アルビオン大火(14)ロンドンを月まで飛ばす方法

「帰れ!」

 浴びせられたのは怒声だけではなかった。冷水と、それに混じった泥と、落ち葉と野菜屑までもが横殴りに龍一たちの顔面へ降りかかった。

 龍一はとっさにブリギッテの肩を掴んで後方へ押しやろうとしたが、なぜか彼女は根が生えたようにその場から動かなかった。あるいは彼女はここを訪れることで何が起きるのか、ある程度は察していたのかも知れない。

「帰れって言ってるだろうが! あんたたちにはお悔やみどころか、母さんに会ってほしくもない!」目の縁に涙を浮かべながらも、レーナの怒りはまるで鎮まる気配を見せなかった。「下水道の鼠どもだって、今のあんたたちほどに薄汚くはない! 約束したのに……だから一度は信じたのに、何をどうしたら、うちの兄貴があんな姿で帰ってくるんだ! 兄貴の亡骸を見た時、母さんがどんな声で叫んだと思ってるんだ!」

 空になったバケツが龍一の足元で転がった。いっそのこと、顔面に投げつけてくれればいいのにと思った。

「私があんたたちを許せないのは、兄貴を半殺しにしたことでも、私たちの住処をめちゃくちゃにぶっ壊したことでもない! うちの兄貴に、あんな殺され方されて当然な理由なんかないのに、今こうして平然とお悔やみを述べにその薄汚いツラを見せやがる! あんたたちにそんな資格ないのに! たとえ母さんが許したって、私が許さない! 帰れ!」

 ブリギッテは全身を震わせていた。冷水とは別の理由で──全身に突き刺さるレーナの言葉が耐え難いかのように。「聞いて、レーナ。私たちは彼を守れなかった。それはもう取り返しがつかない。せめてお悔やみを言わせてほしいの……愚弄するためなんかじゃない、彼は……私たちの大切な友達だった……たとえ一度は裏切っても……」

 大音響とともに閉じたバラックのドアがその返答だった。ドア一枚隔てた室内から、切れ切れにレーナの泣き声が聞こえてきた。『もしあんたたちに、少しでも人間らしい心があるんなら……本当にすまないって思っているなら……二度とここに来ないで……一生その顔を見せないで……お願い……!』

 ドアをノックしようとした龍一の拳が、力なく落ちた。ブリギッテも、もう言葉がない。何か言おうとする気力さえ、今の彼女にはないようだった。

 同じく濡れ鼠となったアレクセイが、ぽつりと言った。「帰ろう」


 濡れた髪から雫が垂れているのに、喪服代わりの黒いワンピースまでもが絞れば滴り落ちるほど濡れそぼっているのに、今のブリギッテにはそれも気にならないかのようだった。ベンチに腰を下ろした彼女は、ただ泣き続けた。声もなく。

 龍一にはそれが恐ろしかった。身体中の水分が流れ出てしまうのでは、と心配になるような泣き方だった。身をよじり声を上げて泣かれた方がまだましだと思った。

「どうすればよかったの? これが私たちのしてきたことの結果なの? 本当はどうすればよかったの?」泣きながら、彼女が涙とともに絞り出した声がそれだった。「私の、龍一の、アレクセイの……してきたことの結果が、これなの?」

 龍一はその言葉を噛み締めた。本当に、口の中に血の味がしてくるほどに。

 アレクセイはずっと黙っていた──内心で悔いるものがあったとしても、それをおくびにも出さなかった。やがて彼は、静かに呟いた。「二人ともどうする。やめるかい?」

 ブリギッテがすっと泣くのをやめ、龍一は驚いた。

「やめないわ」まだ顔には涙の跡があったが、涙は止まっていた。「やめられなく……なったわ」

 彼女は乱暴に手の甲で涙を擦った。次いで出された声には、既に力が戻りつつあった。「ごめんなさい、アレクセイ」

「謝ることはないさ」

「ジェレミーや、ディロンだけじゃない。〈ペルセウス計画〉だけでもう数え切れないほどの死者が出ている。そしてこれからも増えるかも知れない。もう、たくさんよ」

「そうだ、もうたくさんだ」腹の底に様々な思いを押し込め、頷いてみせる。「続行だ」

 アレクセイは微笑んだ。常に微笑みを絶やさない男ではあるが、今日は、今日ばかりは、少し性質の異なる微笑みだった。「それでこそだ。二人とも」

 まずは身体を拭くことから始めなければならなかった。アレクセイがタオルを買ってきて全員に手渡し、服は着替えない限りどうにもならないので龍一が缶コーヒーを人数分買ってきた。

「龍一が見た『幽霊列車』……今はそうとしか呼びようがないけど、それがジェレミーが探していたものなのかしら?」缶を包み込むようにして暖を取っていたブリギッテが口を開く。人心地がつくと同時に寒さを実感したらしく全身が震えているので、龍一は新しいタオルを肩にかけてやった。

「たぶんな。俺も見た時は自分の目以前に正気を疑ったよ」

「都市伝説かと思っていたけど、まさか本当に存在するなんて……」

「そしてそれは〈将軍〉や〈鬼婆〉の企みに何らかの関係がある」考え込みながらアレクセイ。「都市伝説であろうがなかろうが、それを巡って実際に人が死んでいるんだ」

 残る二人も頷く。

「あの下水道だけど、さっき行ったらもう速乾性のコンクリートで固められていたぜ。手際のいいこった」

 逆に言えば、それだけ地下には彼らが見られたくないものがあるということだ。

「あそこからは入れないのか。別の入口を探すしかないな」

「入れたとしても、どこを探すかの見当ぐらいはつけておきたいわね。相当入り組んでいるようだし、闇雲に探しても何日かかるかわからないわ」

「ロンドン地下鉄の工事記録あたりにアクセスできれば手っ取り早いんだが……お尋ね者の身分じゃなあ」

「私たち、本当はこうしているのも危うい身分なのよね」一度腹を決めてしまうと、ブリギッテの立ち直りは早かった。

「ついでのようで申し訳ないんだが」アレクセイが言いにくそうに言う。「そろそろ軍資金が底を尽きそうなんだ。割高になるのを覚悟で隠れ家を転々とするのは避けられなかったけど、やはり痛かった」

「カネがなきゃ戦争もできんか」

「シビアね……」

 アレクセイがどこから逃走や調査のための資金を調達してくるのか、彼はいつも曖昧なまま説明しなかったが、その彼が危ういと言うのだから本当なのだろう。戦意に不足はない。だがそれだけではどうにもならないのも確かだ……。


「若人たち、なんか面白そうな話をしてるじゃなーい。私も混ぜてよー」


 呑気な声はともかく、その聞こえた距離が問題だった。「彼女」が眼前に現れるまで、龍一は微塵もその気配に気づかなかったのだ。ブリギッテが驚愕して反射的に立ち上がる。「誰!?」

「……君か」苦笑いするしかない。「闘技場ではずいぶんギラギラした目で見てくれたもんだな。いつ俺のうなじを愛撫してきやしないかと、気が気じゃなかったよ」

 アイリーナ・ランツマン、〈ダビデの盾マゲン・ダヴィッド〉女二人組の片割れは龍一の大して面白くない冗談にも笑って手を振ってくれた。「やっぱり気づいてたかー。さすがねー」

「〈海賊の楽園〉では悪かったな。そんなつもりはなかったんだが、約束をすっぽかす形になっちまった」

「気にしないでよー。私たちもさんざんな目に遭ったし、それはそっちも同じなんでしょー?」

「皮肉か」

「それは聞くそっちの心情にもよるかなー。事実だし」

「そう、君たちの事情は考慮したい。ただ今度は、はなしでな」フィリパ・ゲルプフィッシュが堂々とした足取りで歩み寄ってくる。見たところ身には寸鉄も帯びていないが、彼女たちの恐ろしさは火器や格闘術だけではない。何しろ遥か遠くカリブの海を越えて、わずかな手がかりのみを頼りにここロンドンまで龍一たちを追ってきたのだから。

 ブリギッテは不審の塊のような目で、突如出現した女二人組を見ている。「龍一……この女の人たち、誰? あなたの知り合いなの?」

 アイリーナの顔が暁の光のごとく輝いた。「まあっ! 誰かと思えば、闘技場で出くわした蜂蜜色の髪のスイートガールじゃないー! あの時一瞬目があっただけで、あなたの面影が来る日も来る日も瞼の裏から離れないのよー。罪な子ねー」

「す、す、スイートガール!?」ブリギッテが目を白黒させている隙に、アイリーナは一瞬で息がかかるほどの間合いに踏み込んで抱き締めていた。驚くべき体術……の悪利用だ。

「かわいそうに、こんなに濡れそぼってしまって……誰がこんなひどいことを? お姉さんと一緒にもっとあったかいところへ行きましょー、ぽかぽかになるまで温めてあげるから……」

「いい加減にしろ、アイリーナ、それ以上続けると児童略取の現行犯で市警ヤードに突き出すぞ」

「やだフィリパ……目がマジなんだけどー」

 ブリギッテは力一杯もがいてアイリーナの腕の中から脱出した。先ほどまで蒼白だった彼女の顔は、今では真っ赤になっている。「だ、だから龍一! この人たち本当に誰!?」

「イスラエル系列の軍事警備請負企業ミリセクオペレーター」

「はあ?」ブリギッテは不審をさらに強めた目で、残念そうに口を尖らせているアイリーナと処置なしといった顔でかぶりを振っているフィリパを見比べた。「こんなふざけた人たちに、そんな潰しの効かなそうな仕事が務まるの?」

「はっきり言われたわねー」

「言われても仕方のないところだろう……それと私と君を一緒くたにされるのはかなり不本意なんだが」

「で、どうするー? もうちょっとあったかいところで話さないー? その格好、見ているだけでも寒そうだしー」

「それはありがたいな……」そろそろ寒さが耐え難くなっていたのは確かだった。

「いいよ。じゃその前に、君たちのお仲間を下がらせてくれ」アレクセイはむしろつまらなそうな顔で言った。「茂みに三人、カップルを装った二人、屋上に一人。プラス眼前に二人」

「……さすがだな。腕利きを揃えたつもりだったんだが」フィリパの口調は抑え気味だが、畏怖を隠し切れていなかった。

つもりなら受けて立ってもいいよ?」

「うちのメンバーを紙袋呼ばわりかー。ま、そんな気色ばまないでよー、会わせたい人たちもいるからさー」

「会わせたい人たち?」

「すぐにわかる。が、その前に目隠しをさせてもらう」


【十数分後】

「……ここ、イスラエル大使館だろう?」濡れた髪を乾いたタオルで拭きながら龍一はフィリパに聞く。車から降りた後で目隠しを外され、ようやく熱いシャワーをたっぷり浴びることができたが、それと同じくらい乾いた衣服がありがたかった。何しろ喪服代わりのスーツどころか、パンツにまで水が沁みていたのだ。

「どうしてわかった?」

「曲がった回数だよ」済ました顔で、やはりさっぱりした衣服に着替えたアレクセイが言う。「ずいぶんと遠回りしたね。僕ら以外だったらたぶん騙せたよ」

「それにイスラエルの『エージェント』が大手を振ってロンドンで歩ける場所なんて、ここくらいだろうしな」

 フィリパはもはや苦笑するしかない、といった風情だった。「やれやれ、紙袋か。君たちの前ではつくづく形なしだな」

「それで、私たちに会わせたい人というのは誰なんですか?」着替えたブリギッテも近づいてくる。乾かすためかストレートに下ろした蜂蜜色の髪が目にも眩しい。

「今連れてくる」

「……オーウェン刑事! それにタンも!」

 龍一が驚くばかりの勢いで、ブリギッテはタンに駆け寄っていた。「大丈夫なの? ひどいことされてない? ご飯はちゃんと食べているの?」

「へ、平気だよ」むしろタンの方が力一杯引いている。「メシはうめえし、こんな広いのに暖房は効きまくってるし、ずっとここにいてえくらいだよ。いや、ベッドは別かな。上等すぎてかえって寝れねえ……」

「君たちも無事だったのか」寛いだ服装のオーウェンもまた顔を輝かせる。「お尋ね者の君たちを見てほっとするのもおかしなものだが、まあ今や私もお尋ね者同然だからな。しかし、あのおっかな……失礼、凄みのある美人たちと君らが知り合いだったのは意外だが」

「あー、説明してもいいんですが、長い上に相当ややこしい話になります。それも国際謀略的な意味で」

 オーウェンは顔をしかめる。「なるほど。イスラエル人は大英帝国へ嫌がらせできるなら何でもするからな」

「『何でも』はしないかなー。があるからねー」にやにや笑ってアイリーナが切り返す。そこまでにしておけ、とフィリパがたしなめる間に、オーウェンはブリギッテに向き直り優しく語りかけた。

「お友達のことは聞いている。ディロンも……残念だったね」

 一瞬、ブリギッテの中に何かがこみ上げたようだった──だがそれを堪え、むしろ決然と顔を上げた。「はい。ですが悲しんでいるだけでは何も変わりません。こうなれば、限界まで〈将軍〉と〈鬼婆〉を追い詰めようと思います。モリィのためにも……ディロンのためにも」

 オーウェンは目を見張ったが、すぐに頷いた。「そうだ。そうだな」

「龍一、一つ聞くが」やけに生真面目な顔でフィリパが訪ねてきた。「もしかしてあの闘技場であんな無茶をしたのは、あの子のためなのか?」

「あー、それは……そういう言い方もできなくはないが、成り行きが9割ってところだな」

「成り行きとは言え君は誰かのために命を賭けたんだぞ。恥じることはないだろう」

 どうもフィリパの中で龍一の株が妙な高値になっているらしい。くすぐったい気分ではある。

 しかしまずいな、と思う。これではオーウェンとタンを人質に取られたも同然ではないか。それ自体は不思議でも何でもない──アイリーナたちはどれほどひょうげて見えても〈ダビデの盾〉エージェント、しかも内務査察部の人間であり、その背後にはイスラエル政府と〈ダビデの盾〉内部の権力闘争がある。何の思惑もなしにマギー・ギャングと事を構えるはずがないのだ。しかも人質とは、地味ではあるが有効な手だ。少なくとも、龍一にとっては。

 、アレクセイが目で意思を伝えてきた。

 、こちらも目で返す。

「感動の再会が終わったところで、なんて言うとまるで悪役の台詞だけどー」龍一とアレクセイのアイコンタクトを知ってか知らずか──たぶん勘づいてはいるだろうアイリーナが、苦笑しながら言う。「ここで皆さんに話しておきたいことがあるのよー」

「ここにいる全員にかね?」とオーウェン。

「そう、まさしくここにいる全員にだ」フィリパは頷く。「あなたがたには聞く権利がある。まず言っておくが愉快な話ではない──愉快な話ではないが、聞かずに済ませられる話でもないのだ」


「……まず、この人物について説明しなければならない。マヘル・シャリド博士」フィリパの操作で、会議室の壁面スクリーン一杯に男性の顔が映し出される。中東系とおぼしき五十代の男性。これといった特徴のない顔立ちの中で唯一目立つのは、どこかを睨み据えているような、それでいてどこも見ていないような眼差しのみ。「イスラエル核物理学の権威であり、〈ダビデの盾〉の筆頭株主の一人であり、市街戦特殊兵器・戦術研究チームの特別顧問でもある」

「ここで思い出してほしいんだけどー、龍一」アイリーナがのんびりと言う。「私たち、別にあなた『だけ』を追ってきたわけじゃないってことー」

「ああ。もしかして例の『核戦争クラブ』の調査か? それに関わりのある話なのか?」

「正解ー」

「何だそれは?」

 訝るオーウェンに龍一は教える。「イスラエル政府と〈ダビデの盾〉内に存在する秘密グループです。本気で最終戦争を起こそうとしている連中だとか」

 まるで安っぽい陰謀論だ、顔をしかめてオーウェンは呟く。

「シャリド博士が『核戦争クラブ』のメンバー……それも極めて高位に属するメンバーである、という噂は以前から根強かった。だが決定的な証拠がない以上、我々内務査察部としても博士に手出しはできなかった。何せ筆頭株主だ」

「それがね、急に密告たれこみがあったのよー」とアイリーナ。「それも内部事情に相当詳しいっぽい、確度の高いのがねー」

「それに基づき調査したところ、さらに確度の高い物証が幾つか得られた。我々は博士を秘密裏に拘束し、拷問──失礼、尋問を行った」本当に尋問だったとしても、相当に荒っぽい奴だったのだろう。

「博士は奥歯に仕込んだ毒で自殺しちゃったんだけどー」のんびりした口調で説明することではない。「博士の指揮下で開発されていた、新型の小型低出力核兵器の試作品が一つ紛失していることがわかったのー」

 何だか猛烈に嫌な予感がしてきたぞ、龍一は身を震わせる。「まさか、スーツケースサイズの核兵器なんて言うつもりじゃないだろうな?」

「惜しい。

 画面が切り替わり、金属で構成されたシリンダー状の物体が映し出される。開発者らしき白衣を着た人々が周囲に見える。人間より頭一つ分大きめのサイズ、といったところか。

「都市部に構築された敵重要施設──それも地下深くに建造されたシェルター構造の司令部を想定して設計された小型低出力核だ。破壊力は極大に、核爆発で発生する廃棄放射物は極小に。極めて小型・容易・クリーンに扱える、だ。コードネーム〈階梯ラダー〉」

梯子ラダー?」

「〈ヤコブの梯子ジェイコブズラダー〉だろう」オーウェンが顔をしかめる。「皆してしまうという意味か。君たちのジョークにはついていけんな」

「イギリスの方ほどではありませんよ」フィリパは平然といなす。「ただし、プロジェクト自体は凍結されていたはずだった。都市部で使うにはやはり威力が大きすぎる、という理由でな」

 そんなもん作る前に気づけよ、とタンがもっともな突っ込みを入れる。

 アレクセイが静かに口を開く。「高威力だけでなく小型化・操作性を重視したのは、敵地に潜入した少数の特殊部隊が使用するのを前提としてか。使う先はパレスチナ? それとも彼らを支援するイラン国内あたりかな?」

「ご想像にお任せする」そうだ、と言ったのも同然だった。「さてこの〈階梯〉が調査の結果、複数人のバイヤーを点々とした後にヨーロッパ、それもこのロンドンに持ち込まれている可能性が極めて高いと判明した」

「これが、今……ロンドンにあるだと!」椅子を蹴倒して立ち上がったオーウェンの顔は蒼白だった。都市部に持ち込まれた核など、全ての治安関係者にとっては最悪の悪夢でしかないだろう。

 もっとも龍一たちも他人事ではない。足元の床が急に液状化したような、異様な心許なさを全員が味わっている。

「威力はヒロシマ型原爆の三百倍。17年前にオキナワで使用されたものと同程度──間違いなく、

 今度こそ、声にならない呻きが室内に充満した。

「言うまでもなく、これは由々しき事態だ。事が公になれば、ただでさえ良好とは呼べないイギリスとイスラエルの『国交』など、文字通り粉々になってしまうだろう。我々は〈階梯〉の売却先を全力をもって調べたが、追跡は困難を極めた。シャリド博士は資金洗浄に〈奔流〉──エドワード・〈黒王子〉・コスティガンが〈海賊の楽園〉に構築した非合法賭博を使用していたからだ」

 そこに繋がってくるのか、龍一は驚く。

「で、まあ詳細は省くけど、その極めて可能性の高い売却先が、刑事さん……御国の〈将軍〉、エイブラム・アッシュフォード氏であるらしいってわかったのよー。こう言っちゃ何だけど、御国の官憲は相手だとどうしても弱気になるみたいねー」

「……返す言葉もない。よほど性根の座った警官でも、の前に断念することは多いのだ」オーウェンは痛いところを突かれたように口元を歪めている。

「だ……だけどよ、何のためにそんなことするんだよ?」タンの顔は恐怖のあまり白っぽくなっている。「だって核なんか使ったら、てめえ自身だって月まで吹っ飛んじまうんだぜ?」

「もっともな疑問だ。そこで、〈将軍〉なる人物のパーソナリティが重要となってくる」フィリパは身を乗り出す。「君たちが対面した〈将軍〉なる男は、どのような人物だった?」

「この中で実際に顔を合わせたのは、龍一とブリギッテの二人だけだよ」

「では、思い出せる印象をできるだけ詳しく述べてほしい。どんな些細なものでもいい」

「お山の大将ね」ブリギッテは一撃で切って捨てた。「周囲の人間が自分に合わせるのを当然どころか、太陽が沈むと月が出る、と同じくらいの自然現象と見なしている。だから自分の思い通りにならないことがこの世に存在するのを絶対に認めないし、下手をすると現実そのものを歪めて自分に合わせようとするの。私が龍一に連れられて逃げ出した時は、怒りすぎてケチャップみたいな顔色になっていたんじゃないのかしら」

 ずいぶんと悪意が篭っている気もするが、まあ彼女の場合、良い印象を語れと言われても難しいだろう。「何よりまずいのは、そんな人がロンドンの支配者の一人ということね」

「なるほど。龍一は?」

「恐ろしく孤独で、恐ろしく猜疑心が強く、しかもそれを周囲に隠すのが非常に上手い人物という気がした」龍一は慎重に言葉を選ぶ。「彼自身も、自分のそういう本性を見抜けない、見抜くつもりもない人物に何の敬意も注意も払っていないんじゃないのかな。ひどい言い方になるが、靴を舐める人間には靴を差し出すのがむしろ礼儀──そう考えていてもおかしくない人間に見えた。まして彼の周囲がそういう類の人間ばかりだったら、侮蔑と猜疑心は際限なく膨れ上がっていくだろう」

「ありがとう、二人とも。予断を与えないために黙っていたが、実は君たちが今述べた彼のパーソナリティは、我々の心理戦研究チームの分析結果とほぼ一致している。要するに〈将軍〉エイブラム・アッシュフォード氏は、実質的にロンドンの支配者と呼んでよい社会的影響力の大きな人物であると同時に、極めて外面の良い反社会性パーソナリティ障害者ソシオパスであり──なおかつ、非合法に入手した核兵器を、柱時計の代わりにと言わせかねない危険人物、ということになる」

「たとえ彼が天使のような心の持ち主だったとしても」アイリーナが引き取る。「天使のような目的に、核なんか必要ないものねー」

 もはや蒼白のオーウェンたちにフィリパは向き直る。「そうとわかった以上、一刻の猶予もない。あなたがたにはすぐにでもこの国を脱出していただきたい。しかるべき場所で、しかるべき人々を前に、〈将軍〉を告発するための証言を行なってほしいのだ。皆さんの安全と生活は〈ダビデの盾〉が責任をもって保証する」

「待って……」何かに気づき、ブリギッテが目を見開く。「私の父さんは、母さんは……? 友達を連れていくのでは駄目? せめて、お別れは言えないの……?」

 フィリパが顔を曇らせる。「すまない。その猶予は与えられない。秘密を知る者は一人でも少なく、この国を脱出する時間は少しでも早い方が望ましいからだ」

「私たちに、この街を……この国を捨てろというのか」

「酷な選択を強いているのはわかっている。元はと言えば、我々の身内の不始末だ。それでも私は、あなたがたにお願いしたい。この件は極めて極秘裏に、誰にも知られることなく葬られなければならないのだ。イギリスとイスラエルが全面戦争に陥るのを阻止するためにも……」

 納得したわけではないが、彼女を責める言葉も見つからない……オーウェンもブリギッテも、ともに沈黙する。

「……俺さ、この街がずっと嫌いだったんだ」タンがふと口を開く。「上べばっかりピカピカキラキラしてさ、そのくせ一歩路地裏へ回ればゴミ溜めと死体ばっかで……俺みてえな小汚いガキに、誰も目をくれやしなかった。こんな汚らしくて薄情な街なんて燃えてなくなっちまえばいいって、何度も思ったよ。だけどよ……本当にそうなるって聞いても、全然嬉しくねえや」

 アイリーナが溜め息を吐く。「あー、なんかマジで悪者になった気分ー」

「言うな、私たちが強いているものの重さを考えろ。……龍一、アレクセイ、君たちもだ。これは私たちができる最大限の譲歩と思ってほしい。君たちが手を貸してくれれば、〈ダビデの盾〉が君たちを守ろう。君たちとの過去のはこの際、不問とする」

「それに忘れないでよねー。あなたたちには〈海賊の楽園〉での貸しもあるのよー。それもでっかい奴がー」

「忘れたわけじゃないって……」

 悪い話ではない──アレクセイの視線を横顔に感じながらも、龍一は思い始めていた。フィリパたちの提案を受け入れるのは〈ダビデの盾〉に実質、首輪をつけられるも同然であり、のちのち厄介事が山ほど増えそうではあるが……ブリギッテたちの身の安全だけを考えるのなら、一番確実な方法ではある。

 それにこれはフィリパが言う通り、彼女たちの示せる最大限の好意には違いなかった。何より、これがイギリスを生きて脱出できる最後のチャンスかも知れない……。

 いや、待て──龍一は自問する。本当にそれでいいのだろうか?

 何か、非常に重要な何かを見落としている気がする。マギー、〈ペルセウス計画〉、〈コービン〉ことジェレミーが探していたロンドン地下の何か。〈将軍〉と核から遠ざかれば、それらは消えてなくなるのだろうか?

 それに、そうだ、プレスビュテル・ヨハネスだ。この一件の裏で見え隠れする〈犯罪者たちの王〉──あの抜け目のない男が、龍一たちの脱出を見過ごすだろうか? ヨハネスとは、そんな甘い男なのだろうか?

 それを明らかにするためにも会うべき、会っておかなければならない者が一人いる。

「アイリーナ、フィリパ」少し考えた後、龍一は彼女たちに向き直る。「脱出の準備は進めていてくれ。この国を出る前に、どうしても会っておきたい相手がいるんだ」

「それは構わないが……あまり長くは待てないぞ。正直なところ、今すぐにでもこの国を離れてもらいたいくらいなんだ。大使も君たちが残っていては、大使館を離れられないからな」

「なあに、心配には及ばないさ。会う相手は一人しかいないし……それにこれは単なる予想だが、そいつの方でも俺に会いたくてうずうずしているんじゃないかな」


 龍一の予想は当たった。〈ロンドン戦史研究会〉のサイトにメッセージを書き込むと、一分と経たずに返事が来た。


【その日の夕方──トラファルガー広場前】

 陽が傾きかけても、広場を散策する人の数は減るどころか増える一方だった。もっともブリギッテに言わせれば「あそこにいるのは観光客ばっかりで、ロンドンっ子は用もないのに寄りつかないわ」とのことらしい。

 石段に腰かけ、龍一は待ち合わせの相手を待っていた。待ちながら、もしかしたら数日を待たずに脱出していたかも知れないこの国のこの街に、もう数週間近く滞在していたのに気づく。つくづくおかしなことになったな、と思う。これから彼がやろうとしているものを考えればなおさら。

 待ち合わせの相手は時間かっきりにやってきた。

「申し訳ありません、遅くなりましたか?」ギルバート・アッシュフォードはコートにマフラーという、今までで最も寛いだ服装で現れた。寛いだ格好なのに、挙措がいちいち優雅なのは大したものだ。先日のを咎める素振りは、微塵も感じられなかった。

「とんでもない。俺も来たばかりさ」龍一も気さくに答える。やっぱり俺が競えるものなんて身長ぐらいしかないな、と龍一はまたしてもひがみ、ひがむ自分がちょっとだけ嫌になった。

 隣に腰かけたギルバートに、龍一は缶コーヒーを差し出す。「情けない話だけど、やんごとなき方のもてなしってもんを知らないんだ」

「お構いなく」ギルバートは笑顔で受け取ったが、一口飲んで顔をしかめた。「これは少し……いやかなり甘すぎますね」

「口に合わなかったか?」

「いえ。口に合わなかったのではなく、僕の好みからすると甘すぎるというだけです」それを口に合わないというのではないだろうか。

 文句を言いながらも、結局二人してそれを飲んでしまった。何しろ、ひどく寒かったのだ。

「ブリギッテは、元気ですか?」

 君が思っているよりはね、と言いたくなったがやめた。龍一自身不可解なことだが、龍一を殺す寸前まで追い詰めたはずの彼に対して、どうにも怒りや敵意が湧かないのだ。龍一の方でも彼を半殺しにしてはいるのだが。「元気だよ」

「よかった」ギルバートは頷く。心からそう思っているように見えた。

「それにしても、驚きましたよ。あなたの方から連絡を下さるなんて」

「俺も意外だよ。駄目なら駄目で、と思って呼び出したんだが」龍一は手近のダストボックスに缶を放る。見事に入った。「他でもない、君に聞きたいことがあってね。それも、君のお父上のいないところで」

「僕に、ですか?」ギルバートもまた缶を放った。ナイスシュート。

「そうさ。君は本当に上手くいくと思っているのか? 君のお父上の企てが」

「ほう?」青年は微笑する。「ではミスター・サガラは、上手くいかないと思っているのですね?」

「当たり前だ。一山いくらのごろつきどもと、アテナテクニカのわずかな私兵と、密輸入した核兵器で、クーデターでも起こすつもりか? 逆クーデターを起こされて潰されるのがオチだ」

「おおむね正解ですが、今あなたが指摘した要素からはいくつか抜けているものがあります。例えばアテナテクニカ謹製、〈ロンドン・エリジウム〉の無人戦闘兵器群です」

 やはりそれも〈将軍〉の戦力の一つ、いや以前からの布石か。

「数日以内に〈ロンドン・エリジウム〉制御下の全自動兵器群が。その鎮圧を名目に、近衛歩兵連隊ならびに近衛戦車大隊、および王立騎兵大隊が首都入りします」ギルバートは静かに告げる。「王手チェックメイト

 龍一は黙っていた。

 青年は続ける。「父も含め、僕たちはあなたがたを完全に見くびっていました。あなたがたがここまで死に物狂いで抵抗するのも予想外なら、その抵抗で数度に渡り僕たちの攻勢を跳ね返すのも予想外でした」

「お褒めに預かり光栄の至りだが、だからって別に今進めている計画を諦めるつもりもないんだろう?」

「ええ。ですが、何が何でもあなた方を殺したいとも思いません。いかがですか、僕たちの仲間になれとまでは言いません。せめて静観をお願いできませんか? それを承諾いただければ、父も僕もあなたの味方です。たとえ〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスだろうと、そう易々と手出しはさせません。また、ここロンドンでの身元も保証します」

「素晴らしい提案だ。もう少しで心を動かされそうになったよ」

 ギルバートは悲しげに眉根を寄せる。「ご承諾いただけない、と」

「ある人が俺に言ったよ。悪人が下手に出てくる時は要注意だ、ってね」

「僕は悪人ですか?」ギルバートは愉快そうに笑う。そんな言われ方をされたのは生まれて初めてだ、というように。

 龍一も笑った。「核で数百万市民ごと街を吹っ飛ばそうなんて企むのは間違いなく悪人だし、それに加担する奴は悪人の仲間さ」

「僕が想像した以上にまともな方だったのですね。犯罪者なのに」

「自分でも時々、残念に思うことがあるよ」

 そこで二人はしばらく黙り、目の前の人波を見つめた。

「信じていただきたいのは、僕も父も、大量殺戮は望んでいないということです」

「信じるさ。少なくともお父上を支援している奴らの目的は、あくまで金儲けだろうからな」

 探るようなギルバートの視線を頬に感じながら、龍一は続ける。「お父上がいくらロンドンの支配者だからって、たった一人で何もかも動かせやしないさ。〈日没〉以降、観光地としてのロンドンは閑古鳥が鳴きっ放しだ。〈ソーホー戦闘区域〉は日に日に拡大を続けていて、このままじゃ半独立国家と化しかねない。目の上の瘤どころか、腹の中の癌を除去して何が悪い……たとえ強引な手を使ってでも。ドローンの予定された暴走を鎮圧するために指揮を取るのは、半島動乱の英雄にして絶大な支持を集める〈将軍〉その人だ。ドローンを鎮圧するついでにロンドンの一区画を占拠する目障りなギャングをしたって、誰も文句を言いはしない。あとは解放された〈ソーホー戦闘区域〉を済ました顔で切り分ければいい……再開発の目的でな」

「素晴らしい」ギルバートの口調には抑えた驚嘆があった。「なんとエレガントな推理……いや、証拠はないから想像ですか? それにしても、まるで見透かしたように語られるのですね」

「前例があるからな。〈のらくらの国〉」

 ギルバートは黙った。

「そう、以前から気にはなっていたんだ。〈ソーホー戦闘区域〉の成り立ちは、あの〈のらくらの国〉のそれに非常によく似ているってな。それも不気味なくらいに。人や国が変わっても、やることは変わらないな」

 今度は龍一がギルバートを見据える場面だった。「でも断言してもいい、失敗するよ。君のお父上を支援する欲の皮の突っ張った連中も、そしてお父上も。他ならぬ、お父上が理由でね」

「なぜ?」


「それはね、ギルバート。


 柱の影から足音もなくブリギッテが現れる。なぜか、ギルバートは今までで一番の動揺を見せた。

「……ブリギッテ」

「言っておくけど、申し合わせたわけじゃないからな。着いてきているのは察していたんだが」

 嘘ではない。直前まで、龍一にすら彼女の潜んでいる箇所を察知できなかったのだ。

「なあんだ、気づかれていた上に、気を遣われていたのね。あなたのそういうところ、好きだけど嫌いよ」

「君の努力を無にするのは悪いと思ったからだよ」

 どうにか気を取り直してギルバートが尋ねる。「それで、僕の父が何だと?」

「ああ、そうだった……まず初めに、私があなたのお父様に対してとても寛大な気持ちでいると説明しておきましょ。寛大すぎて、火炙りと八つ裂きとどちらか選ばせてあげたいくらいよ。何が言いたいかはわかるわね?」

 ギルバートはうつむく。「あなたのお友達に起こったことは、父に代わって謝罪させていただきます。もしご希望であれば、後ほど父との会見をセッティングして……」

「結構よ」彼女はぴしゃりと言った。「あの人から受け取れるものは全て受け取ったわ。せっかく龍一とアレクセイが私を連れ出してくれたのに、それを無にするのも気がひけるしね。あなたが思う以上に、私はあなたのお父様を信用していないの」

 しかしおそらくはエイブラムの指示であっても、ここまで交渉の姿勢を見せるのは大したもんだなと龍一は思った。問答無用でこちらの首を刈りにくる奴らが今まで多すぎたのはさておきとして。応じてやれないのが少し残念なくらいである。

「あのパーティでわかったわ。あの人には大切な人も物も、本当にないのよ……自分と、おそらくあなたと、そしてそれを暗がりの中に取り残される無数の人々から守るための忠実な取り巻き以外はね。だからロンドンにだって愛着なんかない。。気の済むまで落書きして、最後にはキャンパスごと粉々にすればいいと思っているんだわ。核のボタンぐらい、まあ、躊躇わず押すでしょうね。ローマを灰にした皇帝ネロ気取りで」

「それにさ、ギルバート。どっちにせよこのは失敗する運命にあるんだ。君やお父上がどれほど努力し、また唸るほどの金と兵力を抱えていようとね。なぜだか説明しようか?」

「うかがいましょう」

「〈犯罪者たちの王〉」

 ギルバートだけでなく、ブリギッテまでもが息を呑んだ。

「そろそろ気づいているんじゃないのか? 君もお父上が、プレスビュテル・ヨハネスにされているって。〈コービン〉──ジェレミー・ブラウンが探り出したアテナテクニカ関連企業とそのスポンサーを見て、笑っちまったよ。ほとんどがマルスに出資していた連中と9割方、丸かぶりじゃないか。言ってしまえば〈のらくらの国〉に金をぶっ込んで大損した悪の組織の幹部どもの、敗者復活戦ってところだな。お父上の首にはとっくの昔に〈犯罪者たちの王〉の鎖が巻きついているんだよ。それもがね」

 今にして思えば、シャリド博士を陥れる原因となった密告もヨハネスの指示によるものではなかったのか、と勘ぐれなくもない。『核戦争クラブ』の中ではそれなりの高位にいたらしいが、結果的には彼もまた、ヨハネスには幾らでも替えの効く駒に過ぎなかったのだろうか。

「父は……父は確かに、一人だけでこの企てを思いついたわけではありません」絞り出すような声からして、彼にも思い当たるふしはあるのだろう。「ですが、父がロンドンの現状を憂えていることは確かです。世界は自分が思うより遥かに複雑な様相になってしまった。たとえ歴史に名を残す大罪人になろうと、誰かが何らかの形でリセットをかけなければ……」

「それでロンドン中の人の命までリセットするってわけね」

「ブリギッテ、ミスター・サガラだけでなくあなたにもご理解いただきたい。大量殺戮が父の本懐ではないのです。核はあくまでリアリティを増すための舞台装置、交渉の材料に過ぎません」

「舞台装置が聞いて呆れるわ。本物の核兵器と『ガイ・フォークス祭りファイアワーク・ナイト』で上げる花火の区別もつかないの?」

「自分でも信じていない嘘はやめるんだな、ギルバート。それじゃ俺たちどころか、自分さえ騙せないよ」龍一は苦笑した。「君のお父上には自覚はないんだろう。ヨハネスと持ちつ持たれつの関係どころか、自分こそがヨハネスと彼の組織を利用していると思っているんだろう。でも俺に言わせれば、そういう人間を操作するなんて、ヨハネスには赤ん坊の手をひねるような……待てよ、ブリギッテ、この言い回しでイギリスの人に通じるのか?」

「そっくり同じ言い回しはないけど、『赤ちゃんからキャンディを取り上げる』と言った方が通用するわね」

「だ、そうだ。君のお父上を操作するのは、赤ちゃんからキャンディを取り上げるくらい簡単なのさ」

 赤ちゃん云々より、今の龍一とブリギッテのやりとりの方がギルバートには衝撃だったらしい。

「そしてヨハネスが裏にいる以上、ひどい言い方になるが、君やお父上の意思は関係なくなるのさ。賭けてもいいがお父上がどれほど用心しようと、ヨハネスはいつでも、どこでも、好きなタイミングで核を起爆できる仕組みを仕込んでいる。だからお父上が『よし、そろそろでかい花火を一発上げるか』と思いついたその時には、ロンドンごと月まで吹っ飛んでいるさ」

「まさか」さすがにギルバートの顔色が変わった。

「もしこちらが交渉に応じるとしたら、そうだな。お父上の警察への自首、それと核の引き渡しは最低条件だと思ってくれ。いつ月まで吹っ飛ぶかを気にしながら、話し合いはできない」

 まあ無理だろうけどな、と龍一は十中八九踏んでいた。その通りになった。煩悶も露わなギルバートが、やがて決然と顔を上げた。

「父なら、あなたの言うヨハネスの思惑にも打ち勝てる。僕はそう信じています」

「馬鹿な人。親も親なら、子も子だわ」嘲りよりも怒りと悔しさの色濃いブリギッテの呟きを聞きながら、やはり交渉決裂か、と思った。ギルバートは義父に逆らえず、そしてブリギッテもまた、親友に瀕死の重傷を負わせたエイブラムを何があっても許さないだろう。相互理解を深めてどうなる問題でもない。理解が深まれば深まるほど、お互いの溝を思い知るだけだ。

「ギルバート、君は最後まで俺たちとの正面衝突を回避しようとした。だから俺もその真心に報いたい。そうだな……お父上には『あなたを粉々にはしない。まずはあなたのその愚にもつかない、笑う価値もない企てを木っ端微塵にする。殺すかどうかなんてその後で決める』と伝えてくれ」

「そうね、粉々にしないでしょうね。私は約束できないけど」ブリギッテが付け加える。「それと、私からの伝言も伝えて。ロンドンの支配者だからって、私からのを踏み倒せると思ったら大間違いよってね」

「……承りました」

 最後までギルバートは礼を失さず、一言も罵らなかった。その後ろ姿を、龍一はブリギッテとともに見送った。

「あそこまで彼を、お父様も含めてこき下ろす必要はなかったかしら」彼の姿が見えなくなった後でブリギッテは気が咎めてきたらしかった。

「すっきりはしなかったか?」

「すっきりは……しなかったわ」彼女はややうつむくが、すぐに顔を上げた。「でも、やめもしない」

「……そうだな」

「そろそろ大使館に戻りましょう。私たちがお尋ね者であるのを忘れるところだった」

「それは忘れちゃ駄目だろ……」龍一は歩きかけ、そしてなぜ先を歩こうとしていた彼女が電流に打たれたように立ち止まったのか、その答えをみることになった。

 息を切らせたレーナが立っていた。よほど長い距離を走ってきたのか、ブルゾンの襟元は乱れ、首のマフラーはほどけかけ、顔色は紅潮を通り越してどす黒くなっている。

「やっと……見つけ……」言葉にならず、彼女はしゃがみ込んでしまった。咳き込もうにも息ができないといった風情だ。

「おい、ちょっと過呼吸を起こしてないか? ビニール袋持ってきた方がいいか?」

「あれは人によって余計に悪化するから駄目よ。レーナ、息を吐いて! 吸うだけじゃなく吐いて!」

 二人して背をさすっているうち、ようやく落ち着いてきたらしい。「も……もういい……もう大丈夫……」

 落ち着きを取り戻すにつれてばつが悪くなってきたらしい。何しろ「二度と来るな」と言いながら冷水をぶち撒けた相手を自分から追いかけてきたのだから。

 ブリギッテもあえてそれに言及はしなかった。「私たちを探していたの? どうして?」

「……これ」ばつが悪い表情のまま、レーナはビニール袋に入れた指先ほどの金属片を取り出した。ブリギッテに押しつける。「警察の人が訪ねてきた。司法解剖が終わって、兄貴の胃の中から出てきたって」

 つい二人でそれに注目してしまう。どうやら、スマートフォンのSIMカードらしい。

「口を結んだコンドームに入れて飲み込んだらしい。たぶんあんたに使うつもりだったんでしょ。結局使わなかったけど。まったく、最後まで馬鹿な兄貴だったよ」

 さすがにブリギッテの顔が真っ赤になった。

「もしかして……これを渡すためにほうぼう駆け回っていたのか?」

 まじまじと二人に見つめられ、レーナはますます居心地悪そうな顔になった。「あんたたちのためじゃない。兄貴のためだよ。もうやめようかって思っていた時に、私に電話がかかってきてさ。あんたたちならここにいる、って」

「誰が?」

「知らないし、知りたくもない。男か女かもわからない変な声だった。私もいい加減足が痛くなってたから、どうでもよくなってさ」

 素っ気ない口調を差し引いても本当に知らないようだった。

「……じゃ、確かに渡したからね」レーナは乱れていた衣服の裾を直し、マフラーを口元までずり上げた。「あんたとも、そっちの地獄から来たでかぶつとも、これで本当にさよならだよ」

「レーナ。あなたに許されなくても、あなたのお兄さんに託されたことはもうやめない。それだけは言いたかった」

「そう。好きにすれば」レーナは踵を返し、龍一たちの視界から消えるまで一度も振り返らなかった。振り返りたくなるのを必死で堪えていることが、龍一たちにもわかった。

「ディロンが……これを、私に」ブリギッテは何とも言えない顔──何とも言えない、としか形容しようのない顔で、手の中のSIMカードを見つめた。

「見てみよう」たとえこの件に関係がなくとも、いや、だったらなおさら見なければならない。これが彼からの最後のメッセージなのだから。

 カードをブリギッテのスマートフォンに挿す。ゲームや無料の音楽ストリーミングなど時間潰しのためのアプリがほとんどであるのが、いかにもディロンらしかった。

「ディロンが見せたかったのは……きっとこれね」

 画像ファイルを開く。真っ先に、必死の形相で馬にしがみついている龍一の画像が現れ、目を丸くしてしまった。ブリギッテは口元を押さえて噴き出すのを我慢している。

「あいつめ……」

 ヒースの荒野。青空を横切っていく切れ切れの雲。馬の穏やかな目と、対照的に限界まで張り詰めた筋肉。

「……彼にとっても、思い出深い旅行だったのかしら」

「だといいな……」

 サンドイッチをぱくつく龍一。ただ黙って、雲の流れに見入っているアレクセイ。写真を撮りすぎているのを嗜めてか、こちらに向けて顔をしかめながら手を振っているブリギッテ。

 そして青空を背景に馬を進める、龍一たち三人の背中。

「あの馬鹿」ブリギッテの目にはまた涙が溢れていた。「龍一。私たち、本当に……」

「ああ。あいつのこと、何も知らなかった」彼女の背をさすってやる。「何も」

 画像の雰囲気が変わる。急に薄暗く、不吉な雰囲気の屋内。撮られた時刻は──彼が殺される、ほんの数十分前だ。

 まるで電流に打たれたように、ブリギッテの指先が止まる。「これは……」

 しばらく二人で、息をするのも忘れて見入った。

 次に吐き出された龍一の息には、自分でも抑え切れない怒りが混じっていた。「全部わかった。戻ろう」


「クソでも詰まらせたようなツラでどうしたんだよ。ブリギッテはブリギッテで、戻ってくるなり自分の部屋に閉じこもっちまうし……」

「彼女には今、情報を整理してもらっている。準備ができたらすぐに来る」龍一はそう説明し、会議室に集まった一同を見回す。「俺のわがままで、皆の脱出を滞らせてすまなかった。ただ、ここにいる全員には、フィリパの言い草じゃないが聞く権利があると思って集まってもらった」

「それは構わないが……一分一秒も惜しい局面で、それほど重大な進展があったのか?」

「逆に一分一秒惜しいからこそ聞いてもらいたい話だ。俺はこのロンドンから逃げられない。いや、逃げられないだけじゃなく、逃げるべきではないと思った。俺は残る。皆は構わず、脱出してくれ」

 全員が全員と顔を見合わせた──オーウェンはタンと、アイリーナはフィリパと。アレクセイだけはある程度何かを察していたのか、静かに佇んでいる。

 オーウェンが咳払いし、全員を代表して質問する。「説明してくれ。君の唐突な話には慣れている」

「ありがとう。……〈将軍〉の、〈鬼婆〉の、そしてその背後に確実にいるだろう、ヨハネスの目的がわかった。奴らの狙いは、俺一人だ」

 沈黙が訪れた──オーウェンは今度こそ沈黙しており、タンなどは丸い目をさらに真ん丸にしている。ただ、アイリーナとフィリパの間で、言葉にならないやり取りが交わされたことを龍一は見逃さなかった。

 数度ほど口を開け閉めした後で諦め、オーウェンは咳払いして言った。「説明してくれ」

 龍一は頷く。「ただその前に、長い上にややこしい話を聞いてもらうことになる。俺の身の上話だ」

 龍一はこれまでの経緯を話した。波多野仁の死と、復讐のための未真名市入り。望月崇と高塔百合子、そして瀬川夏姫との出会い。犯罪者たちを狩る犯罪者集団〈月の裏側〉。人格共有ネットワークを形成する暗殺者集団〈ヒュプノス〉と、その「端末」たるアレクセイとの戦い。そして日本からマルスおよびヨハネスの影響力を一掃するための作戦と、その無惨な失敗。〈のらくらの国〉消滅の後の逃避行。〈海賊の楽園〉への潜入、命懸けの非合法賭博〈奔流〉への参加、伝説のハッカー〈白狼〉との対面。そして島に押し寄せるハイチ=ドミニカ連邦海軍の討伐艦隊と海軍強行偵察連隊を返り討ちにした、自らの中の〈ドラゴン〉顕現。

 ダイジェストにならざるを得なかったが、それでも話し終わった時、一同の顔色は一変していた。とりわけオーウェンは、質の悪い安酒でも瓶一本分開けたような顔になっていた。「とても素面では聞いていられない。そもそも〈犯罪者たちの王〉からして、私の知己で存在を信じている者は皆無だというのに……フィリパ、彼が言っているのは事実なのか?」

 気持ちはわかるとばかりに彼女は頷く。「本国でも相当に以前から、彼──正確には彼の中の〈竜〉に注目していたようです。少なくとも私たちの任務は『核戦争クラブ』とヨハネスの関連を探ること『だけ』ではなかった……何より、洒落や手品でハイチ連邦海軍は壊滅させられません」

「何ということだ……」とうとうオーウェンは額を押さえてしまう。

「俺は〈犯罪者たちの王〉を、地の果てまで追い回してでも殺すつもりだった。でも彼は彼で、俺を殺せなければ夜も眠れないらしい。で、〈海賊の楽園〉を後にした俺たちの次の目的地を予想して、罠を仕掛けた。大まかに言えば、核でロンドンごと俺を月まで吹っ飛ばそうって罠だ。たぶん〈将軍〉のパーソナリティも好都合だと思ったんだろうな。配下のクーデター部隊と、〈ロンドン・エリジウム〉の無人戦闘兵器群、それにマギー・ギャング。それらをみんな合わせて俺にけしかけて、勝てなくっても核のボタンを押せばいい。〈将軍〉がそんなイカれた奴だからこそ、この罠を思いついたんだろう」

「だ、だけどよ……」タンが白っちゃけた顔でどうにか言う。「そんなの、お前が逃げればそれで済む話じゃねえのか? お前がロンドンからフケちまえば、核を炸裂させる理由もなくなるだろ?」

「もっともな意見だが、ヨハネスはたぶんそれも読んでいる。俺がロンドンを脱出すれば──難しいだろうが、たとえできたとしてもヨハネスは遠隔操作で核を起爆させるだろう。何の自慢にもならないけど、俺はもうロンドンの至るところに足跡をべったり残している。ロンドンが粉微塵に吹き飛んだ後で、俺に罪を着せるなんてそれこそ『赤ちゃんの手からキャンディを取り上げる』くらい簡単だろう。今までは〈のらくらの国〉壊滅と犯罪者狩りの指名手配犯として追われていただけだが、それに核テロのおまけつきだ。何しろ国家そのものが、大っぴらに俺を追い始めるだろうからな……今度こそ地球上のどこにも、俺の逃げる場所なんてなくなる」

 オーウェンだけでなく、アイリーナまでもが「勘弁してよ」と言わんばかりに首を振り始めた。

「アレクセイ、君の言った通りだったよ。単に命が惜しければ、この国にくるべきじゃなかった。俺たちが英国入りしたその時には、もう罠の口は閉じていたんだ」

「確かにその通りだけど、忘れるべきじゃない。龍一、僕たちは命惜しさにこの国へ来たわけじゃない。ヨハネスと戦うために、その手がかりを求めて来たんだ。とは言え……」彼には珍しい、重苦しい溜め息が聞こえた。「甘く見ていたね。ヨハネスを」

「ああ。甘く見ていた」

 龍一は今だ見えない、その男の顔を思い浮かべようとした──俺ごと街一つ、国一つ、まとめて吹っ飛ばすほど俺が憎いか。俺のことをそんなに殺したいか。

 大音を立てて会議室のドアが開かれたのはその時だった。全員が振り返る──ノックも忘れ、髪までほつれさせたブリギッテが上気した顔で、荒い息を吐いて立ち尽くしていた。

 全員の注視の中、彼女は興奮冷めやらぬ様子で言葉を吐き出す。「見つけたわ。全部わかった」


「……言うまでもなく私の、犯罪者たちが生きている地下世界アンダーグラウンド、裏社会についての知識はほぼ皆無です」冷静さを取り戻したブリギッテは一新、朗々とした声で一同に語りかける。初めて龍一が彼女を見たあの日を彷彿とさせる姿だった。

「僕が改めて調べたところ、ロンドンの地下──それも直接的な意味での地下にまつわる噂話は想像以上に多かった。それを吟味し、信憑性の高いものをピックアップし、さらに殺される前にディロンが飲み込んだSIMカードに残された画像と付き合わせることで、この事件の全体像はかなり鮮明になった。これからブリギッテが語るのは、ディロンが命と引き換えにして遺したメッセージを基にした解析だ。そのつもりで聞いてもらいたい」

 アレクセイの声に全員が──龍一やオーウェンはもちろん、タンやアイリーナでさえ神妙な顔になった。ブリギッテは一瞬だけ俯いたが、すぐにきっぱりと顔を上げた。

「よって、これから話す内容は龍一とアレクセイのアドバイスに大部分を依っていますし、間違いがあればそれは全て私の責任です。間違いや注釈などがあれば、適宜入れてほしい。龍一、アレクセイ、お願いできるかしら?」

「お安い御用だ」

「喜んで」

「ありがとう、二人とも。……事の始まりは17年前。アメリカ、イギリスを含む先進5カ国の主導で密かに行われていた、〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの組織〈王国〉壊滅作戦、並びにヨハネス本人の暗殺作戦です」

 オーウェンが首を振る。「国家主導の暗殺作戦まで企てられたとなると、もうヨハネスの実在を信じるしかないか……まさか都市伝説相手に国家は動かんだろうしな。それにしても17年前?」

「それにも理由がありますが、後で説明します。ここで重要なのは、、ということです」

 フィリパが眉をひそめる。「すぐに後継者が現れたのか」

「いえ。私自身、理解困難なのですが……殺したのは間違いなくヨハネス本人であるはずなのに、全く同じ姿形の新たなヨハネスが現れて組織のコントロールを再掌握したとのことです。さらに新たなヨハネスは暗殺作戦を主導した各国家機関・ブラックオペレーション部隊司令部への報復を開始すると同時に、混乱に乗じて組織を乗っ取り、あるいは投降しようとした組織幹部を残らず処刑しました」

 タンが目を白黒させた。「わ……訳わかんねえよ。替え玉ってことじゃねえのか? でなけりゃ何なんだ?」

 龍一は重い溜め息を吐く。「それがどうにもわからないんだがな。魔術か超能力でもなければ、この世には『ヨハネス』って同じ人間が十人、二十人単位でいることになる。わかるのは、それを解き明かさない限り〈犯罪者たちの王〉に勝つのなんて夢のまた夢、ってだけだ」

 ブリギッテは改めて一同を見回す。「前述の通り、私にもそれらが何を意味するのかはわかりません。それについての検証はまた別の機会に譲るとして、話を進めていいでしょうか?」

「大いにいいわよ、スイートガールちゃん。自信を持って続けてちょうだい!」

「あの……気が散るのでやめてもらっていいですか?」投げキッスまで飛ばしているアイリーナに、ブリギッテはだいぶ本気で辟易している。「で、では続きですが。暗殺作戦は関係者の大量死亡という最悪の形で幕を閉じましたが、ヨハネスの〈王国〉も大打撃を受けました。そしてこれを期に、ヨハネスと先進国の間で秘密協定が結ばれます。〈王国〉へのあらゆる攻撃の禁止と引き換えに、既存の犯罪組織弱体化を〈王国〉が行う、それが主な内容です」

「〈王国〉が他のあらゆる犯罪組織に取って代われば、対策も容易になる。そういう理屈だろうな」アレクセイが捕捉する。

「狂犬みたいな制御不能な輩を国家に代わってヨハネスが片付けてくれるってんだから、考えてみればこんなぼろい話もないな」と龍一。

「その通りです。さて、ここで問題になったのが暗殺作戦の主導国、特にイギリスが作戦に先立ち進めた、ヨハネスに関する膨大な資料です。少なくない警官・兵士・秘密工作員の血と引き換えた資料の破棄をイギリスは断固として拒否しましたが、ヨハネスもまた譲りませんでした。これは、彼にしてみれば無理もないことですね? それを基にまた暗殺作戦を企てられたらたまりませんから。議論の結果、資料の全ては破棄もしない代わりに、イギリス側も参照できない──とする形で落ち着きました。そして資料の全てが封印されたのです、ここロンドンの地下深くに」

 タンが何かに気づいたように目を瞬く。「地下? 地下だって?」

「もうタンは気づいたみたいね。そうです、ただ単に地下深くへ埋めたわけではない。ヨハネスについての資料の全てを搭載した走る密室──〈ヨハネス報告書〉専用列車の誕生です」

 ブリギッテの操作に合わせて、壁面のスクリーンが灯る。そこに映し出されたのは龍一がロンドンの地下で見たあの列車、機械仕掛けの長虫のような異様な車両だ。

「アテナインダストリアル社製〈忘却の河レテ〉。車長1キロ、静音性電動モーターと特殊タイヤによる、このサイズとしては驚くべき静粛性を実現。さらに超伝導オートジャイロと全自動操縦装置により、数年に一度のメンテナンスを除いては半永久的な運転が可能。動力源は──

 オーウェンの顎ががくんと下がるのはなかなか見ものだった。

「〈階梯〉を持ち込むまでもなく、ロンドン市民は核の上で日々を送っていたのか」苦々しげなフィリパの呟き。「悪趣味な話だ。反吐が出る」

「〈忘却の河〉の名を絶対に公表できない秘密列車に付けるのは、せめてものブラックジョークなのかな」とアレクセイ。

「本来はロンドンが壊滅するほどの有事の際、女王陛下をロンドンから脱出させるための秘密列車だったそうです。それが〈犯罪者たちの王〉との密約を満載したものになるとは設計者たちも思わなかったでしょうが。これを」

 滑らかだったブリギッテの説明が、不意に途絶えた。

 全員が絶句した。彼女の左目から、音もなく涙が滑り落ちていた。

「……ジェレミーも、そしてディロンも、間違いなくこれを見たのです。ロンドンの地の底から、きっと見上げたのよ……この世界の、腐った山の頂を」

 思わずというようにアイリーナが一歩前へ出ようとする。が、ブリギッテは涙を拭いながらもう一方の手でそれを制した。

「アテナインダストリアル、という社名に聞き覚えはありませんか? そう、イギリス人で知らない者はいないと言っていい、アテナテクニカ社の前身。〈将軍〉に買収される前の社名です」

「買収もまた、〈将軍〉としては布石だったんだな」

「そうね。マギー・ギャングもそれに一役買ったんでしょうね」秘密を知る者は一人残らず、それを吐くまで拷問された後で殺されたのだろう。「マギー・ギャングが〈将軍〉のロンドン支配に大きく尽力したのは疑いようもありません。ただし、それには裏があります。一度でもマギーの手を借りたが最後、死ぬまで脅されるということです」

「珍しくもない話だな。企業にとって犯罪組織との取引は、まさに死ぬまで飲み続けるしかない毒だ」自分の専門分野になったからか、オーウェンはやや生気を取り戻したようだ。

「さて、この〈レテ〉が本来は女王陛下がロンドンを脱出するための秘密列車であったとは先ほど説明しましたね。これには全く逆の機能もあります──悪用すれば誘導ミサイルよりも遥かに確実に、殿

 フィリパが思わずというように唸る。「それが狙いか!」

「ええ。〈ヨハネス報告書〉を奪取し、空になった列車に核を積んで逆走させる。証拠そのものとなる〈レテ〉はもちろん、あらゆる証拠を核が綺麗に吹き飛ばしてくれる。世界が罪を着せられた龍一を血眼で追い回している間に、マギーたちは安全な場所までのうのうと逃げのび──どこかでまた新たな組織を勃興させればいい。ヨハネスと各国政府の密約を握れば、どの国のどの政府だろうと、好きなだけ脅迫できる」

「〈将軍〉と〈鬼婆〉の間であらゆる行動に齟齬があるように見えたのは、最終目的そのものが違ったからなんだな」

「その通りよ。〈将軍〉は上手く行かなけりゃ核を炸裂させればいい、と思っているんでしょうけど〈鬼婆〉はそうはいかない。〈ヨハネス報告書〉を持ち逃げするまで、核が起爆しては困るものね」

 アイリーナがまたしても投げキッスを飛ばし始めた。「エレガントな推理よー、スイートガールちゃん。あなたを見込んだ私の目に狂いはなかったわー!」

「そういうのいいですから……」げんなりして手を振るブリギッテだったが、すぐ立ち直る。「以上です。何か皆さんの方から質問はありますか?」

 質問どころか、ほぼ全員が今された話を自分の中で噛み砕くのに四苦八苦しているような顔になっている。それを見定めてから、龍一は手を上げる。「質問じゃないんだが、俺からも付け加えていいか?」

「もちろんどうぞ、龍一」

「この計画の全体像が明らかになった今、見えてきたものがある。俺はこれに見たものを、かつて確かに見ているんだ」

「それは何?」

「オキナワだよ。17年前、核、〈のらくらの国〉、そしてHW。これだけ揃えたら俺がどれだけ馬鹿でも気づく──挑発だよ。ヨハネスはこの罠をこしらえるのに、わざわざ〈第二次オキナワ上陸戦〉に似せて作ったんだ。お前の復讐すべき全てを揃えておいてやったぞ、逃げられるものなら逃げてみろ、ってな。糞ったれが!」

 最後の怒号は、会議室の壁を震わせるほどのものとなった。もう、誰一人言葉を発しない。

 虚脱感が怒りに取って代わり、一つ息を吐いてから、龍一は続けた。「もっともこれは、あくまで俺の事情だ。付き合う必要はない。だから皆……逃げてくれ。ここに来るまでに、誰も彼も少なからずひどい目に遭っただろう? なんせ相手は核だ」

 アイリーナとフィリパでさえ、何を言うかで難儀しているようだった。最初に口を開いたのは、ブリギッテだった。「わかったわ、龍一。私からも聞きたいことがあるの。いい?」

「……ああ」

 腰かけたままの龍一の傍らに彼女は立った。吐息がかかりそうなほど。「あなたと私が初めて会った日のこと、覚えている?」

 忘れるはずもない。

「いろいろなことがあった。嬉しいことも、嬉しくないことも、本当にいろいろ」

「ああ。あった」

「あなたが私に会いに来た時から、いえ、その前……〈コービン〉ジェレミーの遺品を私に届けようとした時から、何もかも始まった」

「全部俺のせいってことか?」

「違うわ。あなたが私に会おうと決めたこと、それが重要ということ」

 彼女が何を言おうとしているのかわからず、龍一は目を瞬く。

「警察に拘束されるかも知れないのに、それ以前に命を狙われているのに、あなたは危険を顧みず私に会いに来た。それから何もかもが始まった。何もかもが。私を〈将軍〉の下から連れ戻しに来た時、あなたは言ったわね。君がやりたいことも、やるべきことも、ここにはないんじゃないかって」

 頷く。

「私が今、問おうとしていることもそれに似ている。あなたが私に会おうとして全てが始まった。だったらこのロンドンで起こることの終わりも、あなたの意志によって変わってくるのではないのかしら?」

 理屈になってないわね、と彼女は苦笑してみせる。「あなたが私たちの身の上を案じているの、今さら疑いはしない。でも一旦そこから離れて、あなた自身がどうしたいのか考えてみてはどうかしら。龍一、?」

 優しく、穏やかな目と口調だった。

 俺がどうしたいか──彼女の問いは、どこか自分が目を逸らしてきたものへの改めての問いかけであるように思えてきた。彼女の意図はともかく。

「俺は……」

 全員の視線を感じる。口を開かなければならない、と思った。それがどう思われようと。


「……俺は、ヨハネスに負けたくない」


「俺はかつて、ヨハネスがどこにいようと世界の果てまで追い詰めて殺すつもりだった。それ以外のことはどうでもよかった。今から思えば、成功するかどうかも二の次だったと思う。全部が終わった後、自分が生きているとも信じていなかった──たぶん、俺は死にたかったんだ。

 でもどうでもよくなんてなかった。全部が全部、どうでもよくなんてなかった。〈月の裏側〉が壊滅してからはそれを思い知らされるような、半年間だった。

 俺の中に〈竜〉とやらが生きて、時々出てくるとわかってからは、俺がどうでもいいと思ってきた全部に復讐されているような気分だった。何しろ、俺が死にかけるたびにそいつが出てくるんだからな。しかも周囲にとんでもない被害を与えて。おちおち死にかけてもいられなくなったよ。

 俺はヨハネスを追いかけて殺すつもりだったが、ヨハネスはヨハネスで、俺を殺さないことには休めも眠れもしないらしい。アレクセイに助けられなかったら、とっくに死んでいたか──もっと悪くすれば

 今、ヨハネスはそれを見越して罠を仕掛けに来ている。ロンドンそのものを罠に作り替えてまで、俺を殺しに来ている。ロンドン数百万市民の命が失われるのも構わずに。

 俺はヨハネスに負けたくない。少なくとも、俺を殺すついでに数百万の命が失われるのはどうでもよくなんかない。

 そう、俺はヨハネスに勝ちたい。逃げたくないし、負けたくない。彼の思惑の外に飛び出したい──そのためには、ここで屈してなんかいられない」


「──わかったわ。じゃあ、一緒に戦いましょう」

 龍一は数秒間ほど絶句していた。彼女は自分の話を聞いていなかったのではないかと思ったほどだ。

 ブリギッテは鼻の脇に皺を寄せてみた。姉が弟を叱るような顔だ。「忘れたの? ヨハネスに勝つ前に、まずは〈将軍〉と〈鬼婆〉に勝たなくてはならないのよ。それだけでも容易ではないし、それに私だって、あの二人にはたっぷりと貸しがあるんですからね。請求書の束をあいつらの顔面に叩きつけてやりましょうよ。百科事典ブリタニカくらいの厚みがある奴を」

「ベルガーにも」

「そう、ベルガーにも」

 アレクセイが組んでいた腕をほどく。「ヨハネスと因縁があるのは僕も同じなんだけど、それを忘れてもらっては困るね。それに」彼はちらりと笑った。「君とブリギッテだけじゃ、危なっかしくて表に出せないよ」

「言ったな?」

「言ったわね?」

 龍一とブリギッテは二人して言い──二人して噴き出した。遅れてアレクセイも肩を震わせて笑い出した。何だか久しぶりだと思った。三人揃って笑うのが。

 黙っていたオーウェンがこれ見よがしに溜め息を吐いた。「私に言わせればアレクセイ、君だって子供の範疇だよ。ましてそちらの二人はそれに輪をかけたひよっこだ。卵の殻が尻から取れんほどのな」

 三人はそれぞれの顔を見合わせた。「オーウェン刑事……わかっているとは思いますけど、これからやることはどう考えても警官の範疇を越えたものになりますよ」

 どんな理由があろうと、現職警官が許可もなく犯罪者相手の闘争を始めたらただでは済まないだろう。まして彼は本来なら自宅謹慎の身だ。懲戒免職どころか、実刑に問われてもおかしくない。

「気を遣うなよ」オーウェンは苦笑してみせる。「私だって誰恥じることない、真っ当な警官というわけでもない……この歳になれば、上司の弱みの一つや二つくらい握ってはいるさ。万が一首になっても……その時はまあ、探偵でもやるさ」

 目を丸くして見上げるタンの頭を撫でた。「マギーにはいずれ、に行く予定でもあったしな。少し早まりそうだが」

 龍一は〈ダビデの盾〉の二人に向き直る。「君たちはどうする? 何しろ俺たちが戦うのは国家の暗部……国家そのものと言ってもいい相手だ。任務がどうだからって必ずしも付き合う義理はないぜ」

 煮詰めた煎じ薬の臭いでも嗅いだような顔のアイリーナと対照的に、フィリパは落ち着いた顔を龍一に向ける。「私からも聞きたい」

「ちょっとフィリパ……」

「何なりと」

 フィリパは頷いて続ける。「君の考える〈犯罪者たちの王〉とは、君一人を殺すためだけに数百万市民の命を巻き添えにする人物なのか」

 龍一もまた頷く。「会ったことはないけど、確信はしている。それに彼が恐ろしいのは、核のボタンを躊躇いもなく押せるというだけじゃない。〈将軍〉や〈鬼婆〉の目的が頓挫しようと、大して気にもしない──する必要もないってことだ」

「ほう?」

「要するにどっちでもいいのさ、彼にとっては。ロンドンが俺ごと吹っ飛べばそれでよし、吹っ飛ばなかったとしても……気にしない。大抵の黒幕気取りならそれだけの一大プロジェクトを不意にされたら髪を掴んで七転八倒しそうなもんだが、彼はそうならない。『そうか』と一つ頷いて、次に俺を陥れるための計画プランを淡々と練り始める。その冷静さが何よりも恐ろしい。……とまあ、その恐ろしさをこの半年で思い知らされたよ。何度となくな」

「ふむ。私の思い描いていたヨハネス像とはだいぶ違うな。だが考えてみれば、ただ残忍なだけの人物に世界的な影響力を振るう超国家的犯罪組織の長など、とても務まらないだろうな」

「案外、慎重を通り越して臆病、小心なのかもな。そう考えると余計におっかなくなるが。……何にせよ、成功時と失敗時のプランはどちらももう準備済みなんだろうな。ロンドンが月まで吹っ飛んでも、吹っ飛ばずに済んでも。どちらにしてもその後の世界は、彼の都合の良い世界に変わっていくんだろう」

 でも、と龍一は続ける。「こうして君と話していて、思いついたことがある。妙な言い方になるけど……『神は人の乗り越えられない試練を与えない』じゃないが、このロンドンそのものを使った大仕掛けは、逆に彼が俺の能力を正しく評価した結果であるように思えてきたんだ」

 フィリパの目に興味深げな光が見えた。「信頼できる敵……ということか?」

「そこまでは言わないがね。でも最初のうちは何てこと思いつくんだ、と震え上がってばっかりだったが、こんな馬鹿げたスケールの大仕掛け自体が、何をどうやっても俺を殺せない彼の焦りの表れなんじゃないか……そう考えられなくもない」

 そうか、ヨハネス、お前は焦っているのか……?

 龍一は急に目の前が晴れたように思った。今まではひたすら残忍で狡猾で、油断のならない相手──そうとしか思わなかったヨハネスの人間らしい素顔が、微かに垣間見えたような気がしたのだ。

「数百万の死も、それに続く長い長い混乱の時代も、ヨハネスにとっては許容範囲内……か」フィリパの目が、今までと違う何かを帯びた。「では、彼は私の敵だな」

 皆の中でも、誰よりもまずアイリーナが耳を疑ったようだった。

「私は君たちの言う『パートタイムの戦争屋』だ。軍を放逐されて他に行く場所もない。これ以外の人生など想像もつかない」何百回、何千回、それ以上の自問を繰り返してすり減ったような声だった。「だがもし、もしも、私のような人間が不要になる世界が訪れるとしたら……それはどのような世界なのか、考えなかった日は一日もない」

「フィリパ……」

「君の話を聞く限り、ヨハネスの目的はそのような世界への逆行のようだ。許せないな」

 静かな声が、むしろ彼女の強烈な決意を表していた。

 ブリギッテは何かを言おうとしたようだったが、胸が詰まったように何も言えない様子だった。代わりにフィリパの手を取る。フィリパも微笑し、その手を握り返した。

「いいんだ。君たちを支援するのも私の仕事だからな」そこで彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。「それに社則では、アルバイト禁止なんだ」

 滅多に笑いもしなければ冗談も言わない彼女にしては珍しかった。何よりアイリーナには衝撃らしかった。

「アイリーナ、今のは私だけの決意に過ぎない。君は本社に……」

「あーーーーーーーーー! もう! わかったわよー!」

 アイリーナは大音声で叫び、自分の頭髪をぐしゃぐしゃにかき回した。「その話ならもうとっくに結論出たでしょー! あんたを置いておめおめ本社に戻れってのー!? 実家のパパママ弟妹に『あなたたちの愛するフィリパは最後まで職務を全うし、私は彼女の命を代償におめおめ生きて戻りました』なんて報告させる気ー!?」

 喉笛に噛みつかれないか心配になりそうな目つきで彼女は龍一を睨みつけた。「参加してやるから、勝ち筋を示しなさいよー! 私の相棒とスイートガールちゃんをあんたのカミカゼに付き合わせるつもりなら、ヨハネスより先に私があんたを殺すからねー!」

 彼女の激昂にブリギッテが目を丸くしているのが妙におかしくて、龍一は笑ってしまった。「いいとも。どう見えてるかはわからんが、俺の頭にだってカミカゼより遥かにましな戦法は思いつくんだぜ」

 アイリーナの凶悪な目はアレクセイにまで向けられた。「あんたも他人事みたいににたにた笑ってんじゃないわよー! 約束の割り増しを要求するわー! もう偉いさんのなんかじゃ承知しないからねー! 〈白狼〉の集めたデータにはもっと価値のあるものがあるんでしょー! それをよこしなさいよー!」

 アレクセイも笑って、手を差し出した。「いいよ。取引成立だね」

 アイリーナは膨れっ面のまま、アレクセイの手を握った。彼がちょっと顔をしかめたのを見ると相当な力だったらしい。


「……とは言ったものの」

 と、紅茶とマドレーヌを前にしたアイリーナは呟く。「今の私たちにどんな勝ち筋があるってのよー?」

「勝ち筋などと言い出したら、ゼロ以下だぞ」ブラックコーヒーを前にオーウェンが憮然と呟く。甘いものを見ただけで胸焼けがするとのことで、彼だけは何の菓子類も頼んでいない。

「刑事さん、ゼロ以下ってどういう意味?」バウムクーヘンを上品に切り分けながらブリギッテが眉をひそめる。「ゼロならまだわかりますけど」

「こちらが全滅するという意味……悪かった。皆、そんな目で見ないでくれ」

 室内に溜め息が充満する。話題が変わった以上気分も一新しよう、とのフィリパの提案で全員に茶菓子が振る舞われているが、なかなか重苦しい空気は変わらない。

「憂鬱な話題となるのは皆承知だろう。まずは彼我戦力差を検討しよう」眉間に指を当てながらアレクセイが提案する。彼の前に置かれたカフェオレからは湯気が立っているが、手をつける気配はない。

「検討も何も、比較になんねえよな」クッキーを噛み砕きながらタンがぼやく。「マギー・ギャングだけで何万人もいるんだぜ」

「そいつらの大半は粋がってるだけの、吹けば飛ぶようなちんぴらにしても」砂糖とミルクを入れたコーヒーを口に含み、龍一は呟く。「マギー配下の実働部隊は数百人単位、ベルガー直属の精鋭部隊は少なく見積もっても……百人前後か」

「充分な脅威だな……」

 レモンティーを静かにかき混ぜていたフィリパが尋ねる。「オーウェン刑事。クーデター部隊の内訳は判明しているとのことだったが?」

「龍一から聞いた話だが、ギルバート次期CEOによれば近衛歩兵連隊、近衛戦車大隊、王立騎兵大隊はその中核だそうだ。彼の証言が全てとは言え、わざわざ嘘を吐く可能性は低いだろう」とオーウェン。「調べたところ、いま名を挙げた部隊のメディカルチェックを行なっているのは、アテナテクニカ傘下の委託企業だった。〈将軍〉やギルバートの立場なら、クーデターに賛同しそうな思想背景や精神的偏向を持つ兵士や、逆にあのスティーブのように報酬さえ示せれば何でもやるほど金に困っている兵士をピックアップするのは容易だ」

「つまりそのナンタラ部隊の、ほとんどが敵に回る可能性が……」

「極めて高いな」

 またしてもほぼ全員が呻き声を上げる。

「そのクーデター部隊の呼び水となる〈ロンドン・エリジウム〉だが、これはこれで相手取るには結構な骨だな……」

「あくまでこれは、公表されている情報だけど」フォークを置いたブリギッテが壁面スクリーンを切り替える。「〈ロンドン・エリジウム〉とは軍の戦略戦術ネットとリンクした自動兵器群の、都市防衛のためのダウングレード版ね」

「どう見ても火力自体はパワーアップしてるじゃないか。何がダウングレードだよ」

「単純に火力の差というだけではない。このシステムの恐るべき点は、市内の無人交通管制および無人監視システムともリンクしているということよ。つまりロンドン市内にいる限り、『人命・物資への悪質な破壊活動分子』はあらゆる無人兵器システムと誘導兵器システムの射程内に捉えられるということ。都市そのものを敵に回す、と言っても過言ではない」

「しかも分散情報処理ネットワークのため、ハッキングに対する防護も極めて堅い」オーウェンは口元を歪め、ブラックコーヒーを飲んでさらに口元を歪める。「堅牢で、可愛げのないシステムだ」

「刑事さんみたいに?」

「茶化すな」アイリーナのにやにや笑いにオーウェンは憮然となる。

「それに加えて、〈将軍〉の切り札がある。〈ペルセウス〉だ」

「それは」オーウェンが顔を引き締める。アイリーナやフィリパの前で話していいのかと危惧したらしい。

 ブリギッテが首を振る。「お気遣いありがとう、刑事さん。龍一、この際よ。全部話しましょう」

「ああ。…… 『対テロ戦闘、あるいは市街地での大規模戦闘を想定した増強兵士計画』なんてもっともらしい名目こそついているが、実のところは俺の中の〈竜〉に対抗する兵器だ。〈将軍〉は私兵を動かしてまでそれを接収したし、〈鬼婆〉はその対となる〈アンドロメダ計画〉を奪うため警官まで殺した」

 オーウェンが頷く──隠し切れない怒りと悲哀を込めて。

「少なくとも〈将軍〉の切り札の一つとして〈ペルセウス〉が手元にあるのは間違いない。あるいは〈ペルセウス〉があるからこそ、俺に勝てると踏んだのかもな。ブリギッテ、つまり〈アンドロメダ〉まで手に入れようとする目論見は、結果的にことごとく失敗したが……」

 ブリギッテはもう、何一つ動揺してはいなかった。少なくともその素振りさえ見せなかった。「私が〈将軍〉に立ち向かう、立ち向かわなければならない理由はそれです。彼には私の人生を歪めた責任がある。ご大層なお題目の前に、まずはそれを彼に問いたいと思います。どんな手を使ってでも」

「スイートガールちゃん……」何がしかの感銘を受けたらしきアイリーナと、怒りを隠してもいないフィリパが好対象だった。イスラエルの実家に小さい弟や妹がいるらしき彼女には、子供を利用した人体実験など烏滸の沙汰なのだろう。

「通常戦力に加えて、そんな訳のわからない秘密兵器まであるのか……」先行きが暗くなってきたな、とフィリパが嘆息する。

 しかし妙だな、と龍一は思う。闘技場で戦った鉄仮面=〈ペルセウス〉は確かに恐るべき筋力と再生能力の持ち主だったが、逆に言えばそれだけの存在だった。事実、半ば〈竜〉と化した龍一の前には手も足も出なかったのだ。生身の人間には脅威だろうが、〈竜〉を殺すための兵器としてはずいぶん心もとない。それとも、あの時あの場所で見せた能力は〈ペルセウス〉の一部でしかないのだろうか?

「唯一の光明は、敵戦力の全てが連携が取れているわけではないことかな」すっかり冷めてしまったカフェオレに口をつけ、アレクセイは顔をしかめる。「戦術ネットや軍用無線通信なんてマギー・ギャングには過ぎた玩具だし、それに〈将軍〉と〈鬼婆〉の最終目的の違いから何らかの齟齬が発生するかも知れない。付けいる隙があるとすればそこだ」

「確かにそうだけど、それは直接戦力差を覆す決定的要因にはならないわ」

 もっともである。

「本国から、それとも本社から腕利きは呼び寄せられないか」

「私やフィリパくらいとなると、今からじゃ絶対に間に合わないわー。凄腕ほどやるべき仕事は多いし、それをこんな成功率の超低い案件にぶち込むのも気が引けるしー」

「かといって大使館の人員を使うのもな……情報収集ならまだしも、荒事には不向きだ。そもそもこの人数に二、三人加えただけではどうにもならない」

「これってさー……勝ち筋とかなくないー?」言ったアイリーナが全員の視線に気づく。「ごめんてー。ちょっと悲観的になっちゃっただけだからー。って龍一、あんたが皆を巻き込んだんでしょー! 責任取って、まずあんたが勝ち筋を示しなさいよねー!」

「わかったよ」怒鳴られては苦笑するしかない。せっかく皆が付き合う気になってくれたのだ、そろそろどんよりした話も切り上げるべきだろう。

「今さら蒸し返してもげんなりするだけだろうが、彼我の戦力差なんて言い出したら絶望的だ。マギー・ギャング、〈将軍〉配下のクーデター部隊、〈ロンドン・エリジウム〉制御下の無人戦闘兵器群。単純に勝ち目はない。それだけじゃない、俺たちにはやるべきことが多すぎる。〈ヨハネス報告書〉を積んだ秘密列車〈レテ〉の所在を突き止め、ロンドンのどこかにある核を確保する。それも軍と警察とギャングの目をかい潜りながら。当然、そんなことは不可能だ。それがわかっているから、ギルバートも自分たちの手の内をあんなにも無邪気に明かしたんだろう。そしてそれは正しい──間違いなく正しい。俺たちには戦力どころか人手も、装備さえもない」

「だったら」

「だからこそ!」

 龍一の口から大音声が迸った──その場の全員が、電流に打たれたように背筋を伸ばすほどの。「だからこそ、俺たちはその! マギー・ギャングを潰し、〈将軍〉配下のクーデター部隊を潰し、〈ロンドン・エリジウム〉の無人戦闘兵器群を潰す! 同時に核を抑え、〈ヨハネス報告書〉を奪取する! その全てを成功させて初めて、〈将軍〉の、〈鬼婆〉の、そして〈犯罪者たちの王〉の野望は頓挫する!」

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