龍一はよろよろと起き上がった。それだけでも一苦労だった。

(まあ、あれだけ無茶苦茶をやったんだから無理もないが……)

 全身に疲労感がべっとりとこびりついている。心臓が今まで全力疾走してきたように激しく脈打ち、嫌な臭いの汗が全身から吹き出して止まらない。唯一の救いは、着ていた衣服が破れていないぐらいだろうか。あの姿になるたんびに服が台無しになっていたら、着替えを持ち歩かないといけない。

 とにかく疲れていた。何ならガラス片をものともせずその辺で横になって眠ってしまいたいくらいだ──が、そうもいかない。

「……行かなきゃ」

 銃痕が穿たれた煉瓦塀で身体を支え、歩き出す。産まれたての仔鹿のように足の痙攣が止まらない。しっかりしろ、ロンドンが月まで吹っ飛ぶ瀬戸際だぞ……。

 しっかりできなかった。視界が傾き、またも散らばるガラス片の上に突っ伏してしまう。自分で思う以上に、今は限界らしい。掌や膝に食い込むガラス片の痛みがいっそありがたいくらいだった。

 何か──重量感のある何かが近づいてくる気配を感じる。妙にリズミカルな、かつ、かつ、というこの音を確かにどこかで聴いた。これは何だろう?

 どうにか顔を上げる。霞む視界が急に晴れ──龍一は目を疑う前に、自分の正気を疑う羽目になった。

 ブリギッテがいれば驚嘆したに違いない。見事な毛並みを晒した芦毛の馬が、堂々たる体躯を見せつけるようにして龍一の目の前を横切っていくところだった。

 芦毛の馬は膝立ちになっている龍一の目の前まで顔を近づけ──しばらくふんふんと鼻先を蠢かせたが、やがて興味がなくなったようにふいと顔を背けた。

「待ってくれ……」

 ガラス片を払い落として立ち上がった龍一は、馬の背の鞍から夥しい血が滴り落ちているのに気づいた。そしてその上でぴくりとも動かない警官の姿も。

「騎馬警官の馬だったのか……」

 馬の動きに合わせて垂れ下がった腕が力なく揺れており、とっくに絶命していることは明らかだった。胸の悪くなる光景だった──どちらかと言えば警官にはろくな思い出のない龍一だが、こんな姿を見て愉快になるわけでもない。

 せめて降ろしてやろう、と一歩近づいた瞬間。がちん、と凄まじい音が目の前で響いて反射的にのけぞった。馬が歯を剥いて噛み付いてきたのだ。人の指くらいなら簡単に食いちぎれそうな巨大な歯と顎だ。

「おおっと……落ち着けって」

 ぶるるるるう、と危険さを感じる勢いで鼻息を噴く馬の威容に、龍一も肝を冷やした。が、そのままにもできなかった。馬の毛並みの見事さからも、乗り手の警官からは相当に可愛がられていたのだろう。その死も知らず放置しておくのは哀れだった。

「頼むから落ち着いてくれ。俺は敵じゃないんだ、な? ただ、その人を降ろしてやりたいんだ。噛むのも蹴飛ばすのもなしだ。いいな? オーケー?」

 誰かから見れば相当に滑稽には違いないが、言葉は通じなくても意味はわかるはずだという思いもあった。初めて馬に乗った時の、ブリギッテの言葉が蘇る──馬に話しかけるのを笑う人は、馬がどれだけ頭のいい生き物か知らないのよ。

 しばらく目を合わせている間に、馬の充血した目が少し和らいだように見えた。鼻息の荒さも先ほどに比べれば鎮まってきている。

「ありがとよ……」

 疲れ切った身体で絶命した警官の身体を鞍から降ろすのは一苦労だったが、どうにかやってのけた。手近の商店の壁に、できるだけ安らかな姿勢でもたれさせる。絶命の瞬間の怒りと苦痛を刻みつけた表情だった。さぞかし無念だったろう。

(防弾チョッキを貫通している……ライフル弾だな)

 テシクでなくてもその程度の見当はつけられた。が、妙だなとも思った。AKの銃弾ならもっと無惨で大きな銃傷になるはずだが(悲しいかな、犯罪者稼業の中で龍一もまたそれに見慣れてしまった)この防弾チョッキの銃痕はもっと小さく、完全に貫通している。軍用の高速徹甲弾だろうか? ギャングにしては過ぎた装備だ。

「……犯罪者の俺に言われたくないだろうが、安らかに眠ってくれよ」

 馬はもう動かない主人に、悲しげに鼻先を擦りつけている。と、それでスイッチが入ったのか、腰の無線機からノイズ混じりの音声が流れ出した。

『どこかの誰か、聞こえたら応答してくれ……本部からの連絡が途絶えてだいぶ経つ。が、誰かが聞いている者と思って喋っている。

 こちらはロンドン警視庁銃器対策部隊S C O 1 9、避難民の保護のため出動したが、火力の差に追い詰められている。銃弾も、手榴弾も残り少ない……だがこの人たちを見捨てて逃げられない。場所はバンク駅近辺、王立取引所だ』

 龍一は弾かれたように周囲を見回した。すぐ近くだ。

『心ある者は助けに来てくれ。〈将軍〉の行為にどれほどの正当性があろうと、ここに避難している人々には一切の罪科はない』

 無線が切れた。龍一はしばし考え込んだ──理屈に従えば、見ず知らずの誰かを、それも警官を助けている場合ではない。人間に戻ってしまった以上、ブリギッテたちと合流する方がよほど得策だろう。今の龍一に、無人兵器やマギー・ギャングに抗するどんな手があるというのか。ましてや相手は、自分やアレクセイを本気で殺しに来た銃器対策部隊だ。

 だが。

「……心ある者は助けに来てくれ、と言われちゃしょうがないな」

 顔を上げると、馬と目が合った。

「一緒に行くか?」

 龍一の言葉に、馬が目で頷いたように見えた。


【同時刻──ヴィクトリア駅近辺の操車場】

 操車場に迫る〈ヘカトンケイル〉に向け、全〈分体〉の大口径機銃が火を噴く。が──直立している分、戦車を上回る巨躯と装甲を誇る〈ヘカトンケイル〉に対してほとんど効果はない。最も脆弱なセンサー部でさえ厳重に装甲されているほどだ。

 銃砲すら使う必要がない、と判断されたのか巨大なマニピュレーターが一振りされる。発砲を続けていた〈分体〉のほぼ半数が、土砂もろとも宙を舞った。建物の壁に叩きつけられ、あるいはフェンスを乗り越えて路面にめり込む。一蹴、という表現がふさわしい有様だ。

 だが、それこそがブリギッテたちの狙った隙だった。

「出して!」

 ごおっ、と地に響く轟音とともに無蓋貨車が突進した。〈ヘカトンケイル〉の巨体では、機敏な回避行動なぞ望むべくもない。耳をつんざく激突音が鳴り響き、鉄塊そのものの無蓋貨車が〈ヘカトンケイル〉に車体をめり込ませて停まる。

 同時に、吹き飛ばされたり地にめり込んだりしていた防護服から、次々と〈分体〉が這い出した。黒いロープのように細く長く身体を伸ばし、〈ヘカトンケイル〉のセンサー部に巻きついていく。まるで生きた目隠しだ。

「タン、煙幕!」

 ブリギッテの声に応じ、タンが必死の形相でバックパックを逆さにして発煙弾を残らず放出した。「あんなのに正面から立ち向かうなんてマジイカれてるぜ……やばくなったらさっさと逃げろよ!」

 ブリギッテは微笑んだ。上手く行かなかったら死ぬだけだ──龍一ならそう言ったはずだが、ここでそう言ったらタンは離してくれないに違いない。だからこう返しただけだった。「ありがとう」

 軍放出品のガスマスクを被る。NBC防護など望むべくもない安物だが、煙幕対策だからこれで充分だ。「フィリパさん、援護を!」

『任せろ』

 建物の窓からフィリパが銃撃を始めると同時に、ブリギッテは飛んだ。蚊が刺したほどにも銃撃の効果はない、それはフィリパも承知の上だろう。それでもブリギッテの提案に乗ってくれたのだから、感謝するしかない。

 無蓋貨車にブリギッテが着地した瞬間、背後の建物の窓から紅蓮の炎が噴き出した。フィリパのいた階層だ。

(……!)

 足は止めない。無事を祈るしかない──今の自分ができることは、なすべきをすることしかない。

 走る。足場は悪いが、彼女にすればカレッジの障害物競争と大差はない。前方にあるのが銃と砲と高密度のセンサーを山ほど搭載した動く要塞であるのを考えなければだが……。

 ちゃちな煙幕で誤魔化せるものではない。無蓋貨車に挟まれ、〈分体〉に目隠しをされながらも〈ヘカトンケイル〉の銃砲が動き出している。

 が、それはブリギッテたちも読んでいた。

(信号弾!)

 思った時には彼女の手が、腰に刺した救難信号用の信号拳銃を引き抜き、上空へ撃っていた。それに応じ、周囲の建物からも信号弾が〈ヘカトンケイル〉めがけて射出される。

 何発かは外れたが、数発が確実に〈ヘカトンケイル〉の装甲表面に取りつき燃え始めた。即席の目眩しだが、思った以上に効いた。一旦は鎌首をもたげたセンサー連動の機銃が、戸惑ったように旋回して標的を見つけかねている始末だ。

 厄介な機銃も、そして目と耳も潰した。今だ!

 まるで見当違いの方向に向けて機銃が乱射されたが、見当違いを恐れる必要はない。躊躇うことなく〈ヘカトンケイル〉めがけて彼女は飛び──そして肩をしたたかに打ち据えられる。

「ぐ……!?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 苦しまぎれの機銃の乱射が建材を吊るしていたワイヤーを切断し、その先端が跳ねてブリギッテをかすめたのだ。直撃を食らっていたら胴体がちぎれていたかも知れないからまだ幸運ではあったが、それが跳躍したブリギッテの姿勢を崩すには充分過ぎた。

 タンやフィリパ、それに必死で援護してくれた駅員や作業員たちが凍りついた表情でこちらを見ているのが、そちらに首を向けなくてもわかる。凍りついたような時間の中で、自分の身体が重力に引かれて垂直に落下していく。

 詰めが甘かったとしか言いようがない。機銃とセンサーを潰して満足して、ワイヤーの悪意まで読めなかった。

(龍一やアレクセイが今の私を見たら、さぞかし失望するでしょうね……)

 悔いてもどうしようもない。

 ブリギッテは目を固く閉じ、激突の瞬間を待った。だが意に反して、いつまで待っても何の衝撃も受けない。

「え……?」

 恐る恐る目を開けた彼女は、その目を疑った。自分の身体が宙に浮いていたのだ。正確には綿毛のように、ゆっくりと落下しつつはある。まるで時間の流れが遅くなったように。

 一体何が──周囲を見回し、彼女は自分の身体が濃い霧にとりまかれているのに気づく。ミルク色のひどく濃密な霧だ。ロンドンっ子の彼女に霧は見慣れたものだが、それにしても濃い霧だった。

 かざした指先を、霧の粒子が通り過ぎていく。まるで別の生き物のように。

 いや、それとも実際そうなのだろうか。

「……龍一?」


【十数分前──オクスフォード・ストリート】

「……おい! やる気があるのはいいが、やる気ありすぎないか!?」

 龍一の声もどこ吹く風。馬の走りは絶好調であった──いや、絶好調すぎた。

 これで龍一の乗馬歴は二度目である。馬の気まぐれや急激な動きにはある程度慣れている。が、この走りは予想外だった。鞍によじ登り鎧に足をかけた瞬間、馬はろくに手綱もなしに走り始めたのである。振り落としても拾ってやらないからな、と言わんばかりだ。

(……よく考えたらこれ、警察のパトカーを盗んで乗り回しているのと一緒なのか?)

 よく考えなくても、騎馬警官の乗る騎馬はれっきとした警察の備品である。それにはもう腹を括ることにした。気に病むくらいなら最初から乗らなければいいだけの話だ。

 さしもの龍一も、全速力で路面を駆ける馬の背中にしがみつくのは一苦労だった。そもそも手綱があっても、バランスを取りつつ内股で鞍を締め付けるのが至難の技なのだ。万全の状態でもどうにかというものを、疲労困憊している今ではなおさらだ。

 が、どうにもならないわけではない。

(こいつ、やっぱり俺を試しているんだな)

 共に前の乗り手の仇を討つのに、ふさわしい相棒かどうか。なら、受けて立つしかなかった。

 しがみついたらかえって安定しない。背筋を伸ばせ。ブリギッテに教わった通りに──

(呼吸を読め。筋肉の動きを読め。逆らったら跳ね飛ばされるだけだ)

〈竜〉の時ならともかく、生身で本物の馬と力比べをする気にはなれない。何しろ馬の背の高さは龍一の頭頂部と同じくらいあるのだ。

 正確には読むまでもなかった。馬の鋭い呼気に、股下から伝わってくる躍動に、そして高速で通り過ぎていく背景に、いつしか龍一は自分から魅せられていた。龍一が手綱で馬を操っているのか、走る馬に龍一が乗っかっているのかわからなくなってくるほどだった。

 ひとしきり駆けて気が済んだのか、馬が並足に移行した。人間で言えば全力疾走から早歩き程度に緩めた、というところである。急停止で龍一を振り落とそうとする気配はもう感じられなかった。

「ありがとよ。噛んだり蹴飛ばしたりしないでくれて」

 ブリギッテに教えられた通り、龍一は汗まみれの馬の首筋を掌で叩いてやった。馬は、まあお前で我慢してやるよ、と言わんばかりに鼻を鳴らしたが、少なくとも噛みも蹴飛ばしもしなかった。

 不意に前方の視界が開けた──アサルトライフルや重機関銃を肩にかついだギャングたちが、拘束した兵士を道端に跪かせている。どう見ても「処刑スタイル」のお時間だ。

 時ならぬ蹄の音に、訝しげに首を巡らせた髭面のギャングがぎょっとして顔色を変える。「何だてめ……」

 考える前に龍一は動いた。鞍のホルスターから騎馬警官用の警棒──通常より長めになっている──を引き抜く。いや、正確にはその前に、いななき一つせず馬が全速力で突進していた。

 小型の乗用車に正面衝突されるようなものである。大の男が悲鳴すら上げられず数人まとめて宙を舞った。骨がいちどきに数本折れる生々しい音。銃口を上げようとした男は龍一が振り回す警棒で顔面を砕かれ、残りの男は馬の後ろ足の一蹴りで、マネキンのように吹き飛んでブティックのショウウィンドウを粉々に粉砕した。

 呆然としている兵士たちに、龍一は馬上から呼びかける。「悪いけど土地勘がイマイチなんだ。王立取引所へはどっちへ行ったらいい?」

「……数ブロック北東だ」

「ありがとう!」拘束を解きもせず薄情ではあるが、あとは自分たちで何とかしてもらうしかない。龍一は直ちに馬首を巡らせる。

 それにしても妙だった。クーデター部隊は〈バジリスク〉の猛威にひとたまりもなかったのに、マギー・ギャングはなおも健在だ。それどころか浮き足だったクーデター部隊を一掃しかねないほどの勢いである。

 あるいは、警察やクーデター部隊のように近代的な戦術ネットワークに頼っていないのが、かえってプラスに働いているのかも知れない。

 銃声がほうぼうで鳴り響いている。馬上から見える光景に龍一は息を呑んだ。

 HWの各部隊が市内に湧き出している。彼らが狙い撃つのは街角のデジタルウィンドウや電光掲示板、電器店の店先に並ぶ型落ちの液晶テレビに至るまで、とにかくあらゆる電子機器である。

 何のためか? 考えるまでもない。〈バジリスク〉に対抗するためだろう。電子機器を介して〈バジリスク〉の異能が発揮されるなら、HWの数に物を言わせて電子機器を残らず潰してしまえばいい──荒っぽく単純だが、その分有効な手ではある。

 クーデター部隊も似たような試みはしていたが、こちらはもっと組織立って動いている。〈バジリスク〉の猛威を観察した上で判断し、その利点を潰す。チェスの差し手を思わせる冷静さだ。

 馬上で呆然とするしかなかった。クーデター部隊とマギー・ギャングはロンドン占拠という共通目的のために相互補完の関係にあると思っていたが、実は大きな誤解だったのかも知れない。俺たちはマギーを甘く見ていないつもりで、やはり甘く見ていたのかも知れない……。

 馬が急に駆け出し、龍一は振り落とされないために思い切り手綱を引かねばならなかった。が、それは後から考えれば実に正しい判断だった。

 野卑な蛮声を張り上げながらタイヤを軋ませて後方から走ってくる、機銃を搭載したピックアップトラックが数台。言うまでもなく、跳ね飛ばされた仲間の敵討ちだろう。

 とっさに龍一は警棒を投げた。回転しながら飛んだ警棒が、ピックアップのフロントウィンドウを粉々に打ち砕く。罵声が悲鳴に変わり、ピックアップは正面から街灯に激突した。シートベルトをしていなかった機銃手が前方の路面に投げ出されてごろごろ路面を転がっていく。

「これからますますタフになるぞ。走れ!」

 龍一が呼びかけるまでもなく、馬は既に全力疾走を開始していた。お前こそ振り落とされるなよ、と言わんばかりだ。


【午前11時30分──ロンドンシティ、王立取引所正面玄関】

 列柱を構えたロンドンシティの王立取引所は現在では取引所ではなく、高級ブランドの立ち並ぶショッピングモールとして使用されている。が、それがロンドン空前絶後の危機に際して避難民たちの城塞として使われるなど、建築家たちですら予想していなかったに違いない。

 平生なら顔が映るほどに磨き込まれたモールの正面玄関には、突入を試みたギャングたちの射殺体がそこかしこに転がっている。悪党とは言え無惨な姿だが、現状では弔ってやるわけにもいかない。

「隊長、全員の装備点検が終わりました」

 モールの従業員や避難民たちを指揮し、バリケードを築いていた銃器対策部隊隊長の元に副隊長が報告しに来た。「残念ながら、どう工夫してもあと一交戦が限度です」

 わかっていた。彼らは警察系の特殊部隊であり、長期に渡り戦い続ける装備も弾薬も持ち合わせてはいない。制式装備のボディアーマーでは軍用ライフル弾に抗し得ず、SMGは無人兵器への何の対抗策にもなり得ない。数少ないドローン装備も、せいぜいがギャングやテロリストの簡易自爆ドローンを想定しており、軍用規格ミルスペックには到底及ばない。

「あの気味の悪い『目玉』のせいで、クーデター部隊も警察も、デジタル無線を含む通信ネットワークは滅茶苦茶ですよ」

「……救援は、望み薄だな」

「誰も彼も、自分の身を守るので手一杯なんでしょう。今のロンドンは控えめに言っても魔女の大釜みたいな有様です。仏陀とキリストとマホメットと、アーサー王に率いられた円卓の騎士団が一斉に現世へ降り立ちでもしない限り、どうにもなりませんよ」

 副隊長のぼやきに、隊長は大真面目に応じる。「この状況をどうにかできる奴がいるなら、地獄の悪鬼との取引までは考慮しよう」

 だが、と苦さを隠し切れない眼差しで、隊長は避難している人々を見る。皆、疲れ切り、怯え切っていた。立派な身なりの大人が子供のように人目もはばからず啜り泣いているのは、気の滅入る光景だった。会社員や学生に混じり、兵士たちの姿も見える。彼らの属していた原隊がどうなったのか、考えるまでもないだろう。

 彼自身も、副隊長も、全身に軽傷──致命傷でないという意味の──を負っていた。ここまで脱落を免れた隊員たちも、まともに戦える者はもうわずかしか残っていない。モールの従業員だけでなく非番の医師や看護師まで協力を仰ぎ、怪我人の治療に当たらせているが、それとて応急処置がせいぜいで重傷の者は寝かせておくしかない。ここは軍事基地でもなければ、野戦病院でもないのだ。

 神よ──彼は思わずにいられなかった。これがあなたの与えた試練なら、あまりにも酷い仕打ちではありませんか? この人たちに、このような目に遭うどのような謂れがあるというのですか?

 明らかに警官に求められる苦難の限度を越えている、と思わないでもない。だが、だからこそ、この人たちを見捨てるという選択肢だけはなかった。警官として、それだけはできない。

 不意に、歩き出そうとした彼のブーツに何かが転がってきて、こつりと当たった。

「おっと……」拾い上げると、それは掌サイズのフィギュアだった。赤銅色の鱗に覆われたドラゴンが、台座の上で咆哮している。この手の玩具には疎い彼にも一目でわかる精緻な作りだ。

 転がってきた方向を見ると、五歳ほどの男の子がぼんやりとこちらを見ていた。

「君のかね?」

 フィギュアを手渡すと男の子は頷いたが、何も言わなかった。受け取った途端に、もう彼には関心をなくしたようにドラゴンを弄り回している。

「その子を叱らんでやってくれんかね。口が聞けんのだそうだ」

 進み出たのは頭頂部の禿げ上がった老人だった。「尖っているから危ないと言っても聞きやせんのさ。よほどそいつが気に入ったらしい」

「承知していますよ」最初から咎めるつもりもない。「お孫さんですか?」

「ああ。最近まで、いることすら教えてもらえんかったがな。よほど倅に恨まれたらしい」

 どうやら複雑な事情があるらしい、と察して隊長は口をつぐむ。

「隊長さん。あんた、倅はいるかい?」店をやっていただけあり、見た目ほど偏屈ではなさそうだった。

「いえ。妻ならいますが」職務上子供を作ることのできない男に、子供がいなくてもよろしくやってる夫婦なんていくらでもいるわよ、と笑って妻になることを選んだ彼女には感謝するしかない。

「そうかい。女房が死んで、こんな儲けの出ない商売は嫌だとほざいた倅にも逃げられて、余計意固地になって続けていた模型店が、今日綺麗さっぱり燃えちまってな。持ち出せたのもそのだけよ」

「お気の毒です」とだけ彼は言った。実際、赤の他人の災難に言えることなど他にない。

「隊長さん、もしも……もしもだ」なぜかやや躊躇って、老人は口を開いた。「もしもこの騒ぎの原因を事前に知っている者がいたとして、何も言わなかったとしたら、それはそいつのせいになると思うかね?」

「それは……」私は警官であって裁判官ではないので、そう誤魔化せないこともなかったが、なぜかできなかった。「神ならぬ人の責ではないでしょう。私は牧師でも、まして神その人に会ったこともありませんが、実際におわしてもそう言うと思いますよ」

「そうか……そう思えればいいんだがな」老人は軽く頭を下げると、男の子を促して踵を返した。何となくだが、その後を見送った。重いものを降ろしたような後ろ姿だった。

 周囲のざわめきが大きくなる。誰も彼も、手持ちのスマートフォンに見入っている。

 無線機と悪戦苦闘していた通信士が驚いている。「隊長、妙です。急にデジタル通信が回復しました。ネットの回線状態も含めてです」

「このタイミングでか……?」

 なぜだろう──それは喜びより、漠然とした不安を彼に感じさせた。

『……ロンドン市民の皆さん。私はアテナテクニカ社CEO……いや、やめよう。今この時ばかりはただの個人、エイブラム・アッシュフォードとして語ろう』

 突如、点灯したエキシビジョンの中で、避難民たちの手元のスマートフォンやタブレットの中で。ロンドン市民にはあまりにも馴染みのある顔が語り始めた。ロンドンの「表」の支配者の顔が。

『手短に語ろう。私はイスラエルから核を入手した。俗な言い方をすれば、このロンドンを月まで吹き飛ばせる威力だ』

 一瞬、天使が舞い降りた、と称される類の沈黙がロンドン中を覆った。


【同時刻──ロンドン・ウォール近辺】

『ヨーロッパを一匹のドラゴンが徘徊している。比喩ではなく、文字通りの意味で』

 馬を走らせている龍一からも、エキシビジョンの中で語る〈将軍〉の演説は見えた──見たくなくとも見えた。

『それが深宇宙から来たのか、全くの異次元から来たのか。知る術もなければ、さほど重要でもない。

 彼の者を殺すために、私はあらゆる手段を試みた。市内に傘下の部隊を入れ、ロンドンそのものを要塞化した。〈ロンドン・エリジウム〉でさえ、その一つに過ぎない』

「マジかよ……」呻くしかなかった。あの黒幕気取り野郎、ぶっちゃけすぎだろ。

『起爆時刻は午後1時ジャスト。避難するもよし、今世で最後のティータイムを味わうもよし、だ。大英帝国に栄光あれ』

 始まりと同様、映像は唐突に終わった。だが龍一には、人々の目に見えない慄きが都市中を覆い尽くしていくのが目に見えるようだった。

(今の〈将軍〉が本物かどうかは、たぶん、大して重要じゃないな……)

 核云々がはったりでないのを差し引いても──今の放送がロンドンの掌握を目的としたものとは思えない。

(むしろ混乱を煽るのが目的か……だんだん、図面を書いていた誰かさんの思惑がわかってきたぜ)

 以前からのうっすらとした疑惑が確信に変わっただけで、大した驚きはない。ただ、ブリギッテには辛い真相が待っているのは確かだった。

 急ぐしかない、龍一はひたすら馬を駆る。


【同時刻──〈ザ・シャード〉直下、正面広場】

「ハッカーたちはいい仕事をしてくれたわね。言い値で報酬を払わなくちゃ」タブレット端末で〈将軍〉の演説を見ながら、マギーはくすくすと笑っている。「本当、よくできているわ。

「しかし、マダム」後ろ手に縛り上げた警備員の哀願を無視し、額に一発撃ち込んでから部下が訝しげに質問する。「サツだって馬鹿じゃありませんし、専門家が分析すればいつかはバレますぜ」

「いつかはね。でもいいのよ、一瞬でも『もしや?』と考え込んでくれればこちらの勝ちだもの」常に笑顔を絶やさないマギーではあるが、今日は特に上機嫌だった。「第一、専門家が分析している時間なんてどこにあるの?」

「それは……確かに」

「搬入は進んでいる?」

「ご指示通りに。あれだけのブツがありゃ、SAS相手にだって持ち堪えられますよ」

「SASが投入されるかどうかは半々だけど、少なくとも私たちの最後の敵はSASではない。先に上がっていて。私は私で、待ち人がいるの」

「仰せの通りに」うやうやしく頭を下げる部下の背後で銃火が瞬いた。拘束した警備員たちの処刑は続いている。


【同時刻──ロンドンシティ、王立取引所正面玄関】

「何を言っている? ドラゴンだと?」隊長は呆然とするしかなかった。「おい、?」

 翻訳どころか、擁護の声さえ上がらなかった。誰も彼もが、悪夢の中に迷い込んだような表情で映像の消えたモニターを見つめている。

「だ……騙されるな! こんなものは精巧なだけの偽物フェイクだ! 本物の〈将軍〉がこんなことをおっしゃるわけがない!」

 にわかに注目の的となった兵士はそう叫んでいるが、その言葉を信じ切れていないのは表情からも明らかだった。声高に非難する者こそいないが、周囲の目も猜疑に満ちているか、あからさまに視線を逸らすか、どちらかである。

「おい、どういうことだ! お前らの〈将軍〉は何を考えている!? 核だぞ! 新年を祝う打ち上げ花火とは訳が違うんだぞ!」

「し、知らない!」強面の副隊長に首筋を掴み上げられた兵士は、もがくのも忘れてすくみ上がっている。「〈将軍〉は傘下の部隊だけで、さほどの抵抗もなしにロンドン制圧は可能と考えられていた! まさか、我々もろとも核でロンドンを焼却するなどと……!」

「その〈将軍〉閣下のせいでロンドンがこの様なんだろうが! ああ?」

「そのへんにしておけ」見かねて隊長は彼を諌める。彼とて軍には業腹ではあるが、警官が率先して軍の兵士に暴力を振るっていたらリンチが始まりかねない。「〈将軍〉にはもう、部隊を指揮する気がないんだろう」

 あるいは指揮したくてもできない状態なのかも知れないが、同じことではある。

「どうします? もう籠城すらできなくなりましたよ。核爆発が迫っているなら一刻も早く脱出しなければならないのに、道を開くための火力すらない」

「無人兵器相手に大音響は効かないが、強烈な閃光はある程度有効だろう。違法ドローン対策の電磁弾も併用する。それをありったけ使い、敵の包囲網に穴が生じた隙に市民たちを逃がす」

 子供でも思いつきそうなレベルの、作戦とすら言えない作戦ではある。だが他に手もなかった。

「元軍人でも元警官でもいい、戦闘経験者を募れ。可能な限り車を集めろ。ここにいる人たちだけでも、どんな手を使ってでも避難させるんだ」

「ここはモールですから、即席の装甲板になりそうな資材はいくらでもあります。店舗と交渉してみます」

「そうだな。ギャングの機関銃も拾え。装甲車の銃架に乗せるんだ」

 放水銃を外して機関銃を乗せれば、治安維持用の軽装甲車でも立派な戦闘車輌となる。まさかここへ来て役立つとは彼も思わなかったが。

 ずるずると座り込んだ兵士が、理解できないという顔でこちらを見上げている。「……何でだよ。そんな根性があって、どうしてギャングの言いなりになってたんだよ」

「それに関しては、返す言葉もないな」副隊長を促し、踵を返す。

「各車に便乗、民間人の移乗が完了次第出発する。動ける者は負傷者に手を貸してやれ!」

 副隊長の大音声に了解コピー、と応じて全身に傷を負った銃器対策部隊員たちが立ち上がる。まともに動ける者は、もう数えるほどしか残っていない。


【正午──ロンドンシティ、王立取引所正面玄関】

『出発』

 隊長の号令とともに、数台の軽装甲車、兵員輸送車、そしてそれに護衛された数台の観光バスが動き始めた。どの車両も窓という窓をあり合わせの鉄板とロケット弾対策の金網で覆い、さらに車内から射撃できるよう強引に銃眼まで切ってある。実に不格好で冴えない外見だが、もちろん文句を言う者はいない。

『周囲にドローンを含む敵影なし。行けます』

『よし、前進しろ……ただし、慎重にだ』

 エンジン音を絞り、車列が動き出す。何が潜んでいるかわからない以上、高速で強引に突っ切りもできない。

 隊長自身は車列中ほどの輸送車の中で、他の避難民たちに混じり無線を通じて全体の指揮を取っている。副隊長だけでなく部隊のほぼ全員から、隊長もお休みになってください、とは言われたがそうもいかなかった。どのみち、神経が昂りすぎて休めそうにない。

 後方の観光バスには、避難民の他にも銃を持った戦闘経験者たちを乗せてある。はっきり言えば海のものとも山のものともつかない連中だが、贅沢は言っていられない。

 視界が翳り、彼は目を瞬いた。『霧が出てきたな……?』

『好都合です。今のうちに進路を塞ぐ車をどかします』

 鈍い金属音が断続的に響くのは、前方の装甲車が強引に停止車を押し退けているからだ。霧はドローンにはともかく、生身のギャングたちにはいい目眩しとなる。もっとも、それはこちらも同じなのだが……。

 車列はのろのろと進む。濃い霧も、今のロンドンを覆い尽くしている死と破壊までは隠し切ってくれなかった。横転した車。割れたショウウィンドウ。そしてそこかしこに転がる死体。その全てが霧で一望できないのは幸いかも知れなかった。避難民たちの啜り泣きがより大きくなる。

 装甲車や輸送車のドライバーは警官だが、バスの運転手は民間人である。この局面でパニックにならず走らせているだけでもありがたいと思うしかない。

『つけが回ってきましたな』

「ああ。それもでかいのがな」副隊長の悔いを濃く滲ませた呟きに、彼もまた苦く応じる。職務に忠実であれ、とギャングの使い走りを続けてきた結果がこの有様だ。

 不意に風が吹き、霧の一部が晴れた。

「な……」

 誰もが絶句した。前方の路上に、ビルの屋上に、そしてバルコニーにたたずむ無数の人影を見て。

 フルフェイスヘルメットとラバースーツのようなつるりとした質感の戦闘服で素肌という素肌を覆い尽くしたその姿は、人というより人間サイズの昆虫にも見えた。見まごうはずもない──いくらでも量産・交換・アップグレードが可能な人造の兵士、HWだ。

「そんな馬鹿な……」あの兵士が今度こそ顔中を目にする勢いで絶句している。「〈将軍〉は……我々だけでロンドン制圧は可能だと言って、HWの投入は必要ないと……」

「まだそんなことを言っているのか! ではあれは何だ?」

 実際、問題はそんなことではなかった。生身の人間の兵士を遥かに上回る耐久性と生存性。濃密な電子妨害の中でも一矢乱れぬ連携を可能とする人格共有ネットワーク。電子照準と連動したあらゆる火器・兵器へのアクセス。どれ一つを取っても、今の疲弊し切った銃器対策部隊には荷が重すぎる脅威だ。

 文字通りの四方八方から銃火が迸った。装甲板が乱打され打楽器のような金属音に悲鳴が大きくなる。

「応戦しろ! 突っ切れ!」

 装甲板で重くなったエンジンが悲鳴を上げるが、それでも進むしかない。

 前方で爆発音。銃架に据えた機銃で必死に応戦していた装甲車がオレンジ色の爆炎に包まれて大きくバランスを崩す。

『隊長、駄目です! 擱座した車両が道を塞いでいます!』

 部下からの悲鳴にも似た報告に歯噛みするしかなかった。走行不能になった車両の運転手を気遣う余裕もない。

 凄まじい力で停車したバスのドアがこじ開けられた。アクセルを踏もうとした運転手が掃射を喰らって蜂の巣になる。

「……!」

 砕け散った血とガラスを容赦なく踏みつけて一体のHWがタラップを踏んだ。まさに黒々とした死神のような姿に車内の悲鳴が大きくなる。

「全員伏せろ!」

 叫びながらSMGを発砲した。だが弾丸の大半は滑らかなヘルメットとスーツの表面で跳ね返される。痛い素振りすらしていない。

 雀蜂さえ撃ち落とす電子照準の銃口が跳ね上がる。

「うおおおお!」

 獣にも似た咆哮を上げ飛びかかったのはあの兵士だった。全力で体当たりし、タラップからHWをもろとも突き落とす。叫びながら、アサルトライフルをヘルメットに向けて撃った。真正面から喰らう銃弾の乱打に、さしものヘルメットも耐え切れなかった。卵のように砕け散り内容物を撒き散らす。

「君は……」

 兵士は息を荒げながらこちらを見、笑って見せた。「どうだ! 俺だってこれくらいは」

 それが彼の最後の言葉となった。真横からの掃射に、全身を濡れた紙のように引き裂かれる。

「隊長、ご無事ですか!?」

 なおも発砲を続けるHW数体をまとめて跳ね飛ばした装甲車から、副隊長が顔を出した。

「すまない、助かった! ありったけの爆薬を用意しろ! 道を塞ぐ車をどかすんだ!」


【同時刻──リヴァプール・ストリート駅近辺】

「止まるな、行け! 行け!」

 機銃掃射に追われながら、龍一はひたすらに馬を走らせる。カーブを曲がりながら、少しでも馬が走りやすくなるよう上体を走る方向に落ちる寸前まで倒す。馬も今や全身にびっしょりと汗をかき、ペースを落とさないことに必死だ。

 後方から甲高い悲鳴が響いてきた。カーブを曲がりながら馬が蹴飛ばしたダストボックスが、後方から追いすがってくるピックアップの運転席を直撃したのだ。派手な追突音も聞こえてきたのは、後続の車まで巻き込んだらしい。

「やるな!」

 龍一の賞賛にも馬は鼻を鳴らしただけだ。お前もこのくらいやれ、と言われたような気がする。

 しかし、と龍一は気を抜かない。銃を振り回して鼻息荒くギャングが追ってくるうちはまだお遊びだろう。本命は……。

 馬がぴくりと耳を巡らし、同時に頭上から甲高く迫ってくる回転ファンの音を龍一の耳が捉える。

「来たか……」

〈ハーピー〉が見る見るうちに距離を詰めてくる。どう飛んでいるのか不思議になるような形状だが、滑るような飛び方には何の危うさもない。

「機械相手はちょっと荷が重いな……!」

 何しろ相手は電子制御だ。ちょっとトリッキーな動きをしたところで、すぐにパターンを読まれて蜂の巣だろう。

(それなら!)

 手綱を操り、手近な路地裏に馬を突っ込ませる。左右の壁に身体を引っかけそうな狭さにも馬は怯まず、スピードも緩めない。大した度胸だ、と認めざるを得ない。

 そこにすら〈ハーピー〉はなおも追ってくる。何しろ都市部に潜むテロリストを燻り出すためのレーダーセンサー搭載型、空調ダクト程度の広ささえあればどこまでも追跡可能だ。

 だが、それこそが龍一の狙いだった。

「ありがとよ、追ってきてくれて!」

 馬上で身を捻りながら、渾身の力で空のビール瓶を投擲する。放物線すら描かず、ほとんど水平に瓶が飛んだ。

 回避の隙すらなく投げられた瓶が〈ハーピー〉を直撃し、バランスを崩した機体が後続の他機まで巻き込んだ。石のように垂直に落ちたのを見ると、安全装置が作動する暇すらなかったらしい。

「どうだ、俺もそう捨てたもんじゃないだろ?」

 馬に鼻を鳴らされただけだった。

 あらかじめ見ていた地図の通りなら、王立取引所まではあと数ブロックを切っている。これなら、と思った龍一の目が何かを捉えた。

 前方のバルコニー──携帯型の対戦車砲を構えたHWの姿。

 なぜここにHWが──回避? いや、間に合わない。

 力を振り絞るために腹の底から吠えた。吠えながら飛び、側面の壁をほぼ垂直に駆け上がった。

 ベランダの錆びついた手摺を掴み、渾身の力を込める。

!)

 龍一の腕が倍近く膨れ上がる。先に腕がちぎれるのではないかと思うほどの激痛──が、次の瞬間、破片を撒き散らしながら手摺が抜けた。

 こちらに砲口を巡らせるHWの頸部に、手摺を振り下ろす。生々しい音が響き、首がへし折れる。なおも対戦車砲を向けてくる身体に体当たりし、ベランダから突き落とした。

 たった今真下を走り抜けようとする馬の鞍に飛び降り──わずかに目算が狂っていた。落ちる寸前に足をたわませて衝撃を吸収、馬と並行して走りながらHWの血がこびりついたままの対戦車砲を拾い上げる。

 鞍によじ登りながら対戦車砲を構えた。携帯性向上と重量軽減のため、砲身を短く切り詰めたタイプであったのが幸いした。覗き込む照準器の延長線上、反対側のビルのベランダに機関銃陣地。

 ここは火力集中地帯キルゾーンだ。伏兵だって数段構えに決まっている。

 安全ピンを引き抜き、撃った。

 テシクがいれば満点をくれただろう。ロケット弾が飛び、機関銃陣地を粉々に砕いた。

 撃ち尽くした対戦車砲を捨て、馬に跨り直した時、速度が大幅に落ちているのに気づいた。もう限界が近いのだ。大体、銃声だけで怯えて暴れかねない生き物が本物の戦場に放り込まれているのだ。龍一を放り捨てて逃げないだけでも大したものである。

「……くそ、こいつらどこから湧いて出てきた!?」

 答えはないとわかりながらもそう罵るしかなかった。何しろそこらのアパートのバルコニーや雑居ビルの屋上から銃撃が飛んでくるのだ。銃弾が唸りを上げて耳元の空気を切り裂く音には肝が冷えたが、なおさら馬を走らせるのをやめるわけにはいかなかった。むしろ止まったら一瞬で蜂の巣になる。

(HWの投入はある程度予想していたが……)

 むしろ全く投入されない方がおかしいくらいだった。非励起状態のHWは、生身の歩兵と違い一切の補給なしでいつまでもじっとしていられるのだ。オフィスやアパートの一室で、狭い路地裏で、そして空調一つないただのコンテナの中で。〈のらくらの国〉崩壊の時もそうだった。

 だから疑問は、なぜ今まで〈将軍〉が投入しなかったのか、の方だ。あるいは前提自体が間違っているのかも知れない。となると、これは〈将軍〉ではなく〈鬼婆〉マギー側の戦力か。

 むしろ今だからこそ、マギーはHWの投入を決意したのかも知れない。〈将軍〉のクーデター部隊が〈バジリスク〉に間引かれ、ギャングと無人兵器に痛めつけられ、ロンドン市内での主導権イニシアチブを喪失した今だからこそなのかも知れない。

 事によれば、とやや陰鬱に考える。龍一の〈竜〉発現も含め、何もかもが彼女の描いた構図通りなのかも知れない……そしてその契機を作ったのは、当の龍一なのだ。

 更なる銃撃が龍一の走らせる馬を追って石畳を突っ走り、追いすがってくる。

「考える暇もなしか……!」

 何より、対抗手段が全くないのが痛い。唯一の武器である警棒は先ほど投擲してしまった──あっても銃器に対抗できるとも思えないが。

 全く手がないわけではない。しかし、と龍一は全力疾走を続ける馬の背を見る。。下手をすればそのまま死ぬ試みに、仮初めとは言え相棒のこいつを巻き込めない。


【同時刻──フェンチャーチ・ストリート駅近辺、ホワイトチャペル】

「もう少しだ……保ってくれ!」

 路地を走り抜け、広場に出る。枯れた噴水の脇から、噴水より遥かに大きい〈アラクネ〉が足を蠢かせて進み出た。

「次から、次へと……飽きさせねえな!」

 電子照準の機関砲が火を噴く寸前──龍一の指先から、血の滴が飛んだ。対戦車火器よりもよほど凄まじい効果を示す、

 一瞬で血の滴が内部機構に広がり、電子機器を侵食し始める。内側から文字通り貪り食われる〈アラクネ〉に馬を突進させた。

 傾斜装甲を一気に駆け上がる。内側から火花を散らして崩れ落ちる〈アラクネ〉の機体から、馬は軽々と飛び──

 銃声よりも衝撃の方が凄まじかった。自分の視界が反転し、路面をカーリングのように身体が滑るのを龍一は感じる。

 右胸に文字通りの風穴が開いていた。肩部は消滅し、皮一枚で右腕がほとんどちぎれかかっている。

 大口径の対物アンチマテリアルライフルによる狙撃。自分の判断の甘さに苦笑をこぼすしかなかった。三段構え、いや四段構えの罠か。

 ──

 次の瞬間、全周囲から発射された無数の銃弾が横たわる龍一を穴だらけにした。


 一日に二度も三度も死ぬのがお前の本意か?

 別に本意じゃないな。文字通り死ぬほど辛いし。まあ、あいつを……馬を巻き込まずに済んだのは不幸中の幸いだけど。

 馬が死ななかったのがそこまで嬉しいか。

 嬉しいさ。だって、俺のせいで死にでもしたら寝覚めが悪くなる。

 つくづく度し難い。

 俺もそう思うが、こればかりはどうしようもない。だって、厄介事は俺の飯の種なんだぜ。


 今まで背に乗せていた人間の重さが消失した。馬は首を巡らせて駆け寄ろうとし──戸惑うように数度足踏みする。

 何かが、あの人間の中から出てこようとしている。


 龍一の全身が何倍にも膨れ上がり、弾けた。


【同時刻──リージェンツ・パーク近辺、マリルボン・ハイ・ストリート】

「出てこいよ可愛い兵隊さんたちプリティソルジャーズ! 可愛い顔を穴だらけにしてやるからよ!」

 野卑な笑声とともにひっきりなしに銃弾が降り注いでいる。〈ペガサス〉の〈魔弾〉に狙い撃ちされ、無人兵器の砲撃と爆撃で蹴散らされ、さらにマギー・ギャングに追い散らされてここまで生き延びてきた近衛歩兵連隊の一小隊も、とうとう追い詰められていた。

 が、助けは意外なところから来た。

 どこからともなく投擲された金属缶がギャングたちの足元に転がり、猛烈な勢いで白煙を噴き出した。狼狽の悲鳴があちこちから聞こえる。同士撃ちを恐れて発報が少しだけ弱まる。

「こっちだ、急げ!」

 兵士たちが驚いて顔を上げると、手を振っているのは彼らと同じくらい薄汚れた巡回警官たちだった。「早く! 煙幕は長く保たない!」

「あ、あんたらどうして……」

 埃と硝煙に塗れた顔で、警官は胸をそびやかす。「どうしてって? 目の前でギャングに嬲り殺しにされる奴を見たくないからだろうが。たとえ俺たちが腐敗した汚職警官でもな」

「……すまん」

「いいって。それにもう煙幕も、弾薬も底を尽きたからな。あんたらは?」

「充分にあったら、ギャングどもから一方的に小突き回されると思うか?」

「そうか……そうだろうな」

 一人の警官が、不審げに眉を寄せた。「それにしても、一向に煙が晴れないな」

「いや、違うぞ……これは煙じゃない。霧だ。それもえらく濃い……」

 いつしか周囲に、ミルク色の濃い霧が立ち込めていた。お互いの顔もろくに見えなくなるほどの濃密な霧だ。

 全員立て、とわずかに生気を取り戻した顔で警官が鋭く言う。「この霧にまぎれれば、生きて脱出できるかも知れない」

 それにしても、と兵士の一人は宙に指先をかざしてみる。細かい粒子が指と指の間を通り抜けていく。こんな濃くて、おかしな霧は生まれて初めてだ──


【同時刻──避難民を乗せたバス内】

 男の子は目を伏せ、手の中のドラゴンをずっといじり回していた──周囲の啜り泣きを締め出すようにして。実際、他にできることなどなかった。パパやママやお祖父ちゃんと同じぐらいの大人が子供のように泣きじゃくっているのに、何ができるだろう?

 ふと、何かを感じて顔を上げた。何かに呼びかけられたような気がして。

 窓の外の霧が──蠢いている。まるで生き物のように。

 彼は目を瞬き、そして手の中のドラゴンとそれを見比べた。

 だが──窓の外の霧の動きがより激しくなり、そして形を取り始めた時、男の子は思わず呟いてしまった。

「ドラゴンだ……」

 周囲の啜り泣きが止み、そして両親と祖父が驚きのあまり泣くのをやめた。「お前、今、声が……」

 だが、男の子はそれに答えなかった。ひたすら窓の外に魅せられていた。


【同時刻──ロンドンシティ、グレシャム・ストリート】

「霧……か?」

 擱座した車両を盾に応戦していた隊長は顔を上げた。確かにロンドンに霧はつきものだ。だが、これほど濃密な霧が急に、しかも広範囲でとは奇妙だ。

「た、隊長、あれを……」

 副隊長の狼狽し切った、狼狽し切ったとしか言いようのない声自体に彼は驚いた。滅多なことで動揺する男ではない。

 そして、副隊長の示す方向を見、彼もまた絶句することになった。

 自分たちを追い詰めていたHWたちが、もつれた毛糸玉のようになっていた。手足をもつれさせ、絡み合わせ、そして宙に浮かび上がっている。

「何だあれは……」

 霧が凝縮して形成された鉤爪が、HWたちをまとめて鷲掴みにしていた。バスどころか小型のビルほどもある猛禽とも爬虫類ともつかない、巨大な鉤爪。それがもがく暇すら与えず、無造作に力を込めた。

 完全防弾・耐衝撃服など文字通り歯牙にもかけない威力だった。まるで果実のように、HWたちが一瞬で握り潰された。放水にも等しい勢いで血と内容物が鉤爪の隙間から噴き出し、車列と周囲の建物へ豪雨のように降り注いだ。

「あいつだ……」呆然と呟くしかなかった。「団地に現れた、あの怪物と同類だ……」

 生き残りのHWが即座に応じた。アサルトライフルが一斉に火を噴く。が──誰もが目を疑った。発射された銃弾が、銃口から数センチのところで停止しているのだ。いや、正確には少しずつ宙を進んでいるのだが、水の中を漂う藻のようにのろのろとしか進んでいない。

 魔法じみたテクノロジー、あるいはテクノロジーの皮を被った魔法のようだった。

 

「……全員、耳を塞いでその場に伏せろ!」

 隊長は叫んだ。理屈になっていないとっさの叫びだったが、それは彼が思ったよりも遥かに現実的な方法だった。

 

 閃光手榴弾を1ダースほども同時に炸裂させたような閃光と、胃の腑を揺さぶる大音響。それが展開した時には、全てが終わっていた。

 耳鳴りが治まり、恐る恐る顔を上げた人々は目の前の惨状に呆然とした──あのHWの隊列が、燃やされ砕かれ、残らず黒焦げと化して見る影もなかった。骸の上でちろちろと燃える炎以外、動くものは何一つない。

 かつかつ、と時ならぬ蹄の音が響く。

 返り血と硝煙で毛並みを斑に染めた芦毛の馬が、のんびりとストリートを横断しようとしていた。

「あれは……」

「間違いなくロンドン警察庁ヤード所属の騎馬です。でも、どうして……?」

 訝る人々の目の前で、馬は一声いなないた。

 一瞬だけ、霧が動きを止めた──だがすぐ、何事もなかったように流れていった。

 ひたすら困惑する人々をよそに、馬は流れていく霧をいつまでも見つめていた。どこか哀しげな眼差しで。


 ロンドンのそこかしこで酷似した光景が繰り広げられていた──体育館に、音楽ホールに、図書館に、テレビ局・ラジオ局に、オフィスビルやアパートの一室にまで潜んでいたHWの小隊が、雷で砕かれ、炎で燃やされ、極低温の中で動きを止め、高周波を浴びて内側から膨れ弾け飛んでいた。

 遥か成層圏の高みから見れば、ロンドン自体がまるで竜か蛇のような太く長い霧の中にすっぽりと包まれているのが見えたはずだ。


【同時刻──某所】

「ロンドン市内に新たな〈竜〉反応、竜種タイプ〈イルルヤンカシュ〉! 信じられません……一日に複数回のを、しかも状況に応じての形態変化なんて……」

「電子戦特化型の〈バジリスク〉の次は、領域拒否・広域破壊特化型か。あの霧の中にいる限り、。かっ飛ばしてんねえ」報告を受けた赤毛の女、白木透子はどこか思わしげに頷く。「この局面ではそれしか打つ手がないのは確かだけど……、息子さん」

「室長。への報告はなしでいいんでしょうか?」

「あー、いいのいいの。そこまで思い詰める必要はないよ、みっちゃん」透子は掌をひらひらと動かした。「〈悪竜〉さえ出てこなければカバーストーリーの範囲内でケリはつくからね。いちいち報告されても爺さんたちも困るでしょ……今はまだ、可愛らしい蛇ちゃんがロンドンにとぐろを巻いているだけだからね」


【同時刻──ヴィクトリア駅近辺の操車場】

 ブリギッテの意識が澄み切った。この霧が龍一の助けであるのなら、なおさらそれを無駄にはできない!

 足を下ろすと、うまい具合に傾斜した無蓋貨車に軟着陸した。早くも機銃が動き始めているのが見えた。強化弓に矢をつがえながら、声を限りに叫ぶ。「撃って!」

『砲弾』が射出された。

 駅員たちの創意工夫、即席の電磁加速砲レールガンだった。軍のエンジニア上がりでも混じっていたのか、彼らは有り合わせの鉄骨と大型電磁コイルを組み合わせ、フィリパでさえ目を見張る速度でそんなものを組み上げてしまったのだ。貫通こそしなかったが、生半可な銃砲弾では傷さえつかない〈ヘカトンケイル〉の装甲が内側から爆発でもしたように大きく爆ぜている。

 なおも動き出そうとする機銃が、火花を撒き散らして沈黙した。

「行け、ブリギッテ!」

 顔を煤けさせたフィリパが、立て続けに銃座へ向けて撃ち続けている。見事な狙撃よりも、彼女の義理堅さの方がよほどありがたかった。

 ぎしぎしと身じろぎし続けている〈ヘカトンケイル〉の露出した内部機構に、先端に電撃警棒を括りつけた特製の『矢』を向ける。当然バランスは悪くなっているが、

(勘と目視で修正……)

 そんなもの彼女には朝飯前だ。

 射った。次にもたらされた結果は彼女の予想以上に劇的だった。青白い火花が巨躯を覆い尽くし、あの強固な装甲もろとも内側からぐずぐずとプティングのように崩れ始めたのだ。自らの重さによる崩壊だろう。

 実に際どい瞬間だった──内側から小爆発を起こしながら崩れ落ちる〈ヘカトンケイル〉の傍らを、地の底から現れた怪物のように巨大で、宮殿のように豪華な巨大列車が轟音とともに駆け抜けていった。十数年の長きに渡り、地の底をひたすら走り続けていた〈レテ〉が、ついに地上へ現出したのだ。

 爆発すら圧する勢いで窓という窓から歓声が沸き起こった。こちらに帽子を振りたくる駅員たちに混じり、タンまで飛び跳ねているのには苦笑するしかなかった。


【午前11時45分──操車場通過後の〈レテ〉車内】

「外に出たぞ。文字通り『トンネルを抜けた』な」死闘に次ぐ死闘に、さすがに肩で息をしていたオーウェンが外界の光で眩しそうに目を細める。「ブリギッテたちが成功したのか……」

「核の起爆装置はまだ抑えられていないけど、ひとまず地下での起爆は阻止しましたね」

「二人とも、もう一戦行けるー? 私はまだまだ元気溌剌だけどー」銃弾を撃ち尽くしたカービンライフルを惜しげもなく捨てたアイリーナが、絶命したギャングの手から取り上げたAKを確かめている。より正確には、頑丈そうな木製の銃床ストックを撫でさすっている。「どちらかっていうとこっちの方が好みかなー。撃ってよし、殴ってよし、締めてよし」


【同時刻──リージェンツ・パーク近辺、アテナテクニカ社専用セーフハウス】

「私がしてやられた、だと……?」何も映さなくなったモニターの前で、エイブラムは呆然と呟く。「それも相良龍一ならともかく、あの小娘に? ありえない……」

「閣下」ネイサン・ボイド憲兵大尉は蒼白になっている。「〈ヘカトンケイル〉が落ち、しかも市内に核が入った以上、ここも危険です。前後策を……ああ、もちろん御身の安全のためですが、それを考えませんと……」

 ネイサンを見上げる〈将軍〉の目は血走っていた。むしろ静かである声で彼は言う。「〈階梯〉を起動させる」

「閣下!?」

「私はまだ負けていない。そのための〈階梯〉だ」

「し、しかし閣下。〈階梯〉はマギー・ギャングの手元にあるのでは?」

「核本体はな。だが

「何ですって!?」ネイサンの声は完全に裏返っていた。

「私があのごろつきどもに危険極まりない玩具を渡すと思うか? 金と手間をかけてイスラエルから密輸入した核を? しかもその起爆装置まで渡すほど、私はお人好しではない。後は……」エイブラムは後生大事に抱えてきたスーツケースの蓋を開ける。「起爆させるだけだ」

 室内の全員に慄きが走る。オペレーターの一人が勇気を奮い起こして声を上げる。「閣下、この街には女王陛下だけではありません、私たち全員の家族もいるのです。はいそうですか、と簡単には従えません……!」

 乾いた銃声がその返事だった。眉間に小さな穴を穿たれた身体がどうと崩れる。まだ煙をくゆらせている小型拳銃を手に〈将軍〉は室内を睥睨する。「他に異論は?」

 誰もいなかった。ネイサンでさえ泣きそうな顔のまま、核の起動準備に入る。

「私以外の誰もわかっていない。誰も。ロンドンを、あのような怪物の蹂躙に任せるわけにはいかないのだ。女王陛下の総べる、栄えあるロンドンを……」

 その栄えあるロンドンを自ら灰にしようとしている矛盾には気づかず、気づくつもりもなく、エイブラムはコンソールを操作し続ける。

「消すのだ。この街ごと、奴を……」

 ──この時、〈将軍〉がもう少し冷静になり、残存部隊の指揮を取ることに専念していればこの後の展開はもう少し変わっていたかも知れない。

 だが、〈将軍〉の目標はロンドンの支配ではなく〈竜〉だった。相良龍一の首を取ることにあまりにも没頭しすぎていた。まるで負けに負けを重ね続けて、一発逆転以外の可能性が目に入らなくなったギャンブラーのように。

 それに、と〈将軍〉は声に出さず思う。どうにもギルバートから聞かされたブリギッテの台詞が脳裏をちらついて離れないのだ。、だと? よかろう。

 ソーセージのようなエイブラムの指と、ひどく震えているネイサンの指がそれぞれの起爆ボタンにかかる。安全装置により、同時に二人以上が起爆装置を押さないと失敗する仕組みになっているのだ。

「行くぞ!」

 同時にボタンが押し込まれる──作動しない。

「なぜだ」

 エイブラムは悪夢から目覚めたように周囲を見回した。呆気に取られた部下たちの顔以外、周囲の様子に変化はない。まるで出来の悪いコメディ番組の一幕のように、何も起こらなかった。そよ風すら吹いていない。

「……なぜだ!」

「まだわかりませんか、父上?」エイブラムも答えを期待していたわけではなかっただろうが、意外な声で意外な返事があった。「失敗したんですよ、あなたたちが……いや、かな」

 全員が戸口を振り返った──全身血まみれのギルバートが、幽鬼のような姿と表情で立っていた。


【同時刻──ヴィクトリア駅近辺の操車場】

 地上に降り立ったブリギッテはこちらへ駆けてくるフィリパとタンに表情を緩めたが、すぐに彼女たちの緊迫した顔つきに気づいた。「何かあったの?」

「よくやった、と言いたいところだがな。〈将軍〉が別の意味での爆弾を投下したらしい」

 タブレットの映像を見たブリギッテの表情がまた引き締まる。「何が何でも龍一を殺したいのね。懲りない奴」

 全員が顔を見合わせ、頷く。

「私たちも後を追わないと……龍一があんな姿になって戦っているのに、私たちだけが勝手に諦められないわ」

「同感だが、追うにしてもが欲しいな……うん?」

 フィリパの目が、駐車場の片隅に停車した真紅のスポーツカーに留まる。驚いたことに、この騒ぎの最中でもウィンドウ一枚割れていない。しかもそのボディはたった今、工場から出てきたばかりのように艶やかな輝きを放っている。

「身障者用スペースに停めるなんて駐車違反にしてもひどいわ。こんな時でなかったら通報してやったのに……」

 呆れて眉を吊り上げたブリギッテは、次の瞬間、つかつかと車に歩み寄るフィリパを見てさらに呆れることになった。「まさか……盗むんですか?」

「ああ。この国でも駐車違反は高くつくんだろう? いい授業料になるさ」

 バックパックを引きずるようにしてタンが走り寄ってくる。「俺も行くよ。まさか今さら置き去りなんてねえだろ?」

「駄目だ。君は残れ。ここの人々とともに避難しろ」ウィンドウを叩き割りロックを解除し、早くも運転席に腰を下ろしたフィリパがぴしゃりと言う。「ここまでついてきてくれただけで充分だ」

「本当に置き去りにする気かよ! 俺だって一人前の男なんだぜ!」

「だが子供だ」

「フィリパさんの言う通りよ」絶句してしまったタンにブリギッテは優しく言った。「あなたの勇気なんて今さら疑う必要もない。それにあなたの味方は、私や龍一やアレクセイだけじゃないって、もうわかったでしょう?」

 タンは何かを言おうとして、ぐっと堪えた。まだ大喜びしている駅員たちの方を見る。「……わかったよ。だから死ぬなよ。あのチンカスども引きずって帰ってこいよ。あいつらきっと、お前がいないと駄目なんだよ、ブリギッテ」

 彼女は微笑んで頷いた。「ええ」


【同時刻──〈レテ〉最先頭車両】

 不意に〈レテ〉の巨体が、サスペンションですら吸収しきれないほどに揺れた。勢いを全く殺すことなく急激に進路を変えたのだ。

「……ベルガーさん! ポイントが切り替えられています! やられました……このままだとバッキンガム宮殿を大きく逸れ、ロンドン郊外へ出てしまいます!」

 珍しく──本当に珍しく、ベルガーは言葉を詰まらせた。怒りのあまり、切迫した部下の声に返事ができなかったのだ。

 一体誰に腹を立てればいいのか、それすらわからなかった。ロンドン市内をかき回すだけかき回した上、自分の展開した部隊すらろくに面倒を見られない〈将軍〉か。事あるごとに邪魔してくる、あの相良龍一とふざけた仲間たちか。それとも警戒していたにも関わらず、まんまと陥れられた自分自身か。

 だが、彼は氷のごとき自制心でどうにか冷静さを取り戻した。「速度を上げろ」

「えっ?」部下が目を丸くする。「しかし、このままでは……」

「もちろんこのままで済ませるつもりはない」

 結局はマダムの懸念が正解だったというわけだ、彼は短く吐き捨てる。「プランBの準備に入る。回収部隊に連絡を取れ。それと……爆薬をあるだけ持って、俺についてこい!」


【同時刻──リージェンツ・パーク近辺、アテナテクニカ社専用セーフハウス】

 室内に一歩踏み入ったギルバートは、それだけで全てを察したようだった。「殺そうとしたんですね。彼女を」

「お……お前のためだ」エイブラムは彼らしくもなく、ひどく吃っていた。悪戯を咎められて下手な言い訳をする子供のような口調だった。「あんな女を娶ったところでお前は幸せにならん。どころか……命取りになるだけだ」

「僕のため?」ギルバートの声は動揺を抑えようとして、無惨にひび割れていた。「彼女を殺そうとするのが『僕のため』ですか!?」

 今や、空気そのものが震えていた。間近でギルバートを見続けたエイブラムの部下たちでさえ、これほど冷静さを欠いた──そして恐ろしい状態の彼を見るのは初めてだった。まるで自分が猛獣と同じ檻に閉じ込められたように、全員が身をすくませている。〈将軍〉ですら。

「……ずっと一人だと思っていました。あの〈家〉ですら、僕の同類は彼女たちだけだと思っていました。そうでないと教えてくれたのはあなたです。乗馬だって、クレー射撃だって、ボクシングだって、楽しいとは思えなかったけど、あなたが喜ぶなら僕はどんなことでもやった。そのあなたが、彼女を殺すんですか!?」

「閣下から離れろ、この化け物!」

 もはや悲鳴と変わらない甲高い声とともに、ネイサンが拳銃を引き抜いた──それは予想外の結果をもたらした。彼自身にとって最悪の結果を。

 返事の代わりにギルバートは手近なパイプ椅子を掴み、片腕で一閃させた。椅子はネイサンの首を容易くへし折り、勢い余って彼を背後の壁に叩きつけた。

 エイブラムもまた小型拳銃を構えた。「怪物が! やはり怪物を理解できるのは、怪物の同類だけか……!」

 それが文字通りの致命的な失敗であると、言った本人でさえ気づいた──そして気づいた時には、全てが終わっていた。

 ほとんど垂直に振り下ろされたパイプ椅子は〈将軍〉の頭頂部に食い込むどころか、その巨躯をまるでギロチンの刃のように両断していた。特製のスーツに包まれたままの巨躯が、支える何もかもを失ってぐずぐずと中身を吐き出しながら崩れ落ちる。

「出ろ! 出ていけ! 殺されたくなかったら出ていけ!」

 ギルバートの大音声を聞くまでもなく、全員が悲鳴を上げて逃げ出していた。ギャングとクーデター部隊と、無人兵器の闊歩する市街へと。

 誰もいなくなった部屋を、耳が痛くなるほどの静寂が満たした。

 先ほどまでの激情が嘘のように、ギルバートの顔から表情が残らず失せていた。まるで呼吸以外の全てを忘れたように。

「よくやったわ、ギルバート」

 聞き慣れた、そして聞こえるはずのない声が嬉しそうに言う。のろのろと上げた視線の先に〈鬼婆〉マギーの顔があった。満足そうな笑顔が。

「マギー……どうして」

「時が来たからよ」彼女の声には親しみがあり、穏やかで乾き切っていた。

 彼女は血の海を物ともせず、エイブラムの無惨な骸につかつかと歩み寄った。足元に落ちたピンポン玉のようなやや歪んだ球体──頭蓋から飛び出したエイブラムの目玉を拾い上げ、スマートフォンのような機械にかざす。場にそぐわない軽快な電子音が鳴り響き、生体情報を読み取った。

「これで〈ロンドン・エリジウム〉のアクセス権は全て私たちのもの」彼女は満足げに立ち上がる。「分散して持たれていたらもう少し厄介になったけど、この男が他人を信頼しないおかげで手間が省けたわ」

 ギルバートは目を瞬いた。何かを言わなければいけないのに、何を言えばいいのかわからなかった。

「さ、行きましょ」自分の息子ほども歳の離れたギルバートに、マギーはどこか童女のような口調で親しげに話しかける。「あなたがお父上を殺してでも守りたかった彼女も、今頃きっと向かっているわ……やっぱり同類を理解できるのは同類ね。何もかも終わりにして、ずっとで暮らしましょう。ロンドンを月まで吹き飛ばした後でね」


【同時刻──ブラックフライアーズ駅近辺を爆進する〈レテ〉車内】

 足元から伝わってくる振動の種類が変わった。駅を通過してテムズ川の上、桟橋を渡り始めたのだ。

「くそ、こいつ何なんだ!?」

「通常弾じゃ貫通もしねえ! 徹甲弾を……」

 叫びながら弾倉を交換しようとしたギャングの頭が弾け飛んだ。〈分体〉の巨躯に隠れたアイリーナに、AKで頭を吹き飛ばされたのだ。

「よそ見厳禁! 突入ー《チャージ》!」

 戦闘興奮剤を打っているはずのギャングたちが反応できないほどの速さと鋭さだった。AKを片手で掃射しながら腰の戦斧を引き抜き、一閃。斧の刃先を深々とギャングの喉に突き刺す。がらがらと水の漏れるような音を立てて崩れ落ちる相手には目もくれず、引き抜きざまに柄のスパイクを別のギャングの腹に叩き込み、もんどり打って倒れたところを容赦無く顔面に一発撃ち込む。

「ちゃんとついてきてるー、オーウェン?」

「ついてきてはいるが……私がついてきている意味はあるのかね?」

 オーウェンのぼやきを前方で沸き起こった銃火がかき消した。〈分体〉の防護服が火花を散らす。オーウェンは巨体の影から散弾銃を突き出し、撃った。散弾の大半は逸れたが、ギャングたちがあわてて首を引っ込める。

「それなりにあるんじゃないー?」

 そうだろうか、とオーウェンは今ひとつ納得できない顔だ。

 が、それはともかくアレクセイはギャングたちの慌ただしい動きに何かを感じ取った。はっきりとはわからないが、無視できない何かを。

 アイリーナはアイリーナで何か思うところはあったらしい。「何か……変ねー」

「ああ、反撃の準備か、それとも……」

 続けようとした彼の語尾に爆音が重なった。

 全員が目を疑った──車体の一部が吹き飛び、辛うじて繋がっていた部分も〈レテ〉自体の重量に耐えかね、ちぎれようとしているのだ。ごうっとトンネル内の突風が車内に吹き込み、本棚からこぼれ落ちた本やファイルが木の葉のように舞う。

「あいつら……列車を爆破したのか!」

「荒っぽいけど、有効な手ではありますね……!」

 走れ、などと号令するまでもなかった。全員が走り出す。何せこのままでは車体がちぎれ、前方の列車へ完全に置いていかれるのだ。が、その前に生き残りのギャングたちが立ちはだかる。戦闘興奮剤を打っているらしく、仲間たちと分断される危険すらお構いなしにひたすら発砲してくる。

 避ける空間も、時間もない──血溜まりの中に転がる軍用ナイフを、アレクセイはとっさに拾い上げる。

「……苦痛なき」

 アイリーナの傍らから、アレクセイの姿がふっと揺らいで消えた。

「眠るがごとき死を」

 一人が胸と脇腹を突き刺され、

 背後の一人が指弾で眼球と頭蓋を射抜かれ、

 最後の一人は喉にナイフを深々と貫かれ、血の泡を吹きながら仰向けに倒れた。

 恐るべき、一瞬の殺戮劇だった。オーウェンばかりかアイリーナまで凍りついている。

「行ってくれ!」

 アレクセイの叫びにアイリーナは我に返る。「頼むよ、!」

 煙と化した〈分体〉が防護服の中から這い出し、自分の身体をロープのように伸ばした。引きちぎられて離れていく前方と後方の車両を、強引に繋ぎ止める。さすがに自分の身体の維持で精一杯のようだが、これ以上距離が開くのは防げた。

「オーウェン、幅跳びの準備してー!」

「頼むから、命懸けの障害物競争はこれで最後にしてくれよ……!」

 早くも助走を始めようとしたアイリーナが、ぎょっと立ち止まった。

 前方車両から、あのベルガーがロケット砲を構えている。ひどく冷たい眼光が、彼女の目に焼きついた。

「伏せろ!」

 追いついたオーウェンがアイリーナを引きずり倒す──その瞬間、ロケット弾が発射された。アレクセイ自身、身体が動いた、としか説明できない動きだった。

 間髪入れずアレクセイが手首の〈糸〉を振るう。両断されたロケット弾が炸裂し、車両と車両の間で眩いオレンジ色の火球が膨れ上がった。

 アイリーナは人形のように弾き飛ばされたが、オーウェンとアレクセイに受け止められたおかげでまとめて尻餅をつくだけで済んだ。が、文字通り身体を張ってちぎれゆく〈レテ〉を繋ぎ止めていた〈分体〉はそうはいかなかった。なすすべもなく四散する。

「くそ……!」

 アレクセイたちの後部車両を置き去りに〈レテ〉が遠ざかっていく。冷たい目でこちらを睨み続けるベルガーと、ギャングたちの野卑な罵声すらもが遠ざかっていく。

 運動エネルギーを喪失した後部車両はゆるゆる前進していたが、やがてテムズ川を横断する橋の上で止まってしまった。文字通りの立ち往生だ。

「畜生……!」

 アイリーナは歯噛みし、オーウェンは何も言わず車両の壁に拳を叩きつけた。


【同時刻──ハイド・パーク近辺の交差点】

 ロンドン市内の戦況は泥沼どころか、混沌と化しつつあった。少なくとも〈将軍〉配下のクーデター部隊にとっては、悪夢以外の何でもなかった。軟弱な市警察に代わってろくに武装もしていないギャングどもを蹴散らし、市民の歓呼の声に包まれて凱旋する──その予想の全てが裏切られたのだから、たまったものではない。

 戦車や攻撃ヘリなどの重戦闘兵器は、龍一に乗っ取られた〈ペガサス〉の〈魔弾〉連射によりその大半を喪失していた。軍用デジタル回線は〈バジリスク〉のウィルスにより事実上機能していない。〈魔弾〉の狙い撃ちにより、ベテランの指揮官たちが片っ端から狙い撃ちされたのも大きい。

 それでも現場の下士官や兵士たちは、一向に来ることのない〈将軍〉からの反撃、あるいは撤退命令に困惑しながらも、どうにか態勢を立て直そうとはしていた。少なくとも、この時はまだ。

「また一個小隊、合流を果たしました」

「よし。休みも与えられず悪いが、まずは全周防御に当たってもらう。この後も合流してくる友軍のためにもな……」

「ギャングどもめ……不意打ちなら一時的に優位には立てるだろうが、それはあくまで不意を打てればの話だ。充分な反撃のための戦力さえあれば」

 これならいける、という自信がようやく生き残りの間に芽生え始めた時。

 不意の爆音で反射的に振り返った彼らが目にしたのは、次々と炎に包まれていく友軍の軍用車両群だった。

「なぜだ!?」

 せっかく合流を果たしていた貴重な戦力が、静観を決め込んでいたはずの無人兵器の群れに蹴散らされていた。車両にも、兵士にも、対人・対車両用のクラスター爆弾が等しく雨霰のように降り注ぐ。街路を後退しながらも歩兵たちを機銃で援護していた生き残りの戦車にも〈ハーピー〉の一群が襲いかかった。ハッチから身を乗り出して機銃を乱射していた車長がたまらず転がり落ちた次の瞬間、自爆ドローンたちが車内に飛び込んだ。瞬時に戦車は内側から爆発する。

「……どうなっているんだ! 〈ロンドン・エリジウム〉の無人兵器が、我が軍まで攻撃しているぞ! 敵味方識別装置I F Fはどうした!?」

全て正常オールグリーンです。つまり、その……識別した上で、こちらを攻撃しているとしか……」

「何を考えておられる……〈将軍〉閣下!」

 その時にはもうエイブラム・アッシュフォード〈将軍〉閣下は命令を下すどころではない状態に陥っていたのだが、もちろん彼らが知る由もない。

 マギー・ギャングたちの襲撃も混乱に拍車をかけた。交戦規約に縛られた正規軍の兵士と違い、ギャングたちにそのようなものはない。、が唯一のルールである。

「まったく……これじゃ七面鳥撃ちターキーシュートだな!」

「へっ、ヤクのキメすぎでラリった婆さんを撃つ方がよっぽど難しいぜ!」

 手持ちの銃砲弾を全て叩き込み、弾を撃ち尽くしたら逃げる。シンプルで明快なだけにギャングたちには迷いがなかった。兵士たちの側はそうはいかない。建前ではあっても彼らの目的はロンドンの奪還である。暴動が起きているわけでもないのに、市民に向けて発砲はできない。が、銃火を浴びせられて無反応でもいられない。わずかな躊躇いの間に、各部隊の被害は無視できない規模に膨れ上がりつつあった。高機動車にグレネードが次々と投げつけられ、燃える車両の中から這い出してきた兵士たちが次々と銃火を浴びて血煙の中に崩れ落ちる。

 そして反撃、あるいは撤退命令を出せる〈将軍〉は、既にこの世の者ではない。来るはずのない命令を待ちながら、クーデター部隊はじりじりと食い潰されていく。


【同時刻──テムズ川桟橋、ブラック・フライアーズ駅とウォータールー・イースト駅中間地点】

 後方から走ってきた無蓋貨車は重々しい音を立ててアレクセイたちの前で止まった。屋根すらない操縦席から、バイク用のゴーグルを額に跳ね上げた趙が見下ろす。「こっぴどくやられたみてえだな、旦那方」

「返す言葉もないよ、武器商人君。……約束は守ってくれたんだな」

「取引だからな。金だけもらってトンズラなんかしたら、今後の商売に響きかねねえ。たとえ相手が、これからロンドンごと月まで吹っ飛ぶつもりでもな」

 趙は奇妙なほどの真顔を向けてきた。「お前ら、まだ続けるつもりなのか?」

「何も終わってはいないからね。龍一も、ブリギッテも、きっと最後の最後までそうするだろうから」

「あなたもさっさと逃げた方がいいわよー。私たちに付き合って月まで吹っ飛ぶ必要はないからねー」

「全くだ。得物と足を持ってきてくれただけで充分だよ」

 趙は黙った。

 そして。


【同時刻──〈レテ〉最先頭車両】

「本当にしぶとい連中だった……が、どうにか撒いたな」

 爆圧と銃撃で荒れに荒れた〈レテ〉の車内で、ベルガーと部下たちはようやく一息つくことができた。さしものベルガーも、しばらくは声もなく水筒の中身を飲み干していた。が、すぐに気を取り直して顔を上げる。「回収部隊との連絡は取れたんだな?」

「はい。ロンドン・ブリッジ駅手前で合流可能と」

「ならいい。合流次第、その足で〈ザ・シャード〉を目指すぞ。マダムの指示通り、プランB発動だ」

「ベルガーさん、その……プランB発動ってのは……」

「ああ。お前たちも腹を括っておけ」

 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が車内で妙に生々しく響いた。プランBの発動──ロンドン全域を焼却する、事実上の自爆作戦。

 今やベルガーの最大の関心事は、核によるロンドン焼却だった。ギャングの使い走りに落ちぶれた元ドイツ軍特殊部隊員が起こした核テロ──それは彼を不名誉除隊にし放逐したドイツ連邦軍と、何よりドイツ連邦政府に対する最大の復讐であり、彼らの威信を木っ端微塵にしてくれるだろう。それを思えば、自分の命など何でもなかった。

 別の部下が後方から駆け込んでくる。「ベルガーさん、襲撃です!」

「このタイミングでか! 相手は誰だ!?」

 まるで心当たりがない。考えられるとすれば〈将軍〉のクーデター部隊だが、無人兵器とマギー・ギャングの両面攻撃を受ける最中でこちらに対処する余裕はないはずだ。それとも、まさかまたあいつらが追いついてきたのか?

 報告しに来た部下は自分が見たものを伝えるのに四苦八苦しているようだった。「その……馬鹿が突っ込んで来ます!」

「……何だと?」


「何が月までロンドンを吹っ飛ばすだあ!? 月まで吹っ飛ぶのはてめえらの方だああああ!」

 無蓋貨車の操縦席で仁王立ちになりながら、趙は三脚に装着した自動擲弾銃の反動を物ともせずに撃ち続けていた。間の抜けた音を立てて擲弾が射出されるたびに、〈レテ〉の一部ごとギャングたちが木の葉のように吹き飛ばされていく。

「……ねえ、この人、私たちより乗り気になってないー?」面白がるようなアイリーナの声に、

「聞くな」今やすっかり砲手ガンナーの趙に代わって操縦席でハンドルを握りながら、オーウェンは仏頂面で応える。

 窓から後方を見たベルガーの両目が限界まで見開かれた。「何だあの馬鹿は!?」

「うるせえええええ! 俺様の商売を台無しにしといて、この街から生きて出られると思うんじゃねえええええ!」

「……道化がっ!」

 歯噛みしながら、ベルガーはタブレットで指揮を飛ばす。「どんな手でも使ってここで奴らを振り切れ! 回収部隊にまで奴らを引きずるな!」


「何だああああ!? 正面からこの俺様とやり合おうってのかああああ!」

 妙に滑らかな動きで脚を蠢かせて進路上に現れた〈アラクネ〉を趙は怒鳴りつける。砲塔が旋回し、直撃すれば大の男でも粉微塵になりかねない大口径弾が轟音と共に放たれた。が、趙は怯みもしない。

「そんなションベン弾ごときで……」

 趙は右手で自動擲弾銃を保持しながら、左手で腰の得物を引き抜いた。救難用の照明弾を放つ信号拳銃だ。

「この俺様がびびるとでも思ったかああああ!」

 ろくに狙いも定めずぶっ放した。

 オーウェンやアイリーナだけでなく、アレクセイでさえ目を疑った──燃えながら飛んだ信号弾はまるで狙いすましたように〈アラクネ〉のセンサー部を直撃したのだ。人間で言うところの目を焼かれ、蜘蛛そっくりの〈アラクネ〉脚部が火でもつけられたように痙攣した。一瞬ではあったが、その一瞬こそが〈アラクネ〉の命取りとなった。

「死ねやおるぁああああああ!」

 バランスを崩した〈アラクネ〉に擲弾が次々と食い込み、装甲を剥ぎ武装を削ぎ落としていく。次の瞬間、逃げようもなく無蓋貨車は〈アラクネ〉に正面衝突した。巨大な鉄塊をまともにぶつけられたようなものだ。キューで突かれたビリヤードの球のように〈アラクネ〉は為すすべもなく突き飛ばされ、路面との間で火花を散らしながら一方的に引きずられ──そしてその延長線上に〈レテ〉の最後尾がある。

「まだまだああああ!」

 趙が足元のボタンに思い切りブーツの底を踏み下ろした途端、無蓋貨車の後方に設置されたロケットエンジンが轟然と火を吐いた。もちろん、まともな改造ではない。

 全速力で爆進を続ける〈レテ〉に、無蓋貨車はじりじりとその距離を詰めつつある。

 だが、それでもわずかに足りない。一旦は縮まったその車間距離を、〈レテ〉は出力に物を言わせて引き離していく。何しろ相手は原子力駆動だ。

「もう一丁おおおおお!」

 一抱えもある捕鯨用の銛撃ち銃ハープーンガンをアイリーナが撃ち放った。ワイヤーを引いて飛んだ大型の銛がギャングを数人まとめて串刺しにし、〈レテ〉に深々と食い込んだ。

「引けええええええ!」

 間髪入れずにアレクセイが大型モーターのスイッチを入れた。耳障りな音を立ててモーターが銛に結びつけられたワイヤーの巻き取りを開始。ワイヤーで引っ張られる形になった〈レテ〉の速度がわずかに落ち、逆に無蓋貨車の勢いがぐんぐんと増していく。

「頭を下げろ!」

 先端に引っかけられた〈アラクネ〉もろとも無蓋貨車は〈レテ〉最後尾に衝突した。いくら軍用ドローンでも、列車と貨車のサンドイッチになってはひとたまりもない。砲撃を喰らったように粉々に四散し、人と車両とドローンの破片が数百メートルの範囲に渡り飛び散った。

「お前ら、行けえええええ!」

「……本当にありがとう、武器商人君!」

「感謝は次の取引でしろよ! いいか、必ず俺様の言い値で払ってもらうからな!」

 数メートル近くも空中を飛び、三人は再び〈レテ〉車内に着地した。着地ざまに手近なギャングの喉を切り、額を銃弾で穿つ。ベルガーたちの占める最先頭車両まで、もう数十メートルとない。


【同時刻──〈レテ〉最先頭車両】

「ベルガーさん、速度が出過ぎです! このままじゃ脱線します……!」

「だからってあんな馬鹿どもに付き合えるか!」

 しかし部下の忠告も無碍にはできなかった。相当頑丈なはずの〈レテ〉は、今やどこもかしこもびりびりと危険なほどに振動している。規定の速度を越えた車体にさらに無理をさせているのだ。

 ベルガーでさえ、まともに立っていられなくなるほどの衝撃が襲いかかってきた。衝突で浮き上がった車体が、とうとう脱線したのだ。


〈レテ〉の巨体は線路から外れてもなお暴走を続けていた。威容を誇っていた女王専用列車も、今や後ろ半分は爆薬で吹き飛ばされ、無数の弾痕を穿たれて無惨極まりない姿ではあった。が、その勢いは全く衰えていない。

 その進路上にいた警官や兵士、市民やギャングたちはなすすべもなく、武器も車両も捨てて必死で逃げ出していた。パトカーも機銃を乗せたピックアップも皆等しく蹴転がされ、アスファルトを削りながら無人になった大通りを〈レテ〉がひたすら突っ走る。

「ねーえ! さっきから微妙に速度が上がってないー?」

「これだけの速度だ……ベルガーたちの方でも、制御しきれていないんだ!」アイリーナもオーウェンも、怒鳴らないと会話ができないほど周囲の轟音が凄まじい。「このままだとまずいぞ! 速度を上げすぎて横転するか、どこかのビルにぶつかるかだ……あまり愉快な未来が待っているとは思えないな!」

「もうちょっと元気の出ること言って欲しかったー!」

「それに付け加えるのも気が引けるんだが!」アレクセイも声を上げずにはいられなかった。「この〈レテ〉の動力が原子力電池であるのを思い出してくれ……!」

「横転したら余計に大惨事ってことでしょー? できればそれも忘れていたかったなー!」

 しかも、

「嘘でしょー……!」

 後方に目をやったアイリーナは絶句した。ひたすら爆走する〈レテ〉に併走し、ギャングたちの機銃搭載ピックアップの間を縫うようにして異様な形の車両群がぐんぐんと追い上げてきていたのだ。全体の形はバイクに似ているが、操縦者の姿がないのは奇妙だ。

〈エンプーサ〉。ギャングの違法改造車や違法改造バイクに対抗するために作られた対高速移動目標用自律バイク。その車体上部に搭載された自動銃座タレットが、別の生き物のように鋭く旋回する。

「伏せろ!」

 オーウェンが警告するまでもなく、アイリーナもアレクセイもとっくに伏せていた。

 連続した銃声。度重なる衝撃に耐えていた〈レテ〉の窓ガラスが掃射を受けて次々と砕け散る。ピックアップの機銃に比べれば小口径だが、もちろん生身には充分な脅威だ。

〈レテ〉の窓からAKの銃身だけを突き出したアイリーナが、苦し紛れに発砲。だが銃撃のことごとくを、〈エンプーサ〉は人間を乗せては不可能な挙動で回避する。まるで水の中の魚を撃っているようだ。

「弾道予測システムか……!」

「今の僕らには荷が重い相手だな。あれを蹴散らそうにも火力がない」

 さらに独特のローター音が後方から追いすがってくる。〈ハーピー〉の群れだ。

〈レテ〉の床に這いつくばったままのオーウェンが歯噛みする。「ベルガーの奴、もしかして〈ロンドン・エリジウム〉から無人兵器へのアクセス権を奪取したのか?」

「このあたりのドローンを私たちにけしかけるくらいはできるっぽいわねー。それだけでも充分な脅威だけどー」

 それでも、ここでは屈せない──それはこの場にいる全員の想いだった。意を決してアレクセイが指先を複雑に動かし始めた時、

 遥か後方から、スーパーチャージャーの轟音が急速に接近してきた。

「皆、無事か!?」

 真紅のスポーツカーのアクセルを力任せに踏み込みながらフィリパが叫ぶ。けたたましい轟音が連続し、予想外の角度から直撃を喰らった〈エンプーサ〉が質量に負けて次々と跳ね飛ばされていく。さらに助手席からは、束ねた髪をなびかせてブリギッテが身を乗り出している。

「フィリパ! ブリギッテ! どうしてここに!?」

「〈レテ〉の進路は変えたけど、核はまだ止まってないわ!」ブリギッテが強化弓の弦を引き絞る。「私たちのなすべきことは……」

 まとめて構えられた複数の矢が、同時に放たれた。「これからじゃない!」

 一矢は〈ハーピー〉のローターを直撃し、

 次の一矢は〈エンプーサ〉のカメラアイを貫通し、

 最後の一矢は軽機関銃を発砲しようとしたギャングの腕を射抜いて悲鳴を上げさせた。

 オーウェンでさえ驚嘆の唸りを上げている。「オリンピック級どころか、神話や伝説の域だな……!」

「さすがよスイートガールちゃんー! 私の目に狂いはなかったわー!」

 やりにくいからやめてください、とばかりにブリギッテは顔をしかめてかぶりを振る。

「馬鹿が増えた……」呆然としているベルガーの頬を、鋭い唸りとともに矢がかすめた。矢は背後の壁の装飾に突き刺さり、びぃいん、とバイオリンの弦に似た音を鳴らして震えている。

 ベルガーの目と、ブリギッテの目が合う。静かな怒りを湛えた少女の視線がベルガーを射抜く──あなたがディロンにしたことを考えれば、こんなのはただの手始めよ、と。

 怒りがかえってベルガーを冷静にさせた。頬に滲み出た血を拭いながら静かに呟く。「火力を集中させろ」

 窓から銃身を突き出したギャングたちが一斉に射撃を開始。が、フィリパはブレーキを踏んで急減速、銃弾の大半は車体を大きく逸れた。逆に立て続けに射られた数本の矢がギャングたちの腕を射抜き、彼らは悲鳴を上げて銃を取り落とした。無傷の者も愕然としている──こちらの本気の銃撃に対し、向こうはこちらを殺そうとさえしていない。

 大音響。突入用の爆薬を取り付けられたのか、隣の車両を隔てるドアが隔壁ごと粉微塵に消し飛ぶ。煙に咳き込みながら応戦しようとしたギャングがアイリーナの振り下ろした銃床に頭蓋を叩き割られ、あるいはオーウェンの放つ散弾に引き裂かれた。

「はぁあい! パーティに混ぜてよマルティン坊やー! 重たい花火をかついでえっちらおっちら逃げるのも疲れたでしょおぉ?」

 ついにベルガーたちの車両に、傲然とアイリーナが足を踏み入れた。返り血を浴びた凄惨な姿に、荒くれ揃いのギャングたちですら慄然としている。

 背後から進み出たオーウェンが油断なく銃口を巡らせる。「お前の素性は割れているぞ、マルティン・ベルゲングリューン。内乱罪で死刑にならず放逐で済んだのを感謝すればいいものを、よりによってこの国で核テロとはな。お前の祖国だって、引き渡される前に『護送中の事故』でくたばってくれた方が感謝されるんじゃないのか?」

 抑え切れない怒りにベルガーが歯を軋らせる。「警視庁ヤードの駄犬が、イスラエルの雌犬と手を組んだか」

「今どき犬なんて呼ばれるの本当の犬ぐらいじゃないー? ま、不名誉除隊でケツ蹴って追い出された元軍人の言語センスなんてその程度だろうけどさー」

 アイリーナのせせら笑いには応じず、ベルガーは冷たい目をオーウェンに向ける。「どう見てもお前が正規の捜査手順を踏んでいるようには見えんがな。女房を殺されて復讐に狂ったか?」

「私の精神状態など、核で数百万の命を焼却しようとするお前に心配される謂れもない。そして私の犯罪行為を裁く者がいるとしても、それはお前ではない」

「ま、あの時のマダムに俺が逆らえるはずもないがな……あの人も無謬ではない。核でこの街もろとも消し飛ぶ前に死ね」

 ベルガーとオーウェンの間で空気が炸裂する前に、アレクセイが動いた。目にも止まらぬ速さでベルガーの手足めがけて〈糸〉が振るわれる。

 が、その〈糸〉もろとも、逆に飛びかかろうとした全員が背後の壁へ叩きつけられた。オーウェンばかりかアイリーナまで弾き飛ばされている。

「携帯式の運動エネルギーシールド」ベルガーが腰に装着した小型の装置から、緑色の光が漏れ出ていた。「忘れたのか? お前の〈糸〉も含め、ご大層な殺しの道具は対処済みだ、〈ヒュプノス〉」

「アレクセイ!」

 スポーツカーから身を乗り出して力一杯に弦を引き絞るブリギッテに、ベルガーが懐から無造作に手榴弾を放る。

 見当違いの方向に飛んだ──はずの手榴弾は、しかし空中で急激に方向を変えてスポーツカーに飛ぶ。誘導式のドローン手榴弾。

「掴まれ!」

 必死の形相でフィリパがハンドルを切った瞬間、手榴弾が爆発した。直撃は避けたものの、スポーツカーは蹴飛ばされた空き缶のように炎と爆風に押し流される。

「……!」

 悲鳴を上げる間もなくブリギッテが空中に投げ出され──路面に激突する寸前、その遥か手前でごろごろと転がった。

 急激に実体化した〈竜〉の背中で。

「龍一……!」

 驚きと喜びの入り混じる声を上げたブリギッテの目は、しかし次の瞬間大きく見開かれた。ブリギッテを背に乗せたまま疾走する〈竜〉は速度を緩めることなく、〈レテ〉を追い越す勢いで加速し始めたのだ。

「ちょ、ちょっと龍一! 皆んなを置いてどこに行くのよ!」

 ブリギッテの制止の声も聞かず、〈竜〉はさらに急加速して全員の視界から消えた。

「……何だったんだ、今のは?」

 呆気に取られたオーウェンが全員の心情を代弁した時。

 今までどうにか危ういバランスを保ち爆走していた〈レテ〉の前輪が、わずかな段差につまづいた。

「あ」

 轟音が全員の悲鳴を掻き消した。一回転して十数メートル飛んだ〈レテ〉は、路面に叩きつけられてからもカーリングのようにアスファルトを盛大に削りながら突進し、オーガニック専門食品店のショウウィンドウを粉々に粉砕してようやく止まった。


【同時刻──バラ・マーケット】

 怪物のように巨大で、宮殿のように優雅な〈レテ〉の巨体は、死んだ長虫のように横たわっていた。今度こそぴくりとも動かない。

 列車が突っ込んできた時こそ泡を食って逃げていた避難民や兵士たちはその巨体を恐々と眺めていたが、やがて生き残りがいるのではないかと思い立ち、恐る恐る近づいていった──ただし、それも轟音を立ててマギー・ギャングの駆るピックアップやトレーラーが押し寄せ、車載機銃で周囲の者を追い散らし始めるまでのことだった。


【同時刻──疾走する〈竜〉の背中にて】

「龍一! 聞こえているんでしょう? どうして止まってくれないの? 皆を助けなくていいの?」

〈竜〉の背にしがみつきながらブリギッテは必死で叫んでいた。四つ足に近い姿勢で〈竜〉が疾走しているのと、あちこちに突起物が突き出ているためしがみつくのは難しくはなかった。が、それにしても早い。

「何か言ってよ! ……そうか、喋りたくても喋れないのね」

 自分で言って困ってしまったブリギッテだが、急に今まで沈黙していたポケットのスマートフォンが鳴り出した。番号を見ても非通知だ。恐る恐る出てみる。

『……核はアレクセイたちで充分対処可能だよ、ブリギッテ』

「龍一!?」

 懐かしくさえあるその声に彼女は一瞬喜んだが、すぐに眉をひそめた。「あの人たちを助けずに急ぐ必要があるの?」

『あの人たちを助けずに急ぐ必要があるんだ。俺の予想が正しければ、こいつは三段重ね、いや下手すると四段重ねぐらいの罠だ。〈レテ〉を止めて核を抑えただけじゃ、ジェレミーの頼み通り、ロンドンを救ったことにならないんだよ』

「それは……ううん。あなたがそう言うんなら、そうなんでしょうね」

『それに、ブリギッテ。何か俺に話したいことがあるんじゃないのかい?』

「え?」

 思い当たったように、彼女は目を伏せた。「それで気を遣ってくれたのね」

『アレクセイたちを信用していないんじゃない。むしろ信用しているから、なおさら話せない。君はそういう考え方をする人だ』

「龍一は……やっぱり優しいね」

『俺のことを話しているんじゃないだろう』ノイズ混じりの声に、さらに苦笑が混じった。『それで?』

「私、ずっと考えていたの。この一連の事件の背後にいるのは、よく私の知っている人なんじゃないかって。そして、よく私を知っていた人なんじゃないかって」

『ふむ』

「やっぱり私が……皆を巻き込んだのかも知れない。もしそうだったら、私は何て言えばいいのかしら? あなたやアレクセイに、オーウェン刑事やタンに、アイリーナさんとフィリパさんに、それに……ディロンや、彼のお母さんや妹さんに、何て言えばいいのかしら?」

『君の話したいことを話し、話したくないことを話さなければいい。去っていく人は追わず、残ってくれた人を大切にすればいい』

「……それだけでいいの?」

『それだけでいいのさ。いや、本当は俺もそうするべきだった。ずっと昔に』

 ブリギッテは何か言いかけて、やめた。代わりに〈竜〉の背を撫でた。つるりとした表面は滑らかで少し冷たく、そしてどこか温かかった。「龍一は、やっぱり優しいね」

『俺の話じゃないって言っただろう』声が少し真剣みを帯びた。『行こうか。どんな終わり方を迎えようと、決着はすぐそこだ』

「ええ」

 住民も兵士も逃げ散った無人の市街を〈竜〉は走り続ける。〈ザ・シャード〉まで、距離はそう遠くない。


【同時刻──バラ・マーケット、横転した〈レテ〉最先頭車両近辺】

「オーウェン、起きてるー? どっかもげてたりはみ出したりしてるところはないー?」

「あまり動かさない方がいい。頭を打っているかも」

 聞き覚えのある声にオーウェンは目を見開いた。視界がひどく揺れて気分が悪くなったが、すぐに慣れた。「……どこももしてないから、安心したまえ」

 身を起こして、彼は驚いた。自分の半身が何か非常に細くてしなやかな、きらきらと光る極細の糸に包まれていたのだ。これが〈ヒュプノス〉の〈糸〉か。

「切断機能を殺した〈糸〉で衝撃を吸収した。ハンモックみたいにね」

 得意げとは程遠い、考え込むような口調だった。

「どうした?」

「いや……これで誰かを助けられるなんて思わなかったんだ。今までは僕か龍一か、どちらかの命だけ考えていればよかったから」

 オーウェンは息子ほども歳の離れた青年、いや少年に近い若者の肩に手を置いた。自分があの〈ヒュプノス〉にこんな仕草をするのに、自分でも驚いていた。「ありがとう。助かった」

「どこかの蜘蛛のマスクをかぶったヒーローみたいだねー」気楽な口調は変わらないアイリーナだったが、車内の激闘で彼女も相当に凄惨な姿だった。返り血はもちろん、全くの無傷でもない。

「奴らは?」オーウェンはすぐに尋ねた。アクションに次ぐアクションの数々で彼自身もへとへとだったが、座り込んでもいられないという思いがある。

「マギーの一味なら、仲間の車が大挙してやってきて逃げたわー。龍一が〈分体〉を残してくれたおかげで寝首を掻かれずに済んだのー。あいつらも足止め以上のことはしなかったしー」

「……ただ、応戦の合間に彼らが輸送車に何か大きな荷物を積み込んでいるのは見かけた。『尖塔シャード』という言葉も聞こえたよ」

 全員が顔を見合わせた。「〈ザ・シャード〉のことかな」

「ロンドンで『シャード』と言ったら、それしか思いつかない」

 アレクセイの頭の奥で何かが回転しているのが目に見えるようだった。「〈ザ・シャード〉の頂点で核を起爆する気だ。バッキンガム宮殿地下からの起爆ができない以上、高所へ持っていけばそれだけ核の威力は増す」

 アイリーナの顔にもいつもの余裕がない。「……〈ザ・シャード〉の近くにはバラ・マーケットやロンドン・ブリッジ駅だけじゃない、ガイズ病院だってあるのよー。今から避難させたって絶対に間に合わないわー」

 行こう、とオーウェンは低く言う。「奴らが〈ザ・シャード〉まで逃げるなら、とことん追いかけるまでだ」

「あのミスター武器商人の仇も取らなきゃねー」

 勝手に殺すな、とぼやきながら趙が無蓋貨車から飛び降りた。大型の金属ケースをがらがら音立てて引きずっている。「お前ら、ろくな得物も持たず戦争する気か? 俺様には珍しく代金後払いでいいから、好きなの持ってけよ」

「助かる」

「頭下げんのが早えよ馬鹿。言い値っつったの都合よく忘れんなよ」

 こちらへ向けて、石畳の上を爆音が近づいてくる。見ると目に染みるほど赤いスポーツカーが──ただしボディは弾痕だらけで、フロントガラスは大きく爆ぜ割れている──がミサイルのように突っ込んできて、一同の目の前で見事なターンを見せて止まった。

 運転席からフィリパが顔を突き出し、大真面目に言った。「は必要か?」

 オーウェンはにやりと笑った。「ちょうどいい。タクシーを呼ぼうか考えていたんだ──キャラダイン嬢は?」

「ブリギッテは龍一とともに〈ザ・シャード〉へ向かった。私たちも、やるべきことをやろう」


【午前12時30分──〈ザ・シャード〉正面広場】

 完全な異形と化した龍一が〈ザ・シャード〉前の広場に足を踏み入れるのを見ても、彼女は驚かなかった。龍一の背から降り立つブリギッテの姿を見ても、彼女は驚かなかった。

「よく迷わず来られたわね。市内が渋滞しているみたいだから、気にはかかっていたのよ」

〈鬼婆〉マギーことマーガレット・ランズデールが、護衛も伴わずそこに立っていた。上背のある身を黒のコートに包んだ姿は優美でさえあったが、それだけに不吉なものを感じさせた。

 龍一もまた驚かなかった。ブリギッテがスマートフォンを操作し、外部スピーカーに切り替えた。これで問題なく会話ができるはずだ。

『目印がでかかったからな。それに、君がここにいることに何の不思議もない』

「へえ? 先刻ご承知みたいね? じゃ、一つを出しましょうか。私は誰?」

 龍一は息を吸い込もうとした──だがその前に、傍らの彼女が一歩踏み出していた。

 あえて何も言わないことにした。ブリギッテに全てを負わせたくはなかったが、彼女自身が踏ん切りをつけたいのなら、俺の出る幕はない。

「あなたなんでしょう。〈大きいブリギッテ〉」

「正解」マギーの顔をした彼女はにやりと笑った。赤い、赤すぎる口紅を引いた唇が耳まで裂けたように見えた。


【数週間前──テムズ川沿岸、再開発区域の地下下水道】

 ──銃弾が足を貫通するのがはっきりとわかった。二歩、三歩、歩こうとして彼は膝をついてしまう。もう走れない……そうでなくても、今の自分の体力ではこれ以上逃げられない。清潔感など欠片もない、汚れに汚れた地下道に彼の血が盛大に滴り落ちている。

「つれないわねえ〈コービン〉」聞き覚えのある、同時にこの世で最も聞きたくない女の声。「それとも本名の方で読んでほしい、? 十数年ぶりの再会なのに、私とは旧交を温めたくもないのかしら?」

 彼は……ジェレミー・ブラウンは顔を上げ、そこにマギー・ギャングの首魁、マーガレット・ランズデール、〈鬼婆〉マギーの血が滴るような笑顔を見る。

 彼が命に懸けても守ろうとしていた少女の笑顔が、年輪を刻んだ女の顔に浮かび上がるのをはっきりと見る。

「……会いたかったよ、〈大きいブリギッテ〉」自分の声が他人のもののように響く。「こんな……こんな形でなく」


【現在──〈ザ・シャード〉正面広場】

 ブリギッテの唇が震えているのがはっきりと見てとれた。「どうして? どうやって今まで生きていたの? 生きていたのなら、どうして何も教えてくれなかったの?」

「『どうして』という疑問がどうして出てくるのか不思議ね。すぐ考えればわかりそうなものだけど」マギーの顔の彼女は龍一に目を転じる。「あなたはあなたで、驚かないのね」

『自分が驚いていないことに驚いているよ。だがよく考えたら「ありえない可能性を一つ一つ取り除いていって最後に残ったものは、どれだけ信じがたくても真実である」と言ったのはこの国の名探偵だったっけ』

 それを日本人の俺がマギーやブリギッテの前で言うのは釈迦に説法めいてはいるが。

『説明ぐらいはしてくれるんだろう? 見たところ、種も仕掛けもありそうな手品ではあるし』

「聞かれて私が大人しく話すと思う?」

『話すさ。頼まれもせずにぺらぺらとな。そのためにわざわざ俺たちを待ってたんだろう。自慢か懺悔かはわからないが』

「何から聞きたいの?」

『〈アンドロメダ〉とは何だったんだ? あの教会の地下で見つけた資料でも、それだけが曖昧にぼかされていた。使われた金と施設と人員に比べても、肝心のブツが詳細不明ってのはおかしな話だ』

「それが質問? あなたのお母様の話は?」

『お袋の話は、気が向いたらでいい。どうせ話したいことしか話さないつもりだろう』

「いいわ」マギーの顔の彼女はにっと笑う。「質問に質問で返すようだけど、あなたは何だと思った?」

『資料の断片からは……正義の味方の可愛いアシスタント、程度の存在としか思えなかった。それで悪けりゃ戦力倍増要素か』

 性差別的ね、とブリギッテが顔をしかめている。

『それにしちゃ熱の入れようが半端ではなかったようだが。〈竜〉に対抗するビッグプロジェクトの、その片割れなんだろう? 結局、最後には失敗したのか?』

「逆よ。〈アンドロメダ〉は成功しすぎた」

『と言うと?』

「何と説明したらいいのかしらね……〈ペルセウス〉は〈竜〉に対抗する兵器以上のものではないけれど、〈アンドロメダ〉はそれ以上……〈竜〉がやってきた場所、との鍵となり得る存在だった、とでも言うのかしら」

『異世界?』

 ついブリギッテと顔を見合わせてしまった。確かにあの〈竜〉がこの世のものとはとても思えないが、かと言っていきなり異世界と言われてもな、とは思う。

「そんな顔をしないでよ。私だって他にいい呼び方が思いつかないんだから。……それはともかく〈アンドロメダ〉がその鍵となり得ると判明すると、上層部の興味は〈竜〉よりもそちらに傾き始めた。単なる兵器でしかない〈竜〉に比べ、異世界につながる〈アンドロメダ〉は無限に近い可能性を秘めている。この星の歴史が変わりかねないほどに。〈竜〉との対決にしか関心がなかった〈将軍〉には面白くない話だったでしょうね」

『……だんだんわかってきたぞ。軍事兵器のつもりで作っていたものを深宇宙探査船に利用します、じゃ、あの男にしてみれば玩具を取り上げられた気分だったんだろうな』

「話が早いわね。そう、彼は〈ペルセウス〉計画の主導権を取り戻そうと焦り始めた。ちょうど当時、オキナワに投入されたHWのプロトタイプが大きな戦果を挙げていたのも、彼の焦りに拍車をかけたわ。いくらでも量産・交換・アップグレードが可能なHWと比較しても、未知の技術をふんだんに盛り込んだ〈ペルセウス〉には不確定要因が多すぎた。そもそも核に匹敵する個体戦力を〈将軍〉ただ一人の管理下に委ねるのには、〈家〉だけでなく英国政府内部にも懸念の声が多かった。味方は多かったけど敵も多すぎたのね、〈将軍〉には」

 

「もっとも私は、その焦りを最大限利用させてもらったのだけど。ジェレミーはかなりの権限を得ていたし、スパイという彼の立場を利用すれば多少のことは彼自身が揉み消してくれた。彼のアカウントを利用すれば、施設襲撃のタイミングを予測することも容易だった」

「そんな……」ブリギッテは今や蒼白になっている。「知っていて、誰にも何も言わなかったの……? それで何人が死んだの……? オーウェン刑事の奥さんや、ディロンや……あの〈家〉の、大勢の子供たちも、皆……?」

「誰かに何かを言う必要があって?」マギーは奇妙なほどの真顔をブリギッテに向けた。「それじゃあなたは〈家〉と一緒に心中でもしたかったの? 私たちを生きたまま『ウェールズの兎パイ』にしようとした連中と?」

『今の君を見ると、どうやら君は〈将軍〉だけでなく、〈鬼婆〉も引っかけることに成功したみたいだな』

「そう。〈家〉は人体実験の被験体をマギー・ギャングにほぼ依存していたから、〈家〉とマギー・ギャングを切り離すことはほぼ不可能だった。何より彼女が、ジェレミーを通して〈家〉の実態をかなり詳細に掴んでいたの。でも彼女の関心は、〈竜〉なんていい歳した大人の玩具でも、異世界なんてお伽話でもなかった。HWの人格共有ネットワークを利用した人格転移システム、マギーの興味はそれしかなかった。彼女は深刻な後継者不足に悩んでいたから」

 話が核心に迫りつつあるのを悟ったのだろう、傍らのブリギッテが声もなく慄くのがわかった。

「乗っ取られるのが私ではなく、自分の方だと悟った時の彼女の顔はなかなか見ものだったわ──その時にはもう彼女の顔自体がなくなっていたのだけど」

 マギーは再びくすくすと笑う──童女のような、いや童女そのものの声で。

「人生の大半を、全てではなくても大半を、私は彼女の身体で体験した」口調が何らかの感慨を帯びた。「地位も名誉もある男が、それを守るために文字通り他人の靴を舐めるのを見た。その日のスープ一杯にありつくために春をひさぐ女たちを見た。未来ある少年少女が挽肉にされるのを見た。美食と栄華の限りを極め、なお飽き足りず何かを求める飢えた目の老人たちを見た。そして悟った──〈将軍〉だけを殺したところで何も変わらない。。椅子になんか復讐しても始まらない。だって相手はただの椅子なんだもの。あなたの方が理解は容易なんじゃない、相良龍一?」

『賛同はともかく、理解はできる』龍一は答える。『英国政府やギャングではなく、彼らを構成するその上のシステムが君の標的か』

「そうよ」童女の笑顔と童女の口調で、マギーの顔の彼女は言う。「首都の中心で核を炸裂させた国家を、世界は国家とは認めない。英国の権威は地に堕ち、今度こそロンドンは首都としてとどめを刺される。先の〈日没〉とは比較にならないほどね。見捨てられた者たちの廃都ネクロパレスを築き上げるの。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの〈王国〉とはまた別の、見捨てられた者たちの都。それこそがこの世界の、システムそのものへの楔となる」

『ロンドンを〈のらくらの国〉に作り変える。それが君の最終目的か』

「もちろん、あなたもその一員として迎え入れるつもりよ」

『俺を?』

「むしろあなたにこそその権利がある、と言ってもいいわね。燃やされ尽くしたあなたの第二の故郷、それがであって何が悪いの? 何も悪くないし、誰も責めやしない」

 高塔百合子。望月崇。キム・テシク。そして……瀬川夏姫。

 だが、彼が考え込んだにしても一瞬だった──そう気づいた瞬間、それは砂の上に書いた文字のように跡形もなく消え去った。いや、考え込むまでもない、と気づいたと言うべきか。俺は確かにまともではないし、もしかしたら人間でもないのかも知れない……が、そのために数百万市民を引き換えにするほど狂っちゃいない。今はまだ、なのかも知れないが。

『ギルバートから聞かなかったのか?』

「彼が何と?」

「……なるほどね」

 彼女の眼窩がすっと翳った。悟ったのだろう──目の前の男は、脅迫も甘言も通じない、と。

 脅迫も甘言も通じなければ、後は暴力だけだ。

「……ずっと会いたかったのよ。」ブリギッテが呟く。小さな女の子に戻ってしまったような口調で。「こんな形でなく」

「奇遇ね。彼も……ジェレミーも同じことを言ったのよ。死ぬ前にね」

 自分が犯人だと白状したも同然だった。『なぜ彼を殺した?』

「彼については最後まで悩んだ。私が今あるのも彼のおかげ。でも彼だっての一部よ。踏みつけては痛かろう、じゃ何もできない。ジェレミーも。そして、彼も」

 ひたり、と静かな足音が響いた。龍一も、そしてブリギッテも凍りついた。

 ギルバートが物陰から姿を現していた──全身血塗れで。その動作からは、あれほど全身から発されていた活力も気力も、欠片も感じられなかった。墓から蘇った死者の方がまだ生き生きとして見えるだろう。少なくとも、龍一たちが知っていたギルバートが、今では見る影もなかった。

「この人に何をしたの?」ブリギッテが怒りを込めて囁く。

「何もしてないわ。。父親を自分の手で真っ二つにね」

 ひゅ、とブリギッテが息を吸い込む。

『君がそう仕向けたんじゃないのか?』

「人聞きの悪い。彼のルーツについてはもう話したでしょう? 遠かれ近かれ、彼と父親の関係は決定的に破綻していたでしょうね。このクーデターもどきがそれを少し早めただけの話よ」

 マギーは愛おしげに骨ばった指でギルバートの頬を撫でたが、まるで愛犬の毛皮を撫でるような手つきだった。少なくとも成人を過ぎた人間の青年にやる仕草ではない。

「それに〈将軍〉は、最後まで彼の利用価値に気づかなかった。いえ、あえて目をつぶったというのが正解かしら……、というね」

 それについて龍一が聞き返そうとした時。

 ギルバートは消えた。

「え」

 ブリギッテが目を瞬かせる。あの青年が文字通り消失していた──ただ彼の立っていた場所、その地上1メートルほどの高さに、金属と似て異なるつるりとした球体が音もなく浮遊しているだけだ。

「何をしたの? 彼はどこ?」ブリギッテの声が揺れる。疑問より、目の前のものを認めたくないような声で。

「どこにもやってやしないわ」マギーの呆れた声が答える。「今見ているこれがギルバートよ。正確にはその原型。彼はこの姿で地上に現出した」

 龍一は目を見張る。では俺も、かつてはだったのか。

 マギーが球体に手を差し伸べた瞬間、それはどろりと音もなく溶けた。

「……本当はね、相良龍一。こっそり期待していたのよ」かろうじて笑いを堪えるようなマギーの声を、空中から際限もなく湧き出る鈍く輝く粘液が覆い尽くしていく。「あなたが私の提案を突っぱねてくれることを。むしろあっさり『うん』と言われたらどうしようかとさえ思った。だって知りたいじゃない……〈


 ──ロンドンを脱出しようとする避難民たちの中。ポーリーンとレーナの母娘も上空に広がる暗雲と、〈ザ・シャード〉の最上階で音もなく閃く「黒い稲妻」を見ていた。

「あれは何だ?」

「まさか核爆発じゃ……」

 不安げなざわめきの中。レーナは自分を抱き寄せる母親の身体もまた、震えているのに気づく。

 違う──母親に身を寄せながら、レーナは思う。あれは、もっとだ。あの「地獄から来たでかぶつ」相良龍一と同類の。


 ──それは、甲冑をまとった騎士に見えた。

 目にも眩しい白銀色の甲冑、右手には長大な槍、左手にはやはり磨き上げられた円形の大型盾。だが鋭角の兜に、華奢な印象を与える狭い肩幅、くびれた腰や細めの脚部など、仔細はどこか女性的な印象がなくもない。だが何より龍一を驚愕させたのは、それらの特徴を踏まえても、全体像は〈竜〉に極めて似ていたことだった。甲冑の表面を彩る、鱗にも似た装飾。竜の顎門を噛み合わせたような、獰猛さと優美さを兼ね備えたデザインの兜。

 まるでシャワーでも浴びた後のように「黒い稲妻」の中から完全なる異形と化したマギーが歩み出てくる。

『その姿は……』

『そうよ。ようやく気づいた?』騎士の装着した面頬の奥からマギーの声が響く。正確には、マギーの口調で喋る〈大きいブリギッテ〉の声が。『あなたも薄々は気づいていたんじゃないの? 。これは人間が作り出した〈竜〉、英国政府バージョンといったところね。自分たちでさえ制御が効かないものを、スナック感覚でどんどん増やしていったらいずれは大変なことになる、なんてちょっと考えればわかりそうなものだけど……ま、それは私もあなたも、心配する謂れもないわね』

 確かにそうだ、龍一は口の中で呟く。差し当たり今は、それよりも気にしなければならないものがある。

『そんなに深刻に考えないでちょうだい。こんなものはただのよ』笑いを堪えるのに一苦労といった風情の〈大きいブリギッテ〉の声。『

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