アルビオン大火(11)虚ろな王子

【数日前──高級百貨店ハロッズ、婦人服売場】

「母さん、これ、気に入ったわ!」

「そう? でも、少し派手じゃないかしら……?」

「ですがお嬢様もお年頃ですし、このドレスでしたらフォーマルな場でも申し分ありませんよ」

 人の良さそうな太めの女性店員はそう言うが、母は今ひとつ乗り気ではないようだった。母親から見れば若い娘のドレスは皆、派手に見えるのかも知れないが。

 実際、鏡で見るとその薄緑色のドレスはブリギッテの蜂蜜色の髪によく映えた。彼女自身、姿見の中に映る己にちょっと自惚れたくらいだった。日頃彼女が着ている普段着や体操着に比べたら恐ろしく窮屈なのだが、その窮屈さがかえって手足の動きを優雅に見せてくれるのも気に入った。こんな服着てたらジュードーやレスリングはとてもできそうにないわね、とまでは口に出さなかったが。

「……そうね。あなたが気に入ったものにしましょう」少し逡巡したが母は頷いた。何だかんだで娘には甘い母親ではある。

「やった! 母さん、ありがとう!」

「お買い上げありがとうございます。とてもよくお似合いですわ。これほどお美しいお嬢様なら、社交界でも注目の的間違いなしですわよ」

 苦笑していた母の口元が強張った──娘がこれからどこに行こうとしているのかを思い出したのだ。不自然な沈黙が立ち込め、女性店員は何か失言したのかと青ざめてしまっている。

「ありがとう、母さん。大事に着るわ。これ、家に帰ったら父さんにも見せましょう」ブリギッテは慌てて取り繕い、母は黙って何度も頷いた。

 ──そうだ、私がこれから行くのは〈将軍〉のところなんだ。

 ブリギッテの生まれた〈家〉を一掃した張本人。〈ペルセウス計画〉の内実を知る者。〈鬼婆〉マギーと並ぶ、ロンドンのもう一人の支配者。

 気がつくと、姿見の中の自分は固く拳を握り締めていた。掌に爪が食い込むほどに。


 気がかりは〈将軍〉のことだけではなかった。


【前日──ブリギッテの自室】

 その晩、ブリギッテは妙に目が冴えて眠れなかった。彼女自身、何かを予感していたのかも知れない。

 だから窓際にこつん、と小石のぶつかる小さな音が響いた時はむしろ安堵した。

「……龍一?」

「すまん。俺だ」外に立っていたのは、ばつの悪そうな顔でジャンパーのポケットに手を突っ込んだディロンだった。「龍一じゃなくて悪いな。ただ……ちょっと話したかっただけなんだ。邪魔かな?」

「そんなことない……嬉しいわ」それは本心だった。考えてみれば、彼にもロンドンを遠く離れダートムアの荒野まで付き合わせておいて、ずいぶんと心ない仕打ちをした、と思う。それは彼がマギー・ギャングの一員であろうと忘れてはいけないことだ。正直、負い目はなくもなかった。

「このへん、めちゃめちゃ警備厳しいよな……しょっちゅう警備員が見回りしてるし、警報装置も完備だし、うっかり近づけねえよ」

「屋根の上までなら警備員も警備システムも来ないわ。上がってこられる?」

 これについては彼女が予想したように易々とは行かなかった。ディロンは屋根から危うく落ちそうになったし、夜のしじまに結構な轟音が響いて彼女の方が肝を冷やしたくらいだ。まあ、仕方ない。ほいほいと飛び移れるブリギッテや龍一の方がおかしいのだ。

 結局、ディロンはブリギッテの手を借りてようやく屋根によじ登ることになった。本当に肩で息をしていた。「あんたもだけどさ、あの大将たちもマジおかしいよ。人間は自分の身長より高いところにそうそう上がれないんだぜ」

 つい苦笑いしてしまう。「まあ、あの人たちを基準に考えてもね……」

 屋根の滑り落ちそうにない突起に腰を下ろし、ディロンはやや表情を改めた。「みんな、心配してるぜ。あの刑事や地下道住まいのガキも含めてな」

 うつむかずにはいられなかった。「ごめんなさい。悪いとは思っている、思っていたわ……あなたも含めて。でも、合わせる顔がないの」

 事実だった。事は龍一たちだけではなく、ブリギッテ自身の出生に関わる問題になりつつある。龍一やアレクセイに恨みや憎しみがあるわけではない──そもそも彼らを恨んでどうにかなる話でもない。ただ、苦しいのだ。彼らに対してどう接するかどころか、自分の心さえどう折り合いをつければいいのかわからないのだ。

 今の自分が、どうしてあの人たちの傍らにいられるのだろう?

 ディロンは頷く。「責めちゃいねえよ。それに……俺が言うのも何だけどよ、あいつらから距離を取るのは悪いことばっかじゃねえとも思うんだ」

 ブリギッテは目を瞬いた。てっきり彼は、龍一の遣いで彼女に会いに来たと思い込んでいたのだ。「どうしてそんなことを言うの?」

 ディロンの眼差しは真剣だった。「見たろ、あの地下聖堂であれもこれも。国家のナンタラ機関がマジで関わってるんだぞ。ギャングや警官よりよっぽどおっかねえ連中が蠢いてるんだぞ。このままだと、本当に殺されっちまうぞ。それも死体も残らないようなやり方でよ」

 彼の言うことは、ブリギッテが今まで目を背けていたものを鋭く突いていた(そもそも、龍一たちのような犯罪者からどうにか遠ざかろうとしていたのは彼女自身ではないか)。しかし、だからこそ、軽々しく同意はできなかった。

「マギーにそう言うよう頼まれたの?」

「……ちげえよ。お前が好きなんだよ」ディロンはぽつりと言った。「危ない目に遭ってほしくないんだ。あいつらと付き合ってたら、命が幾つあっても足りゃしねえ」

 おかしなことに、その言葉は彼女の心をまるで動かさなかった──彼女自身が狼狽えるほどに。ディロンは最初の印象より、ずっと優しい男であったことはもうわかっていた。だがその優しさは、今の彼女には必要ないものだった。「ありがとう。でも、今の私にそれを言うのは公平フェアじゃないわ」

 彼の顔が歪んだ。「公平って何だ? 生まれた時から銀の匙咥えたお嬢様が、築後何十年のボロい公営団地に住む俺に公平さを説くのか? 大金持ちの両親が揃っていて大した努力をしなくても就職も結婚も思いのままのあんたが、親父にあの世へ逃げられて、お袋と妹を抱えて、ギャングの下っ端やるしかない俺に公平さを説くのか?」

「大きな声を出さないで」彼を苛んでいるのは彼自身の劣等感とコンプレックスなのだが、それを指摘したところで怒り狂うだけで何の解決にもならないだろう。「あなたの言うこと、わからなくはないのよ。だって私は……私は……」

 言葉を詰まらせるブリギッテに、ディロンもまた目を泳がせた。「悪い。そんなつもりじゃ……」

 ブリギッテが自分の気持ちを持て余しているように、ディロンもまた混乱していたのだ。そんな二人が言葉を交わしたところでどうなるわけでもない──彼女自身がそうわかっていても、どうしようもない。

 ディロンは顔を上げる。歯を食い縛っていた。「なあ、ブリギッテ。俺のこと嫌いか?」

「ディロン……」彼女も、今の問いは茶化して済む類のものではないことはわかっていた。「ええ。今のあなたはね」

「そうかよ」彼は顔を背け、小さく吐き捨てた。そして振り向きもせず、屋根から飛び降りて闇に消えた。屋根によじのぼるよりよほど鮮やかな動作だった。

(これで、よかったはずよね……ごめんね)そう自分に言い聞かせても、気は晴れなかった。生まれて初めて、自分が世界で一番下らない人間になった気分だった。


 自室に戻っても、ブリギッテは寝つけなかった。薄情なことに、何とも薄情なことに、この期に及んで浮かんでくる顔はディロンではなく、龍一ただひとりのものだった。自分が惨めで、惨めな自分がますます惨めだった。全部あなたのせいじゃない、寝返りを打ちながら彼女は何度も呟き続けた。私がこんな気分になるのもあなたのせいじゃない。何もかも、あなたのせいじゃない。


 結局、明け方まで彼女は一睡もできなかった。


【当日──テムズ川南岸を臨むアテナテクニカレセプションホール、正面玄関】

『お客様、目的地に到着致しました。──お客様?』

「あ? ……ご、ごめんなさい!」

 跳ねるように飛び起きたブリギッテは、反射的にロボタクに謝ってしまった。しかも口の端からちょっと涎まで垂れていた。同乗者がいなくて本当によかった。

 サニタリーで髪型や身だしなみをチェックした後、あまり趣味がいいとは言えないねじくれた彫像(地元芸術家クラブからの寄付らしい)が立ち並ぶ受付で手続きを済ませる。

「うわ……」

 軍・治安関係者やその配偶者が主な客層だからか、どちらかと言えばシックな服装の人々ばかりではある。明らかに服装が若々しすぎるのは報道関係者だろうか。肩が剥き出しの服装などしてこようものなら浮いてしまう。自分の服装がそれほど悪目立ちしていないことに少し安堵する。

 父や母にくっついてパーティに出席したことはあったが(もちろん、ブリギッテの目当ては常に出てくるご馳走だった)こうもフォーマルな場に出席するのは初めてで、良くも悪くも別世界ではある。まだ日が高い時間帯であるため露出度は控えめだが、それでも自分より遥かに華やかなドレス姿の女性ばかりで、出発前に培った自信がちょっとだけ萎んだ。

「失礼。ブリギッテ・キャラダイン様ですね?」

 声の方を見ると、端正な顔立ちの青年が微笑んでいた。肌は浅黒く、龍一に負けず劣らず背が高く、胸板も分厚い。が、ブリギッテに向けられる眼差しは優しい。

「ギルバートと申します。本日はお越しいただきありがとうございました。弊CEO、エイブラム・アッシュフォードに代わりお礼を申し上げます」

 名前に聞き覚えがある。龍一が〈将軍〉に面会した時、乗っていた車の運転手ではなかったか。

「あなたが招待状をくれたのですね。ええと、ミスター・アッシュフォードの……秘書の方?」

「秘書……まあ、そのようなものです」青年は微苦笑した。挙措からして育ちの良さそうな青年ではある。「ご案内いたしましょうか?」

「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとう」

「どういたしまして」青年はにこやかに一礼する彼女を見送った。背を向けても青年の眼差しが注がれているのを彼女は感じ取る。初対面にしては好意的な、好意的すぎるその視線はやや気になった。

 どこかで会った人なのかしら、とブリギッテは内心で首を傾げる。いきなり下着の色を聞いてきたり、親切とストーキングの区別もつかない痴れ者ども(悲しいかな、その手の男に出くわした経験はこれまでの人生で皆無ではない)に比べたら、青年の態度はずっと慎み深いものではあったが。これほど印象深い人物なら、覚えていないはずがないのに。

 人だかりはしていても、〈将軍〉エイブラム・アッシュフォードの姿は遠目からでもすぐ見分けがついた──どころか、見違える方が難しかった。彼のオーダーメイドを手がけたスーツ職人は、さぞ涙ぐましいほどの努力を払ったに違いない。

「おお、これは」エイブラムの方でもすぐブリギッテに気づいた。軽く手を上げただけで、周囲の人間が顔面をはたかれたように瞬きした。何しろ、彼女が中に三人分は入りそうな巨体なのだ。龍一やアレクセイは身長こそ高かったが、ここまでの分厚さはない。

 礼を失しない程度の早足でブリギッテは彼に近づく。「お招きいただきありがとうございます。ミスター・アッシュフォード」

「こちらこそ、招待を受けていただいてありがとう。半分ばかり来てはもらえないものと思っていた」想像よりはずっと穏やかな声だった。

「〈将軍〉と呼ばれた方の招待なら、受けないわけにもいきませんわ」

「嬉しいことを言ってくれる」彼はまんざらでもなさそうに巨体を揺すった。「しかしだ。そのいささか面映ゆい呼び名に安穏としているわけにもいかんのだ。アテナテクニカの栄華も、そして私も、永遠のものではないのだからな。ほら、そういう詩があっただろう。キップリングの、ああ、何といったか……〝砂丘やまや岬のかがり火消ゆる〟……駄目だな、思い出せん」

「〝砂丘や岬のかがり火消ゆる 見よ、昨日までのすべての栄華は ニネヴェやツロと同じなり〟ですね」

「そう、それだ。さすが現役の学生には敵わないな」

 これはこちらに花を持たせてくれたのでしょうね、ブリギッテはすぐに感づく。彼ほどの男がキップリングを誦じられないはずがないのだ。

「とにかく本日の発表はそのような、我が社のみに留まらずロンドンの未来絵図をも決定するものとなる。コンプライアンス上、君にのみフライング発表はできんが、まあ楽しみにしていてくれたまえ」

「素晴らしいですわ」この程度の社交辞令に大したテクニックは必要ない。面白みのない美人画を褒める要領だ。「でも、こんなに軍や企業の偉い人が大勢いるパーティで、私、何をすればいいのか……」

「そんなことはない」彼の灰色がかった瞳がブリギッテを正面から見据えた。「むしろ君の方が、理解は容易かも知れんな」

「それはどういう……?」

「すぐにわかる。ああ、君とのお喋りは楽しいが、そろそろ行かねばならん。私の晴れの舞台を見てくれると嬉しい」

 言うとエイブラムは軽く一礼し、立ち去った。ボディガードと取り巻きを引き連れたその後ろ姿は、まるで大海を悠々と泳ぐ鯨のごとき迫力だった。

 ブリギッテはハンドバッグからハンカチを取り出し、額を拭った。無意識のうちに汗をかいていた。まったく、新聞やウェブの広告で見るのと、実際に対面するのとでは大違いね。


 親愛なる市民の皆さん、そう壇上の〈将軍〉は始めた。『本日、ここにお集まりいただいた方々は我らがロンドンの現状を憂える者がほとんどであると思う。私としては同時に、我が社の商品の熱心なユーザーであってほしいが、まあ、そこまでは望まない』

 笑い声にエイブラムは片手を上げて応じる。

『しかしながら、大英帝国の首都を取り巻く現状が決して喜ばしいものでないことは、皆さん、同意していただけるだろう。確かに、善良で職務熱心な警官が殺される痛ましい事件ケースは昨日今日始まったわけではない。だが今では撃たれるのが当たり前で、しかも当たったのが銃弾一発で済めば幸運ラッキーとしか言わざるを得ないご時世だ。新しいドラッグ、後から後から生まれてくるギャング、警官隊を一掃できるほどの火力が売り買いされる闇市場、そしてそれらの技術を惜しみなく駆使する職業犯罪者たちの脅威』

 言葉が聴衆に染み込むのを確かめ、彼は続ける。『本職の警官、あるいは軍事警備請負業ミリセクオペレーターなら大口径の銃を四丁は持ち歩き──うち半分はフルオート射撃が可能なタイプだ──クラスⅢ以上の防弾アーマーを装着していることだろう。だがそれだけの武装をしていても火力で圧倒され、あるいは不利な状況に追い込まれることなど珍しくもない。なぜならギャングたちの火力は、税金と服務規定に縛られた警官のそれを完全に圧倒してしまっているからだ。警察車輌を中の人員ごと両断する極細ワイヤー。大口径ライフル弾すら〝溶かして〟無力化する溶化学防護装甲ケミカルアーマー。性別年齢を問わず、打たれた者をに変えてしまう戦闘興奮剤コンバットドラッグ。そう、これらは全てかの悪名高き暗殺者集団〈ヒュプノス〉から流出した技術の悪用だ』

 ブリギッテは動揺を押し殺すのに苦労した──アレクセイのことだ。

 聴衆は押し黙っていたが、中には熱意を込めて強く頷いている者も少なくない。考えればここにいるのは、軍・治安機関の関係者ばかりなのだ。

 だが、ブリギッテは素直に頷けなかった。龍一、アレクセイ、ディロン。身贔屓と言われればそれまでだが──彼らは「脅威」なのだろうか?

 そう、それに──壇上の〈将軍〉を見やる。それと敵対する者が、ロンドンの支配者にふさわしいかどうかは、また別の話だ。

『我が社は総力を上げて、人的被害を少しでも軽減するための製品をロールアウトし、治安機関を積極的にサポートしてきた。だがそれでも、限度はある。現状でのただの装備供給など、言わば脳腫瘍に頭痛薬を与えるようなものでしかない。我が社は公共事業として、ロンドンを蝕む病巣の根本的な治療を開始する。そのプロジェクトをようやく皆さんに紹介できる準備が整った。これを見ていただきたい』

 背後のモニターに映し出されたのは、奇形の蟹か蜘蛛を思わせる異形の戦闘機械メックだった。小型のバスほどもある機体の背からは、角のように大口径の機関砲が突出している。

『多脚砲台〈アラクネ〉。ロケット弾を含むあらゆる歩兵用手持ち火器に対する耐久性を持つ。また、徘徊自爆用ドローン〈ハーピー〉の母機・中継機ともなる』

 また映像が切り替わる。大型の戦闘ヘリだが、鋭角的なシルエットはヘリよりもむしろジェット戦闘機に近い。鋭い機首と胴体下部の機関砲、そして機体後方に突き出た一対のジェットエンジンが、猛禽の印象をさらに強める。コクピットに該当する部分までが重装甲で覆われており、完全無人運転のようだ。

『戦闘ヘリ〈ステュムパロス〉。狙撃用レールガンのプラットフォームでもあり、主力戦車以外の戦闘車輌を一撃で破壊できる』

 また映像が切り替わる。つるりと滑らかなボディの数台のバイクが荒れた路面を疾走している。ただしライダーの姿はなく、ハンドルのみが小刻みに動いている。まるで幽霊バイクだ。

『対高速移動目標用自律バイク〈エンプーサ〉。ギャングたちの違法改造車や違法バイクに対応する。以上、これらの兵器群を私どもは市に提供する。市での運営をモデルケースとし、最終的な目標は英国自体を蝕む病巣の一掃──いや、海外への展開でもある。これらの計画を我が社は〈ロンドン・エリジウム〉と呼称、近日中の実働を目標としている』

 一問一答。

「これだけの戦闘兵器を投入するのがロンドンの秩序を取り戻すことなのか? 単なる殺戮になりはしないか?」

『殺戮を目的で投入するわけではない。あくまで防衛のため、市警察でなく市自体に貸与する特殊機材、とお考えいただきたい。たとえば〈テムズ煉獄〉にこれら兵器群を投入するといったことはしない。いかに荒んだ地域であろうと、そこにはそこに住む人々の生活があるからだ』

「一つの国家予算にも匹敵するプロジェクトです。それと同等の金額を犯罪抑止や社会福祉に投入した方がいいのでは?」

『まずは犯罪に脅かされる人々を救うことが急務である。通りどころか、自宅に篭っていても100%の安全を保障できない現状を放置するのが社会福祉か?』

「一企業がこれほどの戦闘兵器を保有するのは軍事警備請負業ミリセクですらそうはない。一企業の思惑で動かすにはあまりにも危険な装備では?」

『既に政府からの承認は得ている。傘下のミリセクにより複数の紛争地域での実戦テストも完了した。軍・警察への装備供給とはまるで異なったレイヤーの大規模プロジェクトであり、妨害も予想されたため秘密裏に進める必要があった。結果的に市民の皆さんに不信感を抱かせてしまった点については、社を代表して謝罪させていただく』

 いささか燻んではいたが、周囲の反応はおおむね好意的だった。ロンドンの全市民にとっての懸念である〈テムズ煉獄〉では使用しない、との言質が取れたこともあるのだろう。

 だがブリギッテの不安は去らない。エイブラムの答えは、ではこれだけの火力を一体誰に向けるのか、という疑問に今のところ答えてはいない。

『……最後に、もう一つ皆さんにお伝えしたいことがある。これはやや私的な領域のため、最後に回したのだが』

 会場、特に報道関係者が色めき立つのがわかった。これだけのビッグニュースにサプライズが追加されるのだから無理もない。

『私、エイブラム・アッシュフォードは健康上の理由からアテナテクニカ社CEOの座を退き、養子であるギルバート・アッシュフォードにその全権を譲り渡す』

 誰もが息を呑んだ。さすがにブリギッテも自分の耳を疑わずにはいられない。

『なお養子ギルバートのCEO就任と同時に、近々女王陛下への謁見が決定づけられているキャラダイン家のご息女、ブリギッテ・キャラダイン嬢との結婚式を執り行うものとする』

 さっきのがボディブローなら、今のはアッパーカットだった。今度こそ、言葉にならないどよめきがホール中に充満する。

 やられた、と思った。何とも言えない敗北感が腹の底から滲み出してくる──あの青年に、そして誰より〈将軍〉に、自分はまんまとしてやられたのだ。

 龍一やアレクセイ、ディロンやオーウェン刑事やタンの手を振り切った先が、これだ。今殴りつけたい顔があるとしたら、それは彼女自身の顔だった。

 このニュースがロンドンどころか英国中に流れているのだ。ブリギッテ個人の意志など、もはや関係ない。世間はよりセンセーショナルな話の方に飛びつくからだ。考えればこれほど確実な手もない──ギャングの殺し屋や軍隊に頼るまでもなく、ブリギッテの動きを安全かつ完全に、完璧に拘束できるのだから。やられた。あのに、完全にしてやられた!

 着飾った男女が立ち尽くすブリギッテに笑いながら挨拶し通り過ぎていく。冷やかし混じりではあったが、ほとんどが目一杯の好意的な眼差しだった。それが余計にいたたまれない。

 ハンドバッグの中のスマートフォンが震えっぱなしだ。ちらりと見ると、既に恐ろしいほどの数のメールが着信していた。全部ケイトやアンナたちからのメールだろう。正直見るのが怖い。

 ギルバートが焦燥を露わに人波を掻き分けて駆け寄ってくる。意識するまでもなく猛然と怒りが湧き上がってきたし、実際、怒らねばならない局面だった。あらあら、嬉しいわ。自分から八つ裂きにされに来るなんて殊勝な心がけじゃない。

「釈明させてください。僕もたった今聞かされたばかりなんです」

「釈明? あなたではなくてあなたのお義父様が直接なさるべきでしょう! あの人はどこにいるの! 会わせて!」

 壇上からエイブラムの姿はとっくに消え失せていた。あの図体で大した逃げ足の早さだ。ギルバートを睨みつけたブリギッテの目は、だいぶ血走っていたに違いない。

「CEOはこの後、ロンドン市長との会談予定です。既に屋上のヘリで……」

「なら呼び戻して!」

「恐縮ですが、CEOはアポイントメントのない方には」

「何がアポよ! 私には会う権利があるはずよ!」

 今、自分の手に弓矢がなくて本当によかったと思う。彼も含めて、周囲の「最高!」と親指を立てているギャラリーの眉間をまとめて射抜きかねない。

「あなたのこと、誤解していたみたいね」これ以上大きな声をあげたら、本物のマグマとなって口から噴き出しそうだった。いや、今この瞬間に自分の足元で火山が噴火して何もかもが消し飛べばいいと思った。ギルバートも、エイブラムも、ついでに自分も、どいつもこいつも真っ黒焦げの消し炭になればいい。「もっと純朴で、人のいいお坊っちゃんだと思っていたわ」

「義父は昔から、話を急ぎすぎる傾向があって……」

「ええ、そうでしょうね。あなたもお義父様も、たぶん略奪婚のお盛んな時代からやってきたんでしょうから。少しぐらい話を急がないと、時代に置いてきぼりにされてしまいますものね。何を考えているの? ミドルティーンの私に同意なく婚約を取り付ける? ロンドンの支配者はそんな無法までできるの?」 

 傍らを通り過ぎる人々の眼差しが痛い。このギルバートとの遣り取りもただの痴話喧嘩として楽しまれているのかと思うと、彼女の憤怒は鎮まるどころかいや増すばかりである。

 忽然と、馬鹿げた考えがブリギッテの中に浮かび上がった。本当に馬鹿げた考えが。だが考えてもみなさい──龍一たちに出くわして以来、馬鹿げていない出来事なんて起こったためしがあった?

「……アッシュフォード・ジュニア。いえ、ギルバート。私と踊っていただけませんか?」ブリギッテは顔を上げてにこりと笑い、言った。これからお前の喉を掻っ切る、と告げるのと同じ口調で。

 ギルバートが目を瞬く。「失礼。今、何と?」

「私と踊って。

 何なら決闘を申し込んでやりたいところだ。

 ギルバートの逡巡はわずかだった。「喜んで」

 ブリギッテはカレッジで社交ダンスを並んでいたし、ギルバートも全く心得がないこともないのだろう。それ以前に音楽などいらないことは、初めから互いに承知していた。

 ステップを思い出すのに数秒とかからなかった。咎める者はいなかった。既にサプライズ発表の直後で誰もが羽目を外す機会を伺っていたくらいであり──それどころか誰かがスマートフォンで甘い舞踊曲を流し始める始末だった。顔が赤らむのを感じたが、今さらやめられない。

 ブリギッテがギルバートを見た。彼もまた彼女を見返した。

 慣れないドレスで裾を踏みやしないか、と冷やりとしたのは杞憂だった。ギルバートのリードは巧みであり、何より彼女の両足は正確にリズムを捉えていた。少し、本当に少しだが、自分への信頼が蘇った。私が何者であろうとも、積み上げてきたものは無駄ではないのだ。

 踊りながら、壁際から壁際へと行き交いながら、この服の下の筋肉の躍動をどこかで見て感じた、という確信はさらに強まった。

 音楽が高鳴る最高のタイミングで二人は一回転し、同時に一歩引いた。引くと同時にブリギッテはギルバートの右腕に回した手を腕に沿って滑らせた。

 一瞬、確実にギルバートの顔から全ての表情が消えた。ブリギッテの指は服の上から、彼の関節部を正確になぞっていた。

 相良龍一にへし折られたはずの関節部を。

 周囲の拍手喝采に笑顔で手を振りながら、彼女は彼にしか聞こえない声で囁いた。「本日はあの鉄仮面は?」

 今度こそ彼は凍りついた。踵を返してブリギッテは歩き出す。

 背後からギルバートが早足でついてくる気配があったが、彼女は振り向きもしなかった。「待ってください。これには混み入った事情があるのです」

「どんな事情?」親指を立ててくる年配のカップルに手を振り返しながら、ブリギッテは笑顔を崩さず応じる。記者の愚にもつかない質問に笑顔で答えながら腹の底で「うせろファックオフ」と返すテクニックは昨日今日で身につけたものではない。「どんな魔法を使ったのかは知らないし知りたくもないけど、傷はもういいの? あれだけされたら大抵の人は半年くらい病院から出てこられないはずだけど。それとも、龍一の次は私にへし折られたくなった?」

 ドレスの裾を蹴上げんばかりにして歩くブリギッテの前を阻む者はいなかった。が、ギルバートもそれに負けず追いすがってくる。

「私に近づいてきたのはパパに言われたから? それともかつて同じ施設のモルモット同士、仲良くできるとでも思ったの?」

「僕はただ……」言葉を探す気配。

「ウェブの記事であなたへのインタビューを読んだわ。ずいぶん多彩な趣味をお持ちなのね。クレー射撃、レスリング、そして。あなたが敵なら、どうしてあの時ベルガーの犬を殺して私たちを助けたの? あなたが味方なら、どうしてこんな仕打ちを黙って見過ごすの?」

 彼女は力任せに拳を手摺に叩きつけ、あらん限りの悪口雑言を喚き散らしたくなるのをどうにか鎮めた。「私はね。あなたが人殺しの怪物でも、身分をやつした大金持ちのお坊っちゃんでも、どっちだってよかったのよ。親切ごかしで近づいてきて、いざ都合が悪くなったらお義父様を盾にするその態度が許せないのよ。出自が同じというだけで、わかったような顔を……」

 機関銃のようにそう吐き出しながら、まるで自己紹介ね、と思った。自分が自分の何を許せなかったのか、その輪郭をようやく捉えたような気がした。

 私は誰かに言ってほしかったんだ──過去に何があろうと、あなたはあなたです、と。

 いや、龍一たちなら頼むまでもなくそう言ってくれたはずだ。でも自分は、聞く前に立ち去ってしまった。

 改めて、自分の卑小さが身に染みた。

 テラスの手摺に手をついたまま黙ってしまったブリギッテの横顔を、ギルバートがおずおずと見た。「……わかりました。今度こそ正直に話します」

「そうして」顔を見返しもせずに答えた。怒りは全く消えていなかったが、それを目の前の青年にぶつけるのは筋違いだと思えるだけの冷静さは取り戻していた。そう、まず血祭りに上げるのは彼ではなく、あのからだ。

「もうおわかりでしょうが、僕もあの施設の被験体でした。僕と同年代の子供は、皆死にました」

「〈ペルセウス計画〉ね」

 彼は頷く。「彼が何を思って僕を引き取ったのかはわかりません。憐れみなのか、まだ利用価値があると思ったのか……いっそ一思いに処分した方が、発覚のリスクを考えればまだ危険がないのに。でも彼は僕を養子にしましたし、このアテナテクニカの後継者にするとも言いました。僕は彼に、何一つ与えた覚えはないのに」

「よかったじゃない。黙っていれば、何もかもがあなたのものになるのよ。何も言わないわ」いつか誰かがその罪を暴くにしても。

「でもそれは、僕が手に入れたものじゃない」

 情感の抜け落ちたぽつりとした呟きは、かえって彼の気持ちを顕していた。不思議とそれが彼女の中で何らかの反響を引き起こした。自分を信じることができなかったら、それはどれだけ苦しいのだろう。自分で手に入れたものを誰かと分かち合えなかったら、それはどれだけ悲しいのだろう。

 階下で談笑しながら行き交う人々を見やりながら思う。この目に映るもの全てが何一つ自分に関わりないとしか思えなかったら、それはどれだけ寂しいのだろう。

 この孤独感は彼のものなんだろうか。それとも私の?

「寂しい人なんです。愛情はあるのに、与える、という形でしかそれを示せない」

「私のことも含めて?」

「あなたのことも含めて。自分がそうされてこなかったから、自分もそうするしかなかったのかも知れませんが……今だって、僕が本当はアテナテクニカを継ぎたくない、結婚だってしたくないなんて言ったら、どれだけ狼狽えるかわかりません。泣き出すかも知れない」

「あの〈将軍〉が? 本当に?」ブリギッテはもう少しで噴き出すところだった。内容が内容だけに我慢はしたが。

「十年以上を彼の養子として過ごして、僕は驚き通しでした。彼の心を揺るがすものが何も、本当に何も存在しないことに──あれだけ多くの人と物に囲まれながら、そのどれもが彼の目に映っていないことに。何よりも、僕でさえその例外ではないのではないか……確かめるのが怖かった」

 。本当にそんなことがあるのだろうか。

「だから僕は言われたことを何でもやった。本当にです。レスリングだって、乗馬だって、クレー射撃だって、結局最後まで好きになれなかったけど、投げ出したくもなかった。彼を失望させる方が怖かった。僕の気持ちはこの際二の次だった。構わなかった。それで彼が僕を見てくれるのなら……認めてくれるのなら」

「あなたはあなた、お父様はお父様でしょう。育ててくれた恩義があるからといって、這いつくばる必要はないのではなくて?」

「……かも知れません。いえ、僕もそう思います」青年はブリギッテに向き直る。何かの決意を眼差しに込めて。

「ミス・キャラダイン……いや、ブリギッテ。?」

「何ですって?」他に何を想像していたにせよ、その一言は完全に予想外だった。さすがに聞き捨てできる内容ではない。

「今のアテナテクニカは、義父一人が失われれば全てが失われる砂上の楼閣です。それが数多くの名もなき犠牲者の命の上に成り立つものならなおさら。人の記録や記憶を抹消したところで、罪は消えない」

 何かを言おうとして、言葉が喉につかえる。彼の言っていることは間違っていない──何一つ間違っていない。

「僕は義父の犯罪を暴きます。どれほどの犠牲を払おうと。あなたにはそれを手伝ってほしい。かつてあの施設で喪われた命のためにも」

 真摯な眼差しだった。それだけに、ブリギッテは言葉を失くしたまま目を泳がせるしかない。

 そうするべきなのだろうか? 合法的に〈将軍〉を罪に問う手段がなければ、どうするのだ? 放っておけばいいのか? 自分はそれを探すためにこそ、ここに来たのではないのか……?

 不意に、獣の鳴き声が響いた。周囲の人々が何事かと振り向く。

 いや、これは獣の鳴き声などではない。成人男性の悲鳴だ──それも一つや二つではない。

 会場全体に、いつしかブリギッテ自身が嗅ぎ慣れてしまった暴力の気配が漂っている──階下を見下ろした彼女は息を呑んだ。

 あの入り口付近に展示されていた(あまり趣味の良くない)彫刻の群れが動き出していた。白黒二色に右半身と左半身を塗り分けた、目鼻も口もない無貌の人体彫刻。雲丹のように全身から色とりどりの棘を突き出した、髑髏の塊。両手のあるところに足が、足の代わりに手で歩く人体らしきもの。当然、どれも人が入れる大きさや形のものは一体もない。

「〈彫像トルソ〉だ……!」ギルバートの声は驚愕にかすれていた。「元暗殺者の脳髄のみを移植された暗殺用サイボーグです。なぜ、こんなところに……!」

 だが、ブリギッテも内心では混乱の極みに陥っていた。これは間違いなく〈鬼婆〉マギーの攻撃だ。だがどうして? 〈将軍〉と〈鬼婆〉は仲間じゃなかったの? 確かに仲良しこよしという雰囲気ではなかったが、だからといって、こうも直裁的な攻撃を……?

 異様な姿に悲鳴こそ上がっていたが、中には笑い声も混じっていた。何しろどれも人間離れした形状なので、何か愉快な出し物が始まったと思ったのも無理はないだろう──だがそれも掌から鋭い刃を突出させた〈彫像〉がぎくしゃくした動きで人の群れに近づいていき、そして一振りで周囲の人体を切り株のように切断するまでの話だった。

「下がって、下がってください!」

 駆けつけた警備員たちが電撃銃を向けるが、悲鳴を上げて逃げ出す人の群れに押されて銃の保持もままならない。どころか、逃げる男性の胸元から刃が突出し、警備員の胸板を串刺しにして背後まで抜けた。

「動くな! 声を出すな! こいつらに視覚はない、音に反応する!」

 ギルバートが体躯にふさわしい朗々とした声を張り上げる。だがその正しさを彼自身が証明することになった──軽くステップを踏んだだけで、〈彫像〉の一体が2階のテラス付近まで跳躍してきたのだ。ぎらつく刃が彼の喉元に迫る。

「危ない……!」

 ブリギッテは警告を発するだけしかできなかったのに、ギルバートの反応はそれより遥かに早かった。

 まるで銅鑼でも力任せにひっぱたいたような、とても人体の発する音とは思えない轟音が響いた。ギルバートの拳が〈彫像〉を叩き落としたのだ。驚いてテラスから見下ろすと、落下した〈彫像〉の周囲は小規模なクレーターになっている。唖然とするしかない拳の威力だった──まるで龍一だ。

 ギルバートの警告が効いたのか、階下のホールには沈黙が立ち込めている。〈彫像〉の群れも攻撃しようがないのか、ぴくりとも動かない。まるで大の大人が「だるまさんがころんだグランドマザーフットステップ」をやっているような滑稽でもある光景だった。だがそこかしこに鮮血の血溜まりができ、死に切れない人々が呻いているとあっては笑うどころではない。地獄絵図だ。

「なんてこと……」

 動けないほどの重傷を負った者に悲鳴を我慢しろなどと言えたものではない。早晩、次の餌食は彼ら彼女だ。

「ここにいて。動かないで」早口に言うとギルバートは階下へ駆け降りていく。

 ろくに走れやしないピンヒールを惜しげもなく脱ぎ捨てる。ドレスの裾に手をかけて、

(……)

 一瞬、このドレスを買った時の母の顔を思い出した。困ったように、でも嬉しそうに彼女のドレス姿を見つめていた母の顔を。

(……ごめん、母さん!)

 歯を食い縛り、一気に太腿の付け根まで引き裂いた。

 嘘のように足取りが自由になった。これで両の袖を肘までまくると、本当にあられもない姿になってしまったが。

 それにしても、私は何をしようとしているのだろう? 自分に勇気があると思ったことはないし、むしろその逆だ。今の父母からは困っている人を見かけたら率先して助けなさいとは教えられてきたが、それはまさか殺人サイボーグに真正面から立ち向かいなさいという意味ではないだろう。

 半分自暴自棄になっているのではないか、との危惧はある。

 だが、何だろう──あの〈彫像〉たちには、龍一やアレクセイと対峙した時のような脅威はまるで感じない。。そんな気がするのだ。

 意を決し、ドレスの裾を翻してテラスから跳ぶ。

 残念ながら鳥のごとく音もなく着地する、とはいかなかった。着地の瞬間に落ちていた銀の盆を踏んづけ、思い切り転んでしまったのだ。当然、派手な音が響き、周囲の〈彫像〉たちが一斉に反応する。

「ブリギッテ!?」血を流して呻いている年配の男性を助け起こしていたギルバートが愕然として振り向く。まあ、無理もない。「動くなと言ったのに!」

「助けられておいて文句言わないでよ。案の定、あなたまで身動き取れなくなっているじゃない!」

「しかし……」

「ああもう、ならなるべく早く助けに来てよ!」キックオフの代わりに、足元に転がる銀の盆を蹴飛ばす。「走って!」

 二体の〈彫像〉が左右から襲いかかってくる。立ち上がった節足動物のような棘だらけのオブジェと、両腕が分銅になった首のない肥満した男性像だ。穴だらけになるか、叩き潰されるか選べと言わんばかりの勢い。この後の惨劇を予想したのか、周囲から悲鳴が上がる。

 だが、ブリギッテはあえて前に出る。逃げてもあの速さで追い込まれるだけだから!

 女子サッカーのコーチが今の動きを見たらさぞ満足げに頷くに違いない。見事に彼女は二体の〈彫像〉の足元を滑り抜ける。お生憎様、そんなタックルで私のスライディングを阻止しようなんて甘く見られたもんだわ!

 髪の結い紐が切られ、彼女の蜂蜜色の髪がほどける。が、それだけだ。ブリギッテの動きは止まらない。ほとんど寝そべるような姿勢から、枝に絡みつく蛇のような動きで肥満した男性像の背を這い上る。当然、そいつは身を振って払い落とそうとするが、彼女はぴったりとくっついて離れない。構造上、腕を使って払いのけるのも無理だ。

 棘だらけの節足動物が体当たりしてくる、その寸前に彼女は身を翻して男性像を飛び越えた。二体の〈彫像〉が激突し、互いの身を大きく砕き合う。周囲の悲鳴が驚愕と歓声に変わった。

 思った通りだわ──ブリギッテは思わずほくそ笑む。こいつらは人間のように考えて行動しているわけではない。幾つかのパターンに沿って、直線的な動きをしているだけなのだ。当然、この程度のフェイントにも馬鹿正直に引っかかる。次から次へと即興で様々な手を繰り出せる龍一や、どこから攻撃が来るかわからないアレクセイの足元にも及ばない。確かにあの速さは脅威だが、充分に対処できる脅威だ。

 ブレイクダンスまがいの激しい動きで彼女のドレスのスカート部分は「めくれる」どころの騒ぎではなくなっているが、気にも留めなかった。何しろ私や大勢の命がかかっているのだ。パンツの一つや二つくらい何よ。

(これなら……!)注意を引きつけ続けたおかげで、怪我人の避難はほとんど終わっている。が、そこで油断したのがいけなかった。

 着地した拍子に、数メートルと離れていない棘だらけの髑髏が目に入る──あいつの全身の突起、全てが飛び道具だ。

(しまった……!)

 それが彼女に向けて斉射される寸前。

 どどどどど、と耳をつんざく凄まじい轟音がホール全体に響いた。

 ヘルメットも黒、バイザーも黒、プロテクター付きのライダースーツも黒。全身黒づくめのライダーを乗せた黒塗りの大型バイクが、棘だらけの髑髏をボールのように弾き飛ばした。柱に激突した髑髏ボールは呆気なく中身の脳ごと潰れた。

「紳士淑女の皆さん、非礼をお詫び申し上げる」

 散らばったガラス片を無造作に踏み締め、相良龍一の朗々とした声が響き渡る。「でもまあ、既にだいぶ羽目を外されているようなので、多めに見ていただけると俺としては嬉しい」

 非礼を咎める者はいなかったが、〈彫像〉は動いた。ギルバートにテラスから叩き落とされたあの〈彫像〉がクレーターから這い出してきたのだ。顔面と両腕の刃を振りかざし、目にも止まらぬ速さで跳躍する。

「銃はどうも苦手なんだよなあ」

 だがのんびりした口調とは裏腹に、彼が背から引き抜いた鉄棒の一閃は、それよりも遥かに早かった。

 ブリギッテの目だけが捉えた──彼の振るう鉄棒の端が、まるでリボンのようにのを。

 

 力任せに振るわれる高速の刃を受け、しかも逆に折るなど、銃弾で銃弾を撃ち落とすに匹敵する至難の業だ。しかも上下左右からの刃を──だが、龍一はやってのけた。

 ガンガンガン! と機関砲のような連打が〈彫像〉の眉間と喉と胸元に叩き込まれる。動きが止まった隙に、さらに反転した鉄棒が唸る。両手、両肘、両膝。ほぼ一瞬でその全てが砕かれ、直立できなくなった〈彫像〉が脆くも崩れ落ちる。

 下手な拳銃など及びもつかない威力だった。誰も彼も、手当てされている怪我人までもが顔中口にして見入っている。

 恐るべき、戦いの技巧アート。ブリギッテですら、これまで彼が見せてきたのはそのほんの一端に過ぎないのではないか──と思わずにいられなかった。

 ぱしん、と軽い音を立てて龍一が鉄棒を掌に収める。ヘルメットとライダースーツはさぞかさばるだろうに、息一つ乱していない。「何しろ俺、棒とヌンチャクとトンファー以外の扱いはイマイチでさ」

「……それだけ扱えれば充分じゃない?」

 ブリギッテもつい素で突っ込んでしまったが。

「ごめん。遅くなった」今や懐かしささえ感じる声と口調で龍一が言う。「でもどうだ。とんだ飛び入りでパーティも台無しみたいだし、そろそろ退場しても誰も咎めないだろ。一緒にしけこんで、二次会と行かないか? アレクセイも待ってるぜ」

「でも、私は……」

「それにさ、ブリギッテ」

 優しい声だった。「俺、見て思ったんだけどさ。君のやりたいことも、やるべきことも、ここにはないんじゃないのか」

 彼女の逡巡を、龍一はとっくに見透かしていたのだ。

 胸が熱くなった。彼は迷いもせず、一直線にここへ来たのだ。

 それに対して、私は何を返したのだろう? 自分を憐れむ以外、何かしたのだろうか?

 いや、それでも、今からでも何かを返したい。私はあなたたちと同じにはなれないかも知れない──でも、それでも、あなたたちのように戦いたい!

「来るか?」龍一が手を差し伸べる。バイザーの下でも、彼が破顔しているのがわかる。

 もう迷わなかった。引き裂かれ、返り血に塗れてしまったドレスの裾がふわりと踊るのを、誰もが驚愕の眼差しで見送った。彼女は龍一の手を握り返し、一挙動で後部シートに跨った。

「発車しまーす。ぶるんぶるん」龍一は大真面目に言うと、ハンドルを握り直す。

「……行くな!」

 驚く周囲の人々など目に入らないかのように。

 初めて見せる必死の形相でギルバートは叫ぶ。「ブリギッテ! 彼と一緒に行っても……あなたは幸せになれない!」

 一瞬、彼の手を取りたい衝動に、確かにブリギッテは駆られた。首を振るしかなかった──彼が差し出したものを、彼女はもう拒んでいたのだ。

「そうね。でも幸せになれないのは、あなたの傍らにいても同じだわ」つくづく薄情な台詞だとは思った。が、もう自分の言葉を取り消すつもりもなかった。「あなたを幸せにする人は、きっと私じゃないのよ。……気持ちに応えられなくて、ごめんなさい」

「ギルバート。悪いけどお父上に、相良龍一が非礼を詫びていたと伝えてくれ。あと、請求書はまとめてマギーのツラに叩きつけるといい、とも」

 龍一がバイクのスターターを渾身の力で蹴った。

「待て!」

 彼の手が彼女の髪を捕らえるより早く。

 窓ガラスがびりびり震えるほどの轟音と、ギルバートの手に数本の髪を残し、バイクが窓に向けて疾走を開始する。

「頭を下げろ!」

「ええ!」

 既に大穴の空いた窓ガラスを、狂馬のごとく疾走するバイクが今度こそ粉々に粉砕した。


【同時刻──レセプションホール屋上】

「……ああ、当初の予定通り陽動を行う。君一人に任せたら、いつだって泥沼の撤退戦になってしまうじゃないか……それにどう見えているかはわからないけど、僕だって彼女のために何かしたい気持ちはあるんだよ。今は自分と彼女の心配をしてくれ。それじゃ、また後で」

 スマートフォンを切り、アレクセイは振り向く。「警備部隊と一戦交える覚悟くらいはしていたけど、これは予想外だな」

 殺風景な屋上に〈彫像〉の群れがひしめいている。だがアレクセイの表情には緊張も動揺もない。

「予定外ではあるけれど、変更の必要はないね。あの二人の方に行かれても面倒だ」

 その全身を切り刻もうと前後左右から爪と牙と刃と鈍器と棘だらけの尾が迫る。

 

「……やっぱりね。僕が気づいたくらいだ、龍一もブリギッテもとっくにお見通しだろうな」

 春の野原でも歩むような足取りで彼は一歩踏み出す。脳と脊椎以外を全て機械に変換したはずの〈彫像〉たちが、確実に動揺する。

「君たちは『かつて生きていた凄腕の殺し屋たち』のに過ぎないんだね。人間の人格を完全に機械へコピーできる技術は現時点で存在しないし、ギャングお抱えの闇医師にそんな技術があるわけもない。脳を積んでいるのは人格移植ではなく、生前の幾つかの行動パターンを強引に機械で再現するためなんだ。それ以外の、人間としての記憶も情緒も上でね」

 静かな語りかけに〈彫像〉たちは反応しない──聞く耳も、答える口もないのだから当然だが。

 そして、動けない。泰然と立ち尽くしているだけのアレクセイの姿に、最適な攻撃法を実行できないでいるのだ。何しろ今しがた、必殺の一撃を躱されたばかりなのだから。

「余計なものを全部捨てた分、早くは動けるけどそれだけだ。電卓が人間より速く計算できるからって、人間より『頭がいい』とは言えないのと同じ。人の脳と機械の身体を組み合わせて不死身の殺し屋軍団を作れるなら、今頃マギーは地球の半分を手に入れている。その移植だって、どうせ慈悲などではなく依頼を果たし損ねた者への制裁だろう」

 十本の指がタクトのように、力強くしなやかに振られる。その間に煌めく〈糸〉の輝き。

「死ぬよりもなお酷い生き様というのは確かにあるものだ。自分では死ねない君たちに代わり、僕がそれを断つ。……苦痛なき、眠るがごとき死を」


「……〈鬼婆〉マギー、相良龍一、最後の〈ヒュプノス〉、そして〈アンドロメダ〉。ギャングと、フン族と、薄汚い元殺し屋と、死に損ないの被験体が……揃いも揃ってよくも私たちの晴れの舞台を蹂躙してくれたものだ」

 駆けつけた警備の増援部隊が、床の上で蠢く〈彫像〉に銃撃でとどめを刺すのを見ながら〈将軍〉エイブラムは呟く。口調こそ静かだったが、首の後ろは怒りのあまり倍近く膨れ上がっていた──義父が激怒している証拠だ、とギルバートは見て取る。結局ロンドン市長との会談はなされず(図らずもブリギッテの望み通りに)Uターンしてきたのだが、確かにこの様子では重要な会談など到底無理に違いない。

「彼女は行ってしまいました。僕を拒んで」

 エイブラムが顔を上げる。その目は、白い部分がほとんど見当たらないほど血走って見えた。「よくもそう冷静でいられるな。あの娘が自分から尻を振って相良龍一についていったというのに」

「僕の失態ならまだしも、彼女を侮辱するのはやめてください。〈アンドロメダ〉の確保なら、手勢をお貸しください。僕が奪還作戦の指揮を取ります」

「やめろ。お前が私の後継者だと全報道陣の前で発表した直後なのだぞ。『次期CEOの初仕事は自分を振った花嫁の奪還劇』などと、手間暇かけて世間の笑いものになりたいのか? お前は出さん。わずか数名のテロリストなど、警察と我が社のセキュリティのみで対応できる。あの二人を、ブリギッテ・キャラダイン嬢の誘拐犯として指名手配する」

「彼女が自分からついていくのを、大勢が目撃しています。あれを誘拐犯と解釈するのは無理があります」

「集まったのは軍・治安機関関係者だ。賓客の口などどうにでもなる。客たちの命を理由に脅され、自分からテロリストに同行した、とでも説明すればいい」

 お涙頂戴にしても無理のあるシナリオだ、とは思っても口には出さなかった。ただでさえ激怒している義父をさらに傷つけることに意味があるとも思えない。

「……〈ロンドン・エリジウム〉の起動を一週間前倒しにする。何もかも、まとめて決着をつけてやる……マギーも、〈悪竜〉も、何もかもだ」

 義父の憤怒に満ちた呟きを聞きながら、ギルバートは一礼し──そこで自分の手指に、ブリギッテの蜂蜜色の髪が数本絡みついているのに初めて気づく。振り払おうとしてできず、その手が力なく垂れ下がる。


「……結局、ここに戻って来てしまったわ」

「少し自分の人生、省みる必要があるのかもな……」

 ライダースーツを脱ぎ捨ててシャツとジーンズ姿になった龍一と、今や血まみれのずたずたになってしまったドレス姿のブリギッテは、先日追いつ追われつのデッドヒートを演じたアパートの屋上で顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

 屋上に当然のような顔でアレクセイが現れ、軽く手を上げる。「お待たせ。どうにか撒いてきたよ。それにしても、街中戦争でも起きたような騒ぎだよ。実際、間違ってないけどね」

「ここまでコケにされたら、〈将軍〉もそう構えてられないだろう。スーツとバイクには塩素をしこたまぶち撒けて、ついでに自壊装置で燃やしておいたけど、あんなんじゃ時間稼ぎにしかならないだろうしな……」

 ブリギッテは思わず立ち上がった。「じゃ、何!? 私を助けた後のこと、考えてなかったの!?」

「後先考えずに助けるしかなかったし、でなきゃ詰んでた」

 龍一の口調は苦かったが、潔かった。「ま、課題は山積みだけどな」

 彼女は力なく、すとんと腰を下ろす。「……ごめんなさい。私のせいね」

 龍一は苦笑した。「いいさ。好きでしたような苦労だからな。それに少なくとも〈将軍〉の一人勝ちだけは阻止した」

 ブリギッテは微笑み、今日もまた綺麗とは言い難いテムズ川の流れを眺めた。初めて龍一たちと会ったあの日のように。「でもありがとう。私を迎えに来てくれて、必要としてくれて、嬉しかった。とても……とてもよ」

 龍一が黙って頬を掻き、それをアレクセイが半目で見る。

「君に言っているんだよ。何か答えたらどうだい?」

「うるさいな」

 ブリギッテはついくっくっと笑ってしまう。おかしくて、それに嬉しくて。「アレクセイもありがとう。あなたたちがしてくれたことに、私、何も返せてない」

「損得で考えていたら身が保たないのは確かだね」そう言う彼も、やや捨て鉢にだが、確かに笑っていた。「もっとも、付き合うと身が持たない相手はブリギッテ、君以外にももう一人いるけど」

「ついでみたいに当てこするなよ……」

 しばらく三人は笑った。笑っている場合ではないのだが、それにしても笑うしかなかった。

「一つ、わかったことがあるわ」

「何だい?」

「ギルバート。彼は〈ペルセウス〉よ」

「やっぱりな」龍一は頷く。彼にもまた、何か感じるところがあったのだろう。「会った時から只者じゃないとは思っていたよ。それが〈将軍〉の養子で、おまけに当の〈ペルセウス〉で、おまけに俺を殺しかけた鉄仮面だってのは、まあ盛りすぎだと思うけど」

「何にせよ彼こそが〈家〉で進められていた〈ペルセウス計画〉の、その完成形であることは間違いないようだね」

 龍一が眉間に皺を寄せる。「……じゃ、〈将軍〉は被験体の生き残りを養子にしたってことなのか。何でだろうな?」

「わからない。単純に憐れんだのか、それとも少なくない資金と時間と人命を費やした〈ペルセウス計画〉の忘れ形見を惜しんだのか……本人にでも聞かない限りは何とも言えないね」

「彼……ギルバートにとっては、どちらでもよかったのかも知れない」

 龍一がブリギッテの様子を伺う。「同情、しているのかい?」

「同情……そうね、そうかも。彼の目を初めて覗き込んだ時、驚いたわ。あれだけ多くの人と物に囲まれていながら、何一つ映っていないの。どうかすると、目の前の私まで……どんな寒々しい景色を見たらあんな目になるのかしら」

 言葉が見つからない様子で彼女は首を振る。「ごめんなさい、よくわからない。でも私には父さんも母さんも、カレッジの級友も、それに龍一もアレクセイもいた。彼には〈将軍〉以外誰もいなかった……そんな気がするのよ」

「実際はどうあれ、その印象を覚えておくといい。君の感じたものだ、そう実態からかけ離れたものでもないんだろう」アレクセイが優しく言い、龍一も黙って頷く。

「ありがとう」

「〈将軍〉と〈鬼婆〉の思惑も、どうにもわからないんだよな……ロンドンの日の当たる部分を〈将軍〉が、その裏を〈鬼婆〉が支配しているんなら、もうイギリスという国はあの二人のものみたいなもんじゃないか。いがみ合わずに連携して襲いかかってこられたら、俺たちなんてひとたまりもないだろ?」

「確かに……ロンドンの支配だけが目的なら、どうも足並みがちぐはくで噛み合っていないね」

「ジェレミーは軍に、スティーブはマギー・ギャングに潜入するくらいお互いのことを信用していないのにね。いっそ完全に独立するか、一方を吸収してしまえればいいのに。それもできない事情があるのかしら?」

「ジェレミーを殺したのが本当に軍なのか、まずその前提を疑うべきなのかも」

「でもギャングにあれだけの装備と練度が……」

「HWは?」

 龍一があっと叫びそうな顔になる。「そうだよ、! なんで思いつかなかったんだろうな?」

「マギーの意図は不明のままにしてもね」

「……合理性だけで見るとわからない、もっと別の思惑があるのかもな」

「初めはマッチポンプを疑ったのだけど、既に軍・警察双方に大勢のシンパがいる〈将軍〉がそんな危うい手に出るか、考えてみると心許ないね。デメリットが大きすぎる。彼ならもっとクリーンな手でマギーに対抗できるはずだ、その気になればね」

「そうね。それにあの血も涙もない〈鬼婆〉は、そんなことも気づかず〈将軍〉の思惑に乗るほど迂闊な女なのかしら?」

 それを検討するためにも、まずはどこかに腰を落ち着けたいものだが。

「それにしても、これからどうしような?」

「オーウェン刑事には頼れないわね。ただでさえ謹慎中なのに」

「彼はもちろん、一緒にいるタンにまで迷惑がかかるからね」

「そもそもあの人が謹慎しているの、俺たちが原因だからなあ……」

 つい三人が考え込んでしまった時。

「たす、た、助けてくれ! 落ちる!」

 どういうわけか屋根の淵からかすれた悲鳴が聞こえてきた。近寄ってみると、ぶら下がっているディロンが必死の形相でしがみついていた。

「変わった健康法だな……」

「ふ、ふざけてる暇があったらマジ助けてくれよ! マジで腕が痺れてきたじゃねえか!」

 アレクセイと二人がかりで引き上げたディロンは、本当に肩で息をしていた。「し、死ぬかと思った……あんたらよくこんな高さまでほいほい上がれるよな! ちょっとどころかだいぶおかしいぜ!」

「別に好き好んでやってるわけじゃないんだが……」

「……ディロン」ブリギッテは彼の顔を見て思わず表情を曇らせた。あれだけ派手な振り方をした直後である。正直、合わせる顔が思いつかない。それにしても、わずか二日で二人の男の子を振ることになるなんて、やはり自分の生き様を省みるべきなのだろうか。

「よくここがわかったね。尾行には気を配っていたはずだけど」

「ああ……この辺に住んでるダチ公の目撃情報で位置を絞り込んだんだ。間抜けなギャング映画じゃあるまいし、サツから逃げてるあんたらがそこらのスタバやらドトールやらでのんびりしてるとも思えないしな」

 ディロン個人がいくら間抜けに見えてもギャングの情報網は侮れない、というところか。それにディロンでさえここを突き止められたのだから、他の勢力は言わずもがなだ。あまり呑気に構えてもいられない。

「それで? マギーに言われてお礼参りにでも来たんだったら、できれば別の日にしてくれないか。腹も空いてるしな」

「笑えねえ冗談はやめてくれよ。俺一人で何をどうしたらあんたら三人に勝てるってんだよ」ディロンは意を決したように生唾を飲み込む。「あんたら、追われてるんだろ? 何なら……うち、来るか?」

「……えっ?」

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