アルビオン大火(10)急襲

「……なあ、これ全部嘘なんだよな?」地下聖堂の壁に投影されたファイルを全て読んだ後、ディロンは救いを求めるように全員の顔を見回す。「なんかの……悪い冗談なんだよな?」

 ブリギッテは泣きこそしていないものの、目を真っ赤に充血させている。そして龍一もアレクセイも、かける言葉を見つけられない。

『お話の最中ですが、敵です』柔らかな電子合成音が告げる。〈乳母〉ロボットの表情が変化し、モニター上の数本の太線で深刻そうな顔を形作る。『あなた方に好意的でない存在が教会へ接近中です。平均時速60キロ──速度からして大型の軍用犬と推測されます』

 龍一は顔を上げる。「……あいつか!」


「行け」

 声を荒げて命ずる必要はなかった。ホバリング状態の2機のヘリから、『犬』たちが次々と地面に降り立っていく。数メートルの高低差も物ともせず、着地した瞬間に矢のように疾走を開始する。『即成栽培』ゆえにオリジナルより質は劣るが、それを量でカバーした〈ブラックドッグ〉の群れだ。

「娘以外は生かす必要はない、とマダムは仰せだ」視界共有用のHUDヘルメットを装着した〈猟兵〉ベルガーは呟く。「この数を捌けるものなら捌いてみろ、相良龍一」


『ご安心ください。ここはレジスタンスの拠点として設計されました。教会の裏手に出られる秘密の通路があります』

「そりゃありがたいな。あの〈ブラックドッグ〉が十何匹も迫ってくるなんて考えただけでも心臓に悪い」何しろ自分とアレクセイとブリギッテの三人がかりでやっと、という怪物だったのだ。

『ただし、全員が脱出するまでに誰かが時間を稼ぐ必要があります。……さっそくですが、あなたの出番です。ゲスト1』

 龍一は反射的に自分を指差した。「俺?」

 ディロンが目を丸くして口笛を吹く。「やれやれ大将、ロボットにまでモテモテかよ」

 龍一は小突く真似をした。「先に行って、馬を確保しててくれ。あれを押さえられたら逃げられない」

「あなたも気をつけて、龍一」目の前の戦闘に意識を集中させるよう頭を切り替えた分、ややブリギッテは生気を取り戻したようだったが、すぐに顔を曇らせる。「〈乳母〉……ここから出たら、ジェレミーやもう一人の私についていろいろ聞かせてくれる?」

『……もちろんですよ。いくらでも質問をどうぞ』

 やはり間が空いた。妙に我の強いロボットだ。

「さっそくそうさせてもらうぜ。馬は大事だからな……」ディロンは早くも逃げ腰になっており、龍一は大事じゃないの? とブリギッテに叱られている。

 狭い通路の向こうから、何かがひたひたと迫ってくる。それも凄まじい速度で。吠え声一つないのが余計に恐ろしい。

「それで? 俺だけに何か話があるんだろう?」

『……鋭いですね。あなたの評価を3ポイントほど改める必要があります』たった3ポイントかよ。『あなただけにしたい話ではありません。ブリギッテにだけは聞かせたくない話です』

「どうしてそれが俺なんだ?」

『ゲストたちの中で彼女があなたに話しかける回数は一番多かったからです』

 さすがロボットというべきか、よく観察したものだ。

『ブリギッテが二人いることはもうご存知ですね? 私は〈家〉が軍に接収された際、二人のブリギッテとともに施設から脱出しました。私は二人を日常的に世話しており、いれば彼女たちの精神は安定したからです。ですが、この地下聖堂で再起動した時、ブリギッテは一人しかいませんでした。そう、あなたの知っている〈小さいブリギッテ〉の方のみです』

「……どういうことだ? 〈大きいブリギッテ〉の方は誰かに連れ去られたのか、それとも自分からいなくなったのか?」

『私の記憶に残っていない以上、それはわかりません。ですが、単にマギー・ギャングに連れ去られた、とは考えにくいですね。人間なら「よくない」なる感情を喚起されたことでしょう』

 謎ではある。〈大きいブリギッテ〉が拐われたのでなければ自分から姿を消すと解釈するのが普通だが、それをする理由が当時の彼女にあったとは考えにくい。実験体であり実親を知らず外界を知らない彼女が、家族同然のジェレミーや〈乳母〉やもう一人のブリギッテを置いてどこへ行く理由があるのだろう?

 だが、それを検討している時間がない。

 龍一は上着を左腕に巻きつける。戦闘開始オープンコンバットのお時間だ。

 矢のように〈ブラックドッグ〉の群れが襲いかかってくる──三体。一体は身を開いて捌き、もう一体は回し蹴りで壁に叩きつけるが、残る一体までは避けきれない。

 真っ赤な口腔と骨のように白い牙が視界一杯に広がる。咄嗟に上着を巻いた左腕を突き出す。上着を貫き、牙が深々と突き刺さ──らない。

「悪いな。ちょっとさせてもらったわ」

 左腕に上着を巻きつけるだけでなく、腕にも消音拳銃を縛りつけていたのだ。弾薬は湿気や暴発が恐ろしくて試す気にもならなかったが、即席のプロテクターとしては充分だ。

 右拳で眉間を殴りつける。ぎゃん、と悲鳴が上がり噛みついていた〈ブラックドッグ〉は昏倒した。龍一は眉をひそめる。何だろう、先日の地下鉄に比べれば妙に手応えがないような──

 新たな犬たちの悲鳴が上がる。ロボットの方にも大挙して押し寄せる〈ブラックドッグ〉が山ほどたかっていた。さすがに鋼鉄のボディにたやすく牙や牙は通らない。

『どうやら使命を果たす時が来たようです。ゲスト1、ブリギッテのところへ行ってください』

「それでいいのか? ブリギッテと約束したんじゃなかったのか?」

『あれは嘘です。あなたの口から謝っておいてください。機械も必要に応じて嘘を吐ける、とも』

 やはり我の強いロボットだ。

 ロボットは両腕でまとわりつく〈ブラックドッグ〉を抱え込んでしまった。文字通りの鋼鉄の抱擁だ。軍用犬とはいえ、容易に振りほどけるものでもない。

『ゲスト1、あなたに〈コービン〉、ジェレミーからの最後の伝言があります』

「また『ロンドンを救ってくれ』か? 俺に一体何を期待してるんだ。俺はただの犯罪者だぞ」

『少し違います。、それがあなたへの伝言です。ゲスト1』

「俺が?」

 龍一は面食らいすぎて、棒立ちになってしまった。

『確かに伝えましたよ』モニターの表情が変化する。ブリギッテに向けたのと同じ笑顔だ。『私に使命を果たさせてくれたことに感謝を』

 言うが早いが、ロボットは全速で疾走を開始した。自分たちの運命を悟ったのか、犬たちの吠え声が哀れを誘う悲鳴へと変わっていく。一瞬後、トンネルの彼方に目も眩む閃光が見えた。

 自爆だ。あのボディにどれほどの爆薬が搭載されていたのかはわからないが、それにプラスして大量の爆発物にまで引火したのだろう。

 振り返ると、トンネルは完全に崩落していた。一応の目的は達した、というところか。

「……最後までおかしなロボットだったな」

 それにしても重たい宿題を遺していきやがって、龍一は呟く。ロンドンを救ってくれ、はわからないでもない。マギー・ギャングの野望を暴き、〈将軍〉とアテナテクニカ社の陰謀を挫き、さらにロンドン警視庁内の腐敗した警察幹部を一掃しさえすれば、でロンドンを救えるかも知れない。可能かはともかくとして。

 だが、ブリギッテの心を救ってくれ、となると皆目、見当もつかない。


「龍一!」

 地上に出ると、ブリギッテが自分と龍一の馬を牽きながら駆け寄ってきた。「〈乳母〉は?」

「自分から残った。使命を果たす、って言ってな」

「そう……」ブリギッテは悲しげではあったが、納得したようでもあった。彼女なりに何か予感してはいたのだろう。

「アレクセイとディロンは?」二人の姿も馬も見当たらない。

「それが……どういうわけかディロンの馬だけが〈ブラックドッグ〉の群れに追いかけられていったの。アレクセイが助けに向かったけど……」

「一番弱い奴から狙ったのか。悪知恵が働くな」馬の足の速さなら容易には追いつけないだろうが、放っておくわけにもいかない。

「俺たちも追おう。案内してくれ」

「ええ!」

 朝よりはスムーズに鞍に跨がれた。黒馬も(とりあえずは)龍一の手綱に従い走り出す。

 ヒースの生い茂る荒野をひたすら走るうちに、数頭の〈ブラックドッグ〉に追われるディロンの馬が見えてきた。彼には気の毒だが、いい囮になっているようではある。

「ディロン、そのまま走り続けろ! 絶対に止まるな!」

 呼びかけはしたが、言われるまでもなく彼は馬を駆るのに必死であった。返事する余裕もなさそうだ。

〈ブラックドッグ〉の数頭が、急に反転してこちらへ向かってくる。

「止まらないで!」

 馬を走らせながら、ブリギッテの複合弓が数度、弦を鳴らした。それだけで犬たちがもんどり打って転倒する。いずれも頭蓋を矢が深々と貫通していた。複合弓の恐るべき威力に加え、恐るべき腕だ。「そのまま走って!」

 反対する理由もない。

 龍一は手綱を片手で繰りながら大きく身を乗り出し、大地を掬い上げるような形で思いきり腕を振るった。ディロンの馬を追いかけていた〈ブラックドッグ〉の頭を鷲掴みにする。

「……悪く思うな!」

 走らせる馬の勢いで、手近な大岩に〈ブラックドッグ〉を叩きつけた。ぎゃん、と悲痛な苦鳴がたちまち後方に遠ざかっていく。

 アレクセイも馬を走らせながら〈糸〉で数頭を捕らえていた。手足をがんじがらめにされた〈ブラックドッグ〉が馬の後を鋤き返すような勢いで引きずられていく。まるで西部劇のリンチだ。

「龍一、何だか変だと思わないか?」

「ああ。妙に手応えがないな。上手く言えないが、何だかこいつら『促成栽培』みたいな味気のなさを感じる」

 確かに恐るべき運動能力ではあるが、どうにもならない相手ではない。あの地下鉄の、龍一たち三人がかりでどうにかなったような〈ブラックドッグ〉の足元にも及ばないひ弱さだ。現に、残りの群れは恐慌に陥った挙句、悲鳴を上げて逃走に移っている。

 いや、ことによるとそれこそが罠なのかも知れない。そう油断を誘っておいて、

「……龍一!」

 アレクセイが警告した時には遅かった。地面を蹴った〈ブラックドッグ〉の真っ赤な口腔が迫る。馬上では思うように躱せない──

 一直線に飛んできた矢が〈ブラックドッグ〉の頭蓋を貫通し、犬の頭を手近のハンノキの幹に深々と縫いつけた。苦鳴一つ上げず、犬は絶命している。


「何だと……」バイザーを跳ね上げたベルガーの目は、驚愕に身開かれていた。自分だけではない、視界を共有していた〈ブラックドッグ〉も絶命の瞬間まで勝利を確信していたに違いない。それが失敗した。

「ミスター・ベルガー、欺瞞措置の限界時間です!」ヘリのパイロットが焦りを露わにする。「あと数分以内にこの空域を脱しなければ、ドローンに捕捉されます!」

 ベルガーは凶悪な目つきでそちらを睨みつけたが、パイロットに当たり散らしてどうなるものでもない。「自壊システムを起動、回収は諦める。撤収!」

 ヘリの機首がぐいと方向を変える。速度を増すヘリの中で彼は呟く。

「このは高くつくぞ、相良龍一め……」


「……今のが最後の攻撃らしいな」

 横たわる〈ブラックドッグ〉たちが、文字通り溶解していた。手足を細かく痙攣させながら溶け崩れ、どす黒い血ともオイルともつかないただの液体溜まりと化していく。

「しかも『自爆装置』付きか。前回に懲りて、死体も残さないことに決めたらしいね」

「龍一! アレクセイ!」馬を落ち着かせながらブリギッテとディロンが駆け寄ってくる。「無事だった?」

「ああ。思わぬ助っ人のおかげでな」

 ディロンが口笛を吹く。「あの距離から当てるなんてやるじゃねえか。ウルトラ・スーパー・ミラクル・ワンダフルショットだぜ」

 が、ブリギッテは呆然と首を振った。「違う。私じゃない……見て。これはアヴァロン社製の矢よ。私が使っているイーストン社のものとは違う」

 龍一には違いがよくわからなかったが、アレクセイは納得できたらしく頷いた。「確かに、細部が違うね……しかし、なら誰が?」

「わからない。だけど私たちを狙って、偶然〈ブラックドッグ〉に当たったのではないみたい。これだけの腕なら、その気になれば当てられたはずよ」

「ずいぶんとシャイな助っ人だな」

 戦闘の興奮が覚めると、全員が沈黙した。向き合いたくない、向き合わなければならない問題を思い出したからだ。

「オーウェン刑事に会おう。彼に問い正したいことがある」

「そうだね。それも山ほど」


 ──龍一たちがその場を去った後、茂みの中から長身の影が立ち上がった。彼は薄く笑い、手にしていた黒塗りの見事な長弓ロングボウを愛おしげに撫でると、丁寧に専用のケースへ収めた。


 空電音。

『……俺だ。あんたんとこのに邪魔されたぞ。それも相良龍一を殺すありえない希少な可能性の機会をだ。あんたの家の教育方針は、一体どうなっているんだ?』

「我が家の教育方針について気にかけてくれるとは。君は我が家の執事バトラーかね? 首輪でも付けて飼っておけと言いたげな口ぶりだが、君の趣味を持ち出されても困る」

『はぐらかすな。相良龍一の抹殺はマダムからの指令で、それへの妨害はマダムへの攻撃と見做されても文句が言えないところだ。そこまでの覚悟はできているんだろうな?』

「マダムを通してではなく私に直言したいという君の熱く滾る思い、確かに受け取ったよ。今日のところは大人しく戻って、マダムに頭を撫でてもらいたまえ。君の不手際で命を落とした、君の飼い犬の分までな」

『ほざいてろ』

 切断音。


「一体どうしたってんです? 行きはあんだけ皆さん楽しげに笑ってたってのに。ブリギッテお嬢様だけでねえ、あんたらも、さっきまで墓ん中にでもいなさったような顔色だあ。本当に何があったんですかい?」

 マシュー老人が訝しむのももっともだったが、それに応えるわけにもいかない。龍一たちは礼もそこそこに、馬を返してロンドンへ引き返した。

 帰りの電車の中では、誰も口を開かなかった。


【数時間後──オーウェン宅】

 夢を見ていながら、ああこれは夢だ、と気づく夢がある。


「……おっさん! おい、おっさんてば!」

 揺り起こされて、オーウェンは最初、それが誰なのかわからなかった。「ああ……タンか?」

「何当たり前のこと言ってんだよ。しっかりしてくれよ」呆れた顔で言った少年は、しかしすぐ顔を曇らせる。「よっぽどひでえ夢だったんだな。大丈夫かよ?」

「俺は……そんなに寝言を言っていたか?」

「寝言どころの騒ぎじゃねえよ。このまま死んじまうんじゃないかってくらい、ひどいうなされ方されてたぜ」

 どうやら調べ物をしながら眠ってしまったらしい。今まで突っ伏して寝ていたテーブルは資料の山で埋め尽くされている。資料の山だけではない。居間の壁は壁時計からオーウェン自身の描いた下手な風景画(下手だと思いつつも外さなかったのは、妻の生前に描いたものだからだ)に至るまで全て取り外され、ピン留めされた関係者の写真とメモで埋め尽くされていた。

「少し休んだ方がいいんじゃないのか。もういい時間だし、それに……俺の目から見てもさ、あんた昼も夜も休みなしでずーっと調べ物してんだぜ」

 飲みさしのミネラルウォーターを一息に飲み干した。その時初めて、自分が下着まで濡れるほどの汗をかいていたことに気づく。「ご忠告痛みいる。でもこいつは、私が今までサボっていたツケを取り戻しているだけなんだ。休んでいられるもんか」

 嘘ではない。マギー・ギャングに関する調査はこの数日間だけで飛躍的な進歩を見せていた。しかも、オーウェンが密かに余暇で進めていた成果など話にならないほどに。その大半が民間人に過ぎないブリギッテや、お尋ね者である相良龍一からの提供であるのは正直、忸怩たるものではあったが。

 彼の前に見えてきた図はこうだ──ある地域でギャング絡みの犯罪が増発する。するとその周辺地域の裕福な個人宅やオフィスにアテナテクニカ社謹製のセキュリティシステムが導入される。あるいは自治体がセキュリティシステムを導入する。かくしてギャングたちはめでたく追い出されることとなり、別の場所へ行って一から悪さを繰り返すという寸法だ。アテナテクニカ社のフェンス及び監視システム一式を購入する地域では先んじて大規模な「清掃」が行われる。実際、〈日没〉以降でマギー・ギャング以外の犯罪組織は「息をしていない」状態だ。そして警察組織はこれらを一切、静観する。

 父と子と聖霊ならぬ、企業とギャングと警察の三位一体。こんなものをどう押しとどめればいいのか、オーウェンにはさっぱりわからない。

 だがこの事実は、かえってオーウェンを奮い立たせた。彼が今見ているのは、これまで見てきたものと明らかにレイヤーの違う犯罪だ。麻薬の売人がショバ代を渋ったせいで下っ端ギャングどもにリンチされたり、格安で粗悪な密造拳銃サタデーナイトスペシャルをギャングの兄貴からこっそりくすねたハイスクールの学生がついうっかり発砲して大変な騒ぎになったり、などというちんけな犯罪とはまるで違う。マギー、あるいは直属の〈設計者プランナー〉たちが立案し、指示した、言わば犯罪組織のホワイトカラーたちによる犯罪だ。これを見て何も思わないようなら、そいつは警官を辞めるべきだ。

 オーウェン自身、この謹慎はむしろ行幸ではなかったのかと思えてきたほどだ(減給はさすがに痛かったが)。

 しかし調べれば調べるほどわからないことがある。アテナテクニカとマギーギャング、〈将軍〉エイブラムと〈鬼婆〉マギーの癒着は疑いようがないとして、その両者にしばしば食い違いが見えるように思えるのは何なのか? かつて利害は一致していたが今ではそうではないのか、それとも理念は一致していなくとも利害の一致した部分がまだ現存するのか。

 果たして彼ら彼女らの犯罪は、オセロゲームのようにロンドン中を自分たちの色に置き換えるだけにとどまるのか。

 そして〈コービン〉──今は亡きジェレミーは、結局何を調べていたのか。ここまでの物証を揃えていさえすれば、もっと合法的にアテナテクニカとマギー・ギャングの結びつきを日の下に晒し、なおかつ自らの身の安全を保証する方法はいくらでもあったはずだ。なぜ、そうしなかったのか?

 何より、ジェレミーのとは何を意味するのか。彼は龍一たちに何を託していったのか──それについては、龍一たちの調査待ちではある。

 玄関のチャイムにタンが顔を上げる。「おっさん、あいつら帰ってきたぜ!」

「もう何かわかったのか」早いな、とオーウェンは訝しむ。ロンドンからダートムアまで行って帰ってくるまでにはそれなりの時間を要するはずだが。

 インターホンのモニターを覗き込んだタンは不審げな顔をする。「土産話を持ってきたにしちゃ、揃いも揃って辛気くせえツラだな。何かあったのか?」


「その様子だと、成果は今ひとつだったようだな」

「……いえ、成果はありましたよ。ありすぎたというか……」

 成果に関しては実のところ、彼ら彼女らが足を運んでくれただけでもありがたかった。そもそもはオーウェンの思いつきなのだ。何もなかったとしても、文句を言える筋合いではない。

 が、いつになく龍一たちの表情は強張っていた。ブリギッテに至っては、自分の爪先を見てばかりだ。まるで叱られる子供のように。

「……ミスター。奥様が亡くなられた事件のことをお話しいただけますか?」

「それは……」オーウェンは一瞬言い淀んだ。あれから十数年経ったのに、正直、思い出と呼ぶには生々しすぎる出来事だ。

 だが、龍一やブリギッテは無意味に他人の心へ土足で踏み込むような人間ではない、との確信もある。

「それは今、君たちや私が調べている事件と関係があるのか?」

「あります」

 意を決したように上げられたブリギッテの顔を見て、オーウェンは息を呑んだ。彼女の目は真っ赤に充血していた。今でも泣き出さんばかりに。

「……刑事さん。?」

「まさか……」

 オーウェンが絶句したのは、信じられないからではなく信じたくなかったからだ。「まさか、君は……あの時の、あの子なのか」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ──怒らないでいただきたいんですけどね、リッジウッド巡査。俺たち、かつがれてるんじゃないですかね?

 パトカーのハンドルを握るランス・マカリスター巡査にそう言われても、その時のオーウェンはそれほど腹を立てなかった。実は自分でもそう思わないでもなかったからだ。たとえランスが、警察学校を出たてでケツに卵の殻をくっつけた若僧だろうと、常に間違ったことのみ言うわけではない。

 ──第一、この辺りは辺鄙すぎて、ギャングでさえ呆れてやってこないような荒れ地じゃないですか。たぶんあのあたりの丘にカメラを持った餓鬼どもが伏せていて、俺たちを笑い物にする動画を撮ってやがるんだ。

 だが、当時のオーウェンは今とは違った──今より少しだけ若く、今より少しだけ世の中に希望を持ち、ついでに言えば今より少しだけ頭髪が多かった。だから彼はただ静かに娑婆っ気の抜けきっていない新任巡査を嗜めた。地獄の底から響くような低声で。

 ──そこまでにしておくんだな、ランス・〈坊やボーイ〉・マカリスター巡査。定時に帰ってビールをかっくらって寝たいんなら、よれよれのホワイトシャツを着てホワイト企業にでも就職すればいいだけの話だ。どうしても納得できないんなら、俺が責任を持ってお前の制帽と制服と警棒と拳銃を没収し、お前自身はその辺の草むらにうっちゃっていってもいいんだぞ。ああ、この寒空だ、パンツまでは勘弁してやるがな。

 若者は一瞬で黙った。聞き分けの良さはこの若者の明らかな美点だ。

 とはいえ、彼自身も神のごとき自信を持ってそう言っているわけではない。そもそもが匿名の通報なのだ。不審があるとすればそれが彼自身への名指しで、変声機か何かで声を変えていて、しかもそれが長いこと音信不通だった幼馴染にどこか似ていた、というだけなのだが……。

 定時連絡を入れつつ十数分、走り続けたがヘッドライトに照らされる路面に変化はない。死体も、血痕も、とにかく事件性のあるものは何も。

 ──賭けは俺の勝ちみたいっすね、ランスが得意げに言う。

 いつ賭けが始まったんだ、言おうとしたオーウェンの喉が干上がった。

 けたたましいブレーキ音。パトカーが半分ほどスピンしてどうにか制動をかける。ヘッドライトの眩い光の中、痩せこけた少女が顔を背けてうずくまっていた。着ているのは薄汚れた手術着にも似たパジャマ一枚で、しかも血と泥に塗れている。

 ──なんてこったジーザスクライスト……。

 さっさと本部に連絡しろ、目を丸くしているランスをオーウェンはどやしつける。トランクから毛布を持ってこい。

 恐る恐る少女に近寄るが、彼女は逃げない。逃げるつもりもないようにゆらゆらと立ち尽くしている。暗く蒼い瞳に光はない。

 ──おい、君……。

 ひび割れた彼女の唇が動いた。

 ──ブリギッテ。

 ──君、今……何と言った?

 ──ブリギッテ。私の名前はブリギッテ。


「……ブリギッテ? その時私はそう名乗ったんですか? 〈大きいブリギッテ〉でも〈小さいブリギッテ〉でもなく?」

「ああ。少なくとも、あの時あそこにいたのは君一人だった……」


 さすがに血相を変えて毛布を手にランスが駆け寄ってくる。その手から毛布をひったくり少女の肩にかけてやる。思ったより痩せてはいない──ただ、ひどく外界への反応が鈍い。まるで何かを感じる心が砕け散ってしまったかのように。

 ──連絡はついたか?

 ──はい、ですが……。

 ランスが口ごもった理由はすぐにわかった。失踪してきたもう一台のパトカーが無意味なまでに美しいターンを見せて停まったからだ。

 ──君は事務職に回されたんじゃなかったのか、スージー?

 ──残念ね、オーウェン・リッジウッド巡査。ああ、うちのボスはしごく寛大にオーケーしてくれたわ。もちろん私の体調が万全な時に限って、だけどね。ええ、今のところは絶好調よ。

 彼が生涯の伴侶とした女性は、明らかに膨らんだ腹を物ともせずにパトカーの運転席から降り立った。そう、運転席から、だ。助手席に同乗していた若い巡査は、消えてしまいたいと言わんばかりに恥じ入っている。

 それにね、と彼女は膨らんだ腹を叩く。私はね、ダーリン、この子が大きくなった時に、母さんはあなたが腹にいたせいで人身売買ヒューマントラフィックの尻尾を取り逃がしました、なんて話したくないのよ。

 それを聞いてオーウェンは少女の顔をまじまじと見つめてしまう。彼女は彼の視線に怯え、スージーの後ろに隠れた。

 ──この子が人身売買ネットワークの犠牲者だとしたら、ランスが不安げに呟く。ギャングが取り戻しに来るかも知れませんね。

 彼の右手がホルスターの留め具を無意識に弄り回しているのを見てオーウェンは指摘する。その前に無関係の市民を誤射する危険性を心配した方がいいぞ。

 だがありうる話だ、と認めざるを得ない。数年前からギャングや職業犯罪者たちの火力は明らかに増大しており、犯罪現場に急行した警官隊が逆に多大な被害を出すケースが後を絶たなかった。警察の銃器対策部隊もその対応にやっきになっており、緊急時に必ず来られるとも限らない。それに、近隣の警察署でも何人の警察幹部がされているかわかったものではないのだ。

 少女はスージーの膨らんだ腹を興味深げに見ている。

 ──撫でてみる? お医者さんが言うには女の子ですって。この子が大きくなる頃には、もう少しいい世の中になってくれるといいんだけど。ほら、お姉ちゃんに挨拶して。

 少女はおずおずとスージーの腹を撫でた。スージーも彼女の髪を撫でながら相棒の若い巡査に指示を出す。

 ──ミッチェル、悪いけど私は後部座席に移るわ。この子の面倒を見なくちゃいけないから。運転をお願いできる?

 もちろんです、マム、と若い巡査はむしろほっとしたように言う。

 ──俺たちも引き上げよう。本部に保護した、と連絡を入れろ。

 二台のパトカーが走り出す。夜の闇は、今や耐え難いほどの緊迫感を帯びていた。

 ──街が見えるまで……いや、街に入ってからも油断するなよ。

 はい、と返すランスの顔にいつもの軽薄さはない。

 視界が白々としたヘッドライトに塗り潰される。

 ──回避しろ!

 それが無理な相談であることはそう叫んだオーウェンがよくわかっていた。自分とランスの悲鳴は、凄まじいエンジン音にかき消された。

 夜の中から湧き出てきたような巨大なダンプカーが、紙細工のようにパトカーを跳ね飛ばした。

 ──数瞬の間だけ気絶していたらしい。

 自分が逆さになっているのに気づく。かろうじて首を傾けると、自分と同じ逆さ吊り状態のランスと目が合う。

 ──生きているか?

 ──どうにか。

 ──腕が動かない。本部に救援要請を。

 了解、と返したランスの顔面が半分ほども弾け飛んだ。12ゲージ弾の威力だ。

 右腕の痛みと、若い巡査の脳と骨片を顔中に浴び、オーウェンの喉から勝手に悲鳴が迸る。

 覆面をした男が、興味深そうにひっくり返った車内を覗き込んでいた。目出し帽から覗く灰色の目が細められる。手にした散弾銃を構えようとし、角度が悪いことに気づいた数歩下がり、構え直す。

 黒々とした銃口が、視界を塗り潰さんばかりに迫る。

 ──おやめ。

 細い影が宥めるように覆面男の肩に手を置く。覆面男は黙って頷き、銃口を下ろした。

 痩せた全身をさらに細身に見せる黒いコートを着て、〈鬼婆〉マギーその人がそこに立っていた。

 ──あなたが生き絶えるのを見物するほど長くはここにいないわ。ここにはを取りに来ただけだから。

 くたばれシャットオフ、と返そうとするが、指先さえぴくりとも動かないのだ。舌が動くはずもなかった。

 ──安心して、殺しはしないわ。ガッツのある警官は嫌いじゃない。それにどうせ、いずれあなたたちもロンドン警視庁も、全部私が手に入れる。気づいている? 私はね、世間一般で思われているように、警官を買収する必要なんかないの。だって私がうたた寝をしている間に、彼らの遥か頭上のボスの方から私の膝へしてくるんですもの。

 数歩マギーは歩き出したが、思い出したように振り向く。

 ──でも、まあ、くらいは貰おうかしら。

 彼が最後に見たのは、「さよなら」を言うように小首を傾げて手を振るマギーの顔と、その背後でスージーたちのパトカーに銃弾を撃ち込む覆面男の姿だった。


 病院のベッドで目が覚めた時、全ては終わっていた。

 ご覧になりますか、と検死医から気遣わしげに言われ、オーウェンは見る前からその意味を悟っていた。

 ランス。あのミッチェルという若い警官。そして彼の妻。

 性別もわからないほど黒く焦げた死体の指には、彼が渡したプラチナの指輪が嵌まっていた。その無惨な死体と、彼が生涯の伴侶と定めた女性が同一の存在であることを認めるには、長い長い時間が必要だった。

 間髪入れずに〈日没〉が発生したことも災いした。イギリスの歴史に残るほどの大規模暴動とギャングの武装化により警察の人手は悲惨なまでに不足しており、あろうことか治安維持のためにギャングの手を借りるまでになっていた。

 なし崩し的な〈テムズ煉獄〉の勃興、そしてマギー・ギャングの隆盛。妻の仇が確実にロンドン警視庁を席巻していくのを、オーウェンは歯噛みして見守るしかなかった。

 最後の希望、警官殺しに対するロンドン警察を上げての報復はされずじまいだった。麻薬の売人を含む数名のギャングの若者が逮捕され、それでおしまいだった。捜査は打ち切られた。

 プライバシー保護の観点から少女の身元は厳重にロックされており、その線から辿るのは事実上不可能だった。オーウェンはそちらからの捜査を断念するしかなかった。

 皮肉なことに、時を同じくしてオーウェンの長年の夢が叶った。あれだけ希望して果たせていなかった刑事課──組織犯罪課への配属。これでスージーが生きていたら、どんなに嬉しかっただろう。

 いや、これもまた〈鬼婆〉マギーが裏で手を回したのかも知れない。あの女はオーウェンを愚弄するためだけに、ただそれだけの理由でそうしたのかも知れない。そう思うと欠片ほどの喜びも自分に許すつもりはなかった。

 復讐、という考えは思い浮かばなかった。あの女はそんな言葉に似つかわしくない相手だ。

 ただ次に出くわしたら、その場で殺す。そう決めただけだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「……気づかなかった。あの時の君はもっと小さくて、もっと痩せていて……」オーウェンは額に手を当てる。頭痛が耐え難いかのように。「ブリギッテという名前だって、英国人にしては珍しい、と思っただけだった……何てことだ」

「私は孤児だった。イギリス人どころか、アイルランド人ですらなかった……」

 だがブリギッテにはほとんど聞こえていないようだった。まずい兆候だ、と思った。何がかはわからないが、ひどくまずい。

「……全部、嘘だったのね」

 そして、耐えきれなくなったように顔を背け、立ち上がった。咄嗟に手を握ろうとした龍一の手が空を切る。

 忘れていた。その気になれば彼女は龍一を振り切れるのだ。駆け去る彼女を男たちは呆然と見送るしかない。

「何なんだよ、これ……こんなこと、どうやって報告すればいいんだよ」

 泳ぐ目でぶつぶつと呟くディロンに龍一は向き直る。「報告しなければいい。いや、今はしないでくれ。時間を稼ぐ」

 ディロンは泣きそうな顔になる。「なあ、マジで言ってんのか? 黙ってたことがベルガーさんにバレたら、俺が殺されるんだぞ」

 彼は心底怯えていた。そして同じくらい真剣にブリギッテの身を案じていた。龍一にも痛いほどそれがわかる。

 だが、事は龍一だけの問題でも、ブリギッテだけの問題でもないのだ。

「もし問い詰められたら、俺たちに脅されたと言えばいい」

「僕からも頼む、ディロン」アレクセイが頭を下げる。「彼女のことを大切に思うのなら、今はそっとしておいてくれ」

 そう言われて、彼もそれ以上は何も言えない様子だった。

「何してんだよ。追っかけろよ」タンが険のある目で龍一を睨みつける。「聞いた話じゃ、全部お前から始まったんだろ。その必要もないのに、あの子を巻き込んだんだろ!」

「……その通りだ。すまん」

 龍一は踵を返す。ブリギッテが向かいそうな場所は一つしか思い浮かばなかった──たとえそこにいなくとも、ロンドン中を探すつもりだった。


「お前ら、何してんだよ」タンが声を震わせる。「どいつもこいつも、俺も含めて、てめえの都合のことしか考えてやがらねえ。それでやることっつったら、よってたかって女の子を泣かせてるじゃねえか。ふざけやがって、ただのチンカスよりひでえや……どいつもこいつも、チンカス以下だ」

 誰も反論しない。誰も反論できない。

 ただ一人、アレクセイだけが考えを巡らせていた。龍一の母親は、彼の中の〈竜〉を研究する組織の一員だった。彼女はブリギッテを、〈アンドロメダ〉を産み出した機関とも繋がりがあった。そして機関が頼った犯罪組織の背後には、確実に〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの影がある……。

 多少の危険は覚悟しての英国入りだった。だが敵の張り巡らせた罠は、僕たちが想像した以上に大きく、邪悪で、精緻なのではないか?

 敵の攻撃は止まず、ただ敵の素顔だけが見えない。その感触に、彼は焦りを自覚する。


 ──果たして、彼女は龍一の予想通りの場所にいた。

「……やっぱりここにいたのか」

 龍一の声にブリギッテは振り返る。空気抜き用の煙突と、室外機が立ち並ぶだけの殺風景なビルの屋上だ。ロンドンには珍しい晴れた夜空に、白い、やや歪んだ月がぽっかりと浮かび上がっている。

 彼女は泣いてこそいなかったが、目元をまだ腫らしていた。胸が痛んだ。そんな顔をさせたのは自分なのだ。

「忘れるはずもないわ。私とあなた、ここで会ったんだもの」

「ああ。今思い出してもとんでもない出会い方だったな。弓矢を持った君に追いかけ回されて、その後いけない取引をしていたギャングに追い回されて、さらにその後で軍用犬にまで追い回されたんだぞ。もうちょっと、こう、何とかならなかったのかな?」

 少しだが、彼女は笑った。「もっとロマンチックな方がよかった?」

「ああ。ロマンチックが何を指すかはさっぱりだが、あんな目に遭うんなら、そっちの方が断然よかったね」

「大丈夫。あなたロマンチストよ。それも疾風怒濤の。私なんかより遥かにね」

「ほっといてくれ」

 龍一は笑い、彼女も一緒に笑ったが、どちらも気づいていた。これは本題に入る前の前振りに過ぎないことに。

 ややあって、ブリギッテがぽつりと口にした。「これ以上、あなたたちについていける自信がない」

 龍一は目を閉じた。ずっと前に言われて当然の言葉だった。なのにどうして、こうも苦しいのだろう。

「君がそう言うんじゃ、仕方ないな。今までありがとうって言うしかない」言いながら何か違うな、と思った。それは俺が言うべきことなのか? 彼女が本当に欲しい言葉なのか?

「龍一たちのせいじゃないわ」彼女の左目から涙が滑り落ちた。「私が龍一にふさわしくないのよ」

 自分の耳より、先に自分の正気を疑いそうになった。龍一の脳裏に、初めて見た彼女のあの輝かしい姿が浮かび上がった──女神のごとき、自信と誇りに満ち満ちた姿が。

 今の言葉は彼女に似つかわしいどころではなかった。何か深刻なことが起きていると思うしかなかった。それもとんでもなく深刻なことが。

「わからなくなっただけよ。私、自分の才能は神様から与えられたものなのだから、それにふさわしい使い方をしようとずっと思っていたの。でも嘘だった。何もかもが嘘だった。父さんや母さんまで……」

「なあ、ブリギッテ」その時の龍一にあったのは、何でもいい、何か言わなければまずいとの思いだけだった。「俺も自分が何なのか、かなり深刻に悩みはしたよ。でも、まあ、俺はストア派の哲学者じゃないからな。実のところ今でも悩んでいる最中なんだが、それ以上に、じゃあ何をすればいいのかってのを考えるようになってな……」

「いいのよ」彼女の手がすっと龍一の拳に重ねられた。涙が出るほど優しい手つきで。自分の頭を殴りつけたくなった。元気づけられているのはどっちなんだ? 元気づけるべきはどっちなんだ?

「あなたがずっと優しくしてくれて、嬉しかった。わがままばかり言っていてごめんなさい。もう、何もしてあげられないけど……あなたたちの幸運は祈っている。ずっと」

「待ってくれ、ブリギッテ……」

 龍一の制止を待たず彼女は消えた。呆然と立ち尽くすしかなかった。

 止める言葉など思いつかなかった。いや、言おうと思えば言えた──君を取り巻く問題はリアルタイムで進行中なんだ、目を背けたって何も解決しないぞ、と。しかし、それを今の彼女に言ってどうなるのだろう?

 夏姫どころか自分さえどうにかできない俺に、それを言う資格がどこにあるのだろう?


 ブリギッテは家に戻った。オーウェンと別れ、龍一と別れ、そこ以外に帰る場所を思いつかなかったからだ。

「……ただいま。遅くなってごめんなさい」

 だがすぐに異変に気づいた。父も母も、ただ黙って彼女の顔を凝視している。これは、遅くなったことを咎める顔ではない。もっと深刻な何かだ。

 言葉が思いつかないような顔で父親が一通の封筒を差し出す。今までに見たこともない、上質の紙で刷られた招待状だ。だがそれに記されたアテナテクニカ社のシンボルと、その横の署名を見て、ブリギッテは心臓が止まりかけた。

〈将軍〉エイブラム・アッシュフォードからの招待状だ。

 内容自体は事務的でそっけなくさえあった──僭越ながら来週末に行われる祝賀会レセプションに貴女を招待させていただきたい、というのが大体の内容だった。だがそれを読み上げたところで両親も、そしてブリギッテ自身も、心の平穏は得られない。

 当然だろう。〈将軍〉の名前が全ロンドン市民にとっていかに重いものなのか、龍一に先日そう語った自分の言葉がたった今、彼女自身に跳ね返ってきている。

「あなたの帰りがいつも遅いのは知っていた」母は囁くように言う──そうしないと泣き出してしまうとでもいうように。「でも今度は〈将軍〉からの呼び出し? ブリギッテ、相手はあの〈将軍〉なのよ? 一体何が起こっているの?」

「大丈夫よ、母さん」ブリギッテはそう言いながら母の肩をさすってやる。自分でも何が大丈夫なのかわからないままに。「きっと大丈夫」

 泣き出しそうな顔でただ立ち尽くしている父と、目の前で肩を震わせ続ける母を見て、ブリギッテは問題が消え去るどころか、より深刻になっていることを思い知る。

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