アルビオン大火(12)犯罪と制裁

【その日の夕方──南ロンドンの一画、低所得者層用の公営団地】

「よし……今ならいいぞ。こっちだ」

 ディロンに手招きされ、龍一とアレクセイとブリギッテは急いで入り口を潜り抜ける。龍一とアレクセイはともかく、ブリギッテはパーティから抜け出してきたドレス姿のまま、しかも全身返り血まみれでスカートは太腿まで裂け、足元は裸足というひどい有り様だ。上からはディロンに借りたジャンパーを羽織っているものの、それが余計にとんでもない狼藉の現場から逃げ出してきたと勘違いされかねない出立ちだった。龍一たちがお尋ね者であるのを差し引いても人目に見られたい姿ではない。

 全員がエレベーターに乗り込んでから、ディロンがボタンを押す。が、反応しない。彼が舌打ちして操作盤を殴りつけると、エレベーターボックスがガタンと揺れてようやく動き出した。それにしたって、今にもボックス自体が真っ逆さまに奈落へ落ちるんじゃないかと心配になるのろのろした上昇の仕方だ。「この前直したばっかりなのに、もう調子悪いのかよ。火事でも起こったら逃げらんねえぞ」

「管理人さんぐらいいるんでしょう?」

「いるよ。それでこのザマなんだ。もうみんな、半分くらい諦めてら」

 目的の階に着き、ドアが開くと、

「うわ……」

 龍一がそう漏らしてしまうほど、荒涼とした光景が広がっていた。夕闇が迫り、フロア全体が闇に沈みつつあるのに、灯っている照明が全体の三分の一ほどもない。壁は卑猥な落書きが一面に塗りたくられ、並ぶドアからも狂ったような音量でヨーロピアンデスメタルを流しているか、妙に甘ったるい臭いの煙が漏れ出ているか、さもなければドアそのものが壊されて住む者のない空き部屋をさらしているかのどれかである。

 龍一やアレクセイにとっては「屋根がある分まだまだ上等」の部類ではあるが、ブリギッテにとってはそうではなさそうだった。完全にコメントに困った様子で、ひたすら目を瞬いている。

 ディロンは肩をすくめる。「いつもこんなだからな。妹にゃ寄り道せずまっすぐ帰れって言ってる。ま、この辺にゃ暇を潰せるような施設なんてないけどな」

『191』とプレートに表示されたのみのドアの前でディロンはポケットの鍵を取り出したが、思い出したように龍一たちを振り向く。「最初に言っておくけどな、お袋が何かおかしなこと言い出したな、と思っても適当に調子合わせとけよ。あんたらには直接の関係はないし、誰に迷惑がかかることでもないしな」

 妙な凄みすら漂う口調だった。

「……わかったよ」龍一は頷く。何しろ匿われる身だ。何か言える立場ではない。

「お袋、帰ったぞ」

「ディロン! 私の可愛い息子! よく帰ったねえ!」奥からエプロン姿の太った婦人がどすどすと大股で現れた。料理の最中だったのか、手におたまレードルを握ったままだが、それも構わずディロンを抱き締める。ぐう、と奇妙な音が彼の口から漏れたのを見ると相当な力らしい。「何しろこんなご時世だからねえ……お前が毎日『行ってきます』を言って出かけて、『ただいま』を言って帰ってくるだけでも母ちゃん嬉しいよ!」

「わかった、わかったからやめてくれよ……」ディロンはどうにか母親を引き離そうとしている。「ダチの前なんだよ、格好がつかねえだろうが……」

「おや、まあ」彼女の満面の笑顔がこちらを向き、龍一はあまりに圧倒的な好意を浴びて一歩下がってしまう。「ポーリーンだよ。ディロンからいつも話は聞いているけど、何とまあ、光り輝くように立派な若者たちじゃないかね! こんなに招くしかないのが申し訳くらいだよ。やっぱりディロン、お前には素晴らしい何かがあるんだねえ……さ、どうぞ上がってくださいな。じきに料理もできますからねえ。『ミシュラン』に載るような高級レストランとまではいかなくとも、この界隈で私にアイリッシュ料理を作らせたら敵う者はいないんですからね! ……ディロン、お前も手を洗っておいで。ライアンがお兄ちゃんと遊びたくって寂しがってるんだよ」

 こんな熱烈な歓迎は、高塔百合子にすら受けたことがないかも知れない。

 満面の笑顔と、ついでにウィンクまで一つ寄越してポーリーンはどすどすと奥へ引っ込んでしまった。龍一たちは言葉もない。

 アレクセイでさえだいぶ呆れた顔をしている。「ディロン。君は一体、お母さんに僕たちをどう紹介したんだい?」

「おかしな話はしてねえよ。ダチが来るからメシ作ってくれって言っただけだよ」ディロンは子供のように、完全に不貞腐れている。

「そうだ、『ライアン』は弟さんの名前か? 妹さんがいるってのは聞いたが」

 ブリギッテが顔を曇らせる。「まあ、言ってくれれば何か用意……するどころではなかったわね。でも、そのつもりで来たのに……」

「急な話だから仕方ないけど、うっかりしてたな」

「変な気を遣うなよ」妙に籠もった声でディロンが言う。顔を背けていた。

ってだけだからな」

 返事も聞かず彼は奥へ上がり込む。龍一たちは顔を見合わせた。実際、その妙な予感は間違っていなかったのである。


「……ディロン、今日は何かの記念日? それとも誰かの誕生日なの?」

 ブリギッテが目を丸くするのも無理はない。食卓のテーブルの上には、龍一でさえ工夫を凝らしたとわかる料理の数々が並んでいたのだ。羊肉を煮込んだアイリッシュシチュー。ケールや玉葱を入れたマッシュポテトサラダコルカノン。焼き上がったばかりのソーダブレッド……レストランで出てくる分には不思議な内容ではないが、これをあの婦人一人で作ったとなると話は別だ。

「俺はメシ作れって頼んだだけだっつったろ……」もはやディロンは投げやりさを隠そうともしていない。「座れよ。腹減ったろ」

 腹が減ったどころではない。ブリギッテの目は既に料理へ釘付けになっているし、龍一も腹が鳴らないか心配になり始めている。

 狭い食卓だが、どうにか全員が座れた。が、配膳通りに座った結果として不自然なスペースが発生する。

「妹が帰ってないからな」

「今日くらいは時間通りに帰ってこいと言ったんだけどねえ」とポーリーン。なるほど、と納得しかけて龍一は眉をひそめる。それを勘定に入れても、一人分の空席が余計に目立つ。

 見るとブリギッテの隣席、その椅子だけやけに座高が低い。子供用の、それも四、五歳くらいの子供の使う椅子だ。彼女もそれに気づいたらしく、居心地悪そうに身じろぎしている。

「先に初めてしまうかねえ。レーナには悪いけど、お客さんを待たせるのも失礼だから。さ、それじゃ食前の祈りを……」

「その前に、お袋」歯切れ悪くディロンが口を挟む。「そろそろそっち、片付けた方が」

「何てこと言うんだい、この子は?」椅子を蹴立てるように婦人が立ち上がる。全身を震わせ、目には涙まで浮かべていた。「自分の弟をいないもののように扱うなんて、いつからそんな薄情な子になったんだい?」

 困惑し切ったブリギッテと目が合うが、こちらも黙って首を振るしかない。

 ポーリーンは嗚咽を堪えるように口元を押さえている。「一体どうしてしまったんだい、ディロン? ライアンがどれだけお兄ちゃんの帰りを楽しみにしていたと思っているんだい? それとも、お前、疎ましくなってしまったのかい? あれだけお前に懐いていた弟を?」

「悪かったよ、お袋、俺が悪かった……」今までに聞いたこともない優しい声でディロンはなだめる。「頼むから座ってくれよ、ダチの前だって言ってるだろうが……」

 ようやくポーリーンは腰を下ろし、盛大に音立てて鼻をかんだ。「済まなかったね、みっともないところを見せて。ディロンはいい子だけど、時々おかしなことを言い出すんだよ。あんたたちがそんなことを気にせず付き合ってくれたら、あたしは何も言うことがないよ」

「いや……」

「どうかお構いなく」龍一もアレクセイも、そう言うのがやっとだった。実際、他に何を言えばいいのか。

「よかった。さ、皆で食前のお祈りをしよう。大丈夫、あんたたちがカトリックだろうと、何ならムスリムだろうとブッキョートだろうと、黙って付き合ってくれたらそれでいいんだ。『天にまします我らの父よ……』」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ディロン・マクドーマンドはひたすら自分の勘に従い生きてきた。自分に益をもたらす者とそうでない者をいち早く見極め、強い者に媚び、弱い者を蹴落とし、いつしかその生き様を恥とも思わなくなった。そもそも、選択肢がなかった。特に腕っ節が強いわけでも商才に秀でているわけでもない(しかも何の後ろ盾や地元のコネがあるわけでもないアイルランド系移民、というおまけつきだ)ガキがロンドンの地下世界アンダーグラウンドで生きていくとしたら他にどうすればいいのだろう?

 だから相良龍一たちと出くわした時、ディロンはこいつらこそ俺様にツキをもたらす者だ、と信じて疑わなかった。こいつらを上手く利用すれば幹部昇進も夢ではない、と(もちろんこれには、あわよくばブリギッテとお近づきになれるとの下心がなくもなかった)。

 実際、マダム・マギーやベルガーといった直接ギャングを動かす者たちとのコネができたのはデカかったし、彼ら彼女らの名前を出せば仲間たちは文句を言いながらも従ってはくれた。

 だが相良龍一が闘技場のチャンピオン・鉄仮面を血の海に沈め、ダートムアの地下聖堂で軍用犬たちの襲撃を跳ね返し、さらに〈将軍〉のパーティ会場へ殴り込みをかけてブリギッテを直接拐ってくるに至り、今まで自分を導いてきた天性の勘がいささかずっこけ始めているのを認めないわけにはいかなかった。早い話、こいつらに付き合ってたら命が幾つあっても足りやしねえ、と思い始めたのである。

「お前の勘は正しい」とベルガーは相変わらず昏い目のまま言った。彼がディロンの直接の「上」になってから日は浅いが、ディロンが彼を怖がるようになるにはそれで充分だった。殺人も拷問も屁とも思わない男などマギーの周囲には腐るほどいるが、ベルガーはその中でもトップクラスだった。元はドイツ軍の特殊部隊にいたという触れ込みであり、〈猟兵〉という仇名はそれが由来らしい。

「中国の諺だったか。一将功なりて、万骨枯る──早い話、一人の英雄の足元には、大量の死体が眠ってるって意味だ。このままだと、お前もそうなる。つまり、奴らの足元のにな」

「でも、どうすりゃいいんです?」自分でも情けなくなるほど、弱々しい声が出た。こんな声を自分以外の誰かが出していたら、笑いながらぶん殴っているに違いない。「あいつらは馬鹿だけど、馬鹿じゃないんです。俺が裏切ろうもんなら、一発で気づきますよ」

 そうだ、もし本当にあいつらを騙すなら、確実にやらなければならない──二度目はない。あいつらはとことん人が良いが、裏切り者に対しては別だろう。あの鉄仮面を血祭りに上げた膂力が自分に向けられると考えただけで、全身が震えてくる。

「お前の言いたいことはわかる。そもそも馬鹿でなけりゃ、〈将軍〉やマダムに歯向かおうなんて思いもしないだろうからな。だがただの馬鹿が、俺の犬を退けられるはずもない」ベルガーの黒い瞳が、さらに昏くなった。「お前、あいつらをどこかにおびき寄せろ。場所や方法は何でもいい。足止めできれば、後はマダムの手勢が片付ける」

 考えろ、考えろ──ディロンはいつになく真剣に、頭をフル回転させた。何しろやり直しは効かないのだ。できるだけシンプルに、そして確実に奴らを誘う方法。

「……俺の家にします。お袋に言って料理を用意させ、奴らを油断させます」

「いいのか」珍しく、ベルガーは少し驚いたらしかった。「家にはお袋さんの他に、妹もいるんだろう」

「どうにかして逃がします。それに、そこまでやらないとあいつらは騙せない」

 この会話が始まって以来、ベルガーは初めて笑った。余計に彼を酷薄に見せるような笑顔だった。「いいだろう。お前の思う通りやってみろ。俺も案外、上手くいくんじゃないかと思えてきたぞ」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「……馬鹿兄貴! またあの薬中ジャンキーどもとハッパ吸ってやがんのか!」

 玄関が乱暴に開けられる音に続いて、団地全体さえ震えさせるような甲高い怒鳴り声が響き渡った。「言ったよね、あいつらをこの家に上げるなって! 今度やったら、シーツごとベランダから投げ捨てるって言わなかっ……誰、あんたたち?」

 怒声が尻切れ気味になったのは、もちろん龍一たちを見たからである。

 中学の制服姿の、ディロンそっくりの癖の強い赤毛が特徴的な少女は胡乱な目で食卓を、ついでに硬直している龍一たちの顔を眺め回した。

 何しろ龍一たちはろくに食事も摂らずロンドン市内を逃げ回った仇打ちとばかりに猛然と料理に食らいついており(ブリギッテでさえ、ラム肉入りシェパーズパイの前にやや慎みを忘れていた)、しかもブリギッテは例の血まみれでずたずたのドレス姿である。不審な目で見られても文句の言いようがない。

 少女は「説明はどうした」と言いたげな目でディロンを睨みつける。お世辞にも器量が良いとは言えない少女だったが、眼差しは兄貴より十倍は鋭い。

「あー……妹のレーナだ。レーナ、俺のダチだ。会うのは初めてだったよな。何しろこいつらは、その、だからな。からってふれ回るんじゃねえぞ」

 やんごとなき、とはよく言ったものである。余計なこと言わないでよとばかりにブリギッテが彼を睨む。

「お……お邪魔してます」龍一はおずおずと頭を下げたが、石のような沈黙が返ってきただけだった。

「レーナ、お前の好物のパイも作ったからね」ポーリーンは笑顔を浮かべながら次の料理を並べるのに忙しい。「今日はたくさん作ったんだ、ライアンの分を取り上げるんじゃないよ。ほら、着替えておいで」

 彼女は耐え難いように顔を背けた。「……いい。私、自分の部屋で食べる」

 そして制服姿のままでがちゃがちゃと音立てて食器を持ち、席を外してしまった。ディロンは膨れっ面でポテトサラダをかっ込んでいる。

「気にすんなよ。あんなブスが腹立てたって痛くも痒くもねえ」

「自分の妹さんに何てことを言うの!」

 強烈な語気に当のディロンばかりか、龍一までつい背筋を伸ばしてしまった。強烈な語気を放った本人にしてからが戸惑っている。「あ、ご、ごめんなさい……」

「お、おう……いや、俺が悪かったよ……」

 ブリギッテは肩をすぼめて消え入りそうな声で言う。「私と同じくらいの男の子たち、私を褒めるために自分の周りの女の子を辱めるようなことばっかり言うの。気持ちは嬉しいけど、そんな褒められ方されても嬉しくない。それが嫌でつい……」

 ポーリーンは心底感じ入ったように頷いている。「ディロンや、こんな綺麗で優しくて、おまけに心根の立派な娘さんを連れてくるなんて、母ちゃん鼻が高いよ。お前が悪い仲間といるんじゃないかって疑っていたのは、ありゃ母ちゃんの馬鹿な勘違いだったよ。馬鹿な母ちゃんにさぞ愛想が尽きたろうよ……」

「お、おい、お袋、何も泣くことねえだろうが! ほら拭けって、ライアンが何事かと思うだろ?」

「大丈夫ですよ、おばさま、私これからも彼の友人ですから!」

 代わる代わるにポーリーンを慰めるディロンとブリギッテをアレクセイが「僕は何を見せられているんだ」と言いたげな目で見ている。

「すいません、お手洗いお借りします」龍一が腰を浮かすとポーリーンはエプロンで涙を拭きながら「突き当たりを右だよ」と指で示した。


 トイレを出ると、意外にも外で普段着に着替えたレーナが待っていた。

「おっと……悪い。待ってたのか」あまり汚さなかったよな、龍一は自分の使った後を気にし始めたが、どうも違ったらしい。

 気まずくなるほど龍一の顔を黙って見ていた彼女は、不意に意地の悪い笑顔を浮かべた。しかも薄気味悪いほど、どこか夏姫によく似た笑い方だった。「あんたたち、本当にあの馬鹿兄貴のダチなの?」

 少しばかり動揺したのは確かである。「……へえ。どうしてそう思う?」

「あんたたち、きちんとしすぎているし、礼儀正しすぎる。あの馬鹿兄貴の『ダチ』なんてろくな奴らじゃないもの。おっぱいとクスリのことしか頭にないし、うちの母さんに敬語なんて使わないし、使う脳味噌がない」

 どうやら気の強さだけでなく、頭の良さまで兄貴の十倍増しらしい。

「あの子、ブリギッテ・キャラダインでしょう? 近いうちに女王陛下に謁見するとかいう超有名人で、しかもアテナテクニカの次期CEOと結婚が決まったばかりの本物のお姫様。うちの馬鹿兄貴なんか、百回生まれ変わったってお近づきになんかなれやしない」

 頷くしかない。「俺たちのことは黙っててくれないか。迷惑はかけない」

「わざわざチクる義務もないよ」レーナは吐き捨てんばかりに言った。「あんたたちがお尋ね者だろうが、道端に開いた地獄の穴から這い出てきた小鬼だろうが関係ない。ただ、うちの馬鹿兄貴におかしな考えを吹き込むのはやめてほしいね」

 聞き捨てならない台詞だった。「ディロンとは仕事の付き合いで確かにつるむことはある。でも、彼の本来の考えをねじ曲げたことなんて一度もないよ」

 彼女はこんな血の巡りの悪いがよく今まで生きてこられたもんだ、と言わんばかりの目つきになった。「何もわかっちゃいないね。迷惑ならもうとっくにかかってるんだよ。あいつが何か仕事ででかいヤマを当てたらしいってのはわかったけど、どうせすぐスッちまうだろうって気にも留めなかった。それが何? ギャングに顎でこきつかわれて、ちょっと口答えしただけで私をぶん殴ってくる男が、今までは悪かった、お袋には楽をさせてやれるしお前だって大学に行かせてやれる、そう言って抱き着いてきたんだよ? 私、ぞっとして突き飛ばしちゃった」

「あいつ……」龍一はもう少しで舌打ちするところだった。確かにまともでない男が急にまともになったら、周囲からは気が触れたようにしか見えないだろう。

 龍一の様子を伺っていたレーナが、今までと違う口調でぽつりと呟いた。「もう、薄々わかっているんでしょう。ライアンのこと」

 これまた頷くしかない。「弟さんは、亡くなったのか」

「ロンドンへ引っ越した直後に、たちの悪い風邪でね。タイミング悪く引っ越したばかりで、医者に見せるお金もなかったの。近所の人もあれこれしてくれたけど、どうにもならなかった。母さんは全身の水分がなくなるんじゃないかって心配になるくらい泣いたし、ディロンも懐かれていたから、余計辛かったみたい」

 食卓の一角に置かれた、誰も座らない子供用の椅子を思い出す。

「この界隈で犯罪に関わらず生きていける人なんていやしない。だから私はハッパやめろとは言っても、ギャングやめろなんて一度もあいつに言ったことない。母さんのレジ打ちだけじゃ、一家で食べてけるはずないもの。あんたたちがなのかどうでもいい。でもあの馬鹿兄貴を巻き込むのだけはやめて。あんな奴でも身内なんだよ」

「約束する。でも、彼が自分から危険に近づくのはどうにもならない」

「やっぱりね。あんたたちあいつのダチでも何でもないんでしょ。そんなお坊っちゃまみたいな丁寧な口聞く奴、あいつが連れてきたためしがない」彼女は自分の部屋に引っ込むとわざとらしく音立ててドアを閉めたが、その寸前にこう付け加えるのは忘れなかった。「関心がないんなら、せめて私たちを放っておいて」

 居間からは話し声が聞こえてくる。意外にも、アレクセイとポーリーンが話しているらしい。

 廊下に立ち尽くしながら、それにしても、と龍一は思う。俺やアレクセイが「まとも」と言われるなんて、やはりこの世は狂い始めているんじゃないだろうか。


「も、もう食べられないわ……」ブリギッテは満腹から来る幸福感のためか目も虚ろだった。緊張に次ぐ緊張を強いられた反動もあったのだろうが。

「そんなに大喜びで食べてくれると、あたしも作った甲斐があるってもんだよ」ポーリーンはにこにこしっぱなしだった。家族以外に料理を振る舞うのは本当に久しぶりなのだろう。「さ、そろそろデザートに移ろうかねえ。チーズケーキも焼きあがる頃だから」

「この上デザートがあるの!? ……失礼、あるんですか!?」ブリギッテは悲鳴を上げた。しかもなぜか、ちょっと嬉しそうだった。

「マム、できればその前にお茶を一杯いただけませんか」アレクセイが丁寧に頼む。「その方がデザートも美味しくいただけると思うので」

 ポーリーンが額に掌を打ちつける。「いけないいけない。ケーキのことばっかり考えて、お客さんへの礼儀ってもんを忘れちまった。我ながら情けないよ、学のない田舎女で」

「とんでもありません。ありがとうございます」紅茶を注ぐポーリーンに礼を言った後で、ブリギッテは真剣な顔でアレクセイに告げる。「アレクセイ、私、今日だけはカロリーを気にしないことにするわ。明日のことなんて明日考えればいいのよ」

「それがいいよ」アレクセイは大真面目に頷く。

「こちらのお客さんも、この界隈じゃお目にかかれない紳士だねえ。この国へは観光へ? 中国の方?」

「いえ……」言葉を続けようとして、アレクセイは続ける言葉を見つけられない自分に気づく。手の中のカップを満たす紅茶の表面に、やや歪んだ自分の顔が映っている。自分の「祖国」か。考えたこともなかった。

 集合知性〈ヒュプノス〉の一員である限り、国籍はおろか性別も、年齢も、一切の区別はなかった。考える必要がなかった。

 今は一人だ。

「実を言うと、僕は生まれた国がどこなのかもわからないんです」

 まあ、とポーリーンは知人の訃報を聞いたような声を出す。ブリギッテも言葉を失くした様子だ。

「僕は生まれてすぐ親と離れ、育ての親の間を転々としましたから。僕に親や兄弟がいたとしても、もう僕のことは忘れているでしょう」

 なぜそんなことまで話し始めたのか、自分でもわからない。自分でもわからないことをポーリーンが理解できなくても、責めるつもりは毛頭なかった。だが彼女は、諌めるように優しく首を振った。

「そんなことはないよ。あんたにもし親兄弟がいたら、きっと今でもあんたのことを探しているさ。あんたが生きているって信じてね。だってあんた、うちのディロンにとても優しくしてやっているじゃないか」

 それは理屈にもなっていない理屈だったのだが、なぜか反論する気になれなかった。「……そうでしょうか」

「そうだよ。ほら、ライアンもそう言っているよ。そうだそうだ、ってね。ふふ、あんたライアンに気に入られたねえ」

 空の席を見るポーリーンの眼差しは慈しみに溢れている。そう言われると、アレクセイには本当にそこに座る子供が見えるように思えてきた。それともそれは、彼自身のあり得たかも知れない幼年期の姿なのだろうか。

 アレクセイは呟く。「……そうですね。本当に可愛い子だ」

 ブリギッテは顔を背け、肩を震わせていた。


【数時間前──ペイズウォーター地区、オーウェンの自宅】

「見つけたぞ……」

 端末に映る男の顔に、オーウェンは呟く。髪を整え、正装し、こちらを真っ直ぐに見つめるその目は、しかし確かにあの日、オーウェンの妻が乗るPCに銃弾を撃ち込んだ男のものだ。

 マギー直属の部下である『ベルガー』と呼ばれる男はドイツ人で、しかも元軍人らしい──タンの証言だけでなくディロンからも裏を取ったオーウェンは、すぐにネットを通じて資料を請求した。世間一般のイメージとは異なり、捜査の大半は公表されている資料で事足りる。今回も、極秘でも何でもない一般公開の記録に彼の探す人物はいた。

 マルティン・ベルゲングリューン。ドイツ陸軍特殊部隊KSKに所属、ただし民族主義グループに重火器及び軍の機密情報を横流しした容疑で不名誉除隊、その後はヨーロッパの地下世界で殺人・誘拐・破壊工作など、ブラックオペレーション専門の傭兵として活動。現在は〈鬼婆〉マギーことマーガレット・ランズデールの右腕。

 今すぐにでも銃弾をぶち込んでやりたい、たとえそれがタブレットの画面であろうと──その思いを、オーウェンはすっかり冷めてまずくなったコーヒーとともに無理やり飲み下す。

 こいつはただの実行犯に過ぎない。こいつの背後にいる〈鬼婆〉、そして〈将軍〉を引きずり出してこそ、初めてスージーの仇は打てるのだ。

 しかし──と思わずにはいられない。ギャングの「ビジネス」にしては、彼ら彼女らの行動はいささか雑すぎ、混乱しすぎていやしないか。

 裏で結託しているにしてはアテナテクニカとマギー・ギャング、〈将軍〉と〈鬼婆〉の動きは支離滅裂もいいところだ、との指摘は既に龍一たちからされている。要するに、人を殺してまで追求したいが何なのか見えてこないのだ。世評など鼻で笑うものでしかないマギー・ギャングに対して、アテナテクニカは合法企業としての体裁を取り繕わなければならない、という違いはあるが。

 そして、ジェレミー。死の直前まで、彼が調べていたものとは何だったのか?

(やはり地下、か)

 ロンドンの地下には何かがある。それは何だ?

「タン、ニュースの方はどうだ?」

「大騒ぎになってるぜ」タンは先ほどからタブレット端末にかじりついている。映っているのは、警察車輌と報道関係の車に包囲されたアテナテクニカのレセプションホールだ。「それにしても、他に方法がないからって直接真正面から殴り込むかねえ……あいつらチンカスじゃなくて、馬鹿なんじゃねえのか? それも本物の」

「否定できないな……」

 いずれにせよ、切った張ったとなるとオーウェンには──謹慎中の身ではなおさら──どうにもできない。上手く行くことを祈るしかない。

「おっさん、食い物が来たぜ」

 インターホンのモニターを見ると、ここ数日ですっかり見慣れてしまったフードデリバリーの制服を着た青年がカメラを見上げている。

「しかし、さすがにデリバリーのメニューにも飽きが来たな」

「頼めばすぐあったかいメシを持ってきてくれるってのは、俺にゃありがてえ話だけどな。それに、おっさんの手料理は当分ごめんだよ」

 何しろ極力買い物も控えているので、どうしても選べるメニューも限られてくるのである。試しに数年ぶりかになる手料理にも挑んでみたのだが、これは惨憺たる失敗に終わった。

「そう言うなよ……」一人暮らしの長すぎたツケがこんな形で回ってくるとは予想外だった。インターホンからの呼び出しに応えようとして、

 何かが変だ、と思った。モニターの中の青年におかしな様子はない。やや緊張している、いや、しすぎているように見えるのを除いて。

「おっさん、なんかおかしいぜ」タンも何かを感じ取ったらしかった。「あの兄ちゃんの背後、誰かいるんじゃないのか?」

 青年の顔が引きつっているのにオーウェンは気づく──恐怖と極度の緊張によって。

「……タン、奥へ行け。何があっても出てくるなよ。いいか、何があってもだ」もう手遅れかも知れない、背筋を冷や汗が滴るのがわかる。

「でも」

「早く!」

 断ち切るように叫んだ瞬間、玄関で轟音が沸き起こった。

 金属片とガラスが飛び散り、デリバリーの青年が腹部を吹き飛ばされてどうと倒れ込む。容赦なくその背を踏みにじり、ショットガンを手にした覆面の大男がオーウェン邸へ無遠慮に足を踏み入れた。

 ポンプをスライドさせて薬莢を排出、装填。曲がり角をクリアリングして進む足取りに油断はなかった。が、オーウェンが壁から外した(彼自身の下手くそな)風景画を入れた額縁が、その頭部に振り下ろされる方が遥かに早かった。

 最初の一撃が額にめり込んだ。二撃目で目玉が飛び出し、三撃目で額縁自体が壊れはしたものの、頭部そのものが爆ぜた。倒れた男にオーウェンは容赦せず何度も額縁の残骸を、頭部が原型をとどめなくなるまで振り下ろした。

 自分の行いに身震いしている余裕はない。絶命した男の手からショットガンをもぎ取った時、中庭の方で掃射音が撒き起こった。

 AKらしき自動小銃による掃射だった。しかも最低でも三丁以上からの射撃だ。中庭に面した窓ガラスが跡形もなく割れ、無数の銃弾が居間のテーブルを撃ち抜き、壁際の写真立てを砕き、壁面にめり込んだ。

 タンが身を隠すソファも、オーウェンが身を隠す壁も、庭からは死角になっていたが、猛烈な射撃で迂闊に動けない。

「おっさん!」

「こいつにかけろ! どこでもいい、繋がった先を呼び出せ!」スマートフォンを放るのが精一杯だった。

 タンは震える手でどうにか電話をかけるが、すぐに泣きそうな顔でかぶりを振った。「ダメだ、繋がらねえ! 電波は悪くねえのに、通じてねえんだよ!」

 妨害電波か、オーウェンは歯噛みする。本気で俺たちを殺すつもりだ。

 中庭からは猛烈な掃射が続き、しかもじりじりとその位置が前進してきている。刺客サグどもだ。

 人を撃つのは本当に久しぶりだが──この銃なら当てられる。

 銃身を突き出し、瞬く銃火に向けて撃った。直撃でこそなかったものの、散弾が身体のどこかにめり込んだのか悲鳴が上がる。オーウェンはポンプをスライドさせ、排出ももどかしくさらに撃った。敵の防弾装備は大したものではないのか、胸の中央に散弾を受けた男が小銃を投げ出して倒れる。

 残りのサグたちも思わぬ反撃に明らかに怯んだ。逃げる背に向けてオーウェンは散弾を連射する。一人が背に食らってのけぞって倒れ、別の一人は頭の半分を吹き飛ばされて崩れ落ちる。

 来い、何人でも相手にしてやる──ショットガンを構えて前進しようとしたオーウェンは、しかしすぐその油断のつけを払う羽目になった。

 予想もしなかった凄まじい打撃を背に食らい、息が詰まる。よろめいた頭部に唸りを上げて金属バットが振り下ろされてきた。とっさに銃身で受け止めたが、衝撃に手指が痺れた。ショットガンを取り落としてしまう。

 でっぷり太った覆面姿の大男が金属バットを掌に打ち付け、自慢げに笑う。「な? 言っただろ、一人ぐらいは銃器だけじゃなくてを持ってくるべきだってな」

「偉そうにほざくなよ。肝心の得物を質に入れて飲んじまっただけだろ」別のサグが呆れたように吐き捨てる。「さっさとそのデカの頭、ココナッツみたいに割っちまえよ」

 ふざけるなと叫ぼうにも、視界が揺らいでまともに立っていられない。銃に飛びつくには距離がありすぎる。

「まあ待てって。金玉ココナッツを割ってからでも遅くはねえだろ? こいつは銃じゃ真似できない味わいって奴だぜ」にやつく大男がバットを振り上げ、

「これでも喰らえ、チンカス以下のケダモノどもがよ!」

 その顔面が猛烈な炎に包まれた。

 悲鳴を上げて大男が身をよじる。タンの手元から猛烈な炎が放たれていた。もちろん魔法ではなく、ライターと殺虫剤を組み合わせた即席の火炎放射器だ。うずくまったままのオーウェンも、周囲のサグたちも、呆然とするしかない。

「ふざけやがって、このガキ、ぶっ殺してやる!」無惨に顔面を焼かれた大男は、半ば錯乱してすすり泣いている。「俺の顔をこんなにしやがって!」

 遊びすぎだ、と別のサグが舌打ちする。「二人ともさっさと殺せ」

 一斉に銃口が上がる気配。もう駄目か、と思いながらも、オーウェンはその足に飛びつくため最後の力を振り絞る。

 次の瞬間、サグたちの頭がまとめて弾け飛んだ。

 銃声はなく、ひゅんひゅんと高速で空を切る音が響くたびにサグが頭部を撃ち抜かれて倒れていく。あのバットを持った大男は、とっくに後頭部を爆ぜさせて事切れていた。傍らではライターを手にしたタンが、何が起こったのかわからず目を白黒させている。

「……見てるとなんか、むさっ苦しい男だらけのパーティだねー。私も混ざっていい?」

 今度はオーウェンが目を白黒させる番だった。数メートルと離れていない地面に、へらへらとだらしなく笑う長身で茶色い髪の女などが立っていたら気づかないはずもないのだが。しかもその女は、数秒前まで影も形もなかったのだ。

 生き残りのサグが銃口を上げた時。

 その手首に、脇腹に、そして太腿に、朱の線が走った。まるで肉屋が塊肉を解体するような、恐るべき手際の良さだった。女の手の、ポケットナイフのような小さなナイフは、しかし人体の急所を確実に切り裂いていた。

 バランスを崩したサグのその口中に、女はナイフを突き入れ、容赦なく捻った。水の漏れるような音に脛骨の外れる音が混じり、最後のサグが死んだ。

 別の女が塀を乗り越え、音もなく中庭に降り立つ。大型のライフルを構えた浅黒い肌の女だった。巡らせる銃口にも油断はない。「遊びすぎだ。銃相手なら銃で片付ければいいものを」

「ごめんてー。でもどうしても銃は性に合わないのよねー。

 へらへらした金髪女の言葉にライフルの女は鼻を鳴らし、オーウェンの傍らに膝をついた。「大丈夫ですか、オーウェン・リッジウッド警部補」

 フルネームどころか階級名まで初対面の相手に挙げられては、うずくまってばかりもいられなかった。「君たちは……何者だ」

「詳しくは話せません。ですが私たちには、共通の知人がいるとだけ言っておきましょう」

「何だって? では君たちは……龍一の友人か?」

 目の前の女は初めて笑った。だいぶ苦い類の笑みだったが。「友人……まあ、そうですね。少なくとも私たちはそうありたいと思っています。彼の方でどうかはわかりませんが」

「私はアイリーナ。こっちはフィリパ」もう一人の女がひらりと掌を動かす。「手短に言うけど、刑事さん。私たちと一緒に来てよ」

「確かに手短だな。助けてくれたのには礼を言うよ。だが会ったばかりの君たちを信用する理由がどこにあるんだ?」

「どうしても嫌って言うなら、無理強いはできないけどさー。でも実際、この『バレンタインの虐殺』をあなたのお仲間にどう説明するつもりー? 自宅謹慎中なんでしょー?」

「そこまで心配される謂れはない」むっとはしたが、確かに痛い部分ではある。正当防衛とはいえ殺人は殺人だ。自宅謹慎中の刑事がギャングを返り討ちにして自宅を血の池風呂ブラッドバスにしたと聞いて、喜ぶ警察幹部はいないだろう。

「言いたいことはわかる。だがそれでも、私たちを信じてほしい」フィリパは真剣な口調で言う。「私たちはあなたのキャリアを救えないが、命は救える。だがそれすらも拒まれたら、本当に何も救えなくなるのだ」

「……わかった」拒否権もなさそうだな、とオーウェンは溜め息を吐き、怯え切っているタンを示す。「あの子も一緒でいいな?」

 フィリパは明らかに安堵していた。「もちろんだ。では、すぐにでも移動しよう」

「どこへ行くつもりだ?」

「まだ内緒ー。でも、この国で一番安全な場所の一つ、とは言っておくわー」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「マダムを信頼してないわけじゃないんですが……よっぽどの腕利きでも、あいつら三人を同時に相手取ったら相当手こずりますよ」

「確かにそうだ。だからもう一捻りする必要がある」ベルガーは頷き、一本の無針注射器を取り出した。「お前、隙を見てこれを打て」

「お言葉ですけど、龍一やアレクセイの隙を突くなんて俺には無理ですよ。あいつら、抜群に勘が働くんだ」

「もう一人いるだろう」

「まさか……」

 青ざめたディロンにベルガーは薄く笑う。「安心しろ。ただの筋弛緩剤だ。命に別状はないが、打たれたらまずまともに動けなくなる。それに、戦場では単に殺すよりも動けなくする方が効果的だからな。仲間が動けなくなったら、あいつらはまず見捨てないだろう」

「……」

「そしてこちらの……」もう一本、一回り小さな注射器が取り出される。「これが中和剤だ。あの二人を始末した後に、救世主面であの娘に打ってやればいい。それとも、気が引けるか? 一度は惚れた娘だから無理もないか」

「……いえ、やります」ディロンは注射器を握りしめる。「その代わり、幹部昇進の件、くれぐれもお願いしますよ」

「わかっている。俺もマダムも、約束は守るさ」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ごめんなさい、よかったら水を……あら、ディロン?」

 ブリギッテが台所に足を踏み入れるとそこにポーリーンの姿はなく、代わりにディロンがどこか所在なげな様子で佇んでいた。「お袋ならちょっとでかけたぜ。近所に届け物があるんだとよ」

「そう……」何か違和感を覚えないでもなかったが、「そうだ、水よりももっと大事な用事があったわ。私、あなたに話したいことがあったの」

「な、何だよ?」

 ブリギッテは深呼吸して、慎重に言葉を選んだ。「ディロン、改めて謝罪するわ。私の先日の振る舞いは、私が最も余裕のない時期だったとは言え、非常に慎みに欠けていた。何よりもあなたの気持ちを慮る気持ちに欠けていたわ」

 滑稽なほどディロンの目が白黒している。「い、いや、その……」

「もう許してもらえない? でも、私は謝ります。そうするべきだと思うから。たとえあなたに許してもらえなくても。もし私に愛想を尽かしていても、龍一やアレクセイとは友人になってほしいの。彼らは立派な人よ。ではないかも知れないけど」

「別に……怒っちゃいねえよ」彼はへどもどと答えた。「もう済んだことだよ」

 ブリギッテはほっと息を吐いた。「よかった。ずっと気になっていたのよ。私はあなたにあんな態度を取ったのに、あなたは何も言わず警察から匿ってくれて、その上にお母様の料理でもてなしてくれて。私、ひどく自分が惨めになったわ……」

「あんたでも惨めになることがあるのかよ」

 ブリギッテはくすりと笑う。「なるわ。それもしょっちゅうよ」

「……ああ、水だっけ? この辺の水道水は飲めたもんじゃないし、冷蔵庫のミネラルウォーターに開けてないのがあるから飲めよ。フランス人の飲んでるナンタラとかいう高そうな水はないけどな」

「ボルウィックのこと? あれはもう売られてないわよ、何年も前に元の水源が枯れてしまったんですって」

「マジかよ」

 ブリギッテは冷蔵庫を開けてしゃがみ込み、ペットボトルを掴む。「ねえディロン、私をもう怒ってないのね?」

「だからそう言ったろ」

「だったらこれからも、私たちよい友達で……」

 言いながら振り返ったブリギッテが見たのは。

 振り下ろされる注射器と、その上のディロンの、凍りついたような眼差しだった。


 そして、無針注射器が深々と彼女の首筋に埋まった。


 えらく腹にもたれる説教をされたもんだ、いくぶん憂鬱になって手洗いから戻ってきた龍一だったが、

「あれ? ディロンのおっかさんは? ブリギッテもいないのか?」

「お母さんは追加の料理があるとかで台所に。ブリギッテも水を貰いに行ったよ。それより、龍一……」アレクセイはいつになく緊迫した表情で、TVのリモコンを操作する。「これを見てくれ」

「どうした、そんなに面白い番組でも見つけたか?」だが次の瞬間、そんなことを言っている場合でないのにはすぐ気づいた。

 見覚えのある──ありすぎる邸宅が映っていた。周囲には黄色い封鎖用テープが貼られ、家の中からはボディバッグに包まれた細長い何かが運び出されている。

『本日18時30分頃、ここペイズウォーター地区のオーウェン・リッジウッドさん宅で銃声が響いたと複数の通報がありました。近所をパトロール中の警官が駆けつけたところ、邸内から武装した複数の男の死体を発見し……』

『リッジウッドさんはロンドン警視庁の刑事であり、捜査中のトラブルにより自宅謹慎中でした。なお近所からはここ数日、怪しい外国人が出入りしているのを見た、子供の声が聞こえたなどの証言もあり、警察はリッジウッドさんが重大事件に巻き込まれた可能性もあるとして……』

「やられた……」胃に数発ほどパンチを食らったところで、ここまで重苦しくなることはない。「そちらに手を出してきたかよ……」

「オーウェン刑事の……死体は見つかっていない。大丈夫だと思おう」アレクセイの言葉にも黙って頷くのが精一杯だった。その場で殺さず、連れ去った理由はわからないが──今は考えられない。

「ディロンや彼の家族がどう言おうと、これ以上の迷惑はかけられない。移動しよう」

「同感だ」しばらく匿ってくれただけで、もう充分だ。「隠れ家の手配はできるか?」

 アレクセイがスマートフォンに指を走らせる。「できる。急だから少し割高になるけれど」

「任せる。背に腹は代えられない」頭を切り替えよう、龍一は深呼吸して台所へ通じるドアを開ける。「ブリギッテ、おばさん、話があるんだが……」

 挨拶はしておくべきだろう、そう思って台所に踏み込んだ龍一は、

 そこで床に倒れているブリギッテと、注射器を手に立ち尽くすディロンを見た。

 それだけで、龍一には何が起こったのかわかった。

 わかってしまった。

「……ディロン!」

 龍一の怒声に彼は身をこわばらせたが、次の瞬間、凄まじい勢いで逃げ出した。廊下を呆れるほど早い足音が遠ざかっていく。こんな時でなければ感心するほどの速さだった。

「どうした!?」

 自分がこんなに情けない顔をさらすことはそうない。「ブリギッテが動かない……何か打たれたらしい!」

「下がって。息はしている」アレクセイは即座にしゃがみ込んだ。「筋弛緩剤だ。ただ、自分の意志では指一本動かせない」

 確かに、よく見ると眼球が微かに動いているし、胸も上下している。ただ一言も話せず、身じろぎもできないだけだ。

「ディロン……どうしてだよ……」

 腹を殴られたような鈍痛だけがある。怒ろうにも、身体がついていかない。

 アレクセイも焦燥を隠せていない。「龍一、僕らは……彼にしてやられたかも知れない。これはたぶん、二段構えの罠だ」

 まるで彼の言葉の正しさを証明するように。

 ベランダに面した窓ガラスが残らず砕け散り、屋上からファストロープ降下した重武装の警官たちがSMGを連射しながら突入してきた。


「……ディロン、ディロン、お客さんをほっぽり出してどこへ行こうってんだね? まだチーズケーキも焼けてないんだよ。ライアンだって、あたしとあんたが両方ともいなくなったら寂しがって泣いちまうじゃないか。それに……この人たちは誰なんだい?」

「馬鹿兄貴、いい加減説明してよ! わざわざ家ん中で電話まで使って呼び出しといて、今度は何を始めようってわけ!?」

 一言も言わないディロンに半ば引きずられるようにして公営団地の廊下を歩いていたポーリーンとレーナは、正面玄関のエレベーターホールを埋め尽くしている警官と突入部隊員の群れを見てぎょっとした。

 妙に据わった目つきのディロンは呟く。「安心しろよ。ま、家ん中ちっとは壊れちまうだろうけどよ、そんなもん俺が幹部になりゃもっとましな家へ引っ越せばいいだけの話だ。いや、マンションごと買っちまうってのも手だな」

「ディロン、息子や、何を言っているんだね? あたしはライアンを置いてどこにも行けないよ」

「ライアンはもう死んだろ。俺とあんたが二人して、あのちっちゃな身体を棺に入れたじゃないか」

 ポーリーンがひっと息を引きつらせ、レーナは自分の耳を疑った。ライアンについてはこの馬鹿兄貴でさえ遠慮がちだったのだ。それを自分から反故にしだすのは、何か徹底的に悪いことが起きているとしか思えなかった。

「馬鹿ディロン……馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、ここまで馬鹿とは思ってなかった」怒りのあまり、レーナは口元を引きつらせていた。「あんた、友達を売ったんだね!?」

「うるせえ!」

 見返すディロンの目は血走っていた。「俺ぁもううんざりなんだよ。何年も前に死んだ子供のおままごとに付き合うのも、それを押し付けてくる母親も、俺を責めることしか能のない妹も、ハッパと落書きで埋め尽くされた貧乏くせえこの団地も、ハッパ売りとポン引きくらいしか働き口のないこの界隈も! ああ、俺が出世したら何だってくれてやるよ。自動運転車でもいい、高級マンションでもいい、お前だって大学へ行かせてやる。だからもう俺に構うな! 俺は上へ行って、自分で自分の人生を決めるんだ。! ほっといてくれ!」

 尊敬できるところなどまるでない兄だった。不機嫌な時は妹に手を上げるなど何とも思わない兄だった。だが彼がこうも毒々しい鬱憤をぶち撒けるのは、生まれて初めてだった。

 ディロンは顔を背ける。「友達なんかじゃねえよ。あんな奴ら、友達でも何でもねえ」

「じゃ、あんた……何でそんな、泣きそうな顔してんのさ?」

「わかんねえよ」ディロンの声は迷子の子供のように弱々しかった。「俺にもわかんねえ」


 龍一も、アレクセイも、突入してきたのが警察系の特殊部隊であることを看破していた。

 無数の銃弾が二人の身体を貫く寸前。

 アレクセイはブリギッテを抱いて後方へ飛びすさり、そして龍一は一蹴りで食卓のテーブルを蹴倒していた。片付け前の食器とスプーンが宙に舞い、そして舞った瞬間に銃弾で打ち砕かれる。

 警察系特殊部隊がしばしばSMGを多用するのは、威力のありすぎる銃弾が犯人だけでなく人質にまで貫通や跳弾で傷を負わせるのを防ぐためだ。テーブルは銃弾を浴びて一瞬でずたずたの穴だらけになったが、それでも即席の防盾としては充分だった。

 最初の一撃ファーストアタックで仕留められなかったとしても、厳しい訓練を受けた隊員たちの動きは止まらない。断続的に部屋の奥へ制圧射撃を加えて牽制しつつ、一人がアンダースローで閃光音響手榴弾スタングレネードを投擲する。

 

 自分の目を疑う隊員に、果たして手榴弾に巻きついたアレクセイの〈糸〉が見えたかどうか。

 次の瞬間、突入部隊の鼻先でグレネードが炸裂した。

 ヘルメット内蔵の対閃光防御と音響キャンセラーで大部分はカットできたが、それでも強烈な閃光と大音響に動きが止まってしまう。

 そして隊員の視界を龍一の拳が覆い尽くした。

 耐弾・抗衝撃ヘルメットでも吸収しきれない打撃が隊員の頭部を襲い、ネックプロテクターで保護されているはずの隊員の首が「ばぐん」と奇妙な音を立てる。

 間を置かず、胸部と腹への連撃。包丁で殴り殺すがごとき効率の悪さだが、完全防弾装備に加えSMG装備の相手に二度と起き上がってほしくはない。

 昏倒した隊員の背後から別の隊員、散弾銃手ショットガンナーが突入してくる──近距離ではSMG以上の猛威を振るう相手だ。

 反射的に跳ぶ。直前まで龍一のいた空間を無数の散弾が切り裂き、背後の食器棚を粉々に叩き割った。

 床を蹴り壁を蹴り跳躍する。連射される散弾がその後を追い、壁に大穴を開けTVを粉砕し照明を打ち抜いた。周囲が一瞬で暗闇に包まれる。

 急降下して真上から散弾銃手のヘルメットを鷲掴みにし、

「がああ……!」

 吠えながらその身体をぶん投げ、後方の隊員たちに叩きつけた。

 同僚の身体を凶器として叩きつけられもんどり打って転倒した隊員たちの足に、蜘蛛の糸より細く鉄塊を叩きつけられても切れない〈糸〉が絡みつく。

〈糸〉をガイド代わりにアレクセイが跳んだ。〈糸〉を巻き取る速度もプラスし勢いを増した連続蹴りがバランスを崩した隊員たちを今度こそ気絶させる。

「……この勢いだと、即時射殺命令が出てるな」

「そうだね。ブリギッテだけなら助かるかも知れないけど……」

 あるいはそうすべきなのかも知れない、一瞬浮かんだ考えを打ち消す。それは無責任だ──あの場から拐っておいて、それはあまりにも無責任だ。

「ベランダからの脱出は?」

 龍一の言葉をヘリのローター音がかき消す。同時にサーチライトが室内に照射され、二人は素早く伏せる。

「無理だ。正面から突破するしかない」

 当然、警察もそれは予想しているだろう。だがやるしかない。


「市民の通報でテロリストを一網打尽にできるのは喜ばしい。が、その通報者がマギー・ギャングの使いっぱというのはどうも気に入らんな」

 団地の1階、エレベーターホールに臨時作戦本部を築いたロンドン警視庁銃器対策部隊S C O 1 9──隊長の呟きに、副隊長が苦笑ぎみに返す。「しかもなんで拐われたアテナテクニカ次期CEOの婚約者捜索に、マギーがこうも熱心に協力してくれるんですかね?」

「政治。何もかも政治ということか」

「無理もありませんよ。なんせ我らがボスからして、マギーと仲良しこよしなんですから」

「迂闊なことを言うな。士気に関わる」

「失敬。ですが最近じゃもうタブーでも何でもありませんよ」

 確かに、と隊長は頷くしかない。ギャングとの「協調関係」など、真っ当な警官なら顔をしかめて当然の代物だ。しかもここ数週間で、ロンドンでは近年なかった大規模な騒乱が立て続けに起こっている。当然、その突き上げは「我らがボス」──警視総監へと集中しつつあった。犯罪抑止の役にも立たない「協調関係」など誰がありがたがるか、という理屈だ。

 加えてオーウェン刑事への襲撃事件もある。襲撃の黒幕がマギーであるのは明白であり、しかもオーウェンがマギーに甘い上層部への不満を日々口にしていたのはほぼ周知の事実だった。どれだけ嫌われ者でも、同僚をギャングに襲われて寛大でいられる警官などいない。

「しかもろくな交渉もなし、即時射殺命令ですよ。俺たちはいつからギャング子飼いの殺し屋になったんですか?」

「人質の命より犯人の命を優先することはできないだけだ」

 そう、いかに命令に燻んだものがあったとしても、自分たちは公僕だ。様々な思いを呑み下して、隊長はファーストチームに突入を命じる。突入部隊と立て篭もる犯人の間で延々続く銃撃戦が発生するのは、映画やゲームの中だけの話だ。精鋭揃いのファーストチームなら、勝負は一瞬でつくだろう……。

「隊長……!」

 通信係の隊員が、愕然とした声を上げる。「ファーストチームが……無力化されました。全員、コンディションイエローです」

 ──その場の全員が凍りついた。死亡を意味するレッドではないから、生きてはいる。だが、戦闘どころか自力での脱出もできない状態ではある。

「重火器や仕掛け罠ブービートラップが使用されたのか?」

「反応はありません。その……」通信係は報告する自分の正気を疑うように「

 ファーストチームが舐めてかかったわけでも、人質を盾に取られたわけでもない。必殺の覚悟と技量で突入して、なおかつこの結果──これほど無惨な敗北は、銃器対策部隊の創立以来初めてだった。

「ご存じですよね? あいつら、俺やあなたが選び出した生え抜きですよ」副隊長の顔も白っぽくなっていた。「あいつらを手もなく捻るなんて、どんな化け物なんです?」

 隊長は頷き返しながら、やはりこの世は化け物屋敷なのかも知れない、と思っていた。

 だが、肩をすくめるだけが俺たちの仕事ではない。

「セカンドチーム突入! 〈スパルトイ〉を防盾として押し出せ!」


 玄関からの突破を試みた龍一たちは、案の定セカンドチームの頑強な抵抗に直面していた。ファーストチームの無惨な結果に懲りたのか、後方からの制圧弾幕をひっきりなしに浴びており、迂闊に動けない。しかも、二体の〈スパルトイ〉が後方からの射撃に援護されながらじりじりと接近してくる。

「数と火力が違いすぎる……」憔悴に満ちた呟きが龍一の喉から漏れる。傍らの柱にもたれているブリギッテはぴくりとも動かない。しかもその呼吸がだんだん浅くなってきているように思えて、龍一は気が気でない。

「筋弛緩剤は毒薬ではないけれど、専門医が使用するれっきとした劇薬だ。量によっては中和剤を打たないと命に関わるぞ」

「しかも時間制限付きかよ……!」頭を掻きむしりたくなる。本当なら、悩んでいる時間さえ惜しいのだ……。

 厳しく表情を引き締めたアレクセイが顔を上げる。「龍一、彼女を頼む」

「なんかいい方法があるのか?」正直、この状況から脱出できるアイデアがあるんなら金を払ってでも聞きたい。

「いや。たまには君の真似をしてみようかと思ってね」

「駄目だ!」声を上げてしまう。だが言葉が続かない。それが駄目なら、他にどうすればいいんだ?

「言っただろう、僕も彼女のために何かしたいんだよ。じゃ、頼んだ」

 龍一の制止を聞かず、アレクセイは跳躍する。


 どうしてここまでする必要があるのだろう、刹那にアレクセイは自問する。どうしてそこまで龍一に、ブリギッテに、絆される必要がある? もう〈ヒュプノス〉ですらなくなった今、僕は自棄になっているのか? そうかも知れない。

 いや、そうかも知れないが、それだけなのだろうか?

 短くダッシュを繰り返して銃弾を避けながら、正面の〈スパルトイ〉に〈糸〉を振るう──が、装甲表面で勢いを失い弾き返される。〈糸〉の威力を相殺する電磁装甲。〈ヒュプノス〉に対抗するための装備だ。これまで技術の更新を怠ってきたつけが祟っている。

 だが、装備の優劣だけで戦うかどうか判断できるなら、僕は今ここにいない。

 両手を振るうと、袖口に仕込んだ鉄球が掌中に転がり落ちる。左右の指先で弾いて飛ばす。指弾──彼の振るう武器の中では稀有な飛び道具だ。

 人間相手ではうっかり殺してしまうが、機械相手なら遠慮は要らない。

 立て続けにセンサーを撃ち抜かれた〈スパルトイ〉の攻撃が止む。ポケットの中のスマートフォンを操作、〈白狼〉アプリを起動。電子回路を焼き切られた〈スパルトイ〉たちが全身から火花を散らして動きを止める。

 後方の突入隊員たちには訳がわからなかっただろう──弛まぬ前進を続けていた〈スパルトイ〉の全てが機能停止したのだから。それでも攻撃を続行するのは大したものだ。

 SMGの弾痕に追いかけられながら、壁を走る。壁から壁へ跳びながら、回し蹴りを一閃。別の隊員の肩に飛び乗り、罵声を叩き潰すようにその頭部を渾身の力で蹴り上げる。空中で縦に一回転、爪先を楔のように最後尾の隊員に振り下ろし、

 凄まじい衝撃波に弾き飛ばされたのはアレクセイの方だった。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。天と地が逆転する、視界が回る、自分が倒れているのだけがわかる。起き上がれない。

 傾いた視界の向こうで最後尾の隊員が怒りの形相も露わに突進してくる。手にしているのは見慣れない形の銃器──暴徒鎮圧用の衝撃銃ショックカノンだ。

 参ったね。九十九人を倒しても最後の一人に倒されては意味がない──龍一の無謀さをそう諌めていた僕が、そんな単純な事実を見落とすなんて。

 どうにか上半身を起こそうとして、顔面を蹴り飛ばされた。口から勝手に噴き出た吐瀉物に血が混じる。何しろ突入部隊御用達の頑丈なブーツだ。仲間をいいようにされた怒りまで混じっているのはまあ無理もない。

 間髪入れず銃床が振り下ろされてくる。避けられない、頭蓋を叩き割られないためにとっさに右腕で受けるしかない。みしりと嫌な音が響く。腕そのものが爆発したような衝撃、折れはしなくても罅くらいは入ったかも知れない。

 目眩と耳鳴りが鎮まらない。何より激痛で右腕が全く動かない。これでは指弾も〈糸〉の精確なコントロールも無理だ。最後の力を振り絞って〈糸〉を飛ばす。

 衝撃銃のトリガーをもう一度引き絞ろうとする隊員の首に巻きつけ、思い切り引きながら足を払う。隊員のヘルメットに自分から頭部をぶち当てる。相手の衝撃も相当なものだったろうが、こちらもまさに目から火花が出た。もう少しで気絶するところだった。

 馬鹿だな僕は。龍一を悪い意味で見習っていやしないか?

 もつれて転がりながら、隊員の腕と首を渾身の力で締め上げる。向こうも絞め落とされまいと必死だ。振り回す手が容赦なくアレクセイの顔を殴りつける。

 ようやく相手の全身から力が抜けた。相手の首から引き剥がすように腕を離す。もう立ち直れないほど消耗していた。

「アレクセイ!」

「来るな!」かすれた声でどうにか叫ぶ。

 階段の踊り場から、〈スパルトイ〉を含む新たな突入部隊が殺到してきていた。サードチームだ。ファースト・セカンドが壊滅したからといって、彼らが大人しく引くと思うか? もちろん、そんなはずはない。

 廊下は一直線だ。身を隠せる遮蔽物など見当たらない。

 黒光りする無数の銃口が一斉に、アレクセイと龍一に向けられる。

 そして。


「……サードチーム、通信途絶しました」伝える通信役も、もはや顔色がない。

「何が起こっているんだ……」呟く隊長の顔色も似たり寄ったりだった。サードチームが全滅した今、ここにいるのは通信係を含む後方支援役の隊員たちと、息を呑んで見守る通常警官たち、そして(なぜか逃げようとしない)通報したギャングの下っ端とその家族しかいない。

 だが、訳もわからず逃げることだけはできなかった。死んでいないとはいえ、団地内には重傷の隊員たちが取り残されているのだ。

 非常階段の扉の向こうで無数の銃声が湧き起こり、すぐに止んだ。

「……全員構えろ。出てくるぞ」隊長が気力を振り絞って命じる。「ここで阻止できなければ、もう後はない……奴を市街地へ出すな!」

 ごぉん、と鐘でも鳴らすような大音響とともに、扉が大きくへこんだ。二撃、三撃。

 隊長だけでなく、通常警官までもが緊張を顔中にみなぎらせて拳銃を構える。

 一際大きな大音響。扉の蝶番が弾け飛び、全身真っ黒に焦げついた〈スパルトイ〉もろとも倒れ込む。

 ひたり、と静かな、静かすぎる裸足の足音が響いた。

「何だ、あいつは……」

 兄や母とともに震えていたレーナは、自分の見ているものが信じられなくて目を瞬いた──

 そこにいるのは、確かに食卓で母のアイリッシュシチューをがっついていたあの青年だった。皿から顔を上げて、気まずそうに挨拶したあの青年だった。レーナにやりこめられて、しゅんとしていたあの青年だった。

 地獄の穴から這い出てきた、本物の怪物だった。

「撃て!」

 目も眩む銃火と、耳をつん裂く銃声がホールに充満する。SCO19隊員たちのSMGだけでなく、通常警官の自動拳銃まで加わっての一斉射撃だ。

 非常階段の出口は狭い。立ち尽くす怪物が身を隠す余裕も、身を庇う余裕もない。

 そもそもその必要がなかった。

 銃火と銃声が不意に止む。厳しい訓練を受けているはずの隊員までもが、弾倉交換さえ忘れたように動きを止めている。

 誰もが自分の目を信じられないでいた。

 

「何だあれは」奇妙に間の抜けた声が誰かから漏れたが、咎める者もいない。

 怪物が顔を上げ、金色の目で包囲する隊員と警官たちを見やった。それで全てが終わった。

 全ての金属片が宙で丸まって弾丸を包み込み、次の瞬間、

 苦痛の悲鳴が上がった。それも一つや二つではない。

 防弾装備の上からだから貫通こそしなかったが、彼らにとって幸運なのはそれだけだった。金属バットで力任せに殴り倒されたようなものだ。一瞬にしてエレベーターホールは、のたうち回る隊員と警官たちで野戦病院のごとき惨状と化した。

 怪物は悠々と歩を進め、臨時作戦本部の通信設備へ右腕をかざした。開いた掌をぎゅっと握り締める。

 まるで丸めた紙のように、高価な通信機器が一瞬で鉄屑と化した。

「……俺は君のことを甘く見ていたよ、ディロン」隊員と警官たちによる苦鳴のコーラスの中、龍一の声が静かに響いた。「お母さんに料理を作らせて、ブリギッテに一服盛って、そこまでして俺を殺したかったのか? 俺のことがそんなに疎ましかったのか?」

 あの金色の目が、今度こそ一点に向けられる。

「興味本位で聞いているわけじゃない。答えろよ、ディロン・マクドーマンド!」

「ひっ……!」

 小娘のような悲鳴を漏らしたのは、今やレーナの背後に隠れるようにして震えている彼女の兄だった。


「人間形態を保ったままでの〈スケイル〉発現」頭の後ろで手を組んだ女は、どこか感慨深げに呟く。「『親はあっても子は育つ。親がいなけりゃ、子はもっと立派に育つ』だねえ、息子さん」


「お……お袋と妹に手を出すんじゃねえ」

「そのお袋さんと妹さんの後ろに隠れて言う言葉か?」怪物はせせら笑った──あの青年の声で。「安心しろよ。俺が興味を持つのは君だけだ、ディロン」

 怪物の指が宙をなぞり、サインのような何かを描く。

 レーナには訳がわからなかった──10メートルは離れていたはずの怪物が一瞬にしてかき消え、次の瞬間には兄の首根っこを捕まえて反対側の壁に押しつけていたのだ。魔法なのか、それとも魔法じみたテクノロジーなのか、それすら判断がつかない。

 ぐほっ、と苦しげな咳込みがレーナの耳にまで届く。だが怪物はあっさりと手を開き、兄を解放した。兄は尻餅をついてぜえぜえと咳き込んでいる。

「下がれ! こいつが見えねえのか!」兄が懐から拳銃を取り出して構えた。兄が一度、自慢げに見せびらかしていたから知っている。ギャングの間で金曜日の夜の特注品サタデーナイトスペシャルと呼ばれる密造拳銃。運が悪ければ撃った奴の腕を吹き飛ばしかねない粗悪な代物だ。

 だが怪物は何か面白い見せ物でも始まったように動じない。どころか、誘うように爪先をと出しさえした。

「下がれって言ってるだろうが!」発砲。だが怪物は避けもせず、傲然と立ったままだった。実際、銃弾は彼の顔に黒い痕を残しただけで弾かれ、あらぬ方向に消えた。

「なるほど、つくづく俺は君を甘く見ていたな」怪物の声は静かで、穏やかで、乾き切っていた。「そんなもんを俺のドタマに向けてぶっ放す度胸があるんなら、最初からそうした方がよかったんじゃないのか? ?」

 次の瞬間、兄の身体は再び高々と吊し上げられていた。

はなしだぜ、ディロン・マクドーマンド!」

「こ……こいつが見えねえのか!」喘ぎながら、ディロンがまた何かを取り出す。それを見た怪物の目が、確実に動いた。「中和剤だ! お前ら、これが欲しいんだろう! こいつを打たなきゃ、ブリギッテは」

 何かが空を切って飛び、ディロンの手から注射器をあっさりもぎ取った。

「あ……」

「僕からも聞きたいね、ディロン・マクドーマンド」左腕で〈糸〉を操って注射器を掌中に収めたアレクセイが静かに問いかける。無惨に腫れ上がったその顔は、誰もが初めて見る怒りに満ちていた。「この企てに、お母さんを巻き込む必要はあったのかい? 妹さんを巻き込む必要は? ?」

 兄の舌が恐怖のあまり凍りついたのが見て取れた。

 アレクセイは傍らに寝かせたブリギッテへ素早く注射した。「よかったよ、ディロン。君との麗しい友情もこれで終わりというわけだ。……龍一、こちらはもう心配ないよ」

「ああ」

「待っ……!」

 兄の言葉尻は耳をつん裂く破砕音にかき消された。怪物は天井に思い切りその身体を叩きつけたのだ。かろうじて生き残っていた天井の蛍光灯が粉砕されて火花を撒き散らし、兄の身体は悲鳴を上げながら床の上でバウンドした。

 やめてよ、と叫ぼうとして──できなかった。あの馬鹿兄貴の行状を庇い立てできるか? 全くできない。だったらどうする? 黙って見ていればいいのか?

「どうした! 君がマクドーマンド家唯一の家長じゃなかったのか! 男を見せるんじゃなかったのか! 自分を認めてくれない奴らを全部見返すんじゃなかったのか! 立てよ! 立てよ! 立て!」

 まるでサッカーボールのように兄の身体がホールの床を転がる。反対側の壁に投げつけられ、ぶつかる寸前で転移してきた怪物に蹴上げられ、天井近くまで放り投げられる。数分としないうちに、兄はコンクリートミキサーに放り込まれたような有り様になっていた。

「馬鹿に……しやがって……」

 怪物の足を殴りつけようとした手が、それすらできず、怪物の爪先の遥か手前でぺちゃりと落ちた。

「馬鹿にしてきたのは君の方だろう、ディロン。俺たちがいつ君に何を強要した? いつ君の家族を人質に取った?」

「そういう……おためごかしが……ずっと気に入らなかったんだよ。俺の気持ちなんかわからねえ癖に……わかろうともしねえ癖に……」

「そうか」

 怪物は拳を静かに振り上げ、


「やめておくれ、ライアン……」


 一晩で二十年ほども歳を取ったようにやつれたポーリーンが、怪物の足元にすがりついていた。

「お兄ちゃんを殺さないでおくれ……あたしが悪かったんだ。あの時に医者に診せる金もなくて、お前を死なせちまって、それでお兄ちゃんは悪い仲間と付き合うようになっちまったんだ……全部あたしが悪いんだよ、だから殺さないでおくれ……」

 怪物は困惑したように、完全に動きを止めていた。いや、本当に困惑していたのかも知れない。

「この、馬鹿兄貴……!」走り寄り、殴りつけようとして──できなかった。兄があまりにも無惨な姿だったから。胸元に掴みかかるのがやっとだった。「何もかも滅茶苦茶にしやがって……!」

 血まみれでもつれ合うような、家族の有り様を見て。

 あれだけ猛威を振るっていた怪物の両拳は、力なく下がっていた。自分のその腕を持ち上げておくのさえ耐え難いように。


 俺は一体どうしちまったんだ? いくら頭に来たからって、ブリギッテに一服盛られたからって、警察の対テロ部隊をけしかけられたからって、本当にディロンの頭をハロウィンのカボチャみたいに粉砕するつもりだったのか? ブリギッテの前で? 奴のお袋さんと妹さんの前で? そんなこともわからなくなるほど、俺はおかしくなっちまったのか?


「もう、やめて、龍一……」

 弱々しい声を聞いた瞬間、怪物の両目から金色の光が消え、元の龍一に戻った。

 アレクセイに抱き抱えられたブリギッテが、震える手を差し伸べていた。

「私が、悪いの……全部私が悪いの……ごめんなさい、ごめんなさい……」

「隠れ家は手配できたよ。行こう」アレクセイがあえて事務的に言った。「長居しすぎた」

「……ああ」

 ディロンの傍らを通り過ぎる時、彼は一瞬、怯えたように身をすくませた。マギーとの決着がどうなろうと、彼とはもう終わりだ、と思った。だからかける言葉は一つしか思いつかなかった。

「さよなら」


「何でだよ。お前らそんなに強いのに、なんでそんなに優しいんだよ……」

 本当ならもっと猛烈に罵倒してやりたかった。兄の行動には庇うべきところなど何もないのだから。でも実際に口からこぼれ出したのは、罵声とは程遠い弱々しい問いだけだった。

「……兄貴はさ、ずっと、私たちが重荷だったの?」

 兄は答えなかった。ただひたすら、子供に戻ったように泣きじゃくっていた。いや、兄もまだ自分と同じ子供だったことを、ようやくレーナは思い出したのだった。


 突入部隊からの通信途絶に痺れを切らして公営団地に踏み込んだ後続の警官たちは、エレベーターホールを埋め尽くす重傷者の群れと、泣き崩れるギャングの下っ端とその家族を見て、ひたすら困惑するしかなかった。


【数日後── ケンジントン・アンド・ウォーター地区の高層マンション建設予定地】

 茶葉の量を計り、適切な量を入れて蒸らし、カップを温める。試しに自分で飲んでみて、その出来栄えに満足する。ゴールデンルールとやらも手慣れてきたなと龍一は思う。まあ、無理もない。何せ練習する時間だけはたっぷりあった──こんな穏やかな時間の過ごし方はいつぶりだろう? たとえ、それが逃亡生活の一環だったとしても。

 キッチンではアレクセイが肩から吊った右腕を物ともせず、左腕一本で器用に卵を割っている。泡立て器を操る手際にも淀みはない。

 それでも聞かずにはいられなかった。「無理して引き受けなくていいんだぜ」

 彼はちらりと笑って応える。「片腕が使えなくったって、スクランブルエッグ作りなら君に負けやしないさ」

「言ったな?」龍一も笑い、しかしふと真顔になる。「それにしてもこのキッチン、やっぱり俺たちだけで使うにはちょっと立派すぎるな」

「確かに割高でもいいから急ぎでと注文したけれど、ここまで立派とはね……僕たちが使っていたソーホー近くのオフィスなんか、ここに比べれば掘立て小屋同然じゃないか」

「全くだ。あそこは水が使えない分、トイレよりひどかったな」

 未完成のまま放置されている、骨組みも露わな作りかけの高層マンション。関係者以外立入禁止区域の奥深くにある一室には、家具調度一式が揃っており、しかも電気ガス水道まで完備されている。まるでモデルルームのようにどこもかしこも磨き上げられ生活感がないが、ただのモデルルームが電気ガス水道完備なはずもない。おそらくここを使うのは龍一たちが最初でも、また最後でもないのだろう。

「……ほら、できたよ」アレクセイが盛り付けを終える。素人目に見ても一目で喉が鳴り出しそうな見事さだ。

「意外な才能だな……」

「何、カタログを読んで真似ただけだよ。才と呼ぶにすら値しない」

「あのなあ。この世のほとんどの人間は、カタログを読んだだけで再現なんてできないんだよ」

 アレクセイは笑い、しかしすぐに真顔になる。「行ってやってくれ」

「ああ」

 龍一はワゴンを押し、ブリギッテの部屋──便宜上の呼び名ではなく、文字通りの個室だ──に向かう。

「あ……おはよう、龍一」

 おはようという顔色じゃないな、龍一は喉まで出かけた言葉を飲み込む。彼女の目の下には隠しきれない隈が色濃くこびりついていた。大方、明け方まで一睡もせず自分を苛み続けたのだろう。唇にすら、色褪せた花びらのように艶がない。

「いい……匂いね」龍一が注ぐ紅茶の芳香を嗅いだブリギッテは、それでも少しだけ生気を取り戻したらしかった。「そのスクランブルエッグも、龍一が? とても綺麗ね……」

「いや、これはアレクセイだ。『カタログを真似しただけ』だってさ。真似でこんなことができたら世界中のコックは皆廃業しているし、俺は合衆国大統領だ」

 自分でもくだらないと思ったが、彼女は笑ってくれた。「食べていいの?」

「もちろん。俺たちはまだやることがあるから、急がなくていい」

 ブリギッテは静かに呟いた。「龍一。私、彼のこと……何一つ知らなかった」

「俺もだよ」舌に苦みを感じずにはいられなかった。「知ろうともしなかった」彼女は頷き、目を閉じた。痛みに耐えるように。

「オーウェン刑事とタンは……どうなったのかしら」

「それもわからない。殺されてはいない、と信じるしかない」

 刑事に差し向けられたマギーの刺客を、刑事あるいは別の第三者が殺し、その後で刑事とタンを連れ去った──それが現場から察せられた結果だった。

 しかしその別の第三者とやらが誰かとなると見当もつかなかった。思いつくのは〈将軍〉の手勢だが、これも可能性は薄い。〈将軍〉にしてみれば、〈ペルセウス計画〉を知っている可能性が高い者は一人でも少ない方がありがたいからだ。

「こんな話をしていちゃ、食事どころじゃないな。そろそろ俺は……」

「龍一」

 彼女は首を振った。「もう少しここにいてよ。どうせなら一緒に食べない?」

「いや、俺は……」

「そうしなよ」ノックの後、間髪入れずに二台目のワゴンを押してアレクセイが入ってきたので、龍一は目を剥いた。「彼女のケアと、君のケア。この際、同時にやらないといけないのが辛いところだね」

 慌ててブリギッテの方に目をやると、こちらはこちらではっきりと笑っていた。龍一は二人を交互に睨みつけるしかなかった。

「グルだったのかよ」

「私が参っているのよ、龍一」ブリギッテが優しく言った。「あなたに何の負担もかかってないわけないじゃない」

「さあどうぞ。君の分も用意してあると言っただろう?」済ました顔のアレクセイが充分に温かい皿を差し出す。「もちろん僕には僕の分がある。ブリギッテ、僕もここで食べていいかい?」

「もちろんよ」

「好きにしろ」龍一は憮然として部屋の椅子に腰を下ろしたが、実のところ、憮然としているのも難しかった。龍一とアレクセイを前にしたブリギッテが、埃を払われたように生気を取り戻しているのではなおさらだった。

「おいしい?」

「うまいよ。腹が立ってくるくらいにな」

 まだ拗ねている、とブリギッテが笑う。

 その笑顔を見ながら、俺がこの件にここまで肩入れしてきたのはやはり彼女のためなのかな、と龍一は思わずにいられなかった。確かに宗教画の天使も嫉妬するような美しい少女であるし、全くの下心がなかったとは言い切れなかったが──いや、それがなくとも龍一たちを信じ、また龍一たちからの信頼にかけられた以上の誠意と熱意で応えてくれた彼女の人となりがなければ、ロンドンの表と裏の支配者両方を相手に、とても命懸けで戦い続ける気にはなれなかったのではないか。

「……何を考えているの、龍一?」

「何でもない」顔が熱くなっていないかどうか心配になってきた。「恥ずかしいことだから言わない」

 言って自分の失言に気づいた。

「……恥ずかしいことを考えていたのね?」

「龍一の考える『恥ずかしいこと』か……それは是非とも聞きたいな。そう、金を支払ってでも」

「結託するなよ! 二人してにやにや笑うなよ!」

 照れ隠しに龍一はスクランブルエッグの残りをかき込み、それを見る二人のにやにや笑いはますます深くなったのだった。

「タブレットを使っていい? ネットでの情報収集だけでもしておきたいの。今まで休んでしまった分、私も少し動かないと」

「いいとも」本当はもっと休ませたいところだったが、彼女なりに何かしたいのだろう。

『……次のニュースです。セントウルスラ・レディース・カレッジに通うモリィ・スタインフィールドさん、16歳が一昨日自宅を出てから行方がわからなくなっています』

 ブリギッテの手が痙攣して開き、龍一は慌ててタブレットが床を直撃しないよう受け止めなければならなかった。

『モリィさんの父、ランドルフ・スタインフィールドさんは自動車販売店のオーナーであり、営利誘拐の目的もあるとして非公開のまま捜索が続けられてきましたが、今に至るまで一切の声明がなかったことで捜索本部は一般への情報公開に踏み切ったとのことです。心当たりのある方は、下記の電話番号及びアドレスまで……』

「やられた……」

 彼女のそんな、腹の底から悔恨を絞り出すような声を聞くのは初めてだった。「あいつら、刑事まで襲ったのよ……私の友達が狙われないはずがなかった……やられたわ。あの鬼婆……!」

 ブリギッテの両親については、龍一たちも心配していなかった。何しろ(よくも悪くも)時の人の両親である。アテナテクニカは面子に懸けてでも警護するだろう。

 だが彼女の友人を狙うのは、確かに予想外であり、しかも効果的な手だった。龍一もアレクセイもそこまでのカバーはできない。

「ブリギッテ、落ち着いて。まだマギーの仕業と決まったわけでは……」

 傍らのプリペイド携帯が鳴った。しかも非通知番号からだ。

「タイミングのいいこった……」呟きながら出る。「もしもし?」

 ベルガーの声。『俺だ。そろそろ勘づいた頃だろう。ディロンのガキを出せ』

 思わず瞬きの回数を増やしてしまった。「ディロンがどうしたって?」

『とぼけるな。警察署から釈放されたまではわかっているんだ。家族の元でなきゃ、お前たちのところだろう』

 心臓が一つ大きく脈を打つ。ディロンが帰っていないって?「勘繰るのは勝手だけど、ここにもいないぞ」

『とぼけるなと言っただろう。すぐにわかることだ』

「嘘を吐いたって始まらない。そっちこそ、あいつを殺して便所に流しておいて、俺たちに連れて来いなんてデタラメ言っても聞かないぞ」

『……どうやら本当に知らないらしいな。まあいい、なら奴を探すのはお前たちの仕事だ。死体でもいいから引きずって来い。ブリギッテのお友達は、それと交換だ』

 他の二人に目配せする。「彼女が生きている証拠を見せろ」

『言うと思った。「ダークトラフィック」という動画サイトにアクセスしろ。ゲストアカウントでいい』

 言われた名の動画サイトを検索する。すぐに見つかった──骸骨と銃とナイフでデコレーションされたいかにも趣味の悪そうなサイトだ。

「ダサいデザインだな」

『俺が作ったんじゃない』憮然とした声。『「スペシャル」ページの動画を開け』

 言われた動画を開くと、薄汚れた屋内の映像が展開する。手ぶれのひどいカメラからの粗い撮影。武装した男たちの顔は覆面で見えない。彼らが囲む車椅子には、確かに誰かが座っている。

 ブリギッテの喉から声にならない怒声が迸る。車椅子にはブリギッテと同じ制服を着た小柄な少女が縛り付けられていた。

『ハイ、ブリギッテ』モリィは意外に元気そうな声で言った。『私は無事よ。まあ、今んとこね』

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