アルビオン大火(13)死
『──今、見ての通りこのおじさんたちに熱烈歓迎を受けてます。いつ帰れるかもわからないくらい』
栗色のふわふわした髪の娘は縛られたまま、やはりふわふわした口調でカメラに話しかける。『あ、もしかして一緒にいるのがブリギッテの意中の彼? いつもうちの子がお世話になってます』
「誤解よ!?」
何かとんでもない飛躍があるようだが、と考え込んでいる龍一の前で、ブリギッテが音声一方通行であるのを忘れて大声を上げている。
周囲の覆面男たちが顔を見合わせている。『おい、ベルガーさんが何か喋れってよ』
『え、もう繋がってんのかよ? それを早く言え』どうも段取りが悪い。『あー、あー、これで音声入ってんのか? ……ブリギッテ・キャラダイン、そんな訳だ。お友達の命が惜しかったら、ディロンのガキを引きずってでもウェストミンスター桟橋近くの廃棄ドックまで連れてこい。この際死体でも構わねえ。期限は午後6時、一分でも遅れたらこの話はなしだ。マダムが言うからてめえには毛ほどの傷もつけなかったが、その分我慢していたことを全部この小娘にするからな。……これでいいのか?』
『今の一言さえなきゃもっとよかったよ』
動画は終わった。ベルガーの声が続ける。『質問はもうないな? 連絡用にこの回線は開けておけ』
「そんな女の子のことは知らないと言ったら?」
『お前にできるものか』鼻で笑う声が返ってきただけだった。『もう少し客観的に自分を見たらどうだ?』
龍一が唇を噛んでいる隙に通話は切れた。
通話が切れるか切れないかのうちにもうブリギッテは動き出していた。髪を無造作に頭の後ろで束ねると、龍一たちが見ているのも構わず荷物をひっくり返してシャツとジーンズを引っ張り出し、身につけ始める。
「龍一、アレクセイ、止めないでね」
「止めないよ。一緒に行くだけだ」既に彼女の扱いを心得ているアレクセイは溜め息を吐いただけだ。「いずれにしても、この隠れ家は放棄するしかない」
「惜しいところだけどな」龍一は先ほどベルガーがかけてきたプリペイド携帯を懐に入れ、別のプリペイド携帯を他の二人に配る。「こっちはまだ『汚染』されていないから、連絡はこれで取り合おう」
「わかったわ。私は、もう一度レーナのところへ行ってみる。ディロンから直接連絡はなくても、何か手がかりがあるかも知れない」
「君が言って話を聞いてくれるか?」
「あなたが行くよりはいいでしょう。下手すると悲鳴を上げて逃げ出しかねないのよ」
これに関してはぐうの音も出ない。
「〈将軍〉と〈鬼婆〉が結託している以上、こうして僕たちが浮き足立つのを狙うのが目的かもしれない。皆、用心に用心を重ねてくれ」
アレクセイの言葉に、他の二人も頷く。
エレベーターに乗る直前、最後に一度だけブリギッテは龍一を気遣わしげに振り返った。「龍一、私たちは……殺すためにディロンを探しているのではないはずよね?」
龍一は頷く。「もちろんだ」
【南ロンドン、先の公営団地から焼け出された人々の避難キャンプ】
公園を利用して造られたキャンプには、早くも市が避難民のために仮設したバラック小屋が立ち並びつつあった。
マクドーマンド母娘の小屋はすぐ見つかった。が、聞き込みをしている最中も見慣れない姿のブリギッテに対する刺すような視線がひしひしと感じられた。野球帽を目深にかぶり、彼女は足を早めた。何しろここにいる人々は皆、龍一たちが起こした騒動で焼け出されてきたのだ。素性がばれた途端にリンチされかねない。
窓から覗いてみると、確かに不機嫌そうな顔で荷物を紐解いているレーナの姿があった。母親は奥で寝ているらしい。
数度、小屋のドアに小石をぶつけてみると、目つきをさらに悪くしたレーナが顔を覗かせた。「ギャングのガキの悪戯か……全く」
ドアが閉じる寸前、ブリギッテは爪先を隙間にこじ入れて全身を滑り込ませ、レーナの口を押さえて身体を反対側の壁に押しつけた。
「危害を加えるつもりはないの。声を出さないで、お願い」
レーナの目は驚きと怒りに見開かれていたが、頷いてはくれた。ほっとして彼女の口から手を離し、野球帽を脱ぐ。
「あ、あんた……よく、のこのこと顔出せたね!」レーナは約束通り大声を出さないではくれたが、それは奥に寝ている母親を気遣ってらしい。「誰のおかげで私たちがここにいると思ってんの?」
それを言われるとブリギッテも辛い。「言葉もないわ。私たちはそっと入って、迷惑をかけないうちにそっと出るつもりだった。あんなことになるなんて思いもしなかった。……あなたの、お兄さんのことも含めて」
レーナの怒気がわずかに緩んだ。「……うちの馬鹿兄貴があんたにやったのは、言い訳できないくらい恥ずかしいことだからね。あいつをあんたがこっぴどく振ったのまで謝る必要はないよ」
大声を上げなかったのはその辺りの疾しさもあるらしい。
「ディロンはあれからここに帰ってないのね?」
「警察署を釈放されたのは確かだけど、その後は一度も顔を見せてない。ギャングに戻ってもいないはず。昨日もあからさまにおっかない格好の奴らが『ディロンはどこだ』って聞きに来たからね」
「あのギャングたち……ここにも来たのね」
「来たよ。『隠し事をするとためにならねえぞ』なんてお定まりのセリフを吐いて、母さんをさんざん怯えさせて、ついでに近所の人たちにも脅しを振り撒いてから帰ってった。母さんは寝込んじまうし……何もかも、あんたたちと馬鹿兄貴のせいだよ」彼女が全身を震わせているのは怒りか恐怖か、たぶん両方だろう。
「彼の今いる場所に心当たりはない?」
彼女はわざとらしく溜め息を吐いた。「何? 今度こそあいつにとどめを刺す気? やっぱり自分にきついのをお見舞いした男は許せない?」
「そうじゃないの。今ニュースでやっているでしょう。あの行方不明になっている子……私の友達なの。ギャングに捕まっていて、あなたのお兄さんを連れて来いって脅されている」
「そんな子のことは知らないね。会ったこともない誰かの命がかかっているからって、こっちだって身内は売れないよ。行けば確実に殺されるってわかってんなら、なおさらね」
「ディロンを逃がし、私の友達も助ける。私と龍一は両方するつもりよ」
レーナはせせら笑った。「あの地獄から来たでかぶつまで、馬鹿兄貴を追っかけ回してんの? あいつの命は風前の灯だね」
ブリギッテはうつむいた。「……大事な友達なの。笑顔が素敵で、お菓子を焼くのが上手くて、いつもにこにこ笑っているけど私が悩んでいると、すぐそれに気づくの。こんな暴力沙汰に巻き込まれる謂れなんかない子なの」
「そんな知らない子の話を聞かされたって困るよ。私たちだって、巻き込まれる謂れなんかない」口ではそうは言ったが、レーナは確実に落ち着きを失くしている。
数秒間、目を宙に彷徨わせた後で彼女はぽつりと呟いた。「……地下鉄」
「え?」
「ディロンは地下鉄が好きだった。一度なんか、私やライアンを置いて地下鉄に乗ろうとして母さんに怒られたくらいだった」当時を思い出したのか少しだけ、少女のきつい眼差しが和んだ。「もしかして、あのまま地下鉄に乗っていれば遠いどこかへ行けるんじゃないか……ずっと昔に死んだ父さんにも、ライアンにも、会えるんじゃないか、そう思ったのかも知れない」
そうだ、どうして思い至らなかったのだろう──ロンドンの地下は地上と同じくらい広いのだ。
「……それ以外は本当に知らない。もし馬鹿兄貴に会ったら伝えといて。母さんの面倒は私が見るから、ほとぼりが冷めるまでそのツラ見せんな、って」
家族の元へ戻ったところで待ち構えているギャングに殺されるだけだ、とはレーナもわかっているのだろう。
「ありがとう」
「あんたのためじゃない。捕まってるあんたの友達のためだよ。礼なんか言ってる暇があったら消えな」
【同じ頃──ヴィクトリア駅近辺】
「駅か。確かに……手だな」ブリギッテからの電話を受けた龍一は思わず声を弾ませた。「市外へ脱出するのは難しいだろうが、少なくとも追跡の目を逃がれる余地はいくらでもある」
『それにギャングの目やアテナテクニカのセキュリティを避けるのも地上より容易でしょうしね。〈日没〉以降、破壊が著しくて再建を諦めたまま放置されている地区も多いわ』
「しかし、それだとまた別の問題が発生するぞ。どこを探せばいいんだ?」
大体、日に数十万人が使用するロンドン中の地下鉄からたった一人を見つけようとしたら、時間がいくらあっても足りない。
『そのことなんだけど、ディロンも私と同じロンドンっ子でしょう。「女王陛下の専用列車」なんじゃないかしら?』
「何だって?」
『ロンドンっ子の間で有名な都市伝説よ。バッキンガム宮殿の地下には、ロンドンに危機が迫った時に女王陛下を避難させる秘密の地下路線が通っているんですって。ホワイトホール──セントジェームズ間を結ぶ秘密の専用列車。ほら、子供の頃の記憶って、案外いつまでも覚えているものじゃない』
「なるほど……」
人生が行き詰まった時、人は過去に向かう。自分をこの世に置き去りにした父、ずっと昔に死んだ弟に執着する母、ハッパ売りとポン引きくらいしか生業の成り立たない毎日、ブリギッテへのこれ以上ない失恋、そして男としての見栄まで龍一に粉々にされ──ディロンはそれら全てが起こる遥かな昔に帰りたかったのかも知れない。父が死ぬ前、弟が死ぬ前に。
『龍一?』
「ああ……すまん。いや、立派な手がかりだ、探す価値はある」
そう、何せ人の命が懸かっているのだ。
ヴィクトリア駅構内へ降りようとして──何か騒がしい。ただの朝のラッシュにしても異様に混んでいる。駅員たちが声を枯らして群衆を制止している。
「おい、あんた押さんでくれよ……!」不機嫌そうな老人に抗議されてしまう。
「す、すいません……何があったんです?」
「線路内に人が立っているんだとよ。気の毒に、まだ若いのに気が触れちまってるらしい。全身にとんでもない怪我をしとるらしいから、ギャングどものリンチにでもあったのかな」
何かが龍一の全身を貫いた。「失礼!」
「おい、ちょっと!」
跳躍し、制止する駅員の手をかいくぐりジャンプして頭をまたぎ越し、肩を踏んでさらに跳躍する。群衆の驚嘆と駅員たちの怒号を背に龍一は走る。入口と比べ妙にがらんとした構内、その線路上に、
「回る回るよ列車は回る、俺の脳味噌もぐるぐる回る。ぐるぐる回ってどこにも行けない……」
「……ディロン!」
彼がいた。どこかを一心に見つめているような、それでいてどこも見ていないような眼差しの彼が。
「俺は捕まらねえぞ……」ディロンの目の焦点が合うが、それは龍一の頭の遥か後方で合わされていた。「捕まらねえからな、この地獄から来たけだものが!」
「待て、ディロン、話を聞いてくれ!」
聞いてはくれなかった。彼は目を見張るばかりの速さで身を翻し、トンネルの奥へと消えた。
「くそ!」
躊躇している暇はなかった、龍一もまた線路へ飛び降りる。これで大勢の通勤客に迷惑をかけるのは二度目だが、やむを得ない。
【同じ頃──ブリギッテの自宅】
「なるほど。お嬢さんはそのような経緯であなた方の養子に……」
「はい。あの子を紹介した養子縁組団体が摘発を受けたことは、ずっと後になって新聞で知りました。私も妻も、何もかもが暴露されることを覚悟していましたが……警察も養子たちのプライバシーを考慮したのか、捜査が私たちまで及ぶことはありませんでした。それで、今日までが何事もなく過ぎたのですが……」
ブリギッテの養父クライヴ氏はまずは紳士と言っていい温厚そうな男性で、養母アビゲイルもまずは淑女と言っていい優しそうな女性だった。よくも悪くもブリギッテのような、天から四物も五物も、あるいはそれ以上を与えらえたような娘の両親には見えない。にも関わらずどこか彼女に似た面影があるのは──やはり彼女の両親、と思って見るからだろうか。
僕にわかるわけがない。雑誌記者に変装したアレクセイは熱心にメモを取りながら、内心の動揺を押し隠した。
クライヴが何かを決したように顔を上げる。「これはまだ内密に願いたいのですが……私は妻とともに明日、警察へ出頭するつもりです」
「ほう」変装用の黒縁眼鏡の奥で、アレクセイは瞠目する。「それはまたなぜ? 組織はもう壊滅しています。あなた方ご夫婦がその責を負う必要はないのでは?」
「人が死にすぎました」クライヴは苦しげに首を振る。「確かに、娘には何の罪も咎もない話ではあります。私も妻も、ならそれでよい、自分の過去に後ろ暗いところがあるなどとあの子が知る必要はない、そう思って今日まで目をつぶってきました。ですがあの子はそれに満足しないばかりか、私たちが隠したかった以上のものを知ってしまいました。そしてそれは娘だけでなく、このロンドンの少なくない人々の運命を狂わせつつある。私はもうそれに耐えられないのです」
傍らのアビゲイルがハンカチで目頭を押さえる。だが、
「それは悪手ですね」
「何ですって?」
片手で音を立ててメモ帳を閉じ、アレクセイは立ち上がった。「それであなた方は楽になれるでしょうが、楽になれるのはあなた方だけですよ」
「あなたは一体……」
黒縁眼鏡を外し、丁寧に眼鏡ケースにしまう。改めて夫婦を見やる。
「もしあなた方が本当に彼女を案ずるのなら、今は耐えてください。もし耐え切れず、彼女に空の家をのみ残したいのであれば、僕の言葉を真に受ける必要はありません。では、失礼」
アレクセイが一礼しても夫婦は立ち上がらず、呆然としているだけだった。〈同調〉は完璧に効果を発揮していた。夫も妻も、次にアレクセイに会っても顔すら忘れているだろう。
(間一髪だったな)キャラダイン家を後にし、アレクセイはようやくほっと一息吐いた。日没までの自由時間にここを訪れていて正解だった──〈将軍〉がブリギッテの両親を傷つける心配はないだろうが、それは彼ら彼女らが人質としての分をわきまえていればの話だ。良心の呵責に夫婦が耐えきれず出頭し、〈将軍〉があわてて口封じに動こうものなら、本当の意味でブリギッテの帰る場所がなくなってしまう。
(僕がここに来たことは、彼女には黙っていた方がよさそうだ)
龍一以外に、知られたくない、と思う人間が現れるとは思わなかった。
空を見上げる。何となく、ポーリーンの言葉を思い出す。
──あんたの家族なら、きっと今でもあんたを探しているよ。
本当にそうなのだろうか。
【ロンドン地下、本線を遥か遠くに離れた傍線】
「法律なんて強い奴らの味方だぜ、俺たちにはそっぽを向くくせに金持った悪党どもには自分から進んでケツ向けやがる……」
「ディロン、待て、待ってくれ……」
「誰か教えてくれよ! 健康に生きるのにゃカネが山ほど必要なのに、どいつもこいつも『お前は病んでいる』なんて抜かしやがるんだ!」
「話を聞いてくれ……!」
あんな喉が枯れるほどの大声で叫びながら走り続けているのだから、大した肺活量だった。しかもこの暗がりでつまづかずに走るのだから──いや、正確にはつまづくのだが、痛みを物ともせずに起き上がってすぐ駆け出すのだ。おっかなびっくり足元を気にしている龍一の方が、下手すると引き離されつつある。
「くそ……!」
まるで追いつけない。
走っているうちに周囲の様子が変わってきたのに龍一は気づいた。通常の地下鉄ではない。まるで岩盤をそのまま掘り抜いたような、剥き出しの岩がごつごつしたトンネルだ。同じロンドンの地下には違いないが──一体、俺たちはどのへんを走っているんだ?
線路が揺れ、振動が伝わってきた。早い。しかもどんどん大きくなってくる。
龍一は息を呑んだ。
怪物の一つ目のようなライトでトンネルを煌々と照らしながら、窓も昇降口も何一つない、妙にのっぺりとした列車が轟然と走ってきていた。あわててトンネルの窪みに身を隠した龍一の傍らを、大音量を引きずった大質量が凄まじい勢いで通り過ぎていった。
ただの地下鉄ではない──あんなものが地下鉄であるはずがない。
(今のは……?)
ブリギッテの話を思い出す。ロンドンっ子の間で囁かれる幽霊列車、女王陛下専用の秘密列車……自分が目にしたのはそれなのか? まさか。
ふと、思い当たった。そもそもあれこそがジェレミーの探していたものではないのか?
はっと気づくと、ディロンの姿は影も形もなく消えていた。
「しまった……!」
【夕方──ウェストミンスター桟橋付近、廃棄ドック】
「結局、龍一からの連絡はなかったわね」
『なかった』アレクセイの声は無念さを滲ませていた。『時間切れだ。すまない』
「アレクセイが謝ることはないわ。龍一も含めて皆、全力は尽くしたもの』
それに、備えが全くないわけではない──自分が牽く大型のキャリーケースに目をやり、ブリギッテは呟く。
分厚い、鈍灰色の雲の切れ目から奇妙に美しい夕日が射していた。暴動と、その後に続くテムズ川の氾濫で価値あるもの全てが押し流された無惨な廃墟を、茜色の陽が奇妙なまでに美しく彩っている。
ドック内の廃船へ昇る作業用エレベーター付近で、覆面の男たちが見張りについていた。AK系列と思われるアサルトライフルをこれ見よがしに携帯している。いかに警察の目がないとはいえ、どうも尋常ではない。
覆面の一人が剣呑な眼光を向けてきた。「一人か。奴は?」
「トランクの中よ。私の友達の安全が確保できたら渡す」
覆面の奥から鈍く光る目が向けられた。「てめえを殴り倒した後、この場にいる全員であそこがずり剥けるまで可愛がってから、ゆっくりと中身を確かめたっていいんだぜ」
「そしてあなたのあそこはマギーが飼っている鶏の餌になるのね。ガールフレンドにはお気の毒だけど」
正直、怖かった。声を荒げても腕を振り回してもいない、ただ佇んでいるだけでこんなにも恐ろしい男たち相手に、龍一たちはどうしてあんなに落ち着いていたのだろう?
いや、違う。あの人たちだって怖かったのだ──今ではわかる。単に逃げないことだって、勇気だ。
「ガールフレンドなんていやしねえよ。俺は女房一筋だぜ」覆面男は肩をすくめた。「まあ、いいだろう。乗れ」
言うと、エレベーターのパネルを操作した。キャリーケースを手にしたブリギッテが乗り込むと、彼も乗り込む。
ゴンドラが動き出すと覆面男は呟いた。「度胸があるだけじゃなく、頭も切れるとはな。ディロンのガキが相手にされねえわけだ」
ディロンは既にマギー・ギャング全員の物笑いの種らしい。彼の戻る場所はもうなかったのだ、とブリギッテは鈍い痛みとともに思う。
「ベルガーも上にいるの?」
「ドイツっぽには『
口調からするとベルガーの有能さは認めても、その人柄までは尊敬してはいないようだった。ベテランのギャングとなると年若いディロンには見えないものもいろいろと見えてくるのかも知れない。
ゴンドラが揺れ、ブリギッテの眼前に廃船の甲板が広がった。
風が強い。ブリギッテの束ねた髪も、ギャングたちの服の裾も等しく強風になぶられてはためいた。甲板は錆びるどころか腐っており、いきなり足元が抜けるほどではないが、それでも方々に穴が空いていた。住居として使うのは無理だろう。
防弾板と機銃を無理やり取り付けた違法改造メックスーツまでもがこちらを睨みつけている。そして銃を構えるギャングたちに囲まれて、車椅子に縛り付けられたモリィが見えた。
「いらっしゃい、ブリギッテ。あ、私誘拐されたんだから『いらっしゃい』も変だよね。何て言えばいいんだろ? 上手い言い回しが見つからなくって」モリィの口調はしごく快活だった。「それにしても今のあなた、いかにも何かしでかしそうな出立ちだよね。これからアクションが始まるの?」
「わくわくしている場合じゃないでしょう」とは言ったが、友人の気楽な口調が気分をいくらか軽くしてくれたのは確かである。
「そろそろいいだろう。見せろ」覆面男の口調は変わらなかったが、その芯にあるものは確実に変わった。時間稼ぎは終わりみたいね、とブリギッテは腹を括る。
「わかったわ。下がって」
ギャングたちが数歩下がるのを確認し、キャリーケースの留め金を外す。蓋が開き、中から目隠しと猿轡をされて手足を縛られたディロンが転がり出た。
もちろん精巧にできた、ただの人形である。しかし四肢にアレクセイの〈糸〉が仕込まれており不規則に収縮するため、少し見た限りではまず見分けがつかない。
「見たところ、本物っぽいがな」覆面男は顎に手をやる。
「もういいでしょう。モリィを解放して」
「まだだ。勘違いするんじゃないぞ。要求するのは俺たちの方だ」
「見ての通り、彼はもうどこへも行けやしないわ。何を焦っているの?」
「……いいだろう。だが、お友達を助けたかったらお前の方からこちらに来るんだ」
「わかったわ」
マギーとベルガー以外のマギー・ギャングが1と2も足せない馬鹿だと断ずることはできない……全くするべきではない。
ギャングたちと、黒光りする銃口と、メックスーツまでもが注視する中、一歩一歩進んでいく。重力が歪んでしまったような酩酊感がある。息さえ苦しい。
モリィの前まで来る。きょとんとこちらを見上げる丸い目は平生と変わらない。むしろ、面白がっている素振りさえあった。
「……モリィ。いい、これからちょっと怖いことが始まるけど、私から離れないでね」
「うん」彼女はにこにこして頷いた。「ブリギッテらしいよね、『もう大丈夫よ』とか上っ面の慰めを言わないところ」
信頼されすぎるのも考えものね、と思わないでもない。
「兄貴! こりゃ、ただの人形ですぜ!」ディロンの方に駆け寄った手下たちが素っ頓狂な声を上げる。「よくできちゃいるが、本当にただの人形だ。舐めやがって!」
やはりな、と覆面男はむしろ予想していたように、悲しげにかぶりを振る。「恨むんなら、こんな浅知恵で俺たちを騙せると思ったてめえを恨みな」
手の中に握り込んだ起爆装置を押そうとして。
その手首が鮮やかな断面をさらしてぽたり、と足元に落ちた。
「あ……?」
さすがに男が愕然となったその隙に、ブリギッテは背から抜き放った複合弓の弦を数度鳴らし、立て続けに二人の男の手首を射抜いていた。苦痛よりは驚愕に近い悲鳴が上がる。彼女にしてみれば動いてもいない、人間大の標的など外す方が難しい。しかも相手は武器持ちだ。
「モリィ、ごめん、少し揺れるよ!」
ブリギッテはモリィが縛られたままの車椅子を思い切り押して廃船の甲板上を走り出した。後方から追ってくる怒声にも数射、矢を放って牽制しておく。
「ブリギッテ。もしかしてちょっと怒ってる?」
「少しね。モリィ、巻き込んでごめんなさい……とてもそんな一言では済ませられないけど。でも、本当にごめんなさい」
「まあ気にするなって言っても、ブリギッテは気にするたちだからね。でも、気には病まない方がいいよ。それに今のブリギッテ、私たちといる時より楽しそうじゃない」
「え……?」
悪意あっての台詞ではないのだろう──実際、そういう娘ではない。だからこそモリィの言葉は、ブリギッテの胸の柔らかい部分に突き刺さった。
割といつも一歩引いたところから見ている印象の娘だった。そう言う意味では、アンナとも違う意味で大人びている少女なのかも知れない。
だがその時の彼女たちに、その言葉をそれ以上検討する余裕はなかった。
重々しい足音を立ててこちらに歩み寄ろうとしていたメックスーツが、天からの一撃で粉々になり、周囲のギャングを巻き込みながら爆発炎上した。
「何……!?」
ブリギッテやモリィだけでなく、ギャングたちにとっても予想外の出来事だったらしい。浮き足立つ彼らにも、空を切り裂き砲弾が落下する。既に腐りかけている廃船の甲板にバス並みの大穴が開き、粉々になったギャングたちが次々と落下していく。
『ブリギッテ、テムズ川だ! 川の上だ!』手首につけた〈糸〉が振動し、アレクセイの声を伝える。これの機能を聞かされた時は絶対にバレない分スマートフォンよりすごいじゃない、と呆れたものだ。
言われた通り川に目をやった彼女は息を呑む。
長大な砲身がそこに出現していた。都市攻撃用に使えそうな馬鹿げた長さの砲身の根元を支えるのは、砲身に比べれば余りにも小型の、妙に平べったい戦闘艇だ。
警察にしては火力が過剰すぎる。アテナテクニカの無人兵器だろうか。
「あんな小さな船であんな大砲を撃ったら、反動でひっくり返ってしまうじゃない……」
「ブリギッテ、あれじゃないかな?」
「あれ?」モリィに言われて目を凝らすと、戦闘艇の周囲を何かきらきらしたものが取り巻いている。どうやら舷側から伸びた無数の何かが、左右沿岸の建築物に結びつけられて船体を固定し、そのたわみも利用して反動を吸収しているらしい。
アレクセイの声が呆然と続ける。『信じられない。あれは〈糸〉だ。僕が使うのと同じ〈糸〉だ……』
【同じ頃──アテナテクニカ本社ビル、作戦統括ルーム】
「お父様……いえ、CEO、おやめください! このままでは彼女も砲撃に巻き込んでしまいます!」
「だから何だ?」ギルバートの懇願にもエイブラムは眉一つ動かさない。「これで死ぬような〈アンドロメダ〉など、お前の伴侶たりえない」
「しかし……!」
「それともお前は、自分の花嫁がギャングどもの慰み者になった方がいいのか」
絶句するギルバートに目もくれず、〈将軍〉は
【同じ頃──ウェストミンスター桟橋付近、砲撃を受ける廃棄ドックの廃船甲板上】
ブリギッテはモリィの縛り付けられた車椅子を押してひたすら走っていた。だがギャングたちの放つ銃弾もまた後を追ってくる。「アレクセイ! モリィを助けたのはいいけど、これじゃ逃げ場がないわ!」
『ある。甲板の端まで行ったら、そこから思い切り跳べ』
「何ですって!?」
『そこにいても炎と砲撃の餌食になるだけだ。信じて』
頭上を仰いで天の主に助けを求めたくなったが、それ以外に方法がないのは理解できた。「……わかったわ!」
「ブリギッテ、さっきから誰と話しているの? わかった、例の彼ね?」
「違うわよ! ああもう、これ以上話をややこしくしないで!」
砲撃が竜骨まで撃ち砕いたのか、廃船そのものが断末魔のような軋みを上げて傾き始めた。が、ギャングたちはなおも追いすがってくる。仲間が目の前で次々と吹き飛んでいるのに大した度胸だ。
「止まれ!」数人のギャングがこちらに銃口を向ける。二人、三人までは手首を射抜いたが、残り一人への対処が間に合わない。しかも相手が持つのは散弾銃だ。逃げ場がない──
微かな煌めきがブリギッテの眼前を横切る。ギャングの太腿が分厚いハムでも切るように両断され、バランスを崩したギャングが絶叫しながら甲板の隙間から真下へ落ちていく。
「アレクセイ……!」
「走って!」ほっとする間もなく、姿を現したアレクセイはなんと全力で車椅子を押すブリギッテの背をさらに押した。車輪が空回りせんばかりの勢いで回転し、転がり落ちるように加速する。
「待って、アレクセイ、これじゃ本当に落ち……!」
「跳べ!」
ほとんど無意識にブリギッテは甲板を蹴った。車椅子ごと三人の身体が宙に舞う。
必死の形相でアレクセイが腕の射出器から繰り出した〈糸〉を巻き取っている。これなら廃船から離れることだけはできるだろう、着地をどうするかはともかく──
だが次の瞬間、一際大きな爆発が廃船の甲板上で生じた。
ギャングたちが持ち込んでいたプラスチック爆薬を、砲撃が誘爆させたのだ。大きく放物線を描いて廃船から飛んで離れていたブリギッテたちは、その爆風で蹴飛ばされたようにさらに遠くへ飛ばされることになった。
ブリギッテがそうとわかったのはずっと後になってからだった──何しろ空中にいる間にも爆風で何度も回転し、気絶してしまったのだ。最後に覚えていたのは爆風から二人をかばうように背後からかぶさったアレクセイの身体と、自分の手を必死で握っていた親友の手の温もりだった。
【同じ頃──地下鉄本線を遥か遠くに離れたロンドン地下】
「ディロンの奴……本当にどこへ行ったんだ?」
走り詰めでさすがに息が切れてきた。龍一はしばし立ち止まり、周囲を見回す。
「まるで見覚えがないどころか、もう地下鉄でさえなくなっているじゃないか……」
龍一のいるそこは、駅のホームに似ていなくもなかった──線路があり、標識が電車を待ち受けるホームがある。ただしそれ以外は何一つ似ていなかったが。
周囲に積まれているコンテナケースは、あの地下聖堂を思わせた。しかしわずかに蓋が開いているものを確認すると、あるケースは封切り前の使い捨てカメラ、別のケースは女性向けファッション誌詰め合わせ(しかも相当に古い──下手をすると第二次大戦当時の服飾ばかりだ)、また別のケースはトランジスタラジオの部品、といった具合でまるで脈絡がない。整理もせず、ただ思いついたものをあるだけ積み上げたような風情だ。
いや、これはもしかするとあの地下聖堂のような戦時中の物資隠匿場所よりも、さらにスケールの大きな災厄に備えた施設なのではないか。例えば、核戦争のような。
「マジかよ……俺は国家運営の秘密シェルターを見つけちまったってことか?」
龍一は呆然と周囲を見回す。興味深いところであるが、ここにきた目的を考えればあまり寄り道もしていられない。
「……ん?」
懐のスマートフォンが震えている。ブリギッテでもアレクセイでもないようだ。
まさかベルガーか。だとしたら癪ではあるが出ないわけにもいかない。「もしもし?」
耳に当てた龍一は絶句した。聞こえてきたのは、ディロンの啜り泣きだった。
そう、彼は啜り泣いていた。帰り道のわからなくなった子供のように。
『龍一……俺、知りたくなかった……こんなもの見たくなかった……』
彼の声は正気に聞こえた──少なくとも線路の中央でけたたましく笑っていた時よりは正気に聞こえた。だがその正気の啜り泣きは、龍一の全身に鳥肌が立つほど不吉なものを感じさせた。
『なんでこんなものを見なきゃならないんだ……俺はちょっとだけ、ちょっとだけ上手いことやってる奴らのおこぼれに預かりたかっただけなのに……それが何で……』
「ディロン、落ち着けよ。何を言っているんだ……?」
龍一が呼びかける間にも、ディロンの啜り泣きは今や完全に嗚咽となっていた。『なあ、前から聞こうと思っていたんだけどよ、てめえはどうしてそんなに強くて、しかも優しいんだ? てめえみてえに何でもできて強くて、頭まで切れる奴が、しかも優しかったら、俺みてえな屑はどうすりゃいいんだ? てめえだけじゃねえ、アレクセイも……ブリギッテも……』
「ディロン……」言い返そうとした言葉が喉に引っかかった。彼の言葉は何一つわからなかったが、わからないで済ませてはいけないような何かがあった。
『俺はまともになりたくなんてなかった!』ディロンの叫びは、自分が追われる身であることを完全に忘れており、それだけになおさら危ういものがあった。『周りの奴らが皆イカれてんのに、俺だけまともになって何の意味があるんだ!』
「ディロン、わかった、わかったよ……」何一つわかりはしなかったが、そう言うしかなかった。「落ち着け、今迎えに行く。だから教えてくれ、どこにいるんだ……?」
『もう遅い……』ディロンの啜り泣きに混じる絶望がより濃くなった。『ベルガーが来る……』
遠く遥かで銃声が響いた。続いてもう一発。
「くそ……!」もう立ち止まっていられなかった。走りながら龍一は呼びかける。もう手遅れではないのか、との思いを必死で遠ざけるために。「ディロン? ディロン!」
返事はなかった。
【同じ頃──ウェストミンスター桟橋付近、廃棄ドックから少し離れた空き地】
頭痛と耳鳴りと、顔にぱらぱらと降りかかる土砂で目が覚めた。爆風で廃船はおろか、ドッグを飛び越えて周囲の空き地に墜落したらしい。爆風が到達する寸前、とっさに二人をかばった記憶があるが、うまくいったのかまではわからない。
遠く遥かからPCのサイレンが聞こえる。それも十数台規模だ。砲撃が収まったのを見計らって警察が動き出したらしい。
「……俺たちもお前らも、両方してやられたな」
声の方向を見ると、あの覆面男が積荷にもたれるようにしていた。彼のいた位置を考えれば、自分たちと同様相当な距離を吹き飛ばされたことになり、アレクセイは驚く。
切断された右腕だけでなく、胸板にまで成人の腕ほどもある鉄片が楔のように深々と突き刺さっていた。止血するつもりはなさそうだった。本人も、自分が手遅れであると悟っているのだろう。
「〈将軍〉が焦ってドジを踏むのを、マダムもベルガーもとっくに予想してたってわけだ……つくづくあの人も、性格が悪いぜ……」
笑おうとして果たせず、表情が凍りついた。永遠に。
ブリギッテは──近くに倒れていた。草地が運よくクッションになったのか、見たところ大きな怪我はない。近づくと、苦しげに吐息を漏らした。ひとまずは安堵する。
彼女の親友は、首を巡らして発見する。確かに生きてはいた。だがその右腕は、獣に食い千切られたように手首から先を失っていた。
こんな有り様を彼女には見せられない──即座に〈糸〉を使って縫合を開始する。自分が両腕を駆使できればもっと高度な手術もできたのだが、今この場では応急処置が精々だった。
すまない──心の中で謝る。ブリギッテにか、本人に対してか、アレクセイ自身もわからなかった。
サイレン音が近くで止まり、警官を交えた救急隊員たちが周囲に展開し始めた。もっとも彼らの主な作業は死体の収容になりそうではあったが。
(警察の到着が早すぎる……)
あるいは警察側でも、アテナテクニカの動きに何らかの不信感を抱いていたのかも知れない。
忙しそうにタブレットを操作していた救急隊員にアレクセイは声をかける。「彼女を頼む」
「君は誰だ!?」血まみれのモリィを託されて救急隊員が目を白黒させる隙に、アレクセイは姿を消していた。
「……モリィは?」
「応急処置はして救急隊に引き渡した。僕たちはそろそろ引き上げよう」
アレクセイに抱え上げられたブリギッテは愕然となる。「駄目……駄目よ! 私も病院まで付き添う!」
「病院に着いた瞬間に拘束されるよ。いいかブリギッテ、僕らがここでできることは全てしたんだ」
「ならそれでもいい! お願い、アレクセイ、戻って!」
「忘れたのか、今の僕らは犯罪者なんだぞ!」
ブリギッテは殴られたような顔になった──いや、彼女ならたとえ殴られてもそんな顔にならなかっただろう。
その時になって、アレクセイが全身傷だらけであるのに彼女は気づいたようだった。彼女の顔が歪んだ。誰よりも、自分自身に失望したかのように。
しばらく黙っていて、やがてぽつりと呟いた。「アレクセイも、龍一も、ずっとこんな思いで戦ってきたの……? こんなものが、あなたたちの戦いの形なの……?」
「君には……わかってほしくなかった」
もう彼女は何も言わなかった。アレクセイの腕の中で、声もなく泣き続けていた。
【同じ頃──ロンドン地下】
──太腿を撃たれた。汚れて不潔な床の上を必死で這いずって逃げようとしたが、それは出血をさらに増やすだけだと自らの身体で思い知った。
ベルガーの傍らに立つ男たちを見て、ディロンの絶望はさらに深まった。ギャングの中でも見所のある者たちをベルガーがさらに自分の手で磨きをかけた、精鋭中の精鋭。彼らこそ真の意味でのマギー・ギャング、マギーの近衛連隊だ。
「本当にがっかりだよ、ディロン」ベルガーが手にした銃口は精密機械のごとくディロンの動きを1ミクロンたりとも見逃しそうになかった。「俺はお前に目をかけてきたつもりだった。幹部昇進の話だって、嘘じゃなかったのにな」
「何が……何が幹部昇進だ」もう逃げられない、そう悟ったディロンの口が、彼自身が驚くほどの怒りを吐き出した。「何もかも、何もかも全部嘘じゃねえかよ。俺たちの街の地下にあんなもの作りやがって……てめえも、マギーも、人の皮かぶった化け物だ……さっさとてめえらが這い出てきたくそ地獄の穴に帰れよ」
ベルガーは一瞬、本当に一瞬だが驚いた顔をした。「俺はつくづくお前のことを見くびっていたようだな。失敗を認めるのに遅すぎることはない。次からは、どんなちっぽけな虫けらでもきちんと潰しておくことにしよう」
そして拳銃をホルスターに収め、代わりに大ぶりのナイフを抜いた。「押さえつけろ」
「何だ、ここは? ……妙に見覚えがあると思ったら、あそこじゃないか」
暗がりから抜け出た龍一は、そこがあの全ての始まりの場所、テムズ川沿いの地下下水道出口であることに気づいた。そう、〈コービン〉ことジェレミーが射殺された場所だ。
汽笛が鳴り響き、遥か向こうを巡視艇やタグボートの灯火が行き来している。
土手の上で数人の人影が動き回っており、車のエンジン音も聞こえる。その中の一人、車内の照明にちらりと照らされた者の横顔に見覚えがあった。
「……ベルガー!」
龍一の怒声に彼はちらりと視線を向けたが、即座に車へ乗りながら血と埃にまみれたずだ袋のような何かを路上へ蹴落とした。
間髪入れず懐から抜き出した拳銃を二発、撃った。ずだ袋からどす黒い鮮血が飛び散る。
「待て!」
その気になれば龍一を狙い撃つのは簡単だっただろう──だが彼は運転手に鋭く命じ、車はタイヤを擦りつけるような勢いで急発進した。
もう、見間違えなかった。ずだ袋に見えたのは、全身血まみれのディロンだった。
「ディロン……!」
ベルガーを追う余裕はない。助け起こした龍一自身が、無惨さに目を背けそうになった。
彼の口の中には、舌がなかった。しかも失血死しないよう、バーナーか何かで口の中を焼き潰している。死ぬまでの苦痛を少しでも長引かせようとする残酷な意図だ。
それがなくとも、ディロンは既に虫の息だった。胸からも腹からもどす黒い血がとめどなく流れているのだ。
「ディロン、しっかりしろ、ディロン……」龍一は何度も繰り返すしかなかった。たとえ自分でもう駄目だ、とわかっていても。「今、病院に連れて行ってやるから……」
ディロンのわななく手が龍一の袖を掴んだ──最後の力を振り絞って。
目から涙が、口の端から血の泡がこぼれ落ちる。
「……、……、」
苦痛を訴えようとしたのか。
死にたくないと言おうとしたのか。
ブリギッテの名を呼ぼうとしたのか。
それとも、家族への伝言を頼もうとしたのか。
いずれもできず、ディロンは死んだ。
「……糞ったれ」
ディロンの目は見開かれているが、もう何も見てはいない。龍一の手にこびりついた彼の血が、急速に冷えていく。
「……糞ったれ……」
誰が本当の「糞ったれ」なのか、当の龍一が一番よくわかっていた。
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